帰りの夜行バスで空いている座席を探していると、こちらを見ている存在に気付く。
それは間違いなくあの彼だった。夜遅く、暗い旅館でした経験はとても人には言えないが、忘れられもしない。
ペットボトルに口を付けた状態で固まっていた彼は飲み物を下ろしてから、隣の座席に置いていたリュックを足元へ下した。
「よかったら隣、どうぞ」
断るのも変だと思い、会釈をしてから隣に座った。まあ、ただ眠るだけだし、隣が誰だろうと関係ないだろうとその時は思った。
バスの発車と共に寝入り、一度目の休憩で目を覚ました。彼は隣でぐっすりと眠っていた。昨日のことが思い出され、声を掛けてあげたほうが良いのかなと悩む。けれどさすがにお節介だと思い、余計なことはしないでおいた。
トイレを済ませ、席に戻ったが彼は相変わらず深く眠っていた。
再び眠りについたが、しばらくしてふと目が覚めた。バスはまだ走り続けていて、車内は寝息といびきが聞こえている。その中で、隣から押し殺した呼吸が聞こえた。
そっと様子を窺うと、隣の彼は起きているようだった。さっきまでの穏やかな寝顔とは裏腹に、今は険しい顔をして窓の外を見つめている。強張った表情は泣き出しそうで、小さく震える様子や押し殺した呼吸は先日のことを思い出させる。
まさか、そんなことないだろうと思いつつも、彼の様子はあの時をなぞるように同じに見えた。
押し殺した荒い呼吸の合間に切ない吐息が漏れる。大丈夫かなと心配していると、彼の視線が不意にこちらに向けられた。
しっかり視線がぶつかり、彼の顔が赤く染まる。慌てたように背中を向けたけれど、もう隠すことは不可能に思える。私でなくても、隣に座った人なら彼の異変に気付いていただろう。
声を掛けるか掛けないか、書けるとしたらどう言ってあげるべきか。先日の様子が思い出されるが、今の状況ではどうやって助けてあげれば良いのか。お節介にも考えを巡らせてしまうけれど、きっとこれは無駄には終わらないだろうと思った。
次の休憩はまだ先だ。彼がそこまで到底我慢できそうにないとしたら。
携帯トイレなんて持っていないし、何か代わりになる物は、と視線を上げて、彼の荷物の傍に空のペットボトルが置かれていることに気付いた。私の鞄にもひとつ入っていた。
最悪、それにしてもらう、とか。男の子だし大丈夫かな。
彼は弾かれたように身震いした。彼は窓の方を向き、こちらに背中を向けた状態で身を捩る。
彼は気付いていないだろうが、窓は彼の姿を鏡のように映して私に伝えていた。不安げな表情で眉を潜め、視線が揺れている。
そして、見るつもりはなかったけれど、彼の右手がズボンの前に当てられているのもわかった。その指先がぎゅうぎゅうと出口を押さえている姿までもが目に入り、居た堪れない気持ちになる。そして、それ以上に心配になった。
もうお節介でも良かった。体を起こし、そっと彼に顔を近づける。彼は背中を向けたままだったが、小さく震えていた。
「大丈夫?」
小声で話しかけると、彼は驚いたようにこちらを見た。
しばらくの沈黙の後、小さく頷く。頬が赤く染まり、向けられた瞳は不安からか震えていた。
「大丈夫ですっ……」
どう見ても大丈夫には見えなかったけれど、そう言われてはこれ以上何も言えなかった。
起こした体を再び背もたれに預けて、そっと様子を窺う。隠しているつもりだろうけれど、荒い呼吸も震える体も、出口を押さえる手も私にはよくわかった。
本当に大丈夫なのかな。心配を胸に、せめて見ないでいてあげようと目を閉じると、彼の荒い呼吸が少し大きくなった気がした。
いびき、寝息、時折車体が揺れる音。それに交じって聞こえる小さな荒い呼吸。あれからどれくらい経ったか。バスは走り続けるが、休憩の様子は見られない。
もう一度声を掛けようかな、それとももうほおっておいてもう一度眠ろうかな、そんなことを思った時だった。
そっと手が握られた。覚えのある温かい手に目を開ける。正面を向いて座った彼が頭を上げて、不安そうにこちらを見ている。握られた手は助けを求めるように、ぎゅっと力強かった。
「大丈夫?」
体を起こして、再び小声で尋ねる。
彼はもじもじしながら、こちらを見る。ぎゅっと手を握ったまま、震える唇から絞り出すように言った。
「と、トイレっ……」
「次の休憩までどれくらいか聞いてみようか?」
彼は首を振る。
「が、がまん、できないっ……も、でそうですっ……」
彼の片手は前を寛げたジーンズの中に差し込まれていた。その言葉が偽りないことを証明するかのように、下着の上から強く、時折揉むように握っている。
「わかった。もうちょっとだけ我慢。ね」
彼は頷いたけれど、本当にぎりぎりなのはすぐに分かった。苦悶の声が吐息と一緒に漏れ出す。
先程考えていたとおり、彼の足元からペットボトルを取り、蓋を開けた。それから自分の膝にかけていた上着を彼の膝に移す。
「こうして隠して、ここにおしっこしよう」
「で、でも、ばれたら、」
ペットボトルを渡すと、彼は躊躇いを見せる。
「緊急事態だから仕方ないよ。大丈夫、ちゃんと隣にいるから安心して」
繋いでいた手を離し、ペットボトルを握ららせる。そっと背中に触れて撫でると、彼の体が大きく震えた。
「うぁ、あっ、だめ、あっ、あっ……」
ぶじゅ、と熱い水音が聞こえた。彼は慌てたようにペットボトルを足元に持っていく。膝に掛けた上着がもぞもぞと動く。
じゅ、じゅう、とくぐもった水音と共に、彼はあ、あ、と悲鳴にも似た声を漏らす。
「ああ、あ、で、る、あ、ああっ……!」
吐息交じりの声を漏らし、それに続いてじゅうう、と熱い水音が響いた。
「は、あ、あっ、ん、あ、ぁっ……」
声にならない声が途切れ途切れの呼吸に乗る。じゅ、ぶじゅ、じゅ、と鋭い水音は響いては止まり、そしてまた響いて止まる。
「な、なんで、出ないっ……」
誰に言うでもない言葉だったけれど、私に助けを求めているように聞こえた。
「我慢しすぎたんだね。大丈夫、大丈夫」
背に添えていた手を動かして撫でながら、声を掛ける。
「力抜いてごらん。吸って、吐いて、」
背を撫でる手に合わせて背中が動く。何度か繰り返すと、あぁっ、と熱いため息が聞こえた。
「あ、ぁ、おしっこっ……、」
呟くような言葉の後、しゅるしゅると細い水音が聞こえ出す。強張っていた体から力が抜けていくのが分かった。
よかった、と安堵したのもつかの間。
「ど、どうしよ、あふれそう、まだおしっこ、あ、あ、」
「もう一本あるから、それ貸してごらん」
自分の鞄から空のペットボトルを出して差し出す。彼は震える手で足元からペットボトルを取り出した。
「あ、だめ、でる、あ、あぁっ、あっ……」
苦しそうな声と、じゅ、じゅ、とくぐもった水音。いっぱいになったボトルを受け取ると、彼は慌てて空のボトルを手に取り、素早く足元に差し入れた。
そして再び、しゅるしゅると細い水音が聞こえ始めた。
受け取ったペットボトルには黄色いおしっこが溢れる寸前まで注がれており、ずっしりと重くて温かい。蓋を締めてビニール袋に入れて、隣の彼を見ると、先程まで強張っていた表情がみるみる緩んでいく。その様子に私も安堵の息を漏らした。
「は、あ、あ、きもち、い……」
どれほど我慢していたのか、ゆるゆるとした水音は長く続いていた。
はあ、と熱く大きなため息をつき、彼の体がぶるっと震えた。
「落ち着いた?」
蕩けた表情で頷き、彼は再びペットボトルを持ち上げる。二本目にも関わらず、ボトルにはおしっこが並々と注がれていた。それを受け取り、キャップを締めて先程の袋に入れる。
「たくさん出たね。すっきりした?」
揶揄うように言うと、彼は頬を赤らめて頷いた。
彼はごそごそと服を正すと、私に上着を返してくれた。
「服は汚してない? 大丈夫?」
「大丈夫です。下着、ちょっと濡らしたけど……」
「あはは、それくらいなら良かった」
「……その、あの、ありがとうございました。昨日も、今日も、僕、こんなことばかりお姉さんに、ほんとすみません……」
しょんぼりと頭を垂れるので、昨日と同じように頭を撫でる。どうも母性本能が擽られる子だと思った。
「次の休憩では起こしてあげるから、少し寝ると良いよ」
「はい、ありがとうございます……」
「どういたしまして。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
+++
バスを降り、キャリーバッグを転がして駅へ進む。帰りの切符を買って、小腹が空いたから売店に寄ろうかなと思ったところで、見覚えのあるシルエットを見つけた。
大きなキャリーバッグを片手に、そわそわと落ち着きない様子でいるのは間違いなく彼だった。通路の奥を見たかと思うとその方向に進んでいって、かと思うとまた戻ってきて、あたりを見回して。
その行動の理由はすぐに分かった。通路の奥はトイレだった。トイレに行きたいけれどキャリーバッグを持っては入りづらい、けれど外に置いておくのは不安。そんなところだろう。
ご縁のある子だなと思いながら、落ち着きなくそわそわする彼に近付いた。大きなキャリーバッグの陰で、彼の手はズボンの前をぎゅうっと握りしめていた。何度も見た仕草につい笑いが漏れた。
「鞄、見ててあげようか?」
声を掛けると、彼の体がびくっと跳ねる。そして私の姿を見て、表情が一気に緩んだ。
「あ、ありがとうございます、ごめんなさいっ……!」
彼は言うが早いか、脱兎のごとく駆けだすと、男子トイレに飛び込んでいった。その背中に、つい笑い声が漏れた。
ふたつのキャリーバッグを並べ、何を食べようかなと考える。数分後、さっぱりした表情の彼が戻ってきた。
「すっきりした?」
意地悪に聞くと、彼は真っ赤になって頷いた。
「それならよかった。それじゃあね」
歩き出そうとした私の手はしっかりと握られた。大きくて温かい手だった。
「あ、あの、この後お時間ありますか?」
「あるけど、どうして?」
「あの、何かお詫びさせてくださいっ」
「そんな、気を使わなくていいよ」
「いやでも、いっぱい迷惑かけましたし、あと、それと、その、」
彼は真っ赤な顔を更に赤くして言った。
「お姉さんのこと、知りたいんです。だから、お食事、行ってもらえませんか。お、奢りますので!」
そういって俯く姿に、つい頭を撫でてしまった。どうも私はこの子に弱いようだ。
「わかったわかった。じゃあ、どこか喫茶店でも行こうか」
「はい、ありがとうございます!」
キャリーバッグを引っ張り、二人並んで歩きだす。反対の手は、自然と彼に握られていた。
温かくて大きな手。知り合って間もないというのに、不思議と嫌な気持ちはなかった。
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初出: 2019年3月9日(当サイト) 掲載:2019年3月9日