前編は こちら
駅から離れるにつれて、人気が少なくなり、辺りが静かになっていく。実家のマンション付近とは違い、このあたりは一軒家が多い。中には人が住んでいるのか怪しい程に朽ちた家もあって、静けさの質が何となく違う。どうしても不気味さが勝つ静けさだった。
実家みたいな場所に住めれば良いが、私ひとりで暮らすにはこれがやっとだ。収入増えないかなあ、なんて考えながら、いつものスーパーに入った。
ここは小さな店だけれど、お弁当や総菜がとても美味しい。その上、この時間だと割引されている物もあるので、いつも立ち寄っている。
足に任せてぐるりと店内を回っていく。たまには野菜も食べないといけないと思いながらも、結局いつも面倒が勝って、お惣菜コーナーへ足が向く。
半額のお弁当を一つ、今日は週末なので少し贅沢してお総菜も追加。それから明日の朝ご飯としておにぎりも。後は忘れちゃいけないビール。贅沢ついでに普段より一本多く籠に入れた。
何かお菓子も食べたいなと思いながら、大きなポップの付いたおすすめ商品を眺める。そこで、向こうの棚の前に学生がいることに気付いた。
別に知り合いというわけではなく、単純に真っ黒な学生服をこんな時間に見るのが珍しかっただけだ。すぐに自分の前の棚に目を戻そうとしたけれど、もう一度学生へと視線を向けていた。
彼はやけに真剣な面持ちでじっと棚を見ている。それから辺りをきょろきょろ見回して、棚のお菓子を手に取った。
手の平に収まるような小さな袋を持って、もう一度辺りを見たかと思うと、その手は肩に掛けていたスクールバッグへ向かっていく。
咄嗟に傍へ近付いていた。そして、彼の手にあるお菓子を横から掴んで、自分の籠へ入れた。半額のお弁当の上に、小さなお菓子の袋が乗った。
私の行動に驚いたようで、学生は真っ黒な目を丸くしていた。
少し明るめの髪色に、真っ黒で大きな瞳。学生服を崩すことなくきっちりと着ていて、草臥れたスクールバックを肩にかけていた。人を見た目で判断してはいけないと言うけれど、真面目そうな、大人しそうな、いたって普通の男の子に見えた。
彼が取ろうとしていたのは二百円でお釣りがくるような安いお菓子だ。お金に困っている訳ではないだろう。だからといってスリルを求めて万引きを遊びにしているようなタイプにも思えない。
誰かに指示されたのか、それとも魔が差したのか、何か他の理由か。考えたってわからないので、その黒い目を見つめて口を開いた。
「他には何が欲しいの?」
「っ、え?」
「買ってあげるよ?」
「……別にいりません」
彼はあからさまに目を逸らすと、その場から立ち去ろうとする。咄嗟にその手を掴んで逃げられないようにしてから、そのまま一緒にレジに向かった。
最初は振りほどこうと腕が動いていたけれど、会計を済ませる頃には、手を掴まなくても彼は隣で大人しくしていた。
適当に買ったものを袋に入れてから、最後にあのお菓子を差し出した。
「いりません」
「いらないのに持ってたの?」
「たまたまです」
「欲しかったんでしょう?」
「だから、何もいりません!」
煮え切らないやり取りに、彼はとうとう苛立ったように声を張った。途端に周りの視線がこちらに向く。
仕事帰りの草臥れた女と真面目そうな学生。只でさえ不思議な組み合わせに、好奇の目が向けられる。彼は慌てて口を噤んで、顔を隠すように俯いた。
仕方ないのでお菓子は袋に入れて、鞄と買い物袋を手にスーパーを出る。彼は俯いたまま、黙って後ろをついてくる。
「うち来る?」
「……え?」
「話くらい聞いてあげるよ。何か悩んでいるみたいだし」
本当に軽い気持ちで言ったし、何ならさっきみたいに言い返されると思っていた。身構えていたけれど、予想に反して彼は何も言わなかった。
聞こえなかったか、伝わらなかったか、それとも聞こえた上で鬱陶しがられて無視されているか。色々考えていたけれど、彼はじっとこちらを見ているだけだ。
言っておきながらどうしようと内心困っていると、彼は先程のように小さな声で言う。
「……行かないんですか」
「え?」
「来るかって言ったの、そっちでしょ」
「あ、うん」
「冗談だったなら良いです」
そう言うと、彼は顔を背けて立ち去ろうとする。それを慌てて呼び止めて、自宅へと足を向けた。
道中、後ろにいる彼の様子をそっと窺う。彼は無表情で、一定の距離を保って私の後ろを着いてきていた。
学生服だし、間違いなく学生だ。ということは多分未成年。そんな子を同意の上とは言え、部屋に連れ込もうとしている。一歩間違えば犯罪、というか間違ってなくても犯罪だ。
犯罪と言うなら、そもそも彼の万引き未遂を本来ならお店か警察に突き出しておくべきなのかもしれないと今更ながら考えた。もしかしたら、私が止める前に既に幾つか取って、そのスクールバッグに隠している可能性だってある。
まあ、でも。静かに息を吐いて、ほとんど沈んだ夕日を見つめる。悪いことをしたくなる時だってある。彼だって、私だって、きっと同じ。
家に連れ込んで、何かするつもりは無い。本当にただ話を聞いてみようと思っているだけ。大丈夫、大丈夫、……多分。
よくわからない自信が湧いてくるのは、仕事終わりで疲れている故か。色々考えてしまうのを無理やり振り切って、今は自宅へ向かって足を動かした。
+++
二階建てのボロアパート。階段は錆びていて、足を乗せると嫌な音がする。いつか踏み抜くんじゃないかと、ここに住み始めた時から思っている。
階段を上って直ぐの扉が私の部屋だ。鞄から鍵を取り出して、いつもの手つきで扉を開ける。当たり前だけれど室内は暗く、しんとしていた。
「ただいまー」
「……お邪魔します」
誰に向けてでもない帰宅の挨拶に続いて、後ろから小さな声で礼儀正しい挨拶が聞こえた。
部屋の奥のカーテンは閉まったままで、その手前のベッドは草臥れた掛け布団がきちんと乗っている。寝起きに整える癖を付けておいてよかったと内心思った。
鞄を定位置に、スーパーの袋を机の上に置く。それからいつもの流れでジャケットを脱ごうとして、彼が居心地悪そうに部屋の入り口で立ち尽くしていることに気付いた。
クローゼットから座布団を取り出して、軽く整えてから机の傍に置く。
「どうぞ、座って。荷物は適当に置いて良いよ。あ、上着脱ぐ?」
自分のジャケットを片付けてから、空いているハンガーを手に取る。彼は部屋の隅にスクールバッグを置くと、おずおずと学生服の上着を脱ぐ。
黒い上着が消えて白いワイシャツ姿になると、幾分大人びて見えた。脱いだ上着を受け取ると、彼は小さな声でお礼を言う。律義だなあとつい頬が緩んだ。
脱衣所で部屋着に着替えてリビングに戻ると、彼は丁寧に膝を畳んで、背筋を綺麗に伸ばして座布団に座っていた。会った時より大人びて見えたけれど、その表情は迷子の子どものように不安そうに見えた。
冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出して、彼の前に置いた。小さいボトルだからコップは入らないだろう。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
お茶一つにもきちんとお礼を言うあたり、育ちが良いのだろうなと思った。真面目そうだという第一印象は間違っていなさそうだ。もう一つの第一印象『大人しそう』に関しては、こうして見ず知らずの人に着いてくる行動力を見ると、罰印を付けたくなる。
連れ込んだ以上、ある程度はもてなすべきだと思うけれど、あまり無理をしても仕方ない。変に気取ってぼろが出るくらいなら自然体で。でも歓迎する気持ちだけはたっぷりと。
机を挟んで彼の向かい側に座って、袋を広げて中身を机に並べる。半額のお弁当に、お惣菜。朝食用のおにぎり。缶ビールが二本。そしてお菓子。
「おにぎりとお弁当、どっちが良い?」
「……え」
「あれ、お腹空いてない?」
「べつ、に」
その言葉と同時に、ぐうとお腹が鳴るのが聞こえた。自分かと思ったけれど、そうではないとすぐにわかった。背けられた彼の顔は赤く染まり始めていた。
良いタイミングだったのでつい笑いそうになる。でもそれは流石に失礼だと思って、おにぎりと惣菜、あと割り箸を彼の前に並べた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。あ、テレビつけても良い?」
「どうぞ」
テレビをつけるのは習慣だ。特別見たい番組があるわけではないけれど、何か音が流れていないと落ち着かなかった。
チャンネルを適当に回していると、何かのドラマを見つける。既にある程度進んでいるようで、途中から見ても内容がわからないかもしれない。まあでもバラエティ番組よりは良いだろうと、画面は名前も知らないドラマにしておくことにした。
食べ始めた私を見て、彼もおずおずと手を動かした。両手を合わせてから、おにぎりに手を伸ばす。フィルムを外す動きも丁寧で、ごみは袋にすぐに纏めていた。
会話は特になかった。黙々と互いに空腹を満たしながら、テレビから流れる音声に耳を傾ける。ドラマは途中からだとやはり会話を全て理解するのは厳しいところがある。それでも、サスペンスものだというのは何となくわかった。
彼の方を見ると、テレビを見ながら静かにおにぎりを食べていた。
「おかずも食べなよ。お茶もどうぞ」
ごくりと飲み込んでから、彼は小さな声でありがとうございますとお礼を言った。割り箸の持ち方も綺麗で、先程からお礼も忘れない。本当に礼儀正しい子だなと改めて思う。こうして一緒にいても、不快感が全く無かった。
そんな子がどうしてあんなことを。そう思ったけれど、誰だって魔がさすことはあるだろう。真面目で礼儀正しい子が悪さに手を出してしまう事だってある。
「何かあったの?」
突然話しかけたからか、彼の体が一瞬跳ねて、テレビから視線がこちらに向く。手元におにぎりは無く、もぐもぐと動いていた口が止まってから、彼は小さく口を開いた。
「別に。……ちょっと、色々嫌になっただけです」
「そっか」
「楽しいことないかなって思って、その、つい。……あの、すみませんでした」
「いえいえ。未遂で良かった」
ぽつり、ぽつりと彼は口を開く。大した返事は出来ず、相槌を打つだけになっていた。
自分も通ってきた道だから、気持ちの想像は出来る。だからと言ってわかるよなんて軽々しくは言えないし、言いたくない。最初に彼に伝えた通り、話を聞くことに留めておいた。
だからと言って万引きは良くない。大きなお世話だったかもしれないけれど、止めることが出来て良かったと思う。何かもっと良い方法で発散出来たら良いのにと思いながら、お弁当を食べ終わる。ゴミを袋へ入れながら、机の端に避けていた缶ビールに手を伸ばした。
既に缶の表面は結露で濡れていた。プルタブを起こすと、ぷしゅと良い音が鳴る。そのまま口を付けると、程よく冷えた液体がしゅわしゅわと喉を通っていく。
数口飲み込んで、ふうと息を吐いた。正面では、黒い目が物珍しそうにこちらを見ていた。
「飲むかい?」
「未成年ですけど」
「だろうね。でも万引きよりはこっちをお勧めするよ。パパとママには黙っておいてあげるから」
「……家に誰も帰ってこないから大丈夫です」
そう言うと、彼は机の上に残っていたもう一本の缶ビールを掴んだ。先程のおにぎりのフィルムを外す時とは正反対に、荒い手つきでプルタブを起こす。
全部飲まなくても良いよと言おうとしたけれど、彼が動く方が先だった。勢いよく口を付けたかと思うと、そのままごくごくと一気に煽っていく。おお、良い飲みっぷり。上下する喉を見ていると、彼はある程度のところで缶から口を離した。
「お味はいかが?」
聞いておいてなんだけれど、彼の表情が何より答えを物語っていた。つい笑うと、眉が更に顰められた。
「……こんなのを美味しい美味しいって飲んでるんですか」
「そのうち美味しく感じるようになるんだよ。いつか君もわかるさ」
「俺が子どもって言いたいんですか」
そんなことは言っていない。返事をするより前に、彼は缶の残りを一気に煽った。あーあー、初めてでそんなに一気に飲んで大丈夫かな。重い腰を上げて冷蔵庫に向かい、ミネラルウォーターのボトルを取り出して彼の前に置いた。彼は怪訝そうにそのボトルを見つめていた。
「おかわりくれるのかと思いました」
「言うねー。もう一本飲む? あんまりお勧めしないけど」
「飲みます」
本当に大丈夫かなと思いながらも、もう一度冷蔵庫に向かって、よく冷えたビールを取り出した。気が引けながらも差し出すと、彼は飛びつくように缶を掴む。そのままの勢いで喉を鳴らす様子を、つい立ったまま見つめていた。
空になった缶が机に置かれる。その小さな音と共に我に返って、彼の前に座りなおした。
「……まず」
小さく呟いたのが聞こえて、つい笑いそうになるのを堪える。小さい缶だとは言え、よく一気に飲み干せるものだ。
幼さの残る目つきはやや不満げに細められている。その目は水滴の付き始めたミネラルウォーターに向いたけれど、手を伸ばしはしなかった。
流石にもう一本出すのは良くないと、それ以上は出さなかった。私のビールはまだ残っていたので、ちびちびと続きを飲み始める。特別会話はなく、テレビから流れるドラマがふたりの間に流れていた。
自然と視線はテレビに向く。画面には夕暮れの公園が映っている。
見覚えのある光景にはっと息を飲んでいた。軽くなった缶を握ったまま、画面をつい食い入るように見つめていた。
ふたりの男性が難しそうな顔で会話をしている。そこに足音が近付いてきた。ぱたぱたと元気な足取りに視線が集まる。
『おとうさんっ!』
走ってくるのは子供だ。フリルのたくさん付いたスカートを揺らし、栗色の髪はふわふわと上下し、嬉しそうな表情を浮かべている。
可愛いお人形のような女の子、にしか見えない姿。あの子だ。見覚えのある服装に、雰囲気に、記憶が一気に蘇る。
あの出会いの後、それらしきドラマを探してみたけれど、結局見つけることが出来なかった。それが、まさかこんな形で見つけられるとは思わなかった。彼の有志を今更ながら見ることが出来て、胸がじわりと温かくなる。
足元に駆け寄ってきた子供を男性は抱き上げる。男性の表情は先程までとは裏腹に柔らかくなる。
『今日は楽しかったか?』
男性に訪ねられて、子どもは満面の笑みを浮かべる。
『うんっ!』
その元気いっぱいの返事、そして今日あったことを話し始める。ドラマなのであくまで台詞だとわかっているけれど、本当に経験したかのように楽しそうに聞こえた。
子どもを抱っこしたまま、男性は公園からゆっくりとした足取りで出ていく。そして、シーンが切り替わった。
すごい。そんな陳腐な感想しか浮かばなかったけれど、本当にすごいと思った。本当に親子のように見えたし、彼自身は可愛い女の子にしか見えなかった。これならきっと次は男の子の役を貰えているはずだ。
エンディングを見れば彼の名前がわかる。後で出演作品を調べてみようと思いながら、緩む口元にビールを運んだ。
視線を感じて、そういえば今日は一人じゃないんだと、自分が連れ込んだ存在を思い出す。正面に座る彼はテレビから視線を外し、何もない机の上をじっと見つめていた。
白い顔が更に白くなっていた。もぞもぞと体は動き、どこか落ち着きない。
初めてなのに一気に飲むからだ。水滴の付き始めたミネラルウォーターのキャップに手を伸ばす。捻るとかちっと軽い音がして、それに引き寄せられるように伏せていた彼の目がこちらに向いた。
「お水も飲んでおいた方が良いよ」
「……いらないです」
「駄目。気持ち悪くなるから、飲んどきなさい」
ちょっと強めに言うと、彼は渋々といった様子で手を動かす。口の開いたボトルを手に取り、中を並々と満たす水をじっと見つめたかと思うと、もう一度こちらを見た。
「あ、の」
「さっきの公園ね、実家の近くなんだ」
探していたドラマを見付けられた興奮がまだ収まらず、つい話題に挙げていた。私がすごい訳ではないけれど、そんな風に自慢してしまう。
「テレビ越しに知ってる場所を見るのってなんだか嬉しくなるね」
彼の手元でミネラルウォーターは半分程減っていた。ボトルを握ったまま、大人しく座っている。
そう言えば先程、彼が何か言おうとしていたのを遮ってしまったと今更ながら思い出した。
「あ、ごめん。何か言いかけてたね。なに?」
声を掛けると伸ばされた背筋が一瞬跳ねたように見えたけれど、すぐに取り繕ってしまった。彼は手元を見ながら、小さな声で言う。
「何でもない、です」
「そう? 遠慮せずに何でも言ってね」
そう続けてみたものの、口を噤んでしまって何も言ってくれなくなってしまった。さっき、遮ったことを少し後悔する。まあ何かあったら言うだろうと、再び自分が話す側に戻った。
「実はね、さっきの子役の子とはお喋りしたんだ。近くで道に迷っちゃってたみたいで、公園まで案内してあげたの」
「っ、え?」
驚かせるつもりで話題に出したので、その反応には嬉しくなった。
「すごいでしょ。手繋いで、公園の傍まで案内したんだ。名前を聞き忘れちゃったんだけど、エンディングに出てくるかな」
得意げになりながら、残っていたビールを飲み干す。彼はぽかんと口を開けて、固まっていた。手元のボトルの中で、残ったミネラルウォーターが静かに揺れた。
「……それ、本当ですか?」
「うん、そうだよ。すごいでしょ」
自慢したかったので驚いてくれたのは嬉しい。ただ、驚いたにしては、彼の表情は真剣すぎるように見えた。
こちらを射貫かんばかりに真っ直ぐ見つめられると、少し居心地が悪い。嘘かどうか疑われているのかと思ったけれど、それにしてはどこか不安そうにも見える。
子役とは言え、芸能人と関わったことがあることがそんなに興味を引いたのか。あまりそういう事に興味がなさそうな雰囲気だったので、正直彼の反応は意外だった。
「……あ、の、おねーさん」
「うん、何だろう」
そう言えばさっきも何かを言いかけていた。彼は視線を彷徨わせると、突然、握ったままのボトルを口元に運ぶ。残りの半分を勢いよく飲み干して息を吐くと、もう一度こちらを見る。
「あ、の」
「うん」
何かを言いかけて、また口籠る。先程言葉を遮ってしまったので、今度はちゃんと聞こうと、何も言わずに彼の言葉を待った。
「……俺だって言ったら、信じますか」
「え?」
今度は私が固まる番だった。
「だから、あの子役、実は俺だって言ったら信じますか」
あの子が、今、目の前にいる彼? どんな偶然だ。出来過ぎている。そう思うけれど、そんな下手な嘘をつくような子には見えない。
両手を床について、四つん這いで机を回り込み、彼の前へと座る。距離を詰めれば、栗色の髪が隠す顔がよく見えた。
こうして間近で見れば、確かにあの子と似ている気もする。そのままじっと見つめていると、白い頬が赤く染まり、顔を背けられた。
「……近いです、おねーさん」
「近くないと見えないよ。ねえ、君、本当にあの時のあの子?」
返事はない。ただ、前髪の下の目は不安げに揺れていた。
見つめられて居た堪れないのか、細身の体は時折震える。崩せば良いのに律義に正座をしたままで、ごそごそと足が動いていた。
本当に彼があの子なのか。それとも悪いことがしたい延長での冗談なのか。判断は出来ない。でもそれなら信じてみたい気持ちが勝る。
「もし君があの時の子だったら、元気で良かったなあと思うよ」
寄せていた体を引いて、彼の前にぺたりと座る。私の言葉に彼の目がより一層揺れた。
「あの時ね、すごいことがあったんだ。あれは一生忘れられない」
思い出すとちょっと恥ずかしくなる出来事。照れ隠しに笑うと、彼は息を飲む音が聞こえた。綺麗に並べた膝が揺れている。言葉こそ無いものの、動揺が広がったのが分かった。
そう言えば、彼は先程からどこか落ち着きない。もじもじと体を揺する様子が、記憶の中のあの子に重なっていく。
もしかして。一つの想像が頭に広がる。手を突いて、体を前に倒して、もう一度距離を詰める。彼は顔を背けたけれど、不安に揺れる目はあの時と同じに見えた。
「さっきから落ち着きないけど、どうしたの?」
「だ、いじょうぶです、何もないです」
早口に言う声は震えている。行儀よく揃えられた膝の上で白い手は握りしめられて、見てわかるほどに震えている。近くにいるので、彼が苦し気に吐き出す息すら聞こえた。
「飲みすぎて気持ち悪い? お水もう一本持ってこようか」
「いいです、ほんとに何もないですからっ」
やや強めの口調で言われて、仕方なく引き下がる。近付いた距離を戻すと、背けていた顔がおずおずとこちらに向いた。
目には涙が浮かんでいて、小さく開いた唇は苦しそうに呼吸を繰り返す。もじもじと揺すった体は時折びくっと跳ねる。
答え合わせのように、彼の仕草ひとつひとつが私の想像を色付けていく。先程何を言おうとしていたのか。多分私の想像は当たっていると確信していた。
初めてのアルコールに加えて、お茶とミネラルウォーターも飲んでいるんだ。こうなるのも仕方ない。
先程まで座っていた位置に戻ろうとしたけれど、出来なかった。
さっきまで膝の上で震えていた手が、いつの間にか私のスカートを握っていた。縋るような手は見てわかるほどにがくがくと震えている。
男の子らしい大きな手。それなのに頭に浮かぶのは、子供らしい小さな手だった。
「あの時もそんな感じだったよ。もじもじして、泣きそうで、可愛かった」
白い顔は真っ赤に染まっている。黒い目には涙が溜まっていて、今にも零れ落ちそうだ。
「どうしたの?」
震える唇は何かを言いたそうにしているけれど、息を呑むだけで肝心の言葉は出てこない。
「今日はどこまで案内しよう?」
彼の手の中で、スカートがくしゃくしゃに握りしめられる。その反対側で、膝に乗せられていた手が足の間に潜り込むのが見えた。
「っあ、あの……!」
彼の顔は真っ赤で、泣き出しそうにくしゃりと歪む。小さな唇が何度か動いた後、丸く開かれた。
「お、しっこっ……!」
両膝の間に潜り込んだ手はズボンの奥をぎゅうぎゅうと押さえている。座ったまま、体は揺すられて、大きく揺れている。
答え合わせの結果は正解だった。縋るように握られた彼の手に触れると、力が籠もって震えているのがわかる。
苦しげに繰り返される浅い呼吸の音が耳に付く。伸ばされていた背筋はいつの間にか丸くなって、落ち着きなく揺れる。もうじっとしていることも辛いようだった。
「トイレ、玄関のところだよ。立てる?」
震えながらスカートに縋る手を外側から握ると、一瞬の後、強く握り返された。手を繋いだまま手を引っ張って、立ちあがることを促す。
彼は私の手を支えによろよろと体を持ち上げる。ずっと座っていたからか、それとも我慢しすぎたのか、その膝はがくがくと震えている。
何とか立てたものの、体は前屈み、両足の間に挟み込んだ手は変わらずズボンの前をぎゅうぎゅうと押さえている状態だった。たくさん取った水分が相当効いているらしい。はやく連れて行ってあげないと。
手を引っ張って、何とか部屋から出る。廊下の先には玄関があり、その横にトイレがある。十歩も歩けば辿り着ける程の短い距離だ。
「っ、あ、あっ……!」
一歩踏み出したところで、ぶるりと彼の体が大きく震える。絞り出したような苦しげな声が静かな廊下に消えていく。
「ほら、すぐそこだか、ら……」
頑張って、と続けようとして、その言葉を遮るように握った手が振り払われた。
「っ、あ、ぁ、だめっ……!」
振りほどかれた手は同じようにズボンの前をぎゅうぎゅうと押さえていた。震える膝は忙しなく擦り合わされて、後ろへと突き出したお尻はゆらゆらと揺れる。
幼い子供がするような激しいおしっこ我慢の仕草。でも、あの時の子だってここまでの姿は見せていなかったと思う。
ここは室内だ。緊急避難が出来る花壇なんて無い。
「が、頑張って! トイレすぐそこだからっ」
震える足が一歩踏み出す。同時に、ぶじゅ、とくぐもった水音が聞こえた。
ズボンの前を握る手は忙しなく動き、細身の体が何とか我慢しようとくねくねと揺れる。片足が前に動いたけれど、白い靴下がフローリングの床に付いた瞬間、そのままずるずると崩れ落ちていく。
じゅうううう、とくぐもった水音が廊下に響いた。
「っあ、あぁ、ぅ、く、あっ……」
苦しげな声と共に、彼の足元に雫が落ちる。びちゃびちゃと激しい音を立てて、それは水流へと変わっていく。
呼吸に合わせて肩が上下している。ズボンの真ん中を両手で強く握るその部分から溢れ出した物が、その真下に水たまりを広げていく。
「ご、ごめんな、さっ……」
顔を伏せて、震える声で彼は言う。びちゃびちゃと水音は止まらず、溢れ出したおしっこは雫を飛び散らせながら水たまりに注ぎ込まれる。
隣に立つ私の足元まで濡らしても、彼の排泄はまだ止まらない。
「すみません、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
謝罪の言葉を繰り返す姿は痛ましくて、何とかしてあげたいと思った。そのまま私もしゃがみこんで、震える背中に触れる。
飛び跳ねんばかりに彼の全身がびくりと震えて、伏せていた顔がおずおずと持ち上がる。大粒の涙を零して、その顔はぐちゃぐちゃだ。
「大丈夫、大丈夫。後で拭けばいいよ」
「ごめ、っ、な、さい……」
「着替えも貸してあげるから。大丈夫だよ」
大丈夫、大丈夫。繰り返しながら背中を撫でる。しゃくりあげながら、荒い呼吸を繰り返しているのが、ちょっとずつ落ち着いていく。
水音は勢いを無くしたものの、まだ聞こえていた。足元は生温かく濡れている。彼の白い靴下が濡れて色を変えているのが目に付いた。
「いっぱい出るね。お酒のせいかな」
「……もう、二度と飲まない」
「まあまあ、そう言わずに。そのうち上手な楽しみ方がわかるよ」
背中を撫でながら、彼が落ち着くのを待つ。廊下はひんやり寒くて、足元の生温かさがよくわかる。フローリングに広がった水たまりは驚く程に大きい。夕日に照らされて輝くあの水たまりを思い出した。
+++
少しして、ぐすぐす鼻を啜りながら謝る彼を引っ張って、お風呂場へ連れて行った。
「着替え、私ので入るかな。下着はないから明日まで我慢してね
「すみません……、ありがとう、ございます」
「はい、じゃあ脱いで。濯いでから洗濯機に入れるから」
浴室で上のシャツのボタンに手を掛けていた彼は、弾かれたようにこちらを見る。初めは無表情にも見えたのに、今は赤くなったり白くなったりところころ表情が変わる。
「自分でやりますから」
「遅くなっちゃうでしょ。脱いで脱いで」
そう言っても彼は固まったまま動かない。はやく脱いだ方が良いだろうと彼のズボンに手を伸ばすと、手を掴まれて全力で抵抗された。
「ま、待ってくださいっ! 下は良くないっ!」
「ひとりじゃ大変そうだから手伝ってあげるよ」
「脱ぐ、脱ぐからちょっと待ってっ……!」
浴室の扉が半分ほど閉められて、曇りガラス越しに彼がごそごそ動くのが見える。それから、扉の隙間から、衣類がまとめて渡された。
濡れたせいで、衣類は重くなっていた。扉の隙間から、泣きはらした赤い目が何か言いたげにこちらを見ている。ちょっと揶揄ってみたくなったけれど、流石に可哀想で何かを言うのはやめておいた。
シャワーの音を聞きながら、洗面台で順番に洗っていく。自分も着替えて、全部まとめて洗濯機に入れてから、次は廊下だ。
古いバスタオルを何枚か持ってきて、広がった水たまりを拭いていく。改めて見ても凄い量で、本当にぎりぎりまで我慢していたのがよくわかる。
途中で何か言おうとしたのを遮ってしまったのを思い出す。トイレ、言い出そうとしていただろうに、悪いことをしてしまった。あまり思い詰めていないと良いんだけど。
そんなことを考えながら掃除を終える。バスタオルも軽く洗いで洗濯機に入れて、お急ぎモードで稼働させた。
一足先にリビングへ戻ると、シャワーの音と洗濯機の音に、つけっぱなしのテレビの音声が混じる。テレビではよくわからないバラエティ番組が始まっていて、興味もなかったので電源を切った。
少しすると、彼がリビングに顔を出した。私のルームウェアでも問題なく着れていて安心した。やや手足の丈は足りていなかったけれど、そこは我慢してもらうしかない。
目は赤かったけれど、表情は幾分落ち着いたように見えた。
「泊っていっても大丈夫なの?」
「……え」
「あ、帰る? 服、終電までに乾かないかもしれないな。袋に入れてあげるから、帰ったら干すんだよ」
「いや、あの、泊って良いんですか」
「君が良いなら。お酒飲ませちゃったし、夜にひとり帰すのも心配だから、朝まで泊っていったら?」
彼は部屋の入口で立ち尽くしていたけれど、ぺたぺたと壁に掛けていた自分の上着まで近付く。その姿を横目に、机の上のゴミを片づけておいた。
「泊っても良いですか。友達の家に泊まるって連絡入れたので」
「お、偉いね。そこのベッド使って良いよ」
促すと、彼はおずおずとベッドに腰かける。丁度その時、洗濯機が終わる音が聞こえた。
「あの、ありがとうございます」
「ん?」
「色々助けてくれて、話も聞いてもらって、ありがとうございます」
やっぱり最初に感じた真面目な印象は間違いじゃなかったようだ。
「悪いことしてみて、どう?」
「……微妙。でも、色々悩んでたの、ちょっとましになった」
「それは良かった。すっきりできたね。色んな意味で」
「っ……!」
少し揶揄うと、彼は再び顔を赤くする。それから、赤くなった目を不満げに細めて、じっと睨まれた。
「……さっきから思ってたけど、おねーさん性格悪い!」
「あはは、ごめんね」
お風呂から上がって、文字通り色々とすっきりして、彼は先程までより力が抜けたように見えた。口を噤んでいるより、ぽんぽん物を言っている方が彼らしく見えた。
「あの時のおねーさんはそんなんじゃなかった」
「じゃあ、その時のおねーさんじゃ無いのかも。君だって、あの子じゃないかもしれないし」
不満そうに見つめられて、私も見つめ返す。
少し踏み込めば、答え合わせなんて簡単だ。絶対に忘れられない強烈な思い出が残っている。でも、何となく口に出来ずにいた。それはきっと彼も同じだ。
「お洗濯干してくるね。適当にしてて。眠かったら寝て良いよ」
「ありがとうございます。あの、手伝い、しましょうか」
ちゃんと一つ一つのことにお礼を言ってもらうと、一緒にいて不快感がない。今日初めて会って、家に連れ込んだにしては、とても心地良く過ごせていた。
「手伝う? 私の下着もあるけど、見たい?」
「っ、ほんと、性格悪い! もう寝ます!」
「はーい。おやすみ」
洗濯物を干して戻ってくると、彼はベッドに横になっていた。掛け布団の上に寝転んでいて、多分本人にまだ寝るつもりは無かったんだろう事が読み取れた。
このままだと冷えてしまう。彼の下から無理やり掛け布団を引っ張り出していると、重そうな瞼が僅かに持ち上がる。寝てて大丈夫だよと頭を撫でると、細い目が更に細められる。
「……おねーさん、ほんとに、おねーさん?」
それを言うならば、彼は本当にあの時の子なんだろうか。
「もし、そうだったらどうする?」
返事はない。重い瞼はふたたび落ちてしまっていた。頬が緩むのを感じながら、引っ張り出した布団を体に掛けてあげる。それから、部屋の照明を落とした。
テーブルの横に寝転んで、携帯を手繰り寄せる。それから、先程エンドロールで見えた子役の名前を検索した。見たのが一瞬だったので正直怪しかったけれど、何とか見つけることが出来た。
どうやら、あの子はあのドラマの後、幾つかの作品に出演したものの、数年前にはぱったりと姿を消していたようだ。
本当に彼があの子なら、こうして元気でいてくれて良かったと思う。もうお芝居はやってないのかな。今日は何か嫌なことがあったのかな。少しは気分転換になっていれば良いのだけれど。
色々とお節介なことも浮かんでしまうけれど、何より元気ならそれが一番だ。
スマホを置くと、欠伸が漏れる。私も寝ようと目を閉じた。思ったより疲れていて、固い床でも意外とすんなり眠れそうだった。
+++
人の気配に目が覚める。半分目が開いてない状態でスマホを引き寄せると、まだ早朝だった。
自分が床で寝ていることに気付いて、昨日酔ってそのまま寝てしまったかと記憶を辿って、思い出した。
酔ったのは私じゃない。半分寝ている意識が、ベッドが勢いよく軋む音で完全に覚醒した。眠い目を擦りながら起き上がると、薄暗い部屋の中、ベッドから起き上がった人影が見えた。
「……おはよー」
「お、おはようございます、あ、あのっ」
気怠い私とは裏腹に、彼はしゃきしゃきと口を動かす。朝に強いんだ、すごいなあと思っていると、彼は慌てたようにベッドから体を下ろした。
「すみません、トイレどこですか!」
欠伸をする私とは裏腹に、彼は早口に捲し立てた。寝起きからしゃきしゃき動いている、もとい慌てている理由がわかって、つい笑ってしまった。
「あれ、場所知らなかったっけ」
「わかんないから聞いてる! あの、ほんとに漏れそうだからはやくっ……!」
「出て左。お風呂場の横だよ」
「ありがとうございます!」
律義にお礼を言いながら、彼は私の隣を速足に駆け抜けていく。お酒の影響か、一晩の間に溜まっていたんだろう。取り繕う余裕も無く慌てた様子につい笑ってしまった。
少しの後、戻ってきた彼はすっきりした表情をしていた。
「間に合った?」
彼は小さく頷いて、その白い頬が赤く染まった。
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適当な朝食を食べ終わるころには、彼の下着もズボンも乾いていた。
「あの、そろそろ帰ります」
着替えを終えると、彼はぽつりと言った。
「そっか。駅までの道わかる?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
ゆっくりしていったら良いと思うけれど、帰るというなら引き留める理由もない。一緒に玄関に向かう。彼は靴を履いてから、くるりとこちらを振り向いた。
「あの、おねーさん」
「ん?」
「本当に、あのおねーさんなんですか」
「どうだろう」
彼は少し迷ったように視線を彷徨わせる。それから息を飲み、何かを言おうとしたので、その唇に指を当てた。
彼は黒い目を丸くして、きょとんとしていた。思い切って何を言おうとしたのかは私にもわかる。
でも、答え合わせをするのは、勿体ない。
「もしそうだったら、すごい偶然だよね。でも、更にもう一回あったら、これはもう運命だと思わない?」
「……え」
「次に会ったら、答え合わせしよう。今、言おうとしたこと教えてよ」
「……」
「ね」
指を離しても、彼は何も言わなかった。言葉を飲むように息を吸って、視線を背ける。それから小さく息を吐くのが聞こえた。
「おねーさんの家の場所わかったから、会いに来れますけど」
「そんなに私に会いたいんだ」
「……そういう訳じゃない」
「会いに来ても良いよ。でも、もしかしたら君が来るより先に、どこかで偶然会うかもしれない」
そんなことがあったら、もう運命感じちゃうよね。茶化すようにそう続けてみると、彼は口を噤む。けれど、その表情はずっと柔らかかった。
「わかった」
「うん。じゃあ次に会ったら、まずは自己紹介しよう。それから答え合わせだ」
自己紹介の言葉に、あ、と彼は小さく声を漏らした。
そう、互いにまだ名前も知らない。厳密にいえば、子役としての名前は知ったけれど、それが本名かどうかはわからない。そもそも彼があの時の子だと決まったわけじゃない。
「楽しみなこと、できた?」
そう言うと、彼の目が揺れる。栗色の髪の下で、その表情がふわりと柔らかく緩む。
「うん。……ありがとうございます」
彼はスクールバッグを肩に掛けなおすと、もう一度頭を下げた。
「お世話になりました」
「どういたしまして。それじゃあ、またね」
「……うん。また」
玄関の扉が開いて、彼は向こう側へ消えていく。そして、いつものように部屋の中は私ひとりになった。
普通に考えたら、名前も連絡先も知らない相手と再会する可能性は低い。たった一晩過ごした程度なら、もしかしたら顔もすぐに忘れてしまうかもしれないのに。
でも、何となく会える気がしていた。またねと自然と口から出ていた。
次に会ったら、たくさん話を聞かせてもらおう。今のこと、昔のこと、これからのこと。その日を想像するだけで、胸がふわっと温かくなったように感じた。
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初出:2022年10月29日(pixiv・サイト同時掲載)
掲載:2022年10月29日