数年前のある日のこと。
当時十二歳のイトミナお嬢様は今と変わらず、週に三度ピアノ教室へと通っていた。普段は付き添い担当の使用人がいるが、その日は珍しく皆が外出しており、空いている者がいなかった。
当時、まだ新米だった私は仕事はあれど、変わりの効くことばかり。使用人の中でも一番若く、お嬢様と歳も近いというのもあり、その日の同行をすることとなった。
お嬢様は当時から手が掛からず、聞き分けも良くて、大人の付き添い等必要が無いと思わせる程にしっかりしていた。準備は自分できちんと行い、出発する十分前には荷物を手に玄関に姿を現した。
丁寧にお礼を言ってから馬車へと乗り込んで、到着先では私が促す必要もなく、先生に自ら挨拶と一礼をする。そんな姿に、私よりもしっかりしているのではないかと驚いた。
レッスンの間は隣の部屋で待たせていただいた。漏れ聞こえる音色は流れるように美しく、知識のない私でも見事だと感じた。
それは間違いないようで、今では演奏会で大人を唸らせ、先生にはプロの道を勧められているらしい。先日、長旅から戻ってきたイトミナ様のお父君がその話を聞いて、そうかそうかと嬉しそうにお顔を綻ばせていた。
二時間程経った頃、先生と共に戻ってきたお嬢様は少しだけ疲れを見せていた。それでも柔和な笑みは崩さず、お礼と別れの挨拶を自ら行う。私も隣で頭を下げて挨拶を交わし、お嬢様と共に帰りの馬車に乗り込んだ。
来る時と同じく、馬車の中で特に会話はなかった。
お嬢様は背筋を伸ばし、膝を揃えて、お行儀よく座っていた。隣にいるのは幾つか歳上の若いメイドひとり、少しくらい年相応に気を許しても誰も文句は言わないだろうに、お嬢様はその佇まいを崩さない。そんな姿を見て、私もいつもより背筋を正していた。
少しすると突然、馬車がスピードを落としていき、道の途中で止まった。外を見ても、まだお屋敷までは距離がある。何があったのか訊ねようと思った時、私が動くより先に窓から御者が顔を覗かせた。
「いやー、交差点で事故があったみたいで。片付くまで進めんそうです。申し訳ない」
身を乗り出して前方を見ると、少し先の交差点で荷車が幾つか横転しているのが見えた。大小様々な荷物が道に散乱していて、徒歩ならば通れるが、車の類が通るには無理がありそうだ。数人が片付けているのが見えたけれど、その様子から察するに多少時間が掛かりそうだった。
御者に返事をして、隣のお嬢様に状況を伝える。彼女は機嫌を損ねる様子もなく、ただわかりましたと言うだけだった。
「お疲れですのに、申し訳ありません。何かお飲み物を用意しましょうか?」
「いえ、大丈夫です。仕方ないことです。誰もお怪我をされていないなら良いのですが」
こんな時でもお嬢様は柔和な笑みを崩さない。本当に出来た方だと思った。屋敷勤めの者が口を揃えて彼女を褒める理由がよく理解できた。
それから、じっと待つ時間が続いた。時計が無いので実際のところはわからないが、結構な時間を馬車の中で過ごしていた。
時折、交差点を見るものの、片付けはなかなか進まない。いつになったら戻れるのかと、つい溜め息が漏れた。それから、隣にお嬢様が大人しく座っていることを思い出して、慌てて背筋を正す。お嬢様が文句ひとつ言わず待っているのに、年上の私が文句を言うわけにはいかない。
ただ、頭ではわかるものの、もうお屋敷に戻っていてもおかしくない時間だった。それを馬車の中でずっと座って待ち続けるだけとなると、溜め息のひとつも零したくなる。
隣のお嬢様を見ると、流石に少し疲れの色が滲んでいるように感じた。表情はやや曇り、俯いて、膝に乗せた自分の両手を見つめている。こんな状況なら機嫌を損ねたり、駄々を捏ねたりしてもおかしくない年齢だ。僅かに見せた年相応の姿に、少し安心した。
「片付け、なかなか終わりませんね」
声を掛けると、お嬢様は驚いたように顔を上げた。途端に、力が抜けていた背中がぴんと伸びて、居住いを正す。その様子に、声を掛けたのは失敗だったかもしれないと思った。
「そうですね」
「お疲れではないですか? 楽にしていてくださいね。私しかおりませんから」
「はい。…………あ、の」
返事の後に、小さな声で何かを付け足したように聞こえた。けれど外から聞こえる物音に掻き消されて、うまく聞き取れなかった。
「すみません、外がうるさくて。何でしょうか?」
「……いえ、何でもありません。すみません」
お嬢様は言おうとした言葉を飲み込み、再び顔を伏せた。何か言いたかったのはわかるけれど、何かはわからない。
喉が渇いたのだろうか、それとも、あとどれくらいかかるかと聞きたいのだろうか。もしかしたら、疲れた、早く帰りたい、他の手段は無いかと年相応の我が儘だっただろうか。聞こうにも、お嬢様は口を閉ざしていて、言ってくれそうに無い雰囲気だった。
やってしまったと心底後悔した。こういうところがまだまだ未熟者なのだと我ながら思う。体を動かしたり力仕事は得意だけれど、こういう気遣いの部分は本当に未熟だ。
お仕えする立場の私が気を使われては立つ瀬がない。せめて、ここから先は不自由が無く過ごせるように、全身全霊で手助けしようと心に決めた。
異変を見逃さないように意識を向けていると、すぐにある変化に気付いた。
俯いて大人しく座っているだけだったお嬢様が、落ち着きを無くし始めていた。両手がスカートの上から膝を握り、その下で両足がゆらゆらと揺れていた。
初めは座っていることに疲れたのかと思って「少し外へ出ますか?」と声を掛けたけれど、大丈夫ですと断られてしまった。
余計な気遣いだったかと思ったけれど、お嬢様は明らかに今までと様子を変えていた。俯いていたかと思うと窓の外へと突然目を向けて、そしてまた視線が落ちる。表情は曇り、不安がいっぱいに満たしていた。膝は常にゆらゆらと動いていて、柔らかなスカートが絶え間なく揺れていた。
もう一度声を掛けようかと思ったけれど、きっとお嬢様のことだから、心配を掛けてはいけないと素直には言ってくださらないだろう。何か出来ないかと思ったけれど、あまり声を掛けるのも疲れさせてしまうだろうと、何も言わないことにした。
ただその分、お嬢様が何かを求めたら、すぐに対応しようと身構える。飲み物でもお菓子でもお花でも、彼女が求めたら走って買ってこよう。何だったら、私が彼女を背負ってお屋敷まで帰っても良い。まあ、それは流石に距離があり過ぎるので、厳しいかもしれないけれど。
まだ馬車は動かない。お嬢様はそわそわと視線を彷徨わせていた。普通の子どもなら疲れたと文句を言ったり、我儘を言ったり、駄々を捏ねたりしていることを思えば、お嬢様は本当に大人しく、手の掛からない子だった。
けれど、それが今は逆に心配だ。どこか痛いとか、気分が悪いとか、そんなことまで堪えてしまうではないかと不安になる。
そろそろ飲み物くらいはどこかで調達してこようかと考えていた。レッスン中にお茶を頂いたとは聞いたけれど、それから時間が経っている。喉が渇いていなくても、少しは何か飲んだ方が良いだろう。
お嬢様に声を掛けようとして、初めて気付いた。自分の膝をぎゅうと握っていた小さな手が、私のスカートを握っていた。椅子の上で、控えめに端の方を掴まれていたので、いつからそうしていたのか全然気付かなかった。
彼女自身は窓の外を向いていた。何かを見ているというよりは、ぼんやりと空を眺めているように見える。体が少し強張っているようで、お行儀よく揃えられた膝は擦り合わせるように落ち着きなく動いている。
その様子に、ひとつ心当たりが浮かんだ。それと同時にお嬢様はこちらを見た。青い瞳は不安げに揺れていて、私のスカートを握る手に力が籠る。薄く色づいた唇が僅かに開いたけれど、息と一緒に言葉を飲み込んでしまう。
何を言おうとしたのか、そして何故言えなかったのか。私の想像が正しければ、その理由もわかった。
そっと顔を近づける。お嬢様はそのままの状態で、少し目を伏せた。
「失礼なことをお聞きします。……お手洗い、ですか?」
その瞬間、白い頬が頬紅を塗ったかのように赤くなった。柔らかな唇が震えたけれど、何かを言うことはなく、顔を伏せてしまう。そして、少し間を置いた後に律儀に小さく頷いて、ブロンドの髪が揺れた。
交差点には色々なお店が立ち並んでいる。見える範囲では服飾店や宝飾店で入りづらそうなお店ばかり。けれど、こんな状況なのだから仕方ない。
「お店でお借りしましょう」
私の言葉に、彼女は間髪を入れず首を振った。
「だ、大丈夫っ、大丈夫です……」
小さな声は震えていて、掠れていた。絞り出したのだろう、その言葉を言った後、深く顔を伏せてしまう。
礼儀正しく行儀が良い彼女のことだ、外でお手洗いを借りるのが恥ずかしいのだろうと想像が付いた。けれど、交差点の片付けはまだ続いていて、もう少し時間が掛かりそうだ。
無理にでも連れ出そうかと思ったけれど、流石にそれは良くないだろうか。でも、いつまでも我慢することは出来ない。
彼女の両足はさっきからスカートを揺らし続けていて、靴の爪先も落ち着くことなく動き続けている。じっとしていられない程、余裕が無いようだった。
「私からちゃんとお話しますから大丈夫ですよ」
「だ、大丈夫です、すみません……」
「……わかりました。では、辛くなったら言ってくださいね」
お嬢様は俯いたまま、何の返事もしなかった。ただ、私のスカートを握る手に一層力が籠った。
大丈夫だろうか。心配で胸の奥が焦れていく。
お嬢様は私のスカートを握りしめたまま、じっと俯いていた。その小さな体は僅かに震えている。爪先は時折、暇を持て余した子どものようにばたばたと落ち着きなく動く。
外の喧噪に掻き消されてはいたものの、隣にいる私にはお嬢様の呼吸がだんだん荒くなっていくのがよく分かった。
「ん、ぁ、んんっ……」
荒くなる呼吸を何とか落ち着けようとしているけれど、その呼吸は短く、浅くなっていく。それに合わせて、膝は更に大きく動いて、スカートを大きく揺らす。お嬢様の手が私のスカートを手繰り寄せて、皺が寄った。
ばたばたとお行儀の良い足が暴れる。椅子の上で、小さなお尻がもじもじと動く。短く苦しそうに繰り返される呼吸の音が聞こえる。吐息に乗って、微かな声が零れていた。
馬車が止まってからもう随分経つ。随分辛そうな様子に、流石にもう無理にでも連れ出そうかと思った時だった。
「ん、あっ、あぁっ……!」
我慢しきれない声がひと際大きく漏れ出る。それと同時に、俯いたままの体が大きくぶるりと震えた。そして、忙しなく動いていた膝がぴたりと止まる。
呼吸の音も止まり、ただぶるぶると震えるだけ。心配になって慌てて声を掛けようとしたけれど、それよりお嬢様が動く方が先だった。
片手は私のスカートを握りしめる。空いていた反対の手が弾かれたように動き、両膝の間に潜り込んだ。スカートの上からその奥をぎゅううっと押さえていて、柔らかな布地が両足の間に押し込まれて、くしゃりと皺だらけになった。
「お嬢様っ」
咄嗟に声を掛ける。お嬢様はぎゅうぎゅうとスカートの上から押さえながら、もじもじと椅子の上でお尻を揺する。俯いていた顔が持ち上がって、こちらを見上げた。青い目は涙をいっぱいに溜めていて、泣き出す寸前のようにぐにゃりと歪む。
「お、ねがいっ……!」
震えた声。
「トイレ、……お、しっこ、でちゃうっ……!」
考えるより先に体が動いていた。扉を押し開けて、彼女の膝裏に腕を入れると抱き上げて馬車から飛び出した。驚いた御者が近付いてきたけれど、適当に言ってその場から走りだした。
見えていたお店へと向かおうとしたけれど、向こう側へ渡る必要がある。荷物の散乱のせいか、道は多くの人でごった返している。
どうしようかと必死に考えながら、とにかく人気のない方へ走った。お嬢様は私に抱き着いたまま、ぶるりと体を震わせる。その手はぎゅうぎゅうとスカートの上から両足の間を押さえていた。
「あ、あっ、おしっこっ……!」
悲鳴にも似た声。はやく、はやくしないと。走りながら、辺りを見回す。人を避けていると、自然と住宅街の方へ入り込んでいた。
どこかの家の玄関を叩こうか。でも、もし留守だったら。お嬢様には本当に余裕がない。限界寸前で、それでも必死に我慢に我慢を重ねて、でももう本当の本当に限界で。
「あ、ぁっ……!」
引き絞るような声。腕の中で小さな体が大きく震える。息が切れながらも辺りを見回すと、立ち並ぶ家の一角がぽかんと口を開けていた。どうやら空き地の様だ。手入れもされておらず、腰の辺りまで背の高い雑草が疎らに生えている。
迷っている時間はなかった。そのまま空き地に駆け込み、お嬢様を下ろす。もうじっとしていることも出来ないようで、スカートの前を押さえたまま、前屈みになってばたばたと足踏みを繰り返していた。
「スズっ、おしっこっ……!」
お嬢様が不安そうに、縋るように私の名前を呼ぶ。
「失礼しますっ」
不躾だとはわかっていたけれど、そうするしかなかった。くしゃくしゃになったスカートの中に手を入れて、その中の下着に手を掛ける。お嬢様は涙をいっぱいに溜めて、こちらを見ていた。ぎゅうぎゅうと押さえて我慢を続ける小さな手をどけて、下着を一気に下ろした。
「あ、や、あっ、だめ、おしっこっ……!」
ぶじゅ、と水気のある音がして、足元に黒い染みが落ちる。前屈みになって、小さな手で押さえようとするお嬢様より先に、その足を掴んで後ろから抱き上げた。
後ろから抱えられて大きく足を広げた体勢は、幼子が用を足す時のもの。幾らお嬢様が子どもとは言え、その年齢は流石に過ぎているとはわかっていた。けれど、今はこれしか思いつかなかった。
彼女の下着は右足の足首にぶら下がっていた。スカートはお腹のあたりでぐしゃぐしゃになり、彼女の両足を、そしてその奥を隠すものは何もない。
「あ、あっ、や、あ、あっ……!」
夕暮れ時の赤い日差しが辺りを柔らかく照らしていた。白い足が橙色に染まる。そして、その間から、おしっこがじゅううと吹き出した。
水音が辺りに響く。お嬢様は嫌々と頭を振ったけれど、すぐに観念したかのように顔を伏せた。
両足の間から飛び出したおしっこは雫を撒き散らし、夕日を浴びてきらきらと輝いていた。まるでお嬢様のブロンドの様だ。
小さな体の小さなお腹を膨らませていたおしっこは、野太い水流となって、激しい水音を奏でてどんどんと噴き出していく。そして、びちゃびちゃと激しい音を立てながら、雑草の根元へ水溜まりを作っていた。
お嬢様は腰から上を捻って、私の胸元へ顔を寄せる。私の服をぎゅうと握り、力なく私の体に身を委ねる姿は年相応を通り越して、本当に幼子のようだ。
ぶらりと力なく垂れた白い足は時折ぴくりと跳ねる。その間からは、しゅうしゅうと音を立てておしっこが溢れ続けて止まらない。
抱えていた体が落ちてきたので、一度持ち上げなおす。その振動に、お嬢様がおずおずと顔を上げた。青い目は大粒の涙をぼろぼろと零していた。何かを言おうとしているのか、薄く色づいた唇が小さく開くけれど、漏れ出すのは嗚咽だけ。
「大丈夫ですよ。大丈夫、大丈夫」
両手は使えない。代わりに、出来るだけ落ち着いた声でそう伝えた。大丈夫、大丈夫。それが伝わったのか、お嬢様は再び私の胸元に顔を寄せた。
我慢強い子だと思った。この小さな体でどれだけ我慢していたのか。もっと早くに言うことも出来ただろうに、それをじっと堪えていた。
単純に恥ずかしかったのか、それとも迷惑を掛けてはいけないと思ったのか。普段の大人びた手の掛からない良い子に隠れていた本来の彼女が少し見えた気がした。
水音は次第に小さくなっていき、きらきらと輝く水流は細くなっていく。ぴちゃぴちゃ、水滴が水溜まりを揺らす音がして、数度それを繰り返したのち、ブロンドの放物線は完全に消えた。
お嬢様がぐすぐすと鼻を啜るのが聞こえた。先程までは乾ききっていた土の地面に大きな水たまりが広がっている。夕日を受け、きらきらと輝いていて、バケツをひっくり返したかのようにとても大きい。雑草の葉には雫が飛び散り、まるでそこだけ雨が降った後のように潤っていた。
「立てますか?」
顔を伏せたまま、彼女はこくりと頷く。水溜まりから少し下がり、比較的雑草の少ない地面にお嬢様を下ろした。頬は赤く火照っていて、目は涙で濡れている。
「あっ、あのっ……」
「大丈夫ですよ。さあ、掴まってください」
ポケットからハンカチを取り出して、雫の伝う足に触れる。そのまま上へ向かって手を動かすと、お嬢様は身震いする。
「ちょっとだけ我慢してくださいね」
両足の間、それからお尻の方もおしっこが伝っていたので、ハンカチで拭う。彼女は時折身動ぎするものの、大人しくしてくれていた。
それから無理やり脱がせてしまった下着を履かせる為に、お嬢様の足に触れる。彼女は私の腕につかまり、片足ずつ持ち上げた。触れた時に、下着が濡れていることには気付いたけれど、敢えて言わなかった。
替えがあるわけでもない。かといって、スカートの下に何も履かないわけにもいかない。それはお嬢様自身が一番わかっていることで、それを敢えて私が口にして、余計に意識させることもない。
想像通り、お嬢様は濡れた下着に少し身震いしたけれど、何も言わなかった。少し草臥れてしまったスカートに触れて、皺を軽く伸ばす。そうしてしまえば、もう何の問題も無かった。
お嬢様の視線が動く。その先には、大きく広がった水溜まりがあった。泣きはらした目に、再び涙が浮かぶ。
彼女の視線を逸らす為に咄嗟に彼女の肩に触れた。お嬢様は、伏せていた目でこちらを見る。
「あ、の……申し訳、ありま、せっ……」
震えた言葉は途中から泣き声に変わる。ぼろぼろと零れる大粒の涙を押さえようとと白い小さな手が青い目を擦る。そんなに擦ったら痛くなると、その手に触れて止めた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
お嬢様はしゃくり上げて泣き出してしまう。そんな彼女の正面から腕を回して、お尻と背中を抱えるように抱き上げた。幼子を抱くように胸にぎゅうと押し付ければ、お嬢様は縋るように私に手を回した。
「良い子良い子。馬車へ戻りましょうか。……お手洗い、大丈夫ですか?」
彼女は顔を埋めたまま、小さく頷く。抱き上げたまま、今度はゆっくりと歩いていく。その間、お嬢様は暴れることもなく、時折嗚咽を漏らしながら、ただ私の腕の中でじっとしていた。
馬車へ戻ると、御者が慌てて駆け寄ってきた。飛び出していった時の私の不躾な物言いと、今、腕の中でぐったりするお嬢様を見て、何かやってしまったかと謝罪を繰り返す姿に、慌ててそれを否定した。
こちらこそ謝罪すると共に、お嬢様の体調が優れないようで慌てていたと伝える。御者はほっと胸をなでおろしながら、近所の医者を紹介してくれた。
馬車の中に戻り、お嬢様をそっと下ろす。青い目は赤くなり、頬も赤く火照っていたけれど、幾分落ち着いたようで涙は止まっていた。私も隣に座ると、そっと腕に寄りかかる重みを感じた。
先程まではひとりで大人しく座っていたお嬢様が、今は私の腕に寄りかかり、小さな手が甘えるように私の腕に触れていた。腕を伸ばして小さな肩に触れると、お嬢様は完全にこちらに寄りかかった。
やがて、交差点の片づけが終わり、馬車が再び走り出した。お屋敷に着くまで、特別な会話はなかった。それでも、今はそれがとても心地よく感じた。
屋敷が見えてくると、お嬢様は私からそっと離れた。背筋を伸ばし、膝を揃えて、椅子へ座りなおす。その頃には泣きはらした目も落ち着いていて、普段の彼女の姿に戻っていた。
馬車を降り、お嬢様の荷物を下ろす。先に戻ったお嬢様を追いかけて屋敷へ入ると、メイドがお嬢様を取り囲んでいた。交差点の事故の件は屋敷にも伝わっていたようで、お嬢様が事故に巻き込まれていないか、どこかで立ち往生していないかと心配していたらしい。
無事のお戻りに喜ぶメイド達に、お嬢様はいつものように柔和な笑みを浮かべて、心配してくれたことへのお礼を口にする。疲れているはずなのに、それを笑顔で隠す姿は立派としか言いようがない。けれど、疲れたのなら疲れたと言って良いのに。腕の中で泣きじゃくるお嬢様の姿が浮かんだ。
お嬢様は私が荷物を持ってきたことに気付くと、鞄を受け取ろうと手を出した。
「お疲れでしょうから、お部屋までお運びいたします」
「そんな、申し訳ないです。大丈夫ですから」
「いえいえ。いつもよりお戻りも遅くなっていますし、私にお任せください」
「わかりました。ありがとうございます、スズ」
お嬢様の少し後ろを歩いて、一緒に彼女の部屋へ向かう。廊下ですれ違うメイドや世話役、執事達にも、お嬢様は律義に頭を下げて挨拶を欠かさなかった。
部屋に入り、空いている机に彼女の鞄を置くと、お嬢様は私にも頭を下げてお礼を言った。
「ありがとうございました。お手を煩わせて申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらないでください」
お嬢様が疲れているのはよくわかっていた。だから早く部屋を出ていくべきだと思ったけれど、これだけは伝えておこうと、お嬢様に向き直る。
「イトミナ様。私に出来ることがあれば、いつでも言ってくださいね」
お嬢様はじっとこちらを見ていた。
「誰にも言えないことがあったら、いつでもスズをお呼びください。どんな些細なことでも構いません。私は誰にも何も言いません。すべて、私とお嬢様の間の秘密にします」
彼女は顔を伏せると、小さく頷いた。
「まあ、私の単なるお節介です。気を悪くされたら、申し訳ありません」
今度は首を横に振る。そして、小さな手が伸びてきて、私のスカートを握った。
「……ありがとう、ございます」
小さな声。けれど、その声は柔らかくて、少し震えていた。縋るように頼るように私のスカートへ皺を作るその手が、とても大切に見えた。
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初出: 2022年12月11日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2022年12月11日