ブラックハンドにさようなら!

 ぼんやりと明るくなっていく。広がる喧噪を聞きながら、体が硬く強張っていることに気付いた。いつの間にか手は椅子の肘置きを強く握っていて、全身に余すことなく力が入っていた。
 やっと終わった。最初に思ったことだ。強張った手を動かして、肘置きから指を離していく。そのまま脱力して、椅子に深く座り込んだ。溜息が自然と漏れた。

 放心状態の俺に、隣からひょいと覗き込む影が落ちた。
「大丈夫ですか?」
 大丈夫と返事をしたけれど、その声は掠れていて自分でも驚いた。上映中、声を出した覚えはない。むしろ喉の奥が何かに塞がれたように詰まっていて、何の声も出せなかった。人間、心底恐怖すると悲鳴を上げられないのだと初めて知った。

「どこかで休憩しましょうか。荷物持ちますよ」
 彼女は苦笑いを零すと、肘置きに手を伸ばして空のカップを取る。俺の分も重ねて片手で持ち、反対の手には自分の鞄。そうして両手が塞がっているのに、俺の鞄まで持とうとしたので、慌ててその手を留めた。
 自分で鞄を持ち、重い腰を上げる。歩くことに問題は無かったけれど、激しい運動の後のように全身ずっしりと重くなっていた。

 +++

 喫茶店には俺達と同じように映画終わりの客が多いようで、皆、作品は違えどグッズやパンフレットを手にしていた。
 タイミングが良かったようで、待つこともなくすんなりと奥の座席に通された。先程とは違う固い椅子に座って、コーヒーを注文する。店員が去っていくのを見て、自然と息が漏れた。
「大丈夫ですか?」
 二度目の問いに、大丈夫だと同じ返事を返す。今度は声は掠れていなかったが、言葉が意味を持っていないことはわかった。

「無理しなくて良いですよ?」
「無理してない。大丈夫」
 そう言ってみたけれど強がり以外の何でもなく、言葉が上滑りしていたのは言うまでもない。彼女はそれを見透かすようにじーっとこちらを見ていた。
「大丈夫。……面白かったよ。もう一回見ても良いくらい」
 駄目押しにもう一度言ってみる。その言葉に本心は欠片もなかった。ただ、見栄を張りたかった。とは言っても、彼女の前ではそんなことは無意味だとはわかっていたが。

「じゃあ、この後二回目行きましょうか。夕食にはまだ早いですし、もう一回見たら良い時間になりそうですよ」
 彼女はにまにました笑いを浮かべて、そんなことを言った。
「あ、お金は私が出すのでお気になさらず」
 情け容赦がなさ過ぎて、流石にそれはひどくないかと言いたくなる。何と言い返そうかと考えている俺を、彼女はただただ楽しそうな様子で見ていた。

 結局、言い返せる言葉は思いつかなかった。
「お金は俺が出す。から」
「から?」
「……二回目はひとりで見に行ってくれ」
 降参の言葉に、彼女は声を漏らして笑った。

「覚悟していたつもりだったけど、それ以上に怖かった」
「初めからそう言ってくれたら良かったんですよ」
 そうは言っても俺が年上なのだから、少しくらいは格好つけたくなるだろう。そう思いながらも、既に醜態を見せてる以上、見栄を張るのはそもそも無理だったと今更気付いた。
 彼女は俺の言葉に目を細める。そのタイミングで店員が近づいてきて、テーブルに湯気の立ち上がるカップを二つ置いた。
 お互いに会話を止めて、飲み物に口を付ける。温かく苦いコーヒーに、やっと地に足が付いたような気がして、ほっと熱い息が漏れた。

 今までホラー映画を見たことはなかった。怖いのが苦手というよりは、そもそも映画自体に興味がなかったという理由の方が強い。
 そんな中、付き合いだした彼女はホラー映画が三度の飯より好きだという変わり者だった。そんなに好きなら一度くらいは付き合ってみても良いだろうと、今日は軽い気持ちでついてきた。それが間違いだった。
 怖いだろうとは考えていた。ただ、そうは言っても所詮は作り物だと油断していたところはある。
 だからと言って、ここまで怖いとは思わなかった。想像していた3倍は怖かった。

「スクリーンだと迫力も増しますからね。それもあったかも」
「そう、それ。そのせい。テレビで見たら大丈夫だったかもしれない」
 彼女のフォローに乗っかる。でも、本当にそうかもしれない。映画館では大画面で大音量、テレビよりも怖く感じるに違いない。今日、彼女がやや呆れる程に怖がってしまったのはそのせいだ。

「じゃあ、今度うちでDVD見ます? いっぱい持ってますし、先輩の好みに合わせますよ」
「それ、大半ホラーじゃないのか」
「そうですよ? 先輩が大丈夫な範囲のホラーを探しますので、希望を言ってもらえたら」
 さっきのフォローから一転、また彼女は揶揄いモードになっている。コーヒーで落ち着きも取り戻したので、その揶揄いに乗っかろうかと思ったけれど、彼女に任せ過ぎるととんでもなく怖いものを選ばれる可能性がある。そんなことになったら、今日以上の醜態を見せてしまうことは想像がついた。
「じゃあ、今日見たのより、マイルドなやつ」
「……それはなかなか難しい」
 そう言って彼女は目を逸らす。そこには揶揄いの様子はなく、本気の色が滲んでいた。正直、そんな無茶な希望を言ったつもりはなかったので、その反応には驚いた。

「ちなみに、今日の映画はどれくらいの怖さ? 5段階でマックスが5だとしたら」
「……1.5?」
「嘘だろ」
 思わず声が出た。彼女は俺の反応に苦笑いを浮かべる。
「前作はもうちょっと怖かったんですよ。今回は監督さんが変わって、かなりマイルドになったなあって印象です」
「あれでマイルドなら前作はどれだけ怖かったんだよ」
「5段階なら3くらい? ホラーの王道って感じでした。それを想定していたので、今回は怖さに関してはちょっと拍子抜けというか。お話は面白かったんですけど」
「嘘だろ」
 二度目の言葉に、彼女は苦笑いを深くする。
 正直、ストーリーなんてほとんど頭に残っていない。ただただ体を強張らせて、早く終わってくれと祈りながら、それでも容赦なく進んでいく映画に振り回されるだけだった。
 未だに幾つものシーンが頭に張り付いて離れない。それなのに、これ以上怖いものが存在するなんて信じられなかった。

「これなら子どもでも見れるんじゃないかなーと正直思いました」
「……これ以上傷口に塩を塗るのは止めてくれ」
「あはは、ごめんなさい。先輩がそこまでホラー苦手だとは知りませんでした」
 俺もここまで苦手だとは知らなかった。テレビのホラー特集みたいなものを見た時はそこまで怖いとは思わなかったし、お化け屋敷なんかも驚きはするものの怖さはそこまで感じなかった。
 だから、ホラー映画も似たようなものだろうと思っていたのに、まさかここまで駄目だとは。自分でも信じられないけれど、出来るなら二度と見たくはないと思った。心臓に悪すぎる。
「……他の映画なら付き合うから、悪いけどホラーはひとりで楽しんでくれ」
「了解です。次はアクション映画とか見に行きましょうね」

 コーヒーを飲み干して、一言断ってからトイレに立つ。小さな喫茶店なのでトイレも一か所だけだったが、丁度開いていたので待つ頃なく入ることが出来た。
 鍵も閉めてから、洋式便器に向かってズボンを寛げる。ふうと息を吐くと同時に排泄が始まって、しょろしょろと水音が狭い個室内に響く。
 軽くなっていく下腹部と、小気味良い水音をぼーっと聞いていると、不意に記憶が蘇った。

 +++

 個室内、ひとりの男が用を足している。正面の小窓の向こうは真っ暗で、しんと静まり返っていた。
 男の奏でる水音が止まると同時に、コンコンと軽いノックの音が響いた。男はズボンを正しながら、背後の扉へと手を伸ばそうとして、その動きを止める。
 ノックされる事がおかしいのだ。今、その家にいるのは男一人のはずなのだから。

 ノックは繰り返される。男は扉を見つめたまま固まっている。伸ばしかけた手が宙で固まっていた。
 数度の後、ノックの音は止まった。男はしばし怪訝そうな顔で扉を見つめていたが、首を傾げながら手を伸ばす。指先が扉のノブに触れたその瞬間、勢いよく扉が開いた。

 真っ黒な手が勢いよく伸びてくる。一本や二本じゃない、無数の手。薄暗い中でも更に暗い、真っ黒な手。
 男は驚きと恐怖に引きつった表情を浮かべて、咄嗟に逃げようと身を引く。けれど狭い個室に逃げ場所などない。黒い手は男の腕を掴み、足を掴み、胴を、首を、頭を掴む。
 男の悲鳴が響く。けれど口も塞がれ、その声はくぐもって、やがては消えていく。男は全身を黒い手に包まれた状態で個室から引きずり出される。そして、辺りは静寂に包まれた。

 個室内にも、外の廊下にも人の姿はない。それどころか家中のどこからも人の気配は全くしない。男はこの世から完全に姿を消してしまったかのようだった。

 +++

 個室に男がひとり、真後ろにはドア。映画と同じだと考えた瞬間、ぞわぞわと背中に嫌なものが伝う。でも映画だと真夜中で、場所も自宅だった。流石に全く同じではないから、大丈夫なはずだ。そうやって必死に気を紛らわせる。
 水音が止まり、下腹部の重さも消える。ズボンの前を整えながら、さあ手を洗おうとした瞬間、コンコンと背後からノックの音が聞こえた。何でもないその音に、飛び上がりそうなほどに驚いてしまった。
 全身が強張る。かくかくと恥ずかしくなるほどに強張った動きで後ろを振り向くと、再び扉がノックされた。先程の映画のワンシーンが一気に頭の中を満たす。

 嘘だろ。口の中でそう呟いて何とか振り向く。ぴたりと閉じた扉。そのノブに手を伸ばそうとして、手が震えていることに気付いた。
 何を考えてるんだ。あれは映画、作り物だ。現実に起こったことじゃない。恐怖を押さえつけながら、震える手をぎゅっと握りこんでノックを返す。そのまま少し待ったけれど、扉は何の変化も無かった。
 扉横の水道を捻って手を洗う間も、視線は扉に釘付けだった。今にも勢いよく開くんじゃないか、あの黒い手が無数に伸びてくるんじゃないかと気が気ではなかったけれど、扉はぴたりと閉じたまま何の変化もなかった。
 当たり前だ。あれは作り物なんだから。わかりきっているはずの事を頭の中で何度も何度も繰り返して、恐怖から必死に気を反らしていた。

 手を拭い、一度深呼吸をしてから、思い切って扉を開けた。喫茶店の喧噪が耳に飛び込んできて、少し離れた位置に小柄な女性が立っているのが見えた。
 ほら、何もなかった。あんなのは作り物で、映画の中だけだ。そんな風に虚勢を張りながらも、さっきまで心底怖がっていた自分が内心恥ずかしくなる。俺が離れると同時に女性が個室へ入っていく。黒い手なんてどこにも見当たらなかった。
 テーブルに戻ると、ミルクティーを傾けていた彼女は俺に気付いて柔らかい笑みを浮かべた。

 +++

 夕食を終えて、彼女を送り届けてから自宅へ帰る。玄関を開けて廊下の明かりをつけたはずが、室内は薄暗いままだった。そういえば出掛ける前に照明がちかちかしていた気はするけれど、どうやら完全に切れてしまったようだ。
 新しいものに変えようにも予備もない。明日買いに行かないとな、と思いながら素通りするしかなかった。

 着替えて一息付いていると、いつの間にか時間は日付を変わる頃になっていた。
 そろそろ寝るかと思ったところで、まだ風呂に入っていないことに気が付いた。せめてシャワーだけでも浴びようかと思ったけれど、ふと昼間見た映画が脳裏を過る。
 明日の朝にしよう。今日は汗をかいた訳でもないから、一日くらい大丈夫だろう。別に怖いわけじゃないと誰かに言い訳したかったけれど、正直心底恐怖していた。思い出さないようにすると余計に思い出しそうになって、慌てて違うことを考える。
 今日夕食に行ったお店はなかなか美味しかった。雰囲気も良くて、お酒も多少交えて彼女とのんびりと話が出来たのはとても良かった。また行っても良いかもしれない。

 そんなことを考えながら、ベッドに向かう。枕元の充電器にスマホを繋いで、布団に潜り込む。リモコンで部屋の明かりを消すと、当たり前だが真っ暗になった。遮光カーテンのおかげで外の明かりも全く入らない。
 真っ暗な部屋で眠るのはいつものことなのに、今日はやけに怖く感じる。ぞわぞわと背中に何かを感じて、今日は常夜灯をつけておくことにした。

 目を閉じると、しんと静かで何の物音も聞こえない。はやく寝てしまおうと思うのに、こんな日に限って全然眠くならない。映画の後、あちこち歩いたので疲れているはずだし、夕食も多めに食べた。なんなら少しお酒も飲んだので、眠るには好条件のはずなのに、おかしな程に目が冴えていた。
 頭に浮かぶのは、昼間見た映画のこと。たかが作り物だ、実際にあるはずはない。そうやって何度も否定しているのに、脳裏に焼き付いたものが勝手に再生されていく。無数の黒い手が背後から一気に押し寄せる光景に、身の毛がよだつ。
 目を閉じたまま、寝返りを打つ。シーツの擦れる音が耳についた。

 そうして眠れずに寝返りを繰り返して、どれくらい時間が経ったか。枕元のスマホを手繰り寄せて確認すると、日付が変わって一時間半程経っていた。
 もう諦めて起きていようかと考え始めた頃、嫌なことに気付いた。
 一つ目は、もうすぐ夜中の二時を回るという事。つまりは丑三つ時。怖いと思っていると余計なことばかりに気付いてしまう。
 そして、もう一つ。少し前から薄々感じていたけれど、出来るだけ考えないようにしていた。でも、時間と共にどんどん強くなっていって、いつの間にか無視できないものになっていた。

 トイレに行きたい。そういえば寝る前に行かなかった。なんだったら、帰ってきてから一度も行っていない。夕食後には流石に、とその時のことを思い出そうとしてみても、その記憶には行き当たらず、さっと血の気が引く。
 嘘だろ。夕食の時は少しだけどお酒も飲んだ。酔いすぎないようにソフトドリンクも飲んだ。彼女を送り届けてから、自販機でお茶も買って飲んだ。そんな記憶は鮮明に思い出せてしまって、そのせいで下腹部に水分が溜まっているのをありありと想像してしまった。

 寝返りを打つ。下腹部が重い。動くのに合わせて、たぷんと水分の大きな塊が揺れている気がする。ぞわぞわと何とも言い難い感覚が背筋に走って、体が震える。目を閉じている分、自分の内側への感覚が研ぎ澄まされている。
 トイレに行こうか。薄目を開けると、常夜灯に照らされた薄暗い自室が目に入る。体を起こそうとして、脳裏に嫌な光景が蘇る。
 映画のあのシーン。自宅のトイレにひとりいる男。男は狭いアパートに一人暮らしだった。俺と同じじゃないかと考えたのを思い出してしまう。部屋の大きさこそ違えども、薄暗い廊下を通って玄関近くのトイレに向かうのは全く同じだった。
 今更ながら、廊下の電球が切れていることを後悔した。予備を買っておくべきだった。そう思っても今更何も出来ることはない。

 どうしようかと考えながら、ベッドの中でもぞもぞと身を捩る。時間が経つにつれ、尿意はどんどん強くなって、焦りが増していく。
 ぞくぞくと嫌な悪寒が腰に纏わりつく。両足を擦り合わせて、出来るだけ意識を逸らそうとするけれど、それ以上に尿意は強い。
 トイレに行きたい、けど。トイレのことを考えると、思い出したくもないのに映画のあのシーンが浮かんでしまう。あんなこと起こるわけがない、作り物だからこその怖さだと分かってはいる。頭ではわかるけれど、体が震えて力が入ってしまう。

 明るくなるまで我慢できるか。時間は午前二時を回っていた。丑三つ時だと余計なことまで考えてしまう。
 明るくなるまで短くても二時間、もしかしたら三時間は掛かるだろうか。そんなに我慢できる気がしないと考えながら、ぎゅうと両足に力が籠る。両足を寄せて、自然と手を間に挟み込む。指先が何と無しにズボンの中央に触れる。

 そのまま少しの間、寝返りを繰り返していたけれど、それで尿意が治まる訳がない。時間が経つと共に湧水が込み上げるようにこんこんと増していく。下腹部は大きく膨らんでいて、寝返りを打つたびにずっしりとした重さを感じる。
 大きく膨らんだ膀胱は時折中身を出そうとして、きゅうきゅうと収縮する。それに合わせて、全身に大きな波が走り抜ける。ぞくぞくした感覚を逃がそうと息を吐き出すけれど、そんな程度で収まるはずもない。

 トイレ、行きたい。ぞわぞわした感覚に、両足が忙しなく揺れる。指先は自然とズボンの上から先端に触れていて、ぎゅうぎゅうと揉むように刺激していた。
 頭の中はトイレのことでいっぱいだ。けれどそれに紐づいて、嫌な記憶も蘇ってくる。そんなことないとわかっているはずなのに、今日あの大きなスクリーンで見た光景が脳裏に焼き付いていて離れない。
 電球の切れてしまった暗い廊下には、あの黒い無数の手が潜んでいるのではないか。俺がトイレに入るのを見計らって、そいつらは姿を表すんじゃないか。排泄という一番気が緩む瞬間を見計らって、あの映画と同じように暗闇へ引きずり込むんじゃないかと考えてしまう。
 映画なんて作り物だ。何度も何度もそう考えてわかっているのに、自室の暗い廊下が、行き慣れているはずのトイレが今は怖くて仕方ない。

 そんなことを何度も何度も考える。何を考えたところで、体の内側で暴れている欲求から解放されるには、勇気を出してトイレに行くしかないということは変わらない。
 ベッドの上で起き上がると、下腹部の膀胱がずっしりと大きく重くなっているのがよくわかった。部屋は常夜灯に照らされているとは言え、薄暗くて不気味だ。リモコンに手を伸ばして照明を付けると途端に眩しく照らされて、目を細めた。

 向こうに見える廊下は当たり前だが真っ暗だ。照明が切れてしまったので、この部屋から差し込む明かりを頼りに行くしかない。大して広い家ではないとは言え、玄関近くにあるトイレの前あたりは決して明るくはならないだろう。
 ごくりと唾を飲み、立ち上がる。スマホに手を伸ばし、時間を何となく確認すると、まだ午前2時15分程。余計なことを考えそうになるのを、必死に違う事へ考えを向ける。

 スマホを握って立ち上がろうとしたけれど、それ以上体が動かない。大丈夫だと自分に言い聞かせても、それを塗りつぶす様に映画のあの光景が頭を満たしていく。
 ああ、もう、トイレに行きたい、けど、怖い! 良い歳して情けないとは思うけれど、怖いものは怖いのだから仕方ない。
 強がってホラー映画なんてみたことを心底後悔していた。もう二度と見ない。そう思うけど、既に見たことがそれで取り消されるわけではない。

 彼女はどうしているだろうか、とスマホを見てふと思った。ホラー映画に慣れている彼女はこんな風に怯えずにすんなり寝ているのだろうか。
 夜は比較的遅くまで起きているとは言っていた。だからと言って今の時間は流石に非常識だとはわかっている。けれど、一度頭に浮かんでしまうとそればかり考えてしまって、視線が暗い廊下と手元のスマホを行ったり来たりしていた。

 少しだけでも話せたら落ち着かないだろうか。何を怖がっているんだと笑ってもらえたら、気が楽になる気がする。布団の上でもじもじと身を揺すりながら、時刻の表示されたスマホの画面をただ見つめる。
 迷惑な時間帯だ。そんなことはわかっている。いきなり電話は流石に良くない。メッセージを送って、返事があれば起きているということだから、その時は少しだけ話させてもらう、とか。
 都合の良いことを考えながら、体を揺するのは止められない。下腹部は痛いほどに膨らんでいて、じっとしていられなかった。
 トイレ、早く行きたい。この欲求に任せて思い切って廊下へ出ようとしたけれど、余計なことを考えてしまって足が竦んでしまう。情けないけれど、心の底まで怖さを感じてしまって、自分でもどうしようもなかった。

 送ってみよう、か。寝ていたら、メッセージくらいじゃ起きないだろうから。そんな風に自分に都合の良いことを考えながら、手をスマホに伸ばす。片手はズボンの前に添えたまま、その奥でひくひく疼く出口をゆるゆると刺激する。そうでもしていないと、疼く尿意に耐えられそうに無かった。
 メッセージアプリを開いて、一番上の彼女のところを開く。
『まだ起きてる?』
 そんな端的なメッセージを打ち込んで、送信ボタンの上で手が止まる。本当に送って良いのか。暫し悩んだけれど、その間も体を揺するのは止められない。明かりのつかない暗い廊下を横目に見てから、やっぱり無理だと思って、思い切って送信ボタンを押した。

 本当に送ってしまったと、鼓動が早くなる。怖くて眠れないから深夜に連絡するとか情けない。実際は眠れないどころか、ひとりでトイレに行けなくて、スマホ片手にズボンの前を押さえて布団の上でもじもじ揺れているなんて情けなさすぎる。
 画面のメッセージに既読の文字はまだ付かない。やっぱりこの時間なら寝ているのが普通だろう。それなら、このメッセージで起こしてしまわなくて良かったと、既読が付かないことに安心しながらも、それならば今の状況をどうしようかと考えないといけない。

 思い切ってトイレに飛び込んでしまいたい。心の底からそう思うのに、あの暗い廊下には無数の黒い手が潜んでいるのだと想像してしまって、足が竦む。
 このまま夜を明かすなんて絶対無理だ。体を揺すりながら、前を押さえる手は離せない。

 部屋を見回して、隅に置かれたゴミ箱に目が向いた。缶・瓶用の大きめのゴミ箱の中に入っているのはほとんどがお茶のペットボトルだ。昨日ゴミを出したところとは言え、ひとつくらいは入っていると思う。
 最悪、そこに、してしまおうか。そんなことを思いついてしまう。明日、明るくなったらトイレに流せば。
 初めは軽い気持ちだったのに、真面目に考え始めてしまう。尿意は段々と限界に近付いていて、落ち着きがなくなっていく。
 片手で押さえたまま、腰を上げる。子供のようにズボンの前を押さえたみっともない格好で、反対の手をゴミ箱に向かって伸ばしていく。

 その瞬間、聞きなれた音楽が突然鳴り響いて、飛び上がりそうなほどに驚いた。喉の奥で声が詰まって悲鳴こそ出なかったものの、体は見てわかるほどに大きく跳ねた。じゅわ、と熱い雫が先端から飛び出して、下着が熱く濡れる。咄嗟に、触れている手で強くそこを摘まんだ。
 ばくばくと心臓が大きく暴れている。自分のすぐ横、ベッドの上に置かれたスマホが鮮やかに点灯して、聞きなれた音楽を流していた。夜の静寂の中では普段の着信音も大音量に聞こえて、心臓が飛び出しそうなほどに驚いた。

 激しい鼓動を落ち着かせながら、伸ばしていた手を戻してスマホを拾う。画面に表示されていたのは彼女の名前。メッセージではなく、電話の着信を知らせる画面だった。
 驚きの余韻で震える手を落ち着かせながら画面を操作して、端末を耳に寄せる。
「もしもし」
 思ったより上擦った声になった。動揺は相手にも伝わっていたようで、小さく笑う声が聞こえた。
『もしもし、こんばんはです』
「起きてたのか?」
『はい、お風呂入ってました。先輩もも起きてたんですね。夜更かし珍しい』
「なんというか、まあ、寝付けなくて」
『あー、ありますよね、そういう時』
 理由は言わなかった。彼女も聞かなかった。けれど、返事の声は明らかに笑いを含んでいて、全部お見通しなんだろうことは想像できた。

「眠れないときっていつも何してる?」
『そうですねー。本読んだり、ゲームしたり、あとはDVD見たりとか。ぼーっとしてると大体寝ちゃいますけどね』
「DVDってホラー?」
『そうですね。暗い部屋でぼんやり見てると、大体最後のシーン辺りでうとうとし始めちゃいます』
「それで目が覚めないのが俺には信じられない」
『何回も見てるものが多いですからね。展開もストーリーも覚えちゃってますし』
 俺なら絶対にありえない。そんなこと、傷口に塩を塗りこんでいるのと同じだ。今の状況で更にホラー映画なんて見たら、心臓が破裂してしまいそうだ。

 彼女の声を聞いていると、少しずつ気持ちは落ち着いていった。思い切って連絡してよかったなと思いながらも、今度は違うことで頭の中が満たされていく。
 スマホを片手に穏やかな会話をしながら、体はじっとしていられず静かに揺れていた。反対の手はズボンの前を絶えずぎゅうぎゅうと押さえて、溢れ出しそうなおしっこを必死に押し留めている。
 普通の会話を何食わぬ顔でしながらも、内心とても焦っていた。トイレ、行きたい。トイレトイレトイレ。ずっと前から感じていた尿意はもう破裂しそうなほどに大きい。彼女からの電話が無ければ、迷わずゴミ箱からペットボトルを取り出して用を足していたと思う。もう落ち着いていられない程に切羽詰まっていた。

 他愛もない会話の内容はほとんど頭に入っていなかった。トイレ、とにかくトイレ。頭の中はそればかり。
 こんな遅い時間に心配してわざわざ電話をしてきてくれたのに、今はどうやって切り上げるかとさえ考えてしまう。電話を切ったらその瞬間にトイレに駆け込みたい。もう一秒でも早く出したい。

『あー、先輩、その』
 突然彼女の歯切れが悪くなる。もしかして、電話越しでも必死にトイレを我慢していることを勘付かれたのかと内心焦ったけれど、そうではなかった。
『今日はごめんなさい。映画、付き合わせて』
 突然の謝罪に、つい面食らった。
「俺が付き合うって言ったんだから、マヤが謝ることじゃないだろ」
『でも、そこまで苦手だとは思わなかったので。反省中です』

 俺としては彼女の趣味に付き合いたかった一心だった。それが彼女に罪悪感を持たせてしまったとなると、こちらかそ申し訳無さを感じる。せめて自分ひとりで一度見てから判断すべきだったかもしれない。
『まさか、夜も眠れなくなる程に駄目だとは思わなかったんです』
「……あんまり言わないでくれ。情けなくなる」
『あはは。もう見ることないと思いますけど、今度ホラーを見ちゃったときはお泊りしましょうか。一緒に寝てあげますよ』
「そこまで子どもじゃない。……けど、泊まりは歓迎」
『添い寝ですからね?』
「好意に下心で返すほど悪い男のつもりはない」
『あはは、それはごめんなさい』
 彼女の揶揄いの中に気遣いを見つけて、ふっと心が緩んだ。

『今日もお泊りしたら良かったかもですね。傍にいたら怖いのが少しはマシだろうし、夜中のトイレが怖かったら付いていってあげられますし』
 その言葉に声こそ出なかったものの、あからさまに動揺した。
 電話の向こう側の相手が怖くてトイレに行けずにひたすら我慢し続けているなんて、彼女は想像できているんだろうか。しかも子どもみたいにズボンの前をぎゅうぎゅう押さえながら、今にも漏れそうな尿意に必死に抗っているなんて。

 体の中で大きな波が暴れまわる。内側から塊となって押し寄せる尿意に全身に力を込めて抗うけれど、それはゆっくりと確実に追い詰めてくる。あ、あ、あ、やばい、待って、あ、あっ……! じわじわと熱いものが先端に向かって満たされていく。じゅわ、と熱い雫が溢れて、下着を濡らす。
 あ、あ、あ、だめ、だめ、漏れるっ……! 前屈みになって、ぎゅうぎゅうとズボンの前を揉みしだく。それでも尿意の波は全然落ち着かず、咄嗟に手をズボンの中に突っ込んだ。
 下着越しに出口をぎゅうぎゅうと押さえて、荒れ狂う波に必死に抗う。指先に触れた布地は生温かく湿っていた。
 もう、ほんとに限界だ。でる、もれる、おしっこ、おしっこほんとにやばい。電話を耳に当てたまま、反対の手が忙しなく動いて出口を塞ぐ。静かに呼吸を繰り返して、必死に我慢を続けるけれど、もう本当に限界だった。

『先輩?』
 あからさまに黙り込んでしまった俺に、彼女は疑問の声を投げかける。何か言おうとしたけれど、上手く言葉が出てこない。
『……もしかして、今、トイレ行きたい、とか?』
 少しの間の後、おずおずと言った調子の言葉に胸の内が跳ねた。誤魔化そうと思ったけれど、言葉に詰まって何も言えない。無言は何よりの返事になっていた。
『え、マジですか? 大丈夫ですか?』
「……大丈夫」
 じゃない、と続きを胸の内で付け足す。こんな状況でも見栄を張る余裕があったことに我ながら驚いた。

『ちなみに5段階だったら今どれくらいですか?』
「……4くらい」
『結構我慢してますね』
 ほんとは4.5くらい。いや、4.8か4.9か。心情的には5を超えてるけれど、まだ我慢出来ているから4のどこかのはず。もう本当に限界で、今すぐにでもトイレに駆け込みたいくらいだった。

 トイレ、もう本当に無理だ、出る、おしっこ、これ以上我慢できない。電話を耳に当てたまま、そろそろとベッドから腰を上げる。けれど真っ暗な廊下が目に付いた瞬間、足が竦む。
 怖がりすぎだろと自分でも思う。でも昼間の光景はもう脳に染みついてしまったかのようで、真っ暗な廊下を見た瞬間、ぶわっと広がって頭の中を埋め尽くしてしまう。
 ああ、どうしよう、おしっこおしっこおしっこっ……! 行きたいのに行けない。その場から動けず、ぎゅうぎゅうと必死に出口を押さえて、でももう限界で。真っすぐに立てずに前屈みになっていた。両足が静かに震えている。

「マヤ、あの、頼みがあるんだけど!」
『は、はい! なんでしょう?』
 思ったより強い口調になってしまう。それに謝らないといけないと思いながらも、今はそれどころじゃなかった。
「その、電話繋いだままにしてるから、しばらく何か喋っててくれないか」
『え、それって……』
 恥を忍んで、彼女に頼みごとをする。皆まで言わずとも、彼女はそれをわかってくれているように感じた。
「こっちはミュートにするから。だから、ちょっとの間、話しててくれ。何でも良いから」
 音を切ったところで、電話の向こうで何をしているかは丸わかりだとは思う。でも、出来る限りそれを隠すべきだと思うし、俺も隠したかった。

 しばしの沈黙。それはほんの僅かな時間だったはずだけれど、すごく長く感じた。噴き出してしまいそうなおしっこを手で必死に押し留めながら、両足はぺたぺたと足踏みを繰り返して、彼女の返事を待つ。全身が羞恥で熱かった。
『良いですよ。ただ、ミュートはしないでください』
「えっ」
『何の返事もなく話し続けるのって難しいです。だから、ミュートにしないで、電話は繋いだままにしててください』
「いや、それは流石にっ……! 色々聞こえるの、良くないだろっ!」
『私は気にしないですよ?』
「俺が気にするから!」
 まさかの展開に別の意味で語気が強くなる。でも彼女はあっけらかんとしていて、本当に気にしていないように感じられた。だからと言って、はいそうですかと切り替えられるほど図太くはない。
 でも、本当に尿意は限界だった。また、大きな波が走り抜けて、先端に熱い雫が上り詰める。じゅわ、と指先が熱く濡れる。あ、あ、あ、だめ、でる、でるでるでるでる、だめ、おしっこ、でる、でるっ……!

『ほら、早く行かないと間に合わなくなっちゃいますよ?』
「いや、だからって……!」
『じゃあ電話いったん切りましょうか。待ってますから、終わったら掛けてください』
 彼女の言葉は半分頭に入っていなかった。それどころじゃなかった。
 でる、でるでるでる、やばい、もうむり、ほんとに出る、漏れる、おしっこっ……! 荒れ狂う尿意に身震いする。ぎゅうぎゅう押さえているのに、波は全然落ち着かない。
 もう頭の中はぐちゃぐちゃでよくわからなくなっていた。とにかく、出したい。何でも良いからおしっこしたい。それだけは確かだった。

「……わ、かった」
『じゃあ一度電話切りますね。終わったら……』
「そう、じゃなくてっ……!」
 言いながらもうじっとしていられなかった。手の中がじゅわ、と熱く濡れる。手の平がじんわりと湿っている気がする。ひくひく疼く出口を無理やり塞いでいるけれど、堪え切れない雫がどんどん溢れてくる。

 あ、あ、あ、だめ、でるでるでるでる、でるっ、もれる、おしっこ、おしっこっ……! 前屈みで出口をぎゅうぎゅうと押さえたまま、そろそろと部屋の入口へ向かう。真っ暗な廊下が近付くにつれ、体が強張る。でも、それよりも今は尿意が強かった。
「電話、このままで良いから、ごめん、トイレっ……!」
 彼女の返事を聞くより先に、体が動く。真っ暗な廊下を速足に、でもあまり動くと一気に溢れ出しそうで、すり足で必死に前に進む。

 暗がりの中、奥に見える玄関の傍の扉まではすぐだけれど、こんな歩き方だとなかなか距離は縮まらない。
『わかりました。……そんなに我慢してたんですか?』
 返事をする余裕はなかった。余計なことを考えると黒い手を思い出してしまいそうで、ただ彼女の声に集中する。
 でる、でるでるでるでるっ、やばい、でる、でるっ……! 上手く息が出来なくて、は、は、と短い呼吸を繰り返す。ぎゅうぎゅうと揉むように出口を塞いで、荒れ狂う尿意を必死に堪える。

 何とか扉の前に辿り着く。肩で電話を挟んで、その手で扉を引き開ける。反対の手は一瞬も出口から離せなかった。離した瞬間、一気に溢れ出してしまう。ぎゅうぎゅう押さえながら、扉を開けた手で電気を付けて、中に飛び込む。
 見慣れた白い便器が明かりに照らされる。その瞬間、先端に熱い雫が一気に込み上げる。じゅうう、とくぐもった音がする。出口が、下着が、押さえた手が熱く濡れる。

「あ、あぁっ、ま、って……!」
 片手でズボンと下着の前をずらし、押さえていた手で無理やり性器を引っ張り出す。しょろ、しょろと細く熱い水流が手を濡らしてから、便器の中に着地する。
 ちょぽぽぽ、と軽い水音。ああ、と声が漏れる。それから、一気に熱いおしっこが吹き出した。

 じゅううう、と鋭い水音が響く。濡れた手で支えた性器の先からは太い水流が噴き出し、白い便器へ吸い込まれるように落ちていく。
 荒い呼吸を掻き消すほどの大きさで、激しい水音が夜の静けさの中に響き渡っている。それを聞きながら、張り詰めていた下腹部が楽になっていく感触に、熱いため息が漏れた。
 頭がぼーっとして、何も考えられない。ただ、我慢に我慢を重ねたおしっこは本当に気持ちよくて、ぽかんと口が開いた。ふうふうと呼吸を繰り返しながら、体が快感に満たされていく。性器を支える手が静かに震えていた。
 間に合った、おしっこ、やっと出来た。気持ちいい。吐き出した溜め息に、ああ、と声が混じる。それに返事をするかのように、耳元で声が聞こえた。

『……すごい我慢してたんですね』
 その声に、飛び上がりそうな程に驚いた。肩で挟んだスマホがずれそうになって、慌てて押さえなおす。
「……言うな」
『えー、喋ってくれって言われたから喋ってるのに』
 それにしたって話題があるだろうと思うけれど、今の状況でそれが言える訳もない。我慢しすぎた膀胱はまだ大きく膨らんだままで、まだまだ出そうな感じがある。それを証明するかのように、水音は鳴り続けている。
『もっと早く言ってくれたら良かったのに』
「……情けないだろ、怖くてトイレ行けないとか」
『でも、このまま我慢してたら漏らしちゃう勢いですよ』
 流石に漏らしはしなかったと思うけれど、こうして水音を響かせている状況ではそんなことは言えなかった。

『もしかして、怖くてトイレに行けないから電話くれたんですか?』
 頭が切れる子だとは知っていたけれど、こんなところで勘の良さを発揮しないで欲しかった。図星で何も言えなかったけれど、無言が何よりの答えになっていた。
『私が電話に出て良かったですね』
「……アリガトウございます」
『あはは。今日、本当にお泊りしても良かったですね。それならトイレついていってあげられましたし』
 年下の彼女に付き添ってもらってトイレに行くなんて、考えただけでも情けない。逆ならまだしも。

「廊下の電球が切れてたから行きづらかっただけで、明るかったら大丈夫だった、と思う」
 お腹が楽になっていくにつれ、少しだけ余裕が出来てきて、強がりを言うことも出来た。でも、変わらずじょろじょろと水音は響いていて、それはきっと彼女にも聞こえているはず。
『じゃあ、今度お泊りして、映画上映会しましょうか。今日見た映画の前作とかどうでしょう』
「……それ、かなり怖いんだろ」
『ホラーの王道と言われたらこれを想像するかなーって感じですよ。良いホラーです』
 俺にとってホラーは良いも悪いもない。ただ怖いだけ。それ以外の尺度はない。

『電球の予備は買っておくので。それなら夜トイレに行きたくなっても大丈夫ですよね』
 大丈夫だと言いたかったけれど、言えなかった。正直、廊下の明かりが付いても怖さに負けていたかもしれないと思う。
 あのシーンは頭に焼き付いていて、彼女の声に集中していないと、今にも背後から黒い手が忍び寄っているのではないかと想像してしまいそうだった。

「上映会しても良い、けど、絶対寝れなくなるから」
『はい』
「一緒に寝てくれて、あと、トイレ行きたくなったら、文句言わずについてきてくれるなら良いよ」
 暫しの沈黙。でも微かに笑い声が聞こえた気がした。

 やっとお腹は軽くなってきて、水音が軽くなる。そうすると今度は自分の手がぐっしょりと濡れていることや、下着が濡れて重くなっていることが気になった。
 後で着替えないといけない。ズボンは大丈夫だと思うけれど、もしかしたら染みてしまっているかもしれない。漏らしはしなかったけれど、ちびって着替えるなんて、情けなさすぎる。けど、漏らさなくて良かったと心底思った。

『良いですよ。添い寝しますし、トイレもついていってあげます。先輩がおしっこしている間、後ろからぎゅーってハグしてあげますね』
「引っ付く必要はないだろ」
『排泄中は無防備ですから、一番狙われやすい背中を私が物理的に守ってあげるんです』
 その光景を少し想像してしまって、心臓が跳ねた。良からぬことを考えてしまいそうになり、慌てて頭を切り替えた。

『ホラーは冗談ですけど、上映会はしましょうね。ホラー以外のDVDも持ってますから』
「ああ、そうだな」
 そうやって穏やかな会話をしていると気持ちも落ち着く。水音は軽くなり、ぴちゃぴちゃと数度鳴った後に止まる。お腹の中はやっと空っぽで、あれだけの勢いで流れ出した水流は完全に止まった。
 全身から力が抜ける。はあ、と思わずため息が漏れる。体が嘘のように軽かった。

『終わりました?』
「……あんまりデリカシーの無い事を聞くなよ」
『何を今さら。後ろからハグしたら聞くどころか見えちゃうんですよ?』
「見ないようにすれば良いだろ」
『そのつもりですけど、気になってこっそり見ちゃうかも』
 何を言っているんだ。突っ込みたかったけれど、すっきりした解放感でいっぱいだったので、言うのは止めておいた。

 水を流してから、下着とズボンを上げる。手を洗って、自分のズボンを確認すると前の部分がじんわりと濡れていた。
 振り向こうとして、体が竦む。黒い手が頭の中を満たす。そこにいるんじゃないかと考えてしまう。
「マヤ」
『はい、何でしょう』
「なんか、喋って」

 思い出してしまいそうなのを、彼女の声に集中して必死に気を逸らす。彼女が話題を探そうと戸惑っている声を聞きながら、思い切って振り向いた。
 慌てていたので扉を閉めていなかった。扉の向こうは薄暗い廊下で、当たり前だが黒い手なんて一つもない。
 速くなっていく鼓動を感じながら、そろそろと外へ出る。薄暗い廊下をそのまま速足に進んで、明るい部屋まで戻る頃には心臓がばくばくと大きく高鳴っていた。

『部屋まで戻りました?』
「ああ。……ありがとう。遅い時間に、色々迷惑かけた」
『いえいえ。着替え終わるまで何か話してましょうか?』
「いや、それはひとりで大丈夫……って、な、んで、それっ……!?」
 安堵に気が緩んでいたのが、一気に引き締まる。そんなことは一言も言ってないのに、何で知っているのか。声が出せずに口をぱくぱくさせていたが、驚いていたのは彼女も同じようだった。
『あ、れ? 冗談のつもりだったんですけど。本当に間に合わなかったんですか?』
「間に合ったっ! ちょっと濡れただけっ!」
 ああもう最悪だ。折角落ち着いたのに、今度は違う意味で心臓がばくばくと激しく高鳴っている。冷え切っていた体が熱を持つのが分かった。

 しばしの沈黙。電話の向こうからは何の声も聞こえなかったけれど、にまにまと可愛らしく笑っている様子が目に浮かんだ。
「その、今日は悪かった。あと、ありがとう」
『どういたしまして。こちらこそ、お昼間はありがとうございます。先輩はこりごりかもしれないですけど、私は一緒に映画見れて楽しかったです』
 それは良かった。無理をしたかいがあったかもしれない。二度目はごめんだけれど。
『じゃあ、そろそろ切りましょうか。眠れなさそうだったらまた電話ください』
「流石に大丈夫だと思う。遅くまでありがとう」
『はあい。じゃあ、おやすみなさい。……寝る前にもう一回トイレ行きます?』
「大丈夫だっ! おやすみっ!」
 そう言って、勢いで電話を切る。切る直前に彼女の笑い声が聞こえた気がした。

 少し画面を眺めたのち、スマホをベッドに置く。しんと辺りが静かになり、何の音も聞こえなくなる。自分の激しい鼓動と呼吸が耳についたけれど、それもすぐに落ち着いた。
 生理欲求から解放されると、気持ちはずいぶん落ち着いた。それと、どっと疲れが襲ってきて、はやくベッドに入りたい気持ちだった。その為には、まず着替えないと。クローゼットから適当なジャージのズボンと下着を取り出して、履き替える。
 洗濯機に入れようにも、その為にはまた暗い廊下を歩かないといけない。恐怖はずいぶん落ち着いていたけれど、もうそんな気力はない。気は進まないが、部屋の隅に置いておいた。明日洗えば良い。大丈夫だろう、多分。

 着替えを終えて、もぞもぞとベッドにもぐりこむ。明かりを常夜灯に切り替えて、目を閉じると、眠気がじんわりと込み上げてくる。これならすんなりと眠れそうだ。
 寝返りを打つ。ふわ、と欠伸が零れる。うつらうつらしながら、ふと彼女の顔が浮かんだ。電話越しとは言え、とんでもないところを聞かせてしまった。
 次、どんな顔して会えば良いのか。そんな不安が浮かんだけれど、きっと彼女は何も気にした様子もなく、いつものようにからっと笑って俺を呼ぶのだろう。彼女のそういうところには本当に救われる。
 ありがとう、と胸の中でもう一度呟いて、ぐっすりと眠りについた。

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初出: 2021年10月17日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年10月17日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
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