薔薇の儀式

 隣を歩く新入りメイドは少しだけ疲れを見せていた。すっかり日が暮れ、カーテンの向こう側は既に暗い。人工的な灯が照らす廊下を歩きながら、彼女は呟くように言った。
「私、このお屋敷に来て、本当に良かったです」
 その言葉につい笑みが浮かんだ。日が浅いうちは慣れないことも多く、大して難しくない業務であっても疲れるものだ。そんな中、彼女から好意的な言葉を聞けて、安心を覚えた。

 隣を見ると、彼女は人懐っこい笑みを浮かべて、更に言葉を重ねた。
「皆さん優しくて、仕事も親切に教えていただけて、すごく助かってます。住込のお部屋もとても立派で、お食事も美味しくて。本当に文句のつけようがありません」
「それは良かった」
「何よりお嬢様には驚きました。本当に良い子ですよね。とても礼儀正しくて、我が儘一つ言わず、習い事にも真面目。あんなに手に掛からない方は初めて見ました。
 以前私が勤めていたお屋敷なんて、本当に大変だったんですよ。お坊ちゃんはそれはもう我儘で、食事を出せばこの気分じゃないから作り直せ、習い事の時間になっても何の準備もしていない、夜には窓から抜け出すのがしょっちゅうで。もう、気が休まりませんでした」
 それはなかなか大変だっただろう、と内心同情した。

 そのお坊ちゃまと比較すれば、大抵の子どもは良い子になってしまう気もしたけれど、このお屋敷の一人娘であるイトミナお嬢様に関して言えば、彼女に関わった者は『手の掛からない、非常に良く出来た子だ』と口を揃えて言うだろう。

 +++

 イトミナ様は幼い頃に母君を亡くし、屋敷の主人である父君は仕事で世界を飛び回っている。兄弟姉妹はおらず、この屋敷でひとり、年の離れた大人に囲まれて育ってきた。
 身内が一人もいないのは寂しかっただろう。歳の離れた大人ばかりだと、不自由な思いをすることも多かっただろう。それにも関わらず、お嬢様は幼い頃から問題ひとつ起こさず、非常に聞き訳が良くて、大人の手を煩わせることは一切なかったというから驚きだ。

 彼女が紡ぐ言葉はいつも柔らかく上品で、我儘や文句は彼女の辞書にないのではないかと思えるほどに、誰に対しても人当たりが良かった。
 どちらかというと内気で大人しくはあったけれど、だからと言って家の中に閉じ籠もる訳でもなく、ピアノのレッスンには欠かさず通い、休日にはご友人と出かけることも多々あった。

 仕草のひとつひとつは洗練されていた。マナーのお勉強も嫌がることなく熱心に臨み、染み込むように身に着けたという。
 食の好き嫌いもなく、出されたものはきちんと召し上がる。お菓子は好んでおられたが、きちんと自分で自分を律しており、お菓子を食べ過ぎて食事が食べられないなんてことは一度も見たことがなかった。

 学業では優秀な成績を維持しており、運動は少し苦手なようだったが、それでも人並みの成績を収めておられた。中でも、幼い頃から続けているピアノの腕は先生のお墨付きだった。
 鍵盤の上で指先が踊るように動く姿は洗練されていて美しかった。奏でられる音色も流れるように滑らかで、お嬢様自身のように穏やかで柔らかい。
 屋敷のレッスン室からこの音色が聞こえると、つい足を止めてしまうメイドも多かった。噂では、このままプロの道を目指してはどうかと、先生から何度もお誘いを頂いているらしい。

 そして容姿についても、絵に描いたように愛らしい方だった。
 母君から受け継いだ青い瞳に、父君譲りのシルクのようなブロンド。小さな唇は柔らかく色付き、肌は透き通るように白く、手足はすらりと長い。
 強いて言うなら、年齢の割には小柄な方ではあったけれど、それを可愛らしいと褒める者はいても、欠点だと笑う者はいないだろう。

 +++

 新入りのメイドとお喋りをしながら自室に向かうと、扉が並ぶ廊下に薔薇が置かれていることに気付いた。
 それは絨毯の上にぽつんと置かれた、と言うよりは落ちていると言った方がふさわしいかもしれない。そして、薔薇が一輪寂しく佇んでいたのは、ちょうど私の部屋の扉の前だった。

 それを見て、新入りがわあ、と声を上げた。
「わ、何ですか何ですかそれ! 誰かからのプレゼントですか! 先輩も隅に置けませんね!」
 いやいや、とその言葉を否定しながら、絨毯の上に手を伸ばす。
 確かこの花は今日新たに届いたばかりの物だ。午前中に花屋が来て、屋敷中の花瓶にこの花を飾っていたのを覚えている。

 薔薇はイトミナお嬢様の亡き母君がお好きだったらしい。それもあって、屋敷では薔薇をよく飾っていた。
 ここに置かれてあまり時間が経っていないのか、花弁はまだ柔らかい。鼻先に近づけると、ふわりと良い香りがした。
「誰かが落としたのかな」
「そんなこと言って、誰か良い人がいるんじゃないですか? お花屋さんとか、庭師さんとか、執事の誰かとか?」
 そう言って、彼女は私の手元を覗き込む。そして、あ、と声を漏らした。

「その薔薇、花びらが少ないですね。花びらが落ちたというか、まるで誰かが千切ったみたいな……」
 彼女の言う通り、ぐるりと円を描いて集まる花弁は屋敷に飾られていた他の花より随分少ない。
 一部分だけごっそりとなくなっていて、まるでそこだけ人の手で千切られたように見えた。

「花占いでもしてたんでしょうか」
「そうかもね。じゃあ、今日はこれで」
「あっ、はい! お疲れ様でした!」
 まだ話したそうな様子の新入りの言葉をやや無理やり遮り、自室の扉を開けた。
 仕事中は気付かなかったけれど、この新入りさんは存外お喋りが好きなようだ。そしてこれは勘だけれど、色恋沙汰は特にお好みの様だ。
 彼女は私の行動を見て、仕方なさそうに頭を下げて挨拶をするのだった。

 +++

 自室でひとりになって、手元の薔薇をもう一度見る。花弁が一部欠けて、薔薇としてはとても歪な姿だ。でも、それがとても嬉しかった。
 机の上の一輪挿しに水を注ぎ、薔薇の茎を入れる。それから、指先で花弁に順番に触れて、その数を確認する。
 最後の十二枚目に触れた時、壁の時計がぽーんと音を立てて、夜の九時を知らせた。

 この一輪があるだけで、自室がなんだか色付いたように感じている自分に自嘲する。我ながら単純だ。
 しばらく薔薇を眺めてから、早めの入浴を済ませることにした。

 +++

 日付が変わるまで後三十分程。私は寝巻のワンピースのまま、小さな鞄を手にして、そっと自室を出た。
 廊下は無人で、しんと静まり返っている。もう仕事をしている者はいないようで、人の気配はなかった。
 足音を殺して歩けば、物音ひとつ聞こえない。明かりが落とされた廊下は真っ暗で、カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが足元を僅かに照らしていた。

 歩みを進めるに連れ、気持ちが段々と逸っていく。階段を上り、廊下を進み、また上へ。
 この先にあるのは屋敷の主人とお嬢様のお部屋だ。主人は現在も仕事で不在の為、ここにいるのはただひとり。

 ここに来る道中よりも更に気を配り、足音を殺してゆっくりと歩く。扉をいくつか通り過ぎ、目的の部屋の前で足を止めた。
 辺りはしんと静まり返り、何の物音もしない。静寂の中、そっと扉に耳を寄せた。
 こんな夜更けに部屋から聞こえるのは寝息か、寝相が悪い人ならばベッドから落ちる音か。けれどこの部屋だけは違うと、私は知っていた。正確には、今夜は違うと知っていた。

 耳を澄ませる。しんと静かな中、微かに声が聞こえた。小さな小さな声は、木の葉が揺れる音ですらかき消されるだろう。一言も聞き逃さないように、全ての神経を集中する。
 漏れ出る吐息に混じった、小さな声。苦しそうだった。辛そうだった。けれど、ほんのりと色付いていた。そんな微かな声が、私の記憶へ鮮やかな色を塗っていく。

 扉から耳を離す。息を吸って、吐いて、それから扉をノックした。
 こんこん、と軽い音が夜の静けさに響いた。返事は無いけれど、そうだと知っていたので驚かなかった。もう一度呼吸を繰り返してから、ゆっくりと扉を開けた。

 明かりは付いていなかった。カーテンが僅かに開いていて、隙間から月明かりが差し込んでいる。柔らかな優しい光の元で、ブロンドの髪が白く輝いていた。
 お嬢様はベッドに座っていた。私が部屋に入ってきても何も言わず、ただ青い目がじっとこちらを向いている。
 私も何も言わず、ベッドに近付いた。ベッドサイドには花瓶が置かれ、薔薇の花が飾られていた。

 目の前まで近付いても、お嬢様は何も言わなかった。持ってきた荷物を花瓶の横に置かせてもらってから、声を掛けた。
「お隣、座っても良いですか?」
 お嬢様は頷いた。彼女の隣に私も座れば、二人分の重みでぎい、とベッドが鈍く軋む。それも一時だけで、すぐに部屋の中はしんと静まり返る。

 お嬢様は何も言わない。私も何も言わずに、ただ彼女の隣に座っているだけ。そのまま、静かに時が過ぎていく。
 もうすぐ日付が変わる。夜は本当に静かだ。そんな静寂に、微かに音が混じり始めた。
 隣から時折、小さな声が聞こえる。扉越しに聞いたものと同じ。苦しそうな、辛そうな声。何かを堪えているような、でも少しだけ甘い声。

 大丈夫ですかと、普段なら声を掛けているだろう。我が儘も言わなければ、寂しいも苦しいも辛いも言わないお嬢様。そんなお嬢様の異変を見つけたら、心配で心配で堪らなくなるのが普通だ。
 でも、私は何も言わない。ただ隣にいるだけ。お嬢様は時折吐息を漏らしては、その小さな体を震わせる。
 視線を向けると、青い目が上目遣いにこちらを見ていた。暫し見つめ合った後、お嬢様は何を言うこともなく顔を伏せる。そして、小さな手が私のスカートをぎゅうと握りしめた。

 普段は正されている姿勢が、今は丸くなっていた。縮こまった肩が時折びくりと跳ねる。ただ大人しく座っているだけだったのが、段々と落ち着きを無くしていく。
 寝巻のワンピースの下で、お行儀よく揃えられた両膝がゆらゆらと揺れた。
「ん、んっ……」
 小さな呼吸が繰り返され、鼻に掛かった声が吐息に混ざって夜の静けさを揺らす。両足が擦り合わされるようにもじもじと動き、かと思うと時折ぎゅうと寄せられる。
 私のスカートを握る手は微かに震えていて、布地を手繰り寄せて握り締めていた。

 そんな状態が続いてどれくらい経ったのか、お嬢様は突然「あっ」と小さな声をあげた。それと同時に、忙しなく動いていた体がぴたりと止まる。
 その体には強く力が込められて、頭のてっぺんから足の先まで硬く強張っているのが見てわかった。
「ぁ、あっ……」
 また小さな声が漏れる。お嬢様は固まったままだった。

 明らかに異様な様子に、普通のメイドなら慌てるだろう。けれど私にはわかっているから、声は掛けずにただ見守るだけ。そうしていると、俯いていた彼女が弾かれたように顔を上げた。
 色付いた唇は小刻みに震え、ふうふうと細く浅く息を吐き出している。
 青い目には涙の膜が厚く張っていて、今にも泣きだしそうにぐにゃりと歪んでいた。目元に触れると、ぱちりと瞬きをして、大粒の涙が頬を伝う。長い睫毛が涙に濡れて、輝いていた。

「あ、のっ……」
 今までスカートを握っていた手が私の腕に触れて、縋るようにぎゅうと握った。
 震えた声は消え入りそうに細い。彼女の見せた僅かな兆候を決して遮らないように気を付けて、目尻に触れた手をブロンドの髪へ伸ばす。
 柔らかな髪を撫でると、彼女は腕に抱き着くように更に身を寄せた。ぴたりと体が引っ付くと、彼女が小さな胸を上下させて浅い呼吸を繰り返しているのがよく分かった。

「あ、あのっ……、スズ、あの、ねっ……」
 彼女は腕に抱き着いたまま、顔を伏せた。表情は見えないけれど、か細い声が震えている。彼女の言葉を遮らないように、肩に掛かった髪を静かに梳く。
「あっ、やっ、あ、あっ、だめっ……」
 腕を掴む手に力が籠る。ベッドに座ったまま、両膝が慌ただしく揺れたかと思うと、彼女の左手がその間を割るように入っていった。
 柔らかなワンピースの布地を膝の間に押し込む白い手には力が籠って、微かに震えている。呼吸は更に荒くなり、丸くなった背中がびくびくと揺れた。

「ん、んっ、あ、あぁっ……」
 呼吸に交じり、意味を持たない音が彼女の唇から零れ出す。
 震える背中に触れると、お嬢様はゆっくりと顔を上げた。青い目は涙をいっぱいに溜め、嗚咽を堪えているのか、時折しゃくりあげるように大きな呼吸をする。

 いつの間にか彼女のお尻はベッドから僅かに浮いていた。こちらに寄りかかるような体勢で、小さなお尻がもじもじと忙しなく揺れている。
 両膝は隙間なくぴたりと合わせたままでくねくねと揺れ、その間に挟まれた左手はその奥をぎゅうぎゅうと押さえていた。
「あ、あ、だめ、だめっ……」
 うわ言のように呟きながら、彼女は小さな体を大きく揺する。両足がぺたぺたと足踏みを繰り返す。
「あ、あ、あ、だめ、あ、ぁ、あっ、ああっ……!」
 声は段々と大きくなっていく。焦りの色もどんどん深くなっていき、最後には悲鳴にも似た声になっていた。

 小さな唇がぱくぱくと開いては閉じて、そして大きく口を開けた。ひゅ、と大きく息を飲むと、彼女は震えた声で言った。
「もう、だめっ……で、ちゃ、ぅっ……!」
 絞り出すように言葉が出てくると同時に、ぼろりと涙が零れた。

 両の膝は交差させるように寄せられて、そのまま右へ左へと揺れる。その間に挟まれた手は見てわかるほどに力強く、その奥をぎゅううっと押さえていた。
 ぼろぼろと涙を零し、小さな体を震わせて、両足が代わる代わる地団太を踏み、ぎゅうぎゅうとはしたなくもその小さな手で押さえて。
 普段は品行方正なお嬢様が、人前でこのように乱れた姿を見せているなんて、誰が想像できるだろう。

 挨拶とお礼は欠かさない。丁寧な口調を崩すことはなく、品のない言葉など口にするのも恥ずかしい。そんな清楚で清廉なお嬢様が、今は甘い吐息に乗せて、苦しくも切ない声を漏らしている。
 指先一つまで整った所作を崩さず、両足はいつも丁寧に揃えて座り、柔らかなブロンドの下でいつも柔和な表情を浮かべている。そんな彼女が今は髪を振り乱し、駄々を捏ねる子どものように両足をばたばたと暴れさせ、両手でぎゅうぎゅうとはしたない場所を押さえつけている。

 世話役が見たら、みっともないと叱るだろうか。他のメイドが見たら、あのお嬢様がと幻滅するだろうか。お父君が見たら、あの娘に何があったんだと卒倒するだろうか。
 実際、そんなことは無いだろう。屋敷の誰が目撃しても、あのお嬢様に何があったのか、大丈夫ですかと心配する様子が目に浮かぶ。
 けれど、彼女の中ではそうなのだ。皆の知る、品行方正で良い子のイトミナお嬢様としての姿を決して崩してはいけないと、思い込んでいる。

「で、ちゃう、も、う、でちゃうっ……、スズ、おねがいっ……!」
「勿論です。お嬢様のお願いなら何でも」
 だから私は、ただ受け止める。彼女のどんな姿もありのままに胸の中へしまっていく。
 一度目の偶然から始まり、二度目のお誘いで気付いて、三度目以降は繰り返されるこの出来事を、誰にも見つからないように二人だけの秘密として。

 震える背中を撫でる。
 大丈夫、大丈夫。ここにいるのは私とお嬢様だけ。どんな姿を見せても、どんな思いを曝け出しても、これは今夜のふたりの秘密。
 だから、大丈夫。

「あ、ああ、だめっ……! おねがい、でちゃう、もれちゃうっ、スズ、おねがいっ……!」
「大丈夫ですよ。何なりと」
 彼女の手は私の腕を強く握る。反対の手はワンピースの上から、はしたなくもぎゅうぎゅうと出口を押さえる。
 ピアノを奏でるときの繊細な手つきは今はどこにも無い。縋るように堪えるように、力いっぱいしがみ付き押さえつける。
「もうだ、めっ、で、ちゃうっ……、だ、めっ、お、しっこっ……!」
 足踏みを繰り返し、出口を押さえ、彼女ははしたない言葉を口にする。ぎゅうと私の腕を握る手は痛いほどに力が込められていて、かたかたと震えていた。

 青い目は涙の海に浮かんで揺れている。ぼろりぼろりと大粒の雫を零して、じっとこちらを見て。小さな唇がぱくぱくと動く。
「お、ねがいっ……!」
「はい、お嬢様」
「だ、めっ……、もうだめっ、おしっこでちゃうっ……!」
 彼女の口から飛び出るのは、染み付いたマナーで飾られない素の言葉。小さな胸の底から飛び出した、彼女の思いそのまま。

「スズっ、おねがいっ……! もうだめ、でちゃうっ、おしっこ、つれてってっ……!」
 ぼろぼろ、ぼろぼろと溢れる涙は止まらない。月明かりを浴びて輝く涙を拭って、そっと彼女の背に触れる。
「わかりました。行きましょうか」
 お嬢様はこくこくと何度も頷く。ベッドから腰を上げると、お嬢様は私の腕にしがみ付いて、震える両足で必死に立っていた。

 +++

 前屈みになって、お尻を突き出して、ぎゅうぎゅうとスカートの上から出口を押さえて。震える両足は足踏みを繰り返して。
 幼子が必死にトイレを我慢するよりも、ずっとはしたないかもしれない、お嬢様はそんなポーズで必死に我慢を続ける。
「もうちょっとだけ頑張ってくださいね。歩けますか?」
 返事はなかった。ただ、その膝ががくがくと震えている。

 初めてこの姿を見た時を思い出した。今より幼かったお嬢様は本当に限界で、歩くこともままならず、私が抱き上げて運んだ。
 それから二度目か三度目か、もっと後か。もう少し大きくなったお嬢様を抱きかかえてお運びしたことがあった。
 本当に限界寸前で、辿り着くまで我慢できなかったこともあった。何とか間に合ったけれど、自分の足で立つ余裕は既になく、私の腕の中で限界を迎えたこともあった。

 今日はどうだろう。お嬢様の背中を支えて一歩踏み出せば、彼女は震える足をなんとか動かす。けれどその足は持ち上がっておらず、ほとんど引きずるような状態で、それでも必死に前に進む。
 ゆっくり、ゆっくりと彼女に合わせて進む。数歩ごとに彼女の体がぶるりと震え、その度に突き出された小さなお尻が揺れる。
 出口をぎゅうぎゅうと押さえる手が時折離れ、ぎゅうと更に強く押さえなおす。手は震えるほどに力が籠っていて、もう押さえると言うよりは、体ごと持ち上げてしまいそうだった。

「ああ、だめ、で、ちゃっ、あ、あぁっ……!」
「もう少しですよ、大丈夫、大丈夫」
「あ、ああっ、だめ、おしっこ、おしっこでちゃうっ、だめ、だめっ……!」
 うわ言のように繰り返される言葉。お嬢様自身も、考えていることと口にしていることの区別がついていないのかもしれない。
「おしっこ、や、あ、だめ、おしっこ、おしっこっ、おしっこっ……!!」
 胸の奥から飛び出す言葉はどんどん直接的になっていく。泣きじゃくる子どものように、ただただ自分の思いを口にする。十六歳の少女が振舞うにしては幼過ぎる仕草を、私はただそのまま受け止める。

 途中から完全に引きずられる状態で、やっと脱衣所に辿り着く。水捌けのよいつるりとした床を、彼女は必死に足を動かして進む。
 丸くなった体が震えて大きく跳ねる。ぴたりと寄せられた太腿がびくびくと震える。その下に伸びる白いふくらはぎに、つう、と水気が伝うのが見えた。そんな状態で何とか踏み出した足がぴちゃ、と水音を立てた。
「あっ、あっ、だめ、だめぇ、おしっこ、おしっこでちゃう、おねがい、だめ、もうだめっ……!」
「ああ、もう少しですよ。お嬢様、頑張って」
「だめ、だめなの、もうだめっ、おしっこっ、おしっこ、で、ちゃ、あ、あっ……!」

 左手でぎゅうぎゅうと出口を押さえて、お嬢様は更に前屈みになる。その背を軽く押しても、震える両足は根が生えたように地面から離れない。小刻みに震えた体は、私の腕にしがみ付いたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
 既にその足元には小さな水たまりが出来ていた。左手はいつの間にかワンピースの中に入り込み、下着の上から直接押さえつけているようだった。
「お嬢様」
「ああ、あ、あっ、だめ、おしっこ、おしっこでちゃう、もうだめ、でるっ、でちゃうっ……!」
 じゅう、じゅ、と微かに水音が聞こえる。身を捩り、手はぎゅうぎゅうと痛いほどに出口を押さえ、寄せた膝は交差されてびくびくと揺れて。必死に我慢を続けているようだったけれど、もう体は限界の様だった。

 脱衣所には色々家具もある。このままでは後片付けに時間が掛かりそうだ。私は一向に構わないけれど、きっとお嬢様がそれを見て気を病むだろうことは想像できた。
 以前よりも大きくなったお嬢様。それでも、少しくらいなら運べるだろうか。
 私の腕から離れて、完全にしゃがみ込んでしまったお嬢様の傍に私も腰を下ろす。そして、背中と膝裏に触れて、思い切って抱き上げた。
 幼子を抱っこする体勢。お嬢様が小柄とはいえ、流石に子どもの時期を超えた彼女は私の腕には重い。けれど、少しくらいの距離ならばなんとかなりそうだった。

「もうちょっとですよ」
「だめ、でちゃう、おしっこ、もうだめ、おしっこ、でる、でちゃう、もうむりっ……!」
 彼女のお尻を持ち上げる手が熱く濡れていく。もう少し、あと少し。心の中で励ましながら、足を動かす。
 普通に歩いてもたった数歩だった。扉が開いたままの浴室に足を踏み入れる。両手がふさがっていて明かりは付けられないが、目はとっくに暗さに慣れていて、どこに何があるかは容易に見えた。

 お嬢様を抱えたまま、浴室の縁に座る。入浴した後だからか、僅かに濡れていて、足とお尻がじんわりと濡れた。
 抱えたままだと流石に辛くて、両膝をそろえて、その上に彼女を横向きに座らせる。既にお嬢様のお尻はぐっしょりと濡れていて、その水分が私のワンピースへと移っていく。
「あ、あ、あっ、あっ……」
 お嬢様は過呼吸を起こしてしまいそうな荒い呼吸を繰り返す。その呼吸に合わせて、じゅう、じゅ、と水音が浴室へ響く。彼女のお尻が乗った膝が温かく濡れていく。

「あ、あ、だめ、だめっ、おねがいっ、おねがいっ……!」
「はい、お嬢様」
 じっとこちらを見つめる青い目を見つめ返す。お嬢様はぶるぶると可哀想になるほどに震えていた。
「だめ、もうだめっ、おしっこっ、あ、ああぁ、おしっこ、おしっこっ……!」
 千切れそうなか細い悲鳴。それと共に、ぶじゅうう、と激しい水音が響いた。

「あっ、は、あっ、あぁぁっ……」
 水音は浴室のシャワーよりずっと大きい。温かな液体が膝を濡らし、私の両足を濡らしていく。
 苦しそうに浅かった呼吸が深くなっていく。小さな口は力なくぽかんと開き、熱い吐息に甘い声を乗せて零していく。硬く強張っていた体からも力が抜けているようだった。
 びちゃびちゃびちゃ、と激しい水音が空気を揺らす。まるで水道の蛇口を思いっきり捻ったときのように、次から次へと熱いおしっこが吹き出して私の足を温める。

「イトミナ様」
 名前を呼ぶと、うつろな目がこちらを向く。惚けた様子で、目は焦点が合わずにとろんと溶けた顔をしていた。
 お嬢様は白い腕を伸ばすと、ぎゅうと私の首に巻きつけて、その小さな体をぴたりと寄せた。
「スズ、お、しっこ、で、た……」
「出ちゃいましたね。大丈夫ですか?」
「う、ん……、きもち、い……」
 ぼんやりと呟きながら、はー、はー、と長く深い呼吸を繰り返していた。背中を抱くと、より強く体が寄せられる。

 寝巻のワンピース越しに、柔らかな体躯を感じる。薄い体の中心で、心臓がどくどくと激しい鼓動を刻んでいるのがよくわかった。
 びちゃびちゃと水音は響いている。その温かさを感じながら視線を落とせば、飛び散る雫が僅かな明かりを反射して輝いていた。

 +++

 どれほどそうしていたのか、水音は次第に細くなり、消えていく。残ったのは、お嬢様の長く深い呼吸の音だけ。ぶるりと体を震わせてから、はあ、と熱い溜め息を漏らす。
「……で、た」
「いっぱい出ましたね。落ち着きましたか?」
 こくりと頷き、ブロンドが揺れる。お嬢様は私に抱き着いたまま、動かない。
 ふうふうと呼吸を繰り返し、時折ごくりと唾液を飲み込み、長く息を吐く。大丈夫、大丈夫とその背中を撫でながら、彼女が落ち着くのを待つ。

 ぐっしょりと温かく濡れた足が段々と冷えていく。お嬢様もそれは同じようで、腕の中でぶるりと彼女が体を震わせた。
「シャワーを浴びましょうか」
 お嬢様は小さく頷く。縋るように甘えるようにぴったりと抱き着いていた体がゆっくり離される。白い頬は赤く火照っていた。青い目は涙に濡れ、ゆらゆらと揺れる。
 ゆっくりとタイルへ足を下ろす彼女に続いて、私も立ち上がる。タイルはぐっしょりと濡れていて、足の裏がじんわりと湿っていく。重く濡れたワンピースから、雫が伝うのを感じた。

 明かりを付けると、足元のタイルは見える限りほぼ全てが濡れていた。その真ん中でお嬢様は居た堪れなさそうにしている。
 ワンピースのスカート部分は濡れて色を変えていた。ここからでは正面しか見えないけれど、きっとお尻の方も濡れていることだろう。
 それは私も同じようで、お嬢様の伏せた視線が恥ずかしそうにこちらを見ていた。私のワンピースも重く濡れて、色を変えている。

「脱ぎましょうか。腕を上げてください」
「じぶ、ん、で……」
「大丈夫ですよ。はい、ばんざーい」
 落ち着いてきたのか、お嬢様は大人びた普段の様子を取り戻し始めていた。けれど、こうして少し押せば、素直に従う。
 彼女のこういうところが愛らしくて、一等好きだった。

 おずおずと両手を持ち上げたのを確認して、濡れたワンピースを持ち上げる。するすると持ち上げてしまえば、お嬢様が身に纏っているのは白い下着のみ。ぐっしょりと濡れて、肌に張り付き、薄い下生えが透けていた。
 それも脱がそうと腰の部分に手を触れる。お嬢様は一瞬躊躇うように私の手に触れたけれど、すぐにその手は私の肩に置かれる。そのまま片足ずつ持ち上げてもらって脱がせる。

 自分の服も脱いで、お嬢様の濡れたワンピースと下着を纏めた。私の下着は濡れておらず、お嬢様が少しだけ羨ましそうに視線を向けていた。
「着替えを用意しておきますから、その間にシャワーを浴びてくださいね」
「うん。……あの、ごめんなさい、汚してしまいました」
「着替えがあるから大丈夫ですよ。ゆっくり温まってくださいね」
 浴室の扉を閉めると、少ししてシャワーの流れる音が聞こえてきた。

 脱衣所で自分の体を拭いてから、ベッドサイドの花瓶の横に置いた鞄へ向かう。中から着替えを取り出して、身に纏う。そして、濡れてしまった衣類を纏めてその中へ入れた。
 これは私がこっそり洗って、こっそりお嬢様の部屋へお返しする。何度か繰り返すうちに、ばれないように一連の行動をすることにも慣れ始めていた。

 脱衣所に戻ると、入り口近くに広がった小さな水たまりに気付く。そこも拭いて綺麗にしてから、お嬢様の着替えとタオルを用意していると、浴室の扉が開いた。
 ちゃんと温まったようで、白い肌が仄かに色付いている。タオルを差し出すと、お嬢様は受け取らずに両腕を軽く上げる。

 彼女の意図はすぐにわかって、タオルは私の手の中で広げて、彼女の濡れた体を拭っていく。お嬢様は抵抗することもなく大人しくしていた。
 体を拭き終わってもお嬢様は動かない。新しい下着を広げて、彼女の足元にしゃがみ込むと、先程と同じように私の肩に手を置く。下着を履かせて、ワンピースを頭から被せると、ブロンドの髪がくしゃくしゃになってしまった。

 指でそっとその髪を整えていると、白い腕が伸びてきて私の背に回される。寄せられた体は湯上りで温かい。
「ベッドへ行きましょうか」
「うん」
 顔を押し付けているので、くぐもった声で返事が聞こえた。

 少し乱れたベッドを整える。時計はもう随分遅い時間を指していた。明日は早番では無いとはいえ、寝坊しないように気を付けないといけない。
 ベッドに入ったお嬢様を見ていると、くいくいと腕を引かれる。仕方なく寄り添うように隣で横になると、青い目が嬉しそうに細く笑った。
「お嬢様の隣で寝てしまいそうです」
「……怒られちゃう?」
「どうでしょう。その時は一緒に怒られてくれますか?」
 お嬢様は小さく笑って「良いよ」と呟いた。いつもより砕けた言葉と同じくらい、表情も緩んでいた。

「来週はテストも演奏会もあるから、すごく大変」
 ぽつりと彼女が呟く。
「テストは数学ですか?」
「ううん、器械運動。逆立ちなんて出来なくたって誰も困らないのに。スズは出来る?」
「出来ますよ」
「え、うそ、すごい! スズは運動が得意で良いなあ」
「でもお勉強は全然だめですから。お嬢様に教えてほしいくらいです」

 くすくす笑いながら交わす会話は十六歳の少女らしい、なんてことない普通のこと。けれど、普段のお嬢様はこんなことは誰にも言わない。適当なメイドでも捕まえれば聞いてくれるだろうに、彼女は決してそれをしない。
 もしかしたらお嬢様は言わないのではなく、言えないのかもしれないと時折思う。手が掛からない良い子だと周りに思われていることを聡明なお嬢様は気付いている。そのイメージを守らないといけないと無意識に思っているのではないか。

 だから、きっとこれはお嬢様が自分自身を見せる為の儀式なのだろう。
 イメージに合わせて装うことなんてしなくていい。どんな姿を見せてもこの人は受け止めてくれると確認した上で、初めて自分の飾りを全て外して、心のままに振舞うことができる。

「スズ、眠い……」
「眠いですね」
「眠るまで、いてくれる?」
「勿論ですよ」
「手、握って」
「はい」
 小さな手はベッドの中でとても暖かい。そっと握ると、離さないでと言わんばかりに強く握り返されて、つい笑ってしまった。

 甘えん坊で、ちょっと我が儘で、年齢よりも少し幼く見える少女。これがきっとお嬢様の本来の姿。愛らしくて、可愛らしくて、ぎゅうと抱きしめたくなる女の子。
 きっと、一度目の偶然の際に私はこの姿を見てしまったのだ。それから二度目のお誘いがあって、三度目以降もこの行為が続けられている。

 青い目は伏せられて、すうすうと細い寝息が聞こえ始めた。少しその寝顔を見つめてから、握られた手を優しく離す。それから纏めた荷物を持って、静かに彼女の部屋を後にした。

 +++

 掃除道具を片付けてから廊下を引き返す。あちらこちらに飾られた花瓶には瑞々しい薔薇がいっぱいで、ふわりと良い香りがした。
 僅かな物音に混じって、欠伸が漏れた。部屋に戻ったのは夜明けも近い時間帯だった。持って帰った汚れ物を洗って部屋に干してから、ベッドに入ったが、眠れたのは僅かな時間だった。

 レッスン室の前を通ると、ピアノの音が聞こえた。流れるような音色は大した知識が無い私にも美しく感じられて、つい足を止めた。
 その音色に耳を傾けていると、向こうからメイドが歩いてきた。手に持ったトレイには水差しとグラスが乗せられている。
「あ、まだ練習中だったのですね」
「それはお嬢様に?」
「はい。随分長くピアノを弾いておられるみたいなので、そろそろ喉が渇くかと思いまして」
 そうして話している間にもピアノの音色は流れ続けている。時折激しく、そして緩やかに落ち着いていくけれど、音色はなんだか楽しそうで、お嬢様自身も楽しんで弾いているのだろうと思った。

「あの、申し訳ないのですが、こちら、お任せしても良いでしょうか?」
 メイドはトレイを私に差し出す。
「ここに来る途中に買い物を頼まれまして。あまり遅くならないうちに行ってこようかと」
「良いですよ。お預かりします」
 そうしてトレイを預かると、メイドは踵を返して戻っていく。再び廊下にひとりになり、流れる音色へ耳を傾ける。そうしてどれほど時間が経ったのか、ピアノの音色は静かに止まった。

 思ったより長く聞き惚れていたようで、水差しには水滴が付き始めている。ハンカチでそれを拭ってから、レッスン室の扉をノックした。
 返事の後、中へ入る。ピアノの前に座ったお嬢様は顔を上げると、私の姿を見て、少し眉を上げた。
「お水をお持ちしました。何も飲まれていないのではないですか?」
「あ、そう、でした。ありがとうございます」
 レッスン室には私とお嬢様以外いなかったけれど、彼女はいつもの礼儀正しい様子を崩すことは決してしなかった。

 近くの机にトレイを置いて、グラスに水を注ぐ。それを傍までお持ちすると、お嬢様は丁寧にお礼を述べてから手を伸ばした。
 自然と昨夜のことが思い出された。お嬢様はよく眠れただろうか。気になったけれど、口にはしなかった。
 あれは夜だけの秘密のこと。いくらふたりきりとは言え、誰かが廊下で聞いているかもしれない。それに、気軽に口に出せば、あの関係が崩れてしまうようにも感じた。

 手持無沙汰で部屋を見回すと、棚に置かれた花瓶が空であることに気付いた。
 この部屋に薔薇は飾らないのだろうか。もしかしたらあまり人が立ち入らない部屋なので、忘れられているのかもしれない。
 そこまで大きな花瓶ではないので、私の手でも簡単に持ち上げられた。棚から下ろしていると、お嬢様の視線がこちらに向く。その表情に疲れの色は見えなかったので、少し安心した。
「廊下から薔薇を少し貰ってきますね」
 私がそう言うと、お嬢様は頷く。廊下に出て、近くの花瓶から薔薇を数本とお水を拝借して、レッスン室に戻る。お嬢様は私の手にある薔薇を見て、表情を綻ばせた。

「庭の薔薇が来週あたりに満開になるそうです。次はその薔薇を屋敷中に飾るのだとか」
「そうなのですね。それは楽しみです」
 ぽろん、ぽろんとお嬢様がピアノを弾く。それから、何かを思い出したかのように「ああ」と声を漏らした。
「ゼネボラ先生の演奏会が来週なのですが、その時に庭の薔薇をお持ちできないでしょうか」
「それは良いですね。庭師に私から伝えておきましょう」
 ありがとうございます、とお嬢様は恭しくお礼を口にした。

「お庭の薔薇はとても立派ですし、貰った方は喜ぶでしょうね」
 大した意図はない言葉だった。
 ぽろん、ぽろんと爪弾かれていた音色がぴたりと止まる。お嬢様の方を見ると、俯いて鍵盤を見つめていた。その表情が少し陰って見えた。

「……薔薇を送るのは、迷惑かもしれないと思うのです」
「それはどうしてですか?」
「だって、棘が刺さって、痛い思いをさせてしまうかもしれないから」
 お嬢様は俯いたまま言う。その言葉が、来週の演奏会に薔薇をお持ちすることを指していないだろうことはわかった。

 少しの沈黙。私は花瓶の薔薇を整えながら、口を開いた。
「針ってご存じですか?」
「え、ええ。お裁縫で使う……」
「とある地方では、それを体に刺すそうですよ」
 ぽろん、とピアノの音色が聞こえた。何かを奏でようとした訳ではなく、驚いて鍵盤を押したようだった。
「そういう治療法があるらしいです」
「……痛そうです」
「痛いでしょうね」
 受けたことはないので、あくまで想像ではあるけれど。

 お嬢様の方を見ると、同じように彼女もこちらを見ていた。青い目は驚きで丸くなっている。それと同時に、私の言葉の意図がわからず、困惑しているようだった。
「悪いところに針を刺すと、体に溜まって澱んでいたものが流れ出すのだとか。
 痛くて苦しくて、泣いてしまうかもしれませんが、そうして涙を流して、弱音を零して、溜まった色々なものを流し出すのは、とても大切なことだと私は思いますよ」

 花瓶の薔薇から手を離し、空になったグラスを片付ける。僅かに水の残った水差しを乗せたトレイを持ち上げると、かたんと音がした。
「あ、あの!」
 音がした方を見ると、お嬢様がピアノの前で立ち上がっていた。

 一拍置いて、お嬢様は小さな唇を開いた。
「薔薇は、お好きですか?」
「はい、好きですよ。今までも、きっとこれからも」
 そう返事をすると、お嬢様は安心したように笑った。

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初出: 2021年5月29日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年5月29日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
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