もう少し、あと少し。それを何度も何度も繰り返して、震える足で必死に歩く。
公園に入って、奥の建物に近付いて、中に入る。手洗い場があって、男性用のトイレがあって、その奥に個室があって。それを見た瞬間、もう駄目だった。
咄嗟に両手でぎゅうと押さえた。スカートの中に手を入れて、下着の上から出口を塞ぐ。がくがくと足が震える。
あ、あ、あ。だめ、だめっ、あ、あ、あっ……。じわりと下着が熱くなる。だめ、おしっこ、おしっこっ、あ、あ、あぁ、あっ……!
じゅわ、と手の中が熱くなった。あ、あ、だめっ。我慢してるのに、もう我慢できない。限界の二文字が頭を埋め尽くした。
一瞬の間の後、びちゃびちゃと水音が響く。じゅうう、と体の中に水音が響き渡った。
あ、あ、だ、めっ……、おしっこ、おしっこ、あ、あっ……。駄目だと思っても全然止まらない。体が言うことを聞かない。両足が熱く濡れていく。靴下が濡れて、靴がぐっしょりと濡れて重くなっていく。
全身が熱かった。ただ、軽くなっていくお腹が、勢いよく溢れ出したおしっこが気持ちよかった。頭が真っ白で、目の前から色が消えていく。今どこにいるのか、一瞬だけわからなくなった。
は、は、と自分の呼吸の音が聞こえる。視界に色が戻っていく。奥の個室を見つめたまま、ただ立ち尽くしていた。足が、手が、下着も、靴下も、靴もぐっしょりと濡れていた。
おしっこ、まにあわなかった。もうすぐだったのに。体はすっきりしたのに、全身が重かった。じわりと目が熱くなる。膝ががくがく震えた。
やっちゃった、どう、しよう。どうしよう。床、掃除しないと。それから、着替えないと。着替えは無いから、拭くものはハンカチしかない。どこかで買わないと。コンビニ、とか、どこかにあったかな。
しないといけないことが一気に押し寄せて、頭がぐちゃぐちゃになる。とにかく、何かしないと。このままじゃ。そう思った時、後ろから駆け寄る足音が聞こえた。
「あ、いたいた。だ、い、じょうぶ……」
聞きなれた友人の声。自転車で運んでくれて、早く行っておいでと送り出してくれたのに、間に合わなかった。肩越しに振り向くと、彼女は目を丸くしてこちらを見ていた。
「あ……、あ、の……」
ごめんなさい、間に合わなかった。説明なんて必要ない状況。だけど、何とか自分の口で伝えようと思ったのに、喉の奥が固まってしまったかのように声が出ない。
どうしよう、どうしよう。頭が真っ白で、ぐちゃぐちゃで、どうしたら良いのかわからない。
「あー、駄目だったか」
その言葉に、今の自分の状況を改めて理解した。頷いて返事をすると、目の奥がじんと熱くなった。
「大丈夫だから泣かない泣かない。とりあえず個室入ろう。歩ける?」
頷く。彼女が背を支えてくれて、震える足を動かす。一歩踏み出すごとに、靴がぐじゅっと嫌な感触に包まれた。
たった数歩で個室には辿り着いた。それなのに間に合わなかった。ぐすぐす鼻を啜って、込み上げる嗚咽を必死に堪えていると、彼女は鞄からハンドタオルを出して私に握らせた。
「コンビニで色々買ってくるから、ちょっと待ってて」
頷くと、彼女は踵を返して個室から離れていく。その足音が聞こえなくなると、途端に涙がぼろぼろと溢れた。
泣いてもどうしようもないのに、涙が止まらない。袖で涙を拭おうとして、彼女に手渡されたハンドタオルが目に入る。ありがとう。少し躊躇ってから、そのタオルで涙を拭いた。
声を殺して少しだけ泣いた。それから、後始末を始めた。
公園のトイレの割に、中は綺麗だった。肩に掛けたままだった鞄をトイレの後ろにある棚に置く。たまたま鞄のポケットにビニール袋が入っていたので、それを広げて置いた。
それからスカートの中でぐっしょり濡れた下着を脱いで、洋式トイレに座った。いつも用を足す体勢になったからか、お腹に尿意が込み上げる。体に任せると、残っていたおしっこがちょろちょろと出た。
お腹の鈍い感覚が段々とすっきりしていく。もうちょっとだけ我慢したら、こうしてちゃんとトイレで済ませられたのに。そんなことを考えると、また涙が込み上げる。
泣いてばかりの自分が嫌になる。涙を拭って、落ち着くために大きく息を吐いた。
次はぐっしょり濡れた靴下を脱ごうと手を伸ばす。足先で靴を脱いで、それから肌に張り付いた靴下を剥がしていく。持つと濡れて重くなっていて、自分がやったことを思い知らされた。
泣いてたって仕方ない。彼女に借りたタオルで涙を拭いてから、さっき鞄から出したビニール袋に汚れ物をまとめて入れた。後で、手洗い場で洗おう。どうか、誰も来ませんように。
靴もぐっしょりと濡れていたけれど、流石にここでは洗えない。かといって裸足で帰ることも出来ない。これは帰ってから、しっかり洗おう。それからベランダで乾かさないと。
一応、靴を片方ずつ、トイレの上で中をひっくり返す。中に溜まっていたおしっこがちょろちょろと音を立てて落ちた。
湿った靴を裸足で履きなおしていると、外で足音が聞こえた。彼女かと思ったけれど、もしかしたら普通にトイレを使いに来た人かもしれない。そう思うと体が強張る。思わず息を潜めて、様子を窺った。
足音。それから、こんこんとノックの音がした。
「おーい、戻ってきたよ。上から投げるからキャッチしてよー」
え、と驚いていると、扉の向こうでビニール袋がかさかさとなる音が聞こえた。かと思うと、えーいと掛け声が聞こえた。
慌てて上を見ると、白い塊が飛び込んでくる。なんとか両手で抱えるようにキャッチした。
「取れた―?」
「……う、うんっ、大丈夫」
「お、ナイスキャッチ。あとナイスコントロール、私。……あ、そうだ、ちょっと待ってて」
軽い調子の彼女の言葉に、強張っていた心が緩んでいく。つい笑うと、じわりとまた涙が滲みそうになる。それを必死に堪えて、受け取ったビニール袋の口を開こうとしたときだった。
こんこんともう一度ノックの音。
「ちょっとだけ開けて? 見ないようにするから。流石にこれは投げて落としたら大変」
何だろうと思いながら、言われた通りに扉を開けると彼女の手が差し出される。その手にはぎゅっと絞った形になったタオルがあった。
「タオル濡らしたから、これで足とか拭いて」
「あ……、うん、ありがとう」
「じゃあ、私は外にいるから。必要なものがあったらスマホで連絡して。すぐ気付けるように手に持っとくから」
「……うん。あの、本当にありがとう。色々、ごめんね」
「大丈夫大丈夫。気にしないで」
差し出された手がひらひらと振られた後、ひっこめられる。それから、個室に鍵を掛けて、最初に借りたタオルでもう一度涙を拭いた。
ビニール袋の中には、未開封のタオルが数枚。それから下着と靴下。あと、ミネラルウォーターがあった。
それを鞄の横に置いて、まずは濡らしてくれたタオルで足を拭く。足先まで拭いて、それから乾いたタオルでもう一度拭うとさっぱりした。
下着と靴下も開けて足を通す。靴がしっとりと濡れているのは気になったけれど、それでも乾いた物を身に纏うと、重い気持ちが幾分軽くなった。
立ち上がって、スカートを確認する。手で触れてみた感じ、ほとんど濡れていなくてほっとした。一応、これで外に出ることは出来そうだ。
タオルはコンビニの袋に入れて鞄へ。それからミネラルウォーターを少し飲む。思ったより喉が渇いていたみたいで、とても美味しく感じた。水分を取ると気持ちが落ち着いた。
半分残ったミネラルウォーターもしまってから、鞄を肩にかけた。汚れ物をまとめた袋は手に下げる。最後に、彼女から借りたハンドタオルはポケットに入れた。
外に出る準備が出来たところで、鞄のポケットでスマホが震えた。取り出すと、彼女からのメッセージ。
『タオル足りる? 他に必要なものあったら言ってね。私はこの後予定もないし、ゆっくりで良いから』
そのメッセージを見ると、また涙が込み上げる。泣いてばっかりだ。袖で涙を拭って、大きく深呼吸してから、扉を開けた。
個室の外には誰もいなかった。彼女は外の公園で待ってくれているのだと思った。
手洗い場に近付いて、汚れ物を袋から出す。ぐっしょり濡れた下着と靴下。水道の蛇口を捻って、冷たい水の中でじゃぶじゃぶと洗う。
手を洗う場所を使うことに躊躇いはあったけれど、今だけ許してくださいと胸の中で何度も唱えながら、手を動かした。
ある程度濯いで、それから硬く絞る。ビニール袋に入れて、口を縛って。鞄の中からタオルの入った袋を取り出して、そこに入れる。帰ったら、スカートと一緒に洗濯機に入れて洗ってしまおう。靴はお風呂場で洗って、ベランダに干したらきっと大丈夫。
最後に手を洗う。ひんやりと冷たくなった手を、彼女に借りたハンドタオルで拭いた。しっとりと濡れたタオル。これも洗って返さないと。ポケットにしまって、それから、もう一度深呼吸。そして、思い切って外に出た。
暗くなり始めた公園のブランコに彼女はいた。ゆらゆらと揺れながら、手元のスマホをぼんやり眺めている。近付くと、足音で気付いたのか、顔を上げた。
「あ、あのっ……」
ありがとう。ごめんなさい。その二言で収まらないくらい、伝えないといけないことがある。それなのに、口を開くと上手く言葉が出てこない。
息を吸って、頑張って言おうとしていると、彼女はからりと笑ってブランコから立ち上がった。
「もう行く? ちょっと休憩する?」
「だ、大丈夫。……あ、あのねっ」
息を吸って、鞄の紐をぎゅっと握りなおして、口を開いた。
「ごめんなさい。あと、色々買ってきてくれてありがとう」
「どういたしまして。気にしないで」
「あの、お金も掛かったよね、ごめん。今、返すから……」
鞄から財布を取り出そうとすると、彼女はそれを静かに制した。
「そんなの良いよ。大した額じゃないし」
「でもっ」
「じゃあ、週末、買い物行こう。そこでご飯奢ってよ。それでチャラにしよう」
「……そんなので良いの?」
「充分でしょ。靴見たかったんだ。一緒に選んでよ」
「……うん」
よし、と彼女は軽い調子で笑う。それから、ぐーっと背伸びをすると、肩に掛けていた鞄を私に差し出した。
「ちょっと預かってて」
「あ、うん」
「私もトイレ」
ぱたぱたと軽い足取りで彼女は私が今出てきたトイレへ走っていく。その背中を見ながら、今まで彼女が座っていたブランコに今度は私が座った。
肩に自分の鞄と、膝の上に彼女の鞄。大した重さではないけれど、その重みが今はすごく安心できた。
少しすると、トイレから彼女が出てきた。手が濡れているのか、指先を下に向けてぱらぱらと振りながらこちらへ歩いてくる。
「お待たせ。ハンカチ貸して」
彼女のハンドタオルは私が借りているから、手を拭くものがないのだとそこで初めて気付いた。慌てて鞄から自分のハンカチを出して、彼女に手渡した。
「うん。……あ、あの、タオルもごめんね。洗って明日返すから」
「そんなの気にしなくて良いのに」
「……色々迷惑かけて、ほんとに、ごめんなさい」
「そんなに謝らないの。で、そんな顔しないの」
俯いたのに彼女にはお見通しだったようで、顎をぐいと上げられて、無理やり前を向かされた。
彼女は何事も無かったかのようにからっと笑う。その真似をして、笑顔を作ってみる。そうすると、彼女はよしと呟いた。
「泣かない泣かない。あんまり泣いたら、目が腫れて大変だよ」
「……うん」
「よし、帰ろう。ごーごー!」
そう言って彼女は歩き出す。その背中を追いかけながら、ありがとう、と小さく声を掛けた。
+++
「あれ? ……あ! 鞄、持たせたままだった! ごめん!」
「別に良いよ?」
「駄目だって! てか、言いなさい!」
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初出: 2021年5月2日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年5月2日