真っ赤な顔でふうふうと苦しそうに呼吸を繰り返している。様子を窺うために顔を覗き込むと、伏せていた瞼がゆっくりと持ち上がる。瞳は潤み、ぼんやりと焦点が合わない様子でこちらを見ていた。
「ごめんね、起こした?」
返事はなく、彼はゆっくりと体を起こす。その背中を支えると、汗に濡れてしっとりと温かい。
「何か食べる?」
小さく首を振ってから彼はのそのそと立ち上がった。そのまま危なっかしい足取りで部屋を出ていくと、少しして、ぱたりと扉の閉まる音がした。
それから少しすると、ぺたぺたと裸足の足音がして戻ってくる。赤い顔でぼーっと惚けた表情で、先ほどまでいた布団の上に戻るとぺたりと座った。
先程から、織仁くんは定期的に起きてはこうしてトイレに行く。そして少し水分を取って、再び横になる。眠ったかと思うと、少しするとまた目を覚ましてトイレに行っての繰り返し。お腹の調子が悪いわけではなさそうなので、そこだけは安心した。
おそらく布団を汚さない為だと思う。以前、同じように体調を崩したとき、彼はおねしょをしてしまっていた。普段そういった失敗をしているところは見たことが無いので、おそらく体調を崩したとき限定なのだと思う。
一応、着替えを多めに用意したりお尻のあたりにタオルを敷いたりと対処はしたので、万が一してしまっても問題はない。汚しても大丈夫だからねと伝えて、彼も頷いていた。それなのにこうして何度もトイレに行くのは、染みついた習慣のようなものかもしれない。
熱は高い。食欲も無いようで、今日はまだ何も食べていない。それなのにゆっくりと寝ることも出来ないなんて辛いだろう。何とかしてあげたいけれど、どうしたら良いのか。色々考えながら、少しでも早く熱が下がるようにと頭を撫でた。
短い黒髪は汗で少ししっとりしている。一度着替えた方が良いかな。本当はシャワーを浴びた方が良いだろうけど辛そうだし、体を拭くために濡れタオルを用意しようか。
織仁くんはぼーっとこちらを見ていて、かと思うとそのままゆっくりと寄りかかってきた。体は熱くて、力が抜けているからか少し重い。
「あたまいたい……」
ぽつりと呟かれた弱音に、少しだけ安心した。前の時は弱音は全く零さずに、突き放すような物言いをして、ひとり寝ているだけだった。
「熱が高いね。病院行く?」
「……やだ」
素直な意思表示は嬉しくて、少し笑ってしまう。出会った時を思えば、少しずつ気を許してくれるようになってきた。それなら、いつかは布団を汚すことを気にせずにゆっくり寝てくれるかもしれない。
背中を撫でる。ふうふうと繰り返される呼吸はとても熱い。
「お腹空いてない? 何か食べる?」
「お腹空いてないから、良い。ありがと」
「じゃあ、ゆっくり寝ようか。タオル敷いてるし、布団汚しても大丈夫だからね」
「……うん」
熱い体が離れて、彼はのそのそと横になる。布団を掛けなおすと、彼はすっと目を閉じた。
呼吸は変わらず苦しそうだ。枕元に飲み物を用意して、そっと傍を離れる。
今のうちに買い物に行こうか。何か食べやすいものとスポーツ飲料、あと薬の残りも少ないのでそれも買わないと。買い物リストを頭の中で組み立てながら、物音を立てないようにそっと鞄を引き寄せて中身を確認する。
「どっか、いくの?」
とろりと重い声が聞こえた。布団の方を見ると、先程閉じた目が重そうに開いて、こちらを見ていた。
「うん。ちょっと買い物に行ってくるね」
返事はない。けれどじっとこちらを見続けているので、何か言いたいことはあるように見えた。
傍に寄って、頭を撫でる。熱で潤んだ目は変わらずこちらを見続けている。
「もどってくる?」
一瞬、彼の言葉に戸惑う。不安に揺れる目に、大丈夫だよと思いが伝わるように布団の上に乗せられた手を握った。
「勿論。すぐ帰ってくるから、寝てるんだよ」
「……おれ、じゃまじゃない?」
「邪魔じゃないよ。いなくなったら寂しいから、織仁くんもどこかに行っちゃ駄目だからね」
頷いて、彼は目を閉じる。瞳いっぱいに溜まっていた涙がぼろりと零れた。その涙を指先で拭ってから、鞄を持って立ち上がった。
必要なものは近所のドラッグストアで大体見つけられた。ゼリーにプリン、レトルトのおかゆ。水とスポーツドリンク、あとジュース。風邪薬も買い足して、さあ帰ろうかと思ったところで、ある物が目に入る。
紙おむつ。大きなパッケージは色鮮やかで目を引く。売っていることは勿論知っていたけれど、まじまじと見たことはなかった。
これはどうだろう。おむつは嫌かもしれないけれど、布団を汚すことはなくなる。少しは気が楽にならないだろうか。一度、提案だけしてみよう。嫌なら嫌で良いや、と駄目元でひとつ手に取った。
両手にビニール袋を下げて、足早に帰宅する。紙おむつは嵩張るので、これだけでビニール袋ひとつ使うことになってしまった。
出来るだけ静かに扉を開ける。中に入ると、ほぼ同時にトイレの扉が開いた。中からよろよろと出てきた彼は、変わらずとろんと重い目をしている。一拍置いてこちらに気付いて、力なくふにゃりと笑った。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま。ジュース買ってきたけど飲む?」
「飲む。ありがと」
ふたり一緒に部屋まで戻る。彼は私の荷物が気になるようで、ちらちらと見ていたけれど、口に出すことはなかった。
ジュースを飲んで一息ついたところで、大きく膨らんだビニール袋を傍に寄せた。
「織仁くん、あのね、こういうもの買ってみたんだ」
袋から紙おむつを取り出す。色鮮やかなパッケージを目にして、彼はぴたりと固まっていた。
「お布団汚すの嫌だったら、これはどうかなって」
「…………おむつ」
「うん。嫌だったら良いからね。ただ、あんまり眠れていないみたいだったから。手段の一つとして、どうかなって思っただけ」
彼はおずおずとこちらを見る。戸惑っているのはすぐ分かった。無理強いをするつもりはなかったので、緊張を解すように頭を撫でてみる。
しばしこちらを見ていた彼は、そのまま力なく寄りかかってきた。
「……ありがと」
「どういたしまして。嫌なら使わなくても良いからね」
「……うん」
そのまま少しの間、彼の背中を撫でる。ふうふうと繰り返される呼吸の音と、僅かに感じる鼓動。大丈夫だよ、と思いを込める。体はもとより、心は少しでも楽になってくれますように。
「汗かいてるね。着替える?」
「うん。ついでに、シャワー浴びてくる」
「わかった。着替え出しとくね」
「……ありがと。あと、その、それ、使うから、置いといて」
それが何を指すかは言わなくても分かった。余計な事は言わずに端的に返事をすると、彼はのそのそと立ち上がって脱衣所に向かった。
クローゼットから着替えを出してから、今買ってきたパッケージを開けて中身をひとつ出す。
白くて、綺麗に畳まれた紙おむつ。サイズは大丈夫かな、と今更ながら気になって広げてみたけれど、多分大丈夫だと思う。もう一度折り目に沿って畳んで、着替えの上にそっと置いた。
脱衣所に向かうと、シャワーの水音が聞こえる。そっと着替えを置いて、タオルがあることを確認してから、部屋に戻った。
しばらくすると、織仁くんが戻ってきた。顔は熱のせいか温まったせいか、ぽっと赤くなっている。変わらず気怠そうな表情だけれど、少しさっぱりしたようには見えた。
そのままぺたぺたと歩いてくると、私の前に座る。それから、ドライヤーを差し出された。
「寧々さん、髪、やって」
良いよと言うと、彼はふにゃりと笑って背中を向けて座りなおした。その時に少し身を捩ったように見えたのは、紙おむつに違和感があるからかもしれない。
服の上から見た感じではわからないけれど、本当に履いているみたいだ。これで少しでもゆっくり休めると良いんだけれど。そう思いながら、ドライヤーの電源を入れた。
ドライヤーからごおごおと音が鳴る。黒髪を手の中でわしゃわしゃと乾かしていく。短いので時間はそう掛からない。ある程度乾いたことを確認してからスイッチを切ると、一拍置いて彼が肩越しに振り向いた。
「ありがと」
「どういたしまして。何か食べる?」
彼は首を振りながら、机の上に置いていたスポーツ飲料に手を伸ばした。本当に今日は何も食べていないから心配だ。水分だけはまめに取っているから大丈夫だとは思うけれど、次に起きた時には少しでも何か食べてもらいたいなと思った。
ドライヤーを片づけて戻ってくると、布団の上に移動していた。少し居心地悪そうで、表情も不安げだ。
「横になる?」
おむつの事には触れずに声を掛けると、小さく頷いてからおずおずと横になった。
シャワーを浴びて疲れたのか、目がとろんとしている。起こさないように出来るだけ静かに机の上を片づけていると、いつの間にか小さな寝息が聞こえてきた。
+++
怒鳴り声が聞こえる。何を言っているかはわからない。それなのに、耳を塞いでもその声だけは聞こえてくる。
体が重い。熱い。怠い。呼吸を繰り返して、何とか少しでも熱を逃そうとする。体の中に火が燃えているかのように熱い。
お尻の下がじっとりと濡れている気がする。ああ、またやってしまった。何度もトイレに行ったのに。どうしてしてしまうんだろう。
怖い、怖くてたまらなくて、息がうまく出来なくなる。ごめんなさい、ごめんなさい。うわ言のように繰り返す。
痛いのは嫌だ。ごめんなさい、次はちゃんと起きてトイレに行くから。だから、怒らないで、叩かないで。
お腹の奥がきゅうと熱くなる。あ、だめ、おしっこ。体がぶるっと震える。といれ、いかないと。起きて、布団から出て、トイレで済ませないと。頭ではわかるのに、体は全然動かない。
といれ、といれ。ぞわぞわした感覚が強くなる。嫌だ、やだ、といれ、はやく。はやく行かないと、また布団を汚してしまう。おねしょしたら、怒られる、叩かれる。
痛いのは嫌、ごめんなさい、ちゃんとトイレに行くから、叩かないで、怒らないで。
怒鳴り声はまだ聞こえる。いやだ、お願い、はやく、トイレ。動いて、起きて、トイレに行かないと。それなのに、体が動かない。
いやだ、ごめんなさい、ごめんなさい。お願い、誰か、助けて。誰か、誰か。
寧々さん、助けて。
+++
はっと気が付く。目を開けると、常夜灯の付いた薄暗い天井が見えた。全身が重くて、心臓がばくばくと鳴っていた。
頭が痛い、体が熱い、重い、だるい。熱いのに寒い。体が汗でびっしょりと濡れている。しんどい、苦しい。はあ、はあ、と呼吸が上手にできない。
起きた、ちゃんと、起きた。あれは夢だった。今はちゃんと起きた。体も動く。
布団は濡れてない。おねしょする前に、ちゃんと起きれた。良かった。はやく、トイレに行かないと。
体を起こそうとして、すぐ隣に誰かがいることに気付いた。薄暗くてもそれが誰かはわかって、その人を見た瞬間、ふっと体から力が抜けた。落ち着くと尿意はほとんど感じなくて、そのままもう一度横になった。
寧々さん。胸の中で名前を呼ぶ。彼女は目を閉じていた。すうすうと僅かに寝息が聞こえる。布団も被らず、敷布団にもほとんど乗っていない。このままだと寧々さんが風邪をひいてしまう。布団を持ち上げて、起こさないようにそっと掛けた。
体を少し動かすと、かさっと紙の擦れる感触がある。寧々さんが買ってきてくれた紙おむつ。その感触は違和感しかないけれど、これならおねしょしても布団を汚さない。それは何よりの安心だった。子どもじゃないのにおむつなんて、と躊躇う気持ちもあるけれど、布団を汚すよりは良い。
寧々さんはおねしょしても怒らないだろうけれど、それでも、起きた時にお尻や背中がぐっしょりと濡れていると、体が強張って、心臓がばくばくと高鳴って、苦しくて怖くてたまらなくなる。
その瞬間を思い出しただけで、体が強張ってしまう。大丈夫、大丈夫。自分で自分を落ち着ける。
大丈夫、おねしょはしてない。もししてしまっても、おむつを履いているから大丈夫。それに、寧々さんは布団を汚しても怒らない。だから、大丈夫。
寝顔を見ていると、なんだか触れたくなった。少しなら大丈夫かなと手を伸ばして頬に触ると、彼女はゆっくりと目を開けた。起こしてしまったと慌てたけれど、寧々さんは目を細めて笑った。
「寝るつもりなかったのに、いつの間にか寝てた。ごめんね」
首を振って返事をすると、彼女は笑顔を深くする。それから手が伸びてきて、俺の額に触れる。冷たい手は気持ち良いけれど、彼女の手がそんなに冷たくなっていることは心配だった。
「まだ熱あるね。つらいね」
頭が痛い。鼻も喉も痛い。体が熱い。でも寒い。怠くて、辛くて、しんどい。でも、寧々さんが触れてくれるだけで、少し楽になる。寧々さんは叩かないし、怒らない。この人の隣は、すごく安心できた。
「寧々さん、手、冷たい」
「あ、ごめんね。でも今はちょうど良いんじゃない?」
「そうだけど、冷たいの、心配」
「そう? 大体いつもこうだよ」
「なら余計に心配。ちゃんと布団被って」
「はあい」
体を寄せる。温かい。安心する。彼女の少し低い体温を感じていると、ぐう、とお腹が鳴った。
「何か食べる?」
頷くと、寧々さんは俺の頭を撫でてから体を起こす。部屋は常夜灯しか付いていないから薄暗い。それなのに躊躇いもなく普通に歩いていくので、ちょっと驚いた。
布団の上に座り、彼女の戻りをはらはらしながら待つ。どこかぶつけたり何か踏んだりしないかな。明かりを付けようにも、見える範囲には電気のリモコンが見当たらない。そんな俺の心配もどこ吹く風で、寧々さんはなんてことない様子で戻ってきた。
「プリンとスポーツドリンク持ってきたよ」
「ありがと。……暗いのに普通に歩くの、すごい」
「そう? 慣れだよ」
そういうものなのか。見ている方は心配ではらはらするので、出来たら普通に明かりを付けて歩いてほしい。ぼーっとした頭でぼんやりそんなことを考えると、口先にスプーンが差し出された。
結局、俺も彼女も部屋の明かりは付けずに、薄暗い部屋でプリンを食べさせてもらう。意識していなかったけれど思ったよりお腹が空いていたみたいで、どんどん食べ進めてしまった。
「もういっこ食べる?」
「うん。あ、寧々さんの分なくならない?」
「いっぱい買ってきたから大丈夫だよ。織仁くんが食べられるものはたくさん食べて」
その言葉に甘えて、もうひとつ食べる。プリンは美味しくて食べやすくて好きだ。普段のご飯も勿論好きだけど、これが一番好きかもしれない。
二つ目を食べ終えると、寧々さんが薬とコップを差し出す。それを飲み込んで、スポーツドリンクを飲む。お腹が膨らむと、再び眠くなった。それと、水分をたくさん取ったからか、じわりと込み上げる尿意を感じた。いくら紙おむつを履いているとはいえ、起きている間はちゃんとトイレに行かないといけない。
「他に何か欲しい物ある? それとももう寝ようか」
「ううん、大丈夫。寝る……けど」
「けど?」
「おしっこ、行く」
布団から立ち上がると、少しふらついたけど昼間よりはましだった。そのまま、彼女の真似をして薄暗い部屋を歩く。流石に寧々さんみたいにさくさくと歩くのは怖いので、ゆっくりゆっくりと足を踏み出す。
少し歩くと、がん、と足が何かに当たった。……痛い。はっきりとは見えなかったけれど、多分、机に足をぶつけたのだと思う。
「大丈夫? ぶつけた? 電気つけようか?」
「だ、い、じょーぶ……」
何であの人はあんなにすいすい歩けるんだろう。家具の位置はなんとなく覚えているけれど、それでも足をぶつけてしまった。もっと長く住んでいれば、出来るようになるのかな。
自然と『住む』という言葉が出てきて驚いた。そっか、俺は今、ここに住んでいるんだ。これからもいさせて貰えたら良いな。出来るだけ長く。出来たら、ずっとずっと。熱でぼんやりした頭だからか、珍しくそんな楽観的なことを考えた。
廊下まで行くと、寧々さんも同じように部屋から出てきた。手には俺が食べたプリンの空とコップ。片付けてくれるみたいだ。ありがとうと言うと、彼女は気にした様子もなく笑った。
トイレに行こうとして、何となく寧々さんの洗い物を後ろで見守る。背中を向けられているのがちょっと寂しい。彼女は俺がじっと見ているのを気にしていたけれど、そのまま洗い物を進めていた。
少しすると水の流れる音が止まった。タオルで手を拭いているのを見て、その袖を引く。
「ん、どうしたの?」
「……おしっこ、ついてきて」
彼女が声も無く笑うのがわかる。そのまま彼女の袖を引いて、トイレに入る。ズボンと紙おむつを下ろして、便器に座ると、正面に立った彼女が俺の頭を撫でた。
「おむつ、まだ大丈夫?」
「ん」
おむつは汗で僅かに湿ってはいたものの、まだ全然問題なさそうだった。おねしょしたら、これを濡らしてしまうのかな。考えるとちょっと怖い。でも、布団は濡らさないはず。
ちゃんと吸収してくれますように、とよくわからない事を願った。
じわじわ込み上げる尿意に体を任せると、ちょろちょろと熱いおしっこが出た。おしっこ、ちゃんとトイレで出来た。安心して、肩から力が抜ける。気持ち良さにぶるりと体が震えた。
「いいこいいこ」
頭を撫でられる。その優しい声に、じわりと目元が熱くなる。いいこ、いいこ。良い子は、叩かれない、怒られない。嬉しい。すごく、嬉しい。
我慢していたつもりはなかったのに、いっぱい出て止まらない。ぼーっとしながら顔を上げると、寧々さんの柔らかい視線と交わる。
頭を撫でていた手が降りてきて、目元に触れる。それで自分が泣いていることに気付いた。袖で目元を拭おうとして、やめた。寧々さんの手が優しく拭ってくれるのがとても嬉しかった。
おしっこが全部出て、服装を正して、手を洗って。それから、傍で待っていてくれた寧々さんにぎゅうと抱き着いた。
わ、と驚いた声が聞こえて、それから彼女の手が背中を撫でる。
いいこ、いいこ。彼女の声が俺の中で響く。嬉しい。嬉しさに任せてぎゅうぎゅう抱き着くと、寧々さんが苦しいよーと困ったように、でも少し笑った声で言った。
寧々さんに言われて、先に布団に戻る。今度はどこにもぶつけなかった。
戻ってきた彼女の手には氷枕があった。頭のところに置いてくれて、横になるとひんやりした感覚がとても心地良かった。
彼女も俺の隣に横になる。掛け布団を持ち上げて、ちゃんと彼女にも被せた。
「寧々さんも、布団、入ってる?」
「入ってるよ。ありがとう」
「布団被らないと、風邪引いちゃうから」
「うん、大丈夫」
お腹も満たされて、水分も取って、トイレも済ませた。熱い頭が氷枕で冷やされて、すぐ傍には寧々さんがいる。体も心も力が抜けて、ふわ、と欠伸が漏れた。
とんとん、と寧々さんの手が一定のリズムで触れる。目を閉じて睡魔に体を任せると、すぐに眠ってしまいそうになる。嫌な夢を見るかもしれない。少しだけそう思ったけれど、きっと大丈夫だとも思う。
いいこいいこ。寧々さんの声。ちゃんとトイレも済ませた。紙おむつも履いた。だから、布団は汚さない。だから大丈夫。だから、怒られない、叩かれない。大丈夫、大丈夫。
いつの間にか眠っていた。夢も見ない程、ぐっすりと。
+++
眩しい。目を開けると、カーテンの隙間から日差しが差し込んでいた。
まず隣を見ると、寧々さんはいなかった。微かに部屋の外から物音が聞こえる。多分、シャワーの音だから、お風呂かな。洗濯機の音も聞こえる気がする。
ゆっくり体を起こす。まず、お尻がぐっしょりと濡れているのを感じて、体が硬く強張った。ばくばくと心臓が高鳴る。恐る恐る掛け布団の中を確認したけれど、布団は濡れていなかった。
あ、そうだった。おむつ、履いてたから。そっとズボンのウエスト部分を引っ張って中を確認する。
白い紙おむつは昨日より大きく膨らんでいた。お尻はじっとりと湿った感覚がして不快だけれど、布団どころかズボンも全く濡れていない。すごい、とつい声が漏れた。
布団を汚していないとわかると、体から力が抜ける。昨日の熱さも怠さもさっぱりなくなっていて、すっきりしていた。
いっぱい寝たので、体のあちこちが凝っている。座ったまま腕を上げて背伸びをしていると、足音が聞こえて、寧々さんが部屋に戻ってきた。
「あ、寧々さん、おはよ」
「おはよう。体、どんな感じ?」
「もう平気だと思う。ありがと」
寧々さんは俺の傍に寄ると、ぴたりと額に触れる。昨日より温かい手。近付いたからか、石鹸の香りも微かに感じて、予想通りお風呂に入っていたんだとわかった。
「うん、熱、下がってる。良かった。でも今日は念のため大人しくしてようね」
頷くと、頭が撫でられる。その感触に、つい頬が緩んだ。
「何か食べる? あ、先に着替える?」
「着替える。……あの、布団、汚してない、よ」
「ほんとだ。えらいえらい」
これだけで褒めてくれるなんて、少し恥ずかしい。でも嬉しかったし、すごく安心できた。
「おむつ、どう? かぶれたりしないなら、体調崩したときは使っても良いかもね」
「ん。……あの、変じゃない? 子どもじゃないのに、おむつとか」
「私は良いと思うけどな。可愛いよ」
「……何言ってんの」
引かれないか、嫌われないか。そういう事を心配していたのに、寧々さんはあっけらかんとした様子で、思わず力が抜けた。
正直、おむつは恥ずかしいけど、安心して眠ることが出来た。体調を崩したときだけは、これも良いかもしれない。
「着替えてくる」
「うん。着替え、用意してあるからね」
「ありがと」
脱衣所まで移動する足取りは軽い。流石に明るい部屋では足はぶつけなかった。
服を脱ぎ、おむつも脱ぐ。ずっしりと重くて、中は黄色く色が変わっていた。全然覚えてないけど、寝てる時にこんなに出したんだと思うと、恥ずかしさが込み上げる。丸めて、ゴミ箱に入れて、服を着た。
そのままにしておくのは気が引けて、ごみ袋の口を縛った。他の部屋のごみもまとめて、後で出してこよう。横でがたがたと動く洗濯機はもう少しで終わりそうだ。昨日は何もできなかったから、洗濯も俺が干そうかな。
そう思っているとお腹がぐうとなった。お腹、空いた。寧々さんは何か食べたかな。まだなら、洗濯を干す前に一緒に食べたいな。
大きなごみ袋を取り出して、廊下のごみも入れる。それから部屋に戻って、寧々さんに声を掛けた。
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初出: 2021年4月30日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年4月30日