ベッドで横になっていると、端がぎしりと軋む。そちらを見ると、るりがベッドの傍らに腰掛けていた。
「やーちゃん、デートしよう」
脈絡のない発言に一瞬固まる。そんな私とは裏腹に、彼はにこにこと楽しそうだ。
断る理由もないので、良いよと返事をする。それから、どこに行こうかと話を進めようとすると、それより先にるりは口を開いた。
「じゃあ、映画見て、美味しいご飯食べよう」
「決まってるんだ」
「デートってそういう物じゃないの?」
間違ってはないけれど、デートイコール映画でもないと思う。敢えて聞きはしなかったけれど、多分、何かを見て勉強したんだろうなと勝手に想像した。彼のそういう真面目なところは割と好きだったりする。まあ、その結果が時折ずれていたりもするけれど、それもご愛敬だ。
「怖い映画を見て、キャーってなってるところを慰めるんでしょ。大丈夫、俺がついてるよって」
「……ホラー映画にするの?」
「あ、やーちゃん怖いの苦手? じゃあ違うのにしよう。恋愛ものとか良いかな。手、繋いで見ようね」
苦手というわけでもないけれど、勝手に話が進んだのでそういう事にしておいた。一体、何に影響を受けたんだろう。今度さり気なく聞いてみようと思った。
+++
大きな手がぐいぐいと引っ張って、速足に進んでいく。彼は妙に浮足立っていて、ついこちらも顔が緩む。その足取りを少し諫めながら、自分も少し浮かれていることに気付いて、つい苦笑いした。
「映画だ、映画」
「そんなに楽しみだったの?」
「やーちゃんとのデートだからね。すっごい楽しいし、すっごい楽しみ」
にこにこと楽しそうな様子に、もう、と諫める気持ち半分と、仕方ないなあと見守る気持ち半分。どちらかというと後者の気持ちが大きい気がする。
「俺、デート初めて」
「そうなの?」
その発言には純粋に驚いた。彼は見目が良い方だから、それなりに経験があるのかと勝手に思っていた。
「やーちゃんはある? デート」
「あるよ」
え、と声と共にるりがこちらを見る。歩くのも止めてしまったので、今度は私が彼の手を引いて促した。
「誰と!?」
「誰と、って……」
続きを言おうとしたけれど、それより先にるりが矢継ぎ早に言葉を重ねていく。
「あ、いや、名前聞いても俺はわかんないかもしれないけど! 男? 女? 背は高い? かっこよかった? 可愛かった? どこ行ってどんなことしたの!?」
その勢いに、まずは彼の言葉を制する。説明しようにも、そうぽんぽんと離し続けられると、口を挟むことも出来ない。
「男の子だよ。可愛い子だった」
「何の映画見たの」
「映画は見てないよ」
かつての事を思い出しながら今度は私が話す。るりは一度は黙ったものの、次の瞬間には口を開いていた。その反応につい苦笑いが漏れる。
「じゃあどこ行ったの」
「公園」
「公園で何したの」
「普通にいろいろ遊んだよ。楽しかったな」
思い出すと、その時の気持ちが蘇ってきて、つい頬が緩む。隣のるりは私の話があまり気に入らないようで、むーっと膨れた顔をしていた。
流石にデートの時にそんな顔をさせるのは申し訳ない。意地悪も程々にしておこうと話の続きを口にした。
「かけっこしたり、かくれんぼしたり途中で休憩して、ジュースを飲みながらお喋りして」
「……子どもっぽくない?」
「そうかな。後、泥団子作ったよ。ふたりでどろどろになって」
「……え、それって」
るりはぽかんと口が開ける。その反応が面白くて、つい笑ってしまった。
「そうやって色々遊んで、夕方になったら、また明日ねってお別れしたんだ」
きょとんと惚けていた顔がじわじわと赤く染まっていく。幼い頃の思い出のひとかけらを、やっと彼も思い出したらしい。
「……それ、デートになるの」
「自分で言ってたんじゃない。やーちゃん、今日はデートだよ、って」
「……ずるい、それ」
「そう?」
「色々覚えてるの俺だけだと思ってたけど、やーちゃんも意外と覚えてるよね」
勿論、覚えている。いつ何をしたかはあやふやだけれど、どれも楽しくて大切な思い出だ。あの頃に思いを馳せるだけで、胸が温かくなる。彼にとっても同じだと良いなと思う。
「泥団子作ったり、鉄棒で逆上がり頑張ったり、かけっこ勝負したり。
そうそう、やーちゃん、怖いからトイレついてきてーって手を引っ張られたりもしたかな。ふふ、可愛かったなあ」
「なっ……! そ、そんなことは忘れてよ!」
その反応につい声を出して笑ってしまう。もっとあの頃の話をしたかったけれど、彼は真っ赤な顔で再びせかせか歩き出してしまったので、それは叶わなかった。
+++
照明が落ち、真っ暗な中でスクリーンだけが輝く。短い広告が幾つか流れた後、オープニングが始まった。
そっと隣を見ると、当たり前だが彼は真っすぐにスクリーンの方を向いている。その横顔が綺麗で、胸がどきっとした。
その表情に、かつての面影を少しだけ見つけることが出来て安心した。可愛かった少年はいつの間にか素敵な男性になっていて、その変化にまだ慣れない自分がいる。
るりはこんなに成長したのに、私はあの頃と何も変わっていない気がする。内面は兎も角、背はそんなに伸びていない。体重は、ちょっと増えた、かも。……悲しい。
私も成長したい。隣の彼に似合うような、素敵な女性になりたい。そう思いながら、視線をスクリーンに戻した。
お話は淡々と進んでいく。目はスクリーンに向けたまま、耳は繰り広げられる会話に集中する。そのまま自然と手が動いて、飲み物を口に運ぶ。唇にストローが触れると、何を考えずにちゅうと吸い上げた。
会話が終わる。シーンが変わる。新たな登場人物が現れる。そのたびに手が自然と動いて、ストローを咥えて喉を潤す。またシーンが変わり、ストローを吸う。すると、ずず、と音だけがした。いつの間にか飲み終えていたようだった。
空のカップを肘置きのホルダーに置いて、空になった手は膝の上に置いた。流石に時計は確認できないけれど、多分まだ序盤だとは思う。それなのに全部飲んでしまった。
……トイレ、大丈夫かな。大きいサイズにしない方が良かったかもしれない。スクリーンに流れるお話に集中しながら、頭の片隅にそんな心配が浮かぶ。こうやって考えると本当に行きたくなりそうだ。心配は頭から追い出し、頭の中身を完全に映画でいっぱいにした。
場面が変わる。張り詰めたシーン。流れる音楽が、登場人物たちの言葉の端々から緊張を感じる。見ている方もつい息を飲んでしまう。
繰り広げられる会話の一言一言を聞きながら、体の内側には嫌な感覚がじわじわと込み上げる。半ば無理やり気を逸らしながら、スクリーンの中で繰り広げられるお話に集中する。
手が自然とスカートを握っていた。柔らかな布地が手の中でくしゃりと潰れる。その下で、太腿をぎゅうっと寄せる。寒い時のように身体が縮こまってしまう。
ちらりと隣の彼を見る。るりは変わらず、前をじっと見ていた。気付かれる前に視線を外し、同じように前を向く。緊迫した会話と鳴り響く音楽の中で、小さく息を吐いた。
お話の緊迫感はどんどん増していく。
ぎゅうと両足を寄せて、擦り合わせるように勝手に動いてしまう。その上で、指先がスカートの布地を落ち着きなく弄り続ける。
嫌な感覚がこんこんと込み上げる。ぞくぞくと悪寒が走って、身体が縮こまる。細い呼吸を繰り返す。
手が、スカートのウエスト部分に触れた。ぽこりと膨れたお腹。その中で、大きく膨らんだ水風船がたぽんと揺れるのを感じる。
どうしよう。いつからか心配は不安に、そして焦りに変わっていた。聞こえてくる会話はただ音としか認識できず、右から左へ抜けていく。繰り返される自分の呼吸がとても大きく聞こえた。
大きいサイズにするんじゃなかった。考えなしにどんどん飲むんじゃなかった。視線が肘置きのホルダーに向く。カップには氷しか入っていない。結構な量があったのに、全部飲んでしまった。
手のひらの下、お腹の奥へ、一滴、また一滴と水分が注ぎ込まれているのを感じる。じわじわと、それでいて確実に押し寄せる感覚は、ゆっくりと逃げ道を塞がれているようだ。
席を立とうかと考えて、そっと隣の彼を見て、もう少しだけ我慢しようと考え直す。映画、楽しみにしてたのに、途中で立つのは申し訳ない。ちゃんと最後まで見ないと。
そう思うけれど、まるでそんなことはさせないと言っているかのように、悪寒が全身を走り抜ける。ぶるりと体がひとりでに身震いする。
あっ、や、あ、ぁっ。じくじくと刺すような鈍い感覚が、突然激しくなる。体が強張り、ぎゅうぎゅうと太腿が合わさる。その奥で、水風船がぎゅうと縮んで、中身が出口に一気に押し寄せるのを感じた。
あ、あ、あ。だめ、やだ、だ、めっ。手がスカートの上から両足の間に割って入る。その奥で疼く出口をぎゅうと押さえつける。そうすると大きな波が少し落ち着いて、そして自分が恥ずかしいことをしていると気付いて、すぐに手を離した。
ああ、はやく終わって。再びスクリーンに意識を向けるが、もう何がどうなっているかはわからない。ただ、激しく音楽が鳴り続けているのは救いだった。静かなシーンだったら、脚をすり合わせるときの衣擦れの音や、短く浅く落ち着きない呼吸が隣の彼には聞こえてしまっていただろうから。
+++
ふうふうと呼吸を繰り返しながら、必死に我慢を続ける。時折全身に大きな波が走り抜けて、その度にスカートの上から出口をぎゅうっと押さえてしまう。
端から見たら、トイレを我慢していることがわかってしまうだろうか。出来るだけ平静を装っているつもりだけれど、じっとしていると我慢が出来なくなりそうで、時折体を揺すってしまう。
ふと、幼い頃のことを思い出した。まだるりが幼い子どもで、私が学校帰りに公園に寄り、一緒に遊ぶのが日課だった頃の思い出。
鬼ごっこだったか、かけっこだったか。いつもの公園でいつものように遊んでいた時、るりの様子がおかしいことに気付いた。
もじもじと足踏みを繰り返し、落ち着きなくあちこちを見回している。彼のそんな姿は何度か見たことがあって、つい微笑みすら浮かんでしまう。
その様子を見ていると、るりと目が合った。その瞬間、びくっと驚いたように小さな肩が跳ねる。それから、大袈裟な程に背筋を伸ばし、何でもないようにふにゃっと笑う。
少しその目を見つめていたけれど、彼はすぐに背筋を曲げ、また足踏みを始めた。視線を落としたかと思うと、ちらちらと何か言いたげにこちらを見る。
トイレに行きたいのだな、とすぐにわかった。多分、彼は平静を装っているつもりだろうけれど、端から見るとまるわかりだった。どうしようかと思ったけれど、るりは何も言わずにこちらを見るだけ。
「るり、トイレ?」
仕方なくこちらから聞くと、彼はびくっとわかりやすく驚いた。
「ちっ、ちが、う……」
「ほんと?」
咄嗟に彼は否定したけれど、そんな訳があるはずなく。るりは真っ赤な顔を伏せたかと思うと、おずおずとこちらを見ながら、小さく口を開いた。
「やーちゃん、トイレついてきて……」
消え入りそうな声で彼は言う。さっきの作り笑いは欠片も残っておらず、くしゃりと泣きそうな顔をしていた。
もじもじそわそわと歩くるりの手を引いて、公園の隅にあるトイレに入る。中は明かりが付いているのに薄暗く、タイルはあちこち剥がれていて、正直言って不気味だ。るりが怖がるのも仕方ないとは思う。
入ってすぐ横には手洗い場と、くすんだ鏡。そして奥に個室が一つだけ。一段高くなった昔ながらの和式トイレで、足元は外から吹き込んだ砂で汚れていた。
行っておいで、と扉の前で手を離す。るりはその場で不安そうにこちらを見たかと思うと、小さな体がびくっと跳ねる。そして、慌てて中へ駆け込んでいった。
あまり近くで待っているのも良くないと思い、入り口の方へ移動しようと考えていると、慌てた足取りが聞こえた。そして、今入っていった個室からるりが飛び出してくる。片手はぎゅうぎゅうとズボンの前を握りしめ、両足がばたばたと忙しなく地団太を踏んでいた。
「やーちゃん、きてぇっ……!」
「え、だからついてきた……」
「お願い、もう漏れちゃうっ……!」
小さな手がぎゅっと私の手を握り、そのままぐいぐいと引っ張る。驚いている間に、彼は私をひっぱって、個室の中へ入ってしまった。
流石にトイレの中までついてきたのは初めてだ。るりが子どもとは言え、それは流石にまずい気がする。そう思っている間にも、るりは扉の鍵を閉めてしまった。
狭い個室にふたり押し込められ、更に狭くなる。るりはもう取り繕う余裕もないようで、小さな両手でズボンの前をぎゅうぎゅう押さえながら、段を上がった。
顔ごと壁の方を向いて、出来るだけ見ないようにするけれど、視界の端でぱたぱた動く存在にどうしても意識が向いてしまう。
「あ、あ、ぁ、っ……!」
衣擦れの音。足音。吐息に交じった焦り声。それから個室の中が静かになった。大丈夫かな。つい声を掛けそうになるのを飲み込む。その瞬間、ぴちゃぴちゃと水音が響いた。
「は、あっ……」
るりの大きな溜め息が聞こえて、つい笑ってしまう。随分我慢していたようで、水音は大きく響き渡る。小さな体でたくさん我慢したんだなあ。そこまで我慢しなくても、もっと早く言ってくれれば良かったのに。
じょぼじょぼ、ぴちゃぴちゃ。水音は長く鳴り響き、それから細くなっていって、最後には止まった。静かな中、ふうふうと彼が呼吸を繰り返すのが聞こえた。
壁をじっと眺めていると、視界の端で彼がごそごそと動く。衣擦れの音がして、それからざばーっと水を流す音が聞こえた。
それを合図に視線を戻すと、段から下りたるりと目が合う。顔は林檎のように真っ赤で、恥ずかしそうに俯きながら扉の鍵を開けていた。
「大丈夫?」
彼は俯いたまま、小さく頷いた。
一緒に個室から出て、彼が手を洗う様子を隣で見守る。濡れた手をハンカチで拭きながら、彼はおずおずとこちらを見上げた。
「やーちゃん、あの、内緒にしてね」
「わかってる、大丈夫だよ」
「絶対! 絶対内緒だからね! やーちゃんのトイレも付いてきてあげるから、絶対内緒にしてね! やくそく!」
「はいはい、大丈夫だから、ほら、手を拭いて」
内緒だからね! とるりは何度も何度も繰り返す。勿論誰にも言うつもりはない。ただ、その反応が可愛くて、つい笑ってしまうと、るりは唇を尖らせて怒るのだった。
+++
衣擦れの音、もじもじそわそわと体がひとりでに動く。幼いころのるりが今の自分と重なる。もしかしたら、今の私はあの時のるりと同じように見えるのかもしれない。
トイレ、行きたい。映画の内容はもう頭に欠片もない。じっとしていないといけないのに、足が震えるのがもう止まらない。体が自然と丸くなる。背中を丸めて、大きく膨らんだお腹を庇うような体勢で、膝を擦り合わせて必死に我慢する。
スカートの上から手の平が太ももを撫でる。時折、出口がひくひく疼いて、手がひとりでにそこを押さえてしまう。こんなに我慢したのはいつ以来だろう。思い出せないくらい、お腹が苦しくてたまらない。トイレ、トイレ、はやく。それ以外考えられない。
どうしよう、我慢、もう無理かも。途中だけれど、席を立とうか。でも、もう少しで終わるかもしれない。
そうやって逡巡していると、視界の端が僅かに明るくなった。多分、誰かが外へ出たのだと思う。その誰かの存在が、迷う私の背中を押す。
誰かが出て行ったのだし、私も、行こうかな。更に背中を押す様に、再び扉のあたりが明るくなった。
ほら、ひとりじゃない。他にもいる。でも、流石にそれは。でも、もう我慢の限界で。でも、でも、でも。
そっと隣を見ると、偶然にもるりもこちらを見た。視線がぶつかり、慌てて目を逸らす。
何で、るりはこちらを見たんだろう。たまたまなのか、それとも、ごそごそしていたのが気になったのか。気付かれていたらと考えると、居た堪れなさに顔が熱くなる。
平静を取り繕わないといけないと思いながらも、でももう既に限界も近くて、じっとしていると耐えられない。
トイレ、トイレ、トイレ。もう他には考えられない。はやく、トイレ、はやく。頭のてっぺんから爪先まで悪寒が走り抜ける。びくっと全身が震える。
お腹の奥で、破裂しそうな水風船が中身を押し出そうと、ぎゅうっと縮む。あ、あ、あ、っ……! 出口がじんじんと疼く。咄嗟にスカートの上から指先でぎゅうっと押さえる。
だめ、トイレ、もう、本当に。ぎゅうぎゅうと押さえてもほんの少し楽になるだけで、トイレに行きたくて行きたくて堪らない。
波が押し寄せて、ぞくぞくとした悪寒が止まらない。だめ、もうむり、といれ、おしっこっ……。もう無理、出ちゃう。もう良い、トイレ、にっ……!
全てをかなぐり捨てて席を立とうとした時、スクリーンが目に入った。いつから見ていなかったのか、その間にどれだけの時間が経ったのか。私の見ていたシーンはとっくに終わっていて、単調な風景をバックに、文字が下から上へと流れ始める。
エンドロールだとわかった瞬間、目の前が一気に明るくなった気がした。ばらばらと座席を立つ人が視界の端に映る。その人たちと一緒に席を立ちたい気持ちをぐっと堪えて、椅子に座りなおす。
もう少し、あと少し。息を飲んで、画面を見つめる。クレジットはゆっくりゆっくり流れていく。
はやく、はやく、はやく。ぎゅうぎゅうと両足を擦り合わせて、必死に我慢するけれど、もう本当に限界で。トイレ、トイレトイレトイレ、はやく、トイレ。
ふう、ふう、と呼吸を繰り返す。もうちょっと、あと少しだから。はやく、はやく、はやくっ。トイレ行きたい、はやくトイレ、お願い、おしっこ、はやく、はやくっ……!
エンドロールが終わる。暗かった部屋に明かりが灯り、じんわりと明るくなる。周りの人がばらばらと立ち上がる中、私も素早く立ち上がった。
「るり、ごめん、あの、トイレ、行っても良い?」
隣でまだ座ったままのるりに慌てて声を掛ける。
どこか惚けた様子のるりは、私の声に意識を取り戻したかのようにはっとして、こちらを見た。彼の視線の先で自分がどう映るのか気になった。平静を繕っているつもりだけれど、それも出来ているのかわからない。
「……あ、うん」
「ごめんね」
どこかぼんやりした様子のるりが気にならなかったわけではない。でも、それ以上に、本当に限界で、じっと立っていることすら辛くてたまらなかった。
るりの前を歩いて外へ出る。他の部屋もちょうど終わったところなのか、エントランスには大勢の人がいた。その中を掻き分け、廊下にある案内にしたがって奥へ進む。もう少し、というところで、足を止めた。というよりは、止めざるを得なかった。
廊下の奥には見慣れたトイレの表示がある。けれど、その前にはずらっと人の列が伸びていた。上映後はトイレに行く人が多いのは当たり前だとは思うけれど、まさかここまでとは思わなかった。
見えるだけでも十人以上、きっとトイレの中にも待っている人がいる。そんなに待つ、なんて、そんなの、もう。
出口がじんじんと疼く。体に力を入れて、ぐっと息を飲んだ。
振り向くと、すぐ後ろにいたるりと目が合う。不安そうな目はもの言いたげだ。ぎゅうとスカートを握りしめて、今来た廊下を戻る。
「やーちゃん」
「下の階に行こう。そこならもう少し空いてる、かも、だから」
声が震える。足も震えている気がする。それでも何とか堪えて、前へ前へと歩いていく。
私のやや後ろをるりがついてくる。本当なら、映画の感想でも話しながら、ゆっくりと歩いていたはずなのに。申し訳なさを感じるけれど、それ以上に生理欲求が限界だった。
足早にエスカレーターに乗り込み、下の階に進む。ああ、だめ、はやく、といれ、お願い、はやく。出口がひくひくと疼く。だめ、でちゃう、はやく、おしっこ、おしっこしたい、はやく、はやくっ。
下りた瞬間、辺りを見回してトイレの案内を探す。見つけるのと同時に、そちらに向かって足を動かす。
もう余計なことなんて考えられない。トイレ、おしっこ、はやく、はやく、はやくっ……! 走りたいけど、走ることも出来ない。ああ、だめ、でちゃう、といれ、おしっこっ……。
歩いて、歩いて、お店の立ち並ぶ中、隅っこに待ち望んだトイレを見つける。でも、近くまで寄る必要もなく、そのトイレにも外まで行列が伸びているのが分かった。
「やーちゃん、あ、のっ」
「もうひとつ、下の階なら」
るりが何か言おうとした事に気付いたのは、ずっと後だ。その時は、それ以上言葉を紡ぐ余裕もなかった。
縺れそうな足取りでエスカレーターへ戻る。るりが慌てた足取りで後ろを付いてくる。ごめん、本当にごめんと何度も何度も胸の中で謝る。
もう取り繕う余裕もなく、両足がもじもじと動くのが止められない。だめ、といれ、おしっこ、おしっこ、はやく、おねがい。
慌てて降りて、案内を探して、見つけて、そちらへ向かって。お願い、もう本当に我慢できない。でちゃう、もう、本当にでちゃう、トイレ、おしっこ、お願い、はやく。
走りたいけど、もう走れない。そろそろと、でも出来るだけ早く足を進める。
先程と同じように、お店が立ち並ぶ中に奥へ伸びる通路を見つける。そこに飛び込むと、待ち望んだトイレの標識が見えた。けれど、その前には数人の行列が見えて、その場に立ち尽くす。
そんな。ここも、なんて。ぎゅうとスカートを握りしめる。足が震える。じんじんと出口が疼く。といれ、おしっこ、もう、本当に……。
もうひとつ下の階に行こうと振り返ると、るりと目が合う。ごめん、と口を開こうとしたけれど、それより先に彼が動いていた。
「ごめん、やーちゃんっ……!」
驚きの声が漏れるより先に、るりが私の隣を通り抜けた。振り向くと、彼は片手でお腹を押さえながら、人気のない男子トイレへ飛び込んでいった。
ばたん、と扉か閉まる音で我に返る。それから、ぶるりと全身が震えて、一瞬だけ忘れていた感覚が蘇る。どうしようどうしようと考えている間に、女性が私の隣を通り過ぎてお店の方へ消えていく。前の列は少し短くなっていた。
トイレの外で待っているのは数人。中には何人いるだろうか。考えている間にも、大きな波が体を走り抜けて、お腹の中で水風船がぎゅうぎゅうと縮もうとする。
あ、あ、あ、だめ、トイレ……! 慌てて列の最後尾に並ぶ。すると、中からまたひとり出てきて、列がまた前に進んだ。
両足を擦り合わせ、小さく足踏みを繰り返し、指先がスカートの布地を握りしめる。だめ、といれ、はやく。おしっこおしっこおしっこ、おねがいはやく、おしっこでちゃう、はやく、はやくっ……!
ひとり進んで、ふたり進んで。なんとか廊下から中へ入る。中には、私の前に三人。もう少し、あと少しだから。
もうじっとしていられない。もじもじと膝を擦り合わせて、足踏みを繰り返して。前にいる人たちには、どれだけ余裕が無いんだと思われるかもしれないけれど、もう取り繕ってなんていられない。
でちゃう、おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! お腹が張り裂けそうな程にふくらんでいる。出口が疼いて、必死に我慢しているのに、もう本当に出てしまいそうで。
列が少し前に進む。でちゃう、もれちゃう、おしっこ、もうだめ、おねがいはやくといれっ……! 必死に堪えて、我慢して、でももう限界で。まっすぐ立っていられない。お腹を抱えるように前屈みになって、両足は落ち着きなく足踏みを繰り返して。
またひとり、列が進んで。そして、またひとり進んで。前にもう人はいない。次が自分の番。そう思うと、途端に気が緩んでしまう。
全身に大きな波が走り抜ける。途端に出口が内側からぎゅうぎゅうと抉じ開けられようとする。あ、あ、あ、だめ、おしっこ、おしっこおしっこっ……!
ぎゅうと体が強張る。必死に硬く力を入れる。それでも全然治まらなくて、そのまま体を捩る。でちゃうでちゃうでちゃう、おしっこ、だめ、おしっこでちゃうっ、あ、あ、あっ……!
じわりと熱い雫が滲む感覚。咄嗟にスカートの上から、指先でぎゅうぎゅうと押さえつける。あ、あ、だめ、といれ、おしっこ、でちゃう、だめ、おしっこおしっこおしっこっ、あ、あ、あっ……。
もう手が離せない。ぎゅうぎゅう押さえながら、ぴたりと閉まったままの扉を見つめる。お願い、はやく、もうほんとにだめ、でちゃう、おしっこでちゃう、から、おねがいはやく、おしっこっ……!
地団太を踏み、手はぎゅうぎゅうとスカートの上から出口を押さえる。上手く呼吸が出来なくて苦しい。はくはくと必死に短く浅い呼吸を繰り返す。
といれといれといれ、おねがい、といれ、おしっこでちゃう、もれちゃう、おねがいだからはやくっ……!
ぎい、と軋む音がして、扉が開く。慌てて足を動かす。手はもう離せない。中から出てきた人とすれ違うようにして、個室へ飛び込んだ。
扉を閉めて、鍵を掛ける。手が震えて、がちゃがちゃと音がなる。
だ、めっ、でる、おしっこ、でるでるでる、でちゃう、おしっこ、おしっこおしっこおしっこっ、だめ、あ、あ、あっ……!
スカートの中に手を入れて、下着を引きずりおろす。それと同時に、洋式トイレへ座り込んだ。
その瞬間、ぶじゅうう、と熱いおしっこが噴き出した。胸の底から熱い溜め息が漏れた。
じゅうう、と水音が響く。ぴちゃぴちゃと雫が撒き散らされ、じょぼじょぼと注ぎ込まれる音がする。その激しい水音に、慌てて壁のボタンを押して、流水音を流す。私の体から発する水音が人工的な音に紛れていく。
お腹がどんどん楽になっていく。間に合った、良かった。本当にぎりぎりだった。漏れちゃうかと思った。
我慢しすぎたのか、おしっこは全然止まらない。すごい勢いで、すごい量で、自分で驚く。本当に、危なかった。
少しずつ落ち着いてくると、頭も冷静になっていく。膝の上でくしゃくしゃになったスカートの皺を撫でて伸ばしながら、まず頭に浮かんだのはるりのことだった。
るりもトイレに行きたかったのに、私が連れ回してしまった。男性用のトイレなら上の階でも空いていたのに、我慢させてしまった。思い返せば、途中で何か言おうとしていた。悪いことをしてしまった。
大丈夫だったかな。後で謝らないといけない。彼には届かないとわかっていながらも、ひとまず胸の中でごめんねと呟いた。
途中から映画も全然集中出来ていなかった。デートだったのに、本当に悪いことをしてしまった。この後は挽回出来たら良いなあ。でも、それよりまずはるりのことが心配だ。
時間を掛けて、やっとお腹が空っぽになる。安堵の息が漏れた。呼吸を落ち着けてから、服装を正す。全身ぐったりと疲れていた。
個室から出ると、トイレには誰一人いなかった。列に並びながら、みっともなく我慢を繰り広げていたことを思い出し、顔が赤くなる。
手を洗いながら鏡で自分の顔を見ると、火照って頬が赤く染まっていた。乱れていた髪を手早く整えてから、冷たい手を頬に当てる。少し火照りを冷ましてから、トイレを後にした。
通路に戻ると、そこにも誰一人いなかった。てっきり、るりが待ってくれているかと思っていたので少し驚く。
私が並んでいた時間も含めると、結構な時間になるので、もしかしたら付近のお店を見ているのかもしれない。そう思い、お店通りの方まで出てみるけれど、見える範囲には彼の姿は見つけられなかった。
トイレの付近まで戻ると、男子トイレから出てきた人が目に入った。その姿には見覚えのあって、視線が向く。相手も同じだったようで、互いに向けた視線が交わった。
「やーちゃん、え、と、……ごめん」
謝ることはないのに、るりは申し訳なさそうに視線を伏せる。白い頬が仄かに赤く染まっていた。
「ううん、私もごめんね。自分のことばっかり」
そんなことない、と彼は言う。近くに寄ると、ふたりしてへにゃりと笑った。
「行こうか。……あの、体調は大丈夫? 調子よくないなら、帰ってご飯にしようか」
「あ……、うん。大丈夫だよ。平気」
言葉を濁すので、本当に大丈夫か気になった。見た感じ、顔色が悪いわけではないけれど、それでも何か隠しているのではないかと心配になる。
「どこかで休憩する? 何か温かいものでも飲もうか」
「大丈夫だよ。……あの、お腹壊してるとかじゃないから、大丈夫です。ごめん」
俯き、視線を逸らしながら、るりが私の手を握る。手を洗った後だからか、ひんやりとしている。
その手を握り返して、ふたり並んで当てもなく歩き出した。
本当なら、映画の感想でも言いながらウィンドウショッピングを楽しめばデートらしいとは思うものの、私も彼も自然と映画については触れなかった。
多分、私と同じように、彼も映画の内容が頭に入ってないのかもしれない。それなら折角だし、もう一度見に来ても良いなあと考える。勿論、次の時は水分控えめで。
このサイト上にある画像・文章の複製・転載はご遠慮ください。
初出: 2021年4月20日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年4月20日