使用人控室の扉を音を立てないようにそっと開ける。中では奥で数人が談笑していた。気付かれないようにできるだけ静かに中に入った。
扉のすぐ傍には大きく四角いキーケースが取り付けられており、不用心にも開いたままだ。屋敷中の鍵をここで保管しておきながら、こんな状態なのは不用心が過ぎるといつも思う。だからと言ってわざわざ指摘なんてしてやらないが。
並んだ鍵の中から目的の物を手に取り、そのまま物音を立てずに離れた。そっと扉を閉めるが、奥で談笑している使用人たちがこちらに気付いた様子は無かった。
扉を閉めると同時に、廊下を駆け出した。ぱたぱたと足音が響いたが、周りには誰もいなかったので気にしない。鍵を手に入れてしまえば、後は見つかる前に辿り着いてしまえばこっちのものだ。
階段を上がり始めると、下の方で名前が呼ばれるのが聞こえた。
「ワイアット様! どちらですか! 先生がお見えです!」
当たり前だが返事はしない。聞こえないふりをして、そのまま階段を上り切る。
「ワイアット様! お部屋にお戻りください! ワイアット坊ちゃん!」
どんなに呼ばれたって行くものか。今日は勉強の気分じゃない。誰だってさぼりたい時くらいあるだろう。まあ、昨日もさぼった気がするけれど、それはそれとして。
呼ぶ声が段々と大きくなるのを聞き流しながら、柔らかな絨毯を踏みしめて目的の場所に辿り着いた。さっき持ってきた鍵で扉を開けて、滑り込むように中に入る。そしてすかさず内鍵を閉めて、ふうと一息付いた。
倉庫室は狭く薄暗い。色々な物が雑多に詰め込まれていて、壁に沿って置かれた棚だけでは収まりきらず、床にまで様々な箱が積まれていた。
やっと辿り着いた安全地帯に、ふうと息を吐く。扉を正面に見る位置で壁に背を預けて座り、ぐうっと背伸びをした。
座った体勢で、届く範囲で適当に手に取る。それが見覚えのあるお菓子の箱で、そのまま封を開けて、中身を口に入れた。馴染みのある味を咀嚼しながら、今度は反対側の壁に目を向ける。
こちらに棚はなく、箱がそのまま天井付近まで積み上げられていた。端の辺りのものは開いていて、中には缶のジュースが詰め込まれていた。それも手に取って、一気に飲み干す。喉が渇いていたので、続いてもうひとつ開けたところで、外からばたばたと足音が聞こえた。
見つからないように息を殺していると、扉をノックする音が狭い部屋に響いた。それから女の使用人がよく通る声で俺の名前を呼ぶ。
「坊ちゃん! ワイアット坊ちゃん! ここにおられるんでしょう!」
どれだけ呼ばれても返事をするわけがないとわからないものか。外からの呼びかけを聞き流しながらジュースを飲んでいると、使用人はノックを続けながら忙しなく言葉を続ける。
「先生がお見えですよ! 早くここから出て、お部屋に戻ってください!」
そう言われて戻るなら、初めから逃げない。二本目も飲み終えて、手癖で空の空き缶を潰す。お菓子も丁度食べ終えたので、その袋と一緒に部屋の隅に置いた。
ノックは続けられて、使用人の声は女から男へ変わった。いい加減諦めれば良いのに、こいつらも意外と暇だなと思った。
もうひとつお菓子の袋を開けて、ジュースも追加して、使用人が静かになるのをのんびりと待つ。
改めて考えても、この倉庫は逃げ場所として最適だ。食べ物も飲み物もあるし、鍵を持って入ってしまえば、誰も手を出せない。
初めはスペアキーがあるのではと思ったけれど、誰も鍵を開けないところを見ると、無いのか気軽に持ち出すことが出来ないのか。どっちにしろ、ここにいたら誰も手を出すことが出来ないということだ。
難点としては、何故か照明が無いので薄暗いことだ。その為、明かりは天井近くに開けられた小さな窓から僅かに差し込むだけ。
しかも部屋自体が狭いうえに物が雑多に置かれているので、決して居心地は良くない。それでも座るスペースくらいはあるので、少しの時間を過ごすくらいなら全然平気だった。
二つ目のお菓子も食べ終え、空になった袋を適当に丸めて部屋の隅に投げ捨てた。お腹も膨れて、喉の渇きも満たして、さてどうしようか。とりあえず、ほとぼりが冷めるまでは閉じ籠っていたほうが良いだろう。
どうせ親父の帰りは今日も遅い。適当なタイミングでここを出て、親父が帰るまでにはベッドで寝たふりをするか、いっそ窓から抜け出して遊びに出るか。どうせ明日になれば使用人の小言もだいぶと減っているだろう。
問題はここでどうやって時間を潰すかということだ。慌ててここに来たので、鍵以外は何も持ってきていない。せめて雑誌のひとつでも持ってこれば良かった。
一度立ち上がって、棚に目を通してみたけれど、勿論そんなものはない。つい溜め息が漏れた。
もう一度座りなおして、ぐうっと背伸びをする。差し込む光はまだ明るい。ここで何時くらいまで過ごすことになるか。
以前ここに隠れたときは足元が見えないくらい暗くなるまでここで過ごした。それからこっそり部屋へ戻ろうとしたが、使用人頭に見つかってしまった。使用人頭は年寄らしく小言をぐちぐちと繰り返しながらも夕食を用意してくれた。それを食べて親父が帰る前にさっさとベッドへ入ったので、親父の説教は免れたのだった。
とりあえず少し寝るか。硬い壁にもたれ掛かって目を閉じる。床が固くて尻が痛い。絨毯でも敷けば良いのに。そんなことを考えながら、うとうとと微睡んだ。
+++
目を開けると、薄暗い部屋は更に薄暗くなっていた。硬い床にずっと座っていたから尻が痛いし、狭い場所で縮こまっていたので体が強張っている。
立ち上がって体を伸ばす。窓から差し込む光は赤みを帯びていた。もう夕刻らしい。
喉が渇いていたので、ジュースをもう一本開けて飲み干す。もう少しここで時間を潰して、完全に日が暮れたら出て行こうか。そう思いながら、飲み干した缶を再び潰した。
もうひと眠りするか、もしくは何か他のことで時間を潰すか。考えていると、ぶるりと体が震えた。
ジュースを飲みすぎただろうか。ズボンの下でじんじんと鈍く疼く腹を撫でる。じわじわと込み上げる尿意を身を揺すって誤魔化す。
トイレに行こうにもここから出る必要がある。流石にまだ使用人の機嫌が落ち着いていないだろう。もう少しここで時間を潰さないといけない。
硬い床に座ったまま、時間が過ぎるのをじっと待つ。じわじわ込み上げる尿意は段々と強くなる。差し込む光は赤い。はあ、と溜め息が漏れる。
はやく暗くならないか。そんなことを考えていると、突然大きな足音が聞こえてきた。
耳を澄ませると、足音はすぐそばで止まる。なんだなんだと思っていると、ばんばんと扉が今までより激しく叩かれた。
「ワイアット!」
低い声が地鳴りのように俺の名前を呼んだ。
聞き覚えのある、というか嫌になるほど聞いた声に、思わず背筋が伸びた。息を殺して、ここにいることを悟られないようにしてみるものの、既に知られているから親父は俺の名を呼んでいる訳だ。
「出てこいワイアット! またさぼったらしいな! その上使用人に迷惑を掛けて、何をしているんだお前は!」
そんな声で呼ばれて誰が素直に出ていくのか。そもそもまだ外は明るいのに、何故親父がもう帰ってきているのか。普段なら日付が変わっても帰ってこないのに。
ノックの音は更に激しくなる。本当に扉が壊されるのではないか。そう思ったものの、下手に身動きは出来ない。
じっと息を殺して様子を窺う。こんな状況になるなんて想像していなかった。これではいつ出て行っても親父に見つかってしまう。
窓から外へ抜け出そうかと一瞬だけ考えたが、窓は高い上に小さく、子どもでも通り抜けられるか微妙なところだ。
激しいノックの音は一旦落ち着く。室内は再び静まり返り、自分の激しい鼓動だけがばくばくと体の中で響いていた。
扉に耳を付けて外の様子をうかがう。内容はわからないが微かに話し声が聞こえて、それに続いて足音が聞こえた。親父が扉の前から離れたのだと思う。
今のうちに出ていこうかと思ったが、親父のことだ、誰かしら見張りを置いているだろう。そんな状態で扉を開けたら、ドアノブが動いた瞬間に親父に連絡を入れられる。その後のことは想像する必要もない。
こんなことになるなら、もっと早い段階でここを出ておくんだった。むしろ、こんなところに籠城せず、外へ出掛けてしまえば良かった。皆が寝付いた頃に、窓から部屋に戻っていればこんなことにならなかったのに。
色々考えたって全部後の祭りだ。今考えるべきは、ここから誰にも見つからずに抜け出す方法だ。と言っても、思いつくのはひとつ。親父も見張りの使用人も寝付いたくらい遅い時間にここを出ること。
窓の外は段々と暗くなり始めていた。時計がないので何時かはわからない。とにかく外がもっと暗くなるまで、ここでじっとしている必要がある。
薄暗い室内を見回して、棚の隅に小さなランプがあるのを見つけた。それを引き寄せて明かりをつけると、自分の周りの僅かな空間だけがぼんやりと照らされた。
+++
夜になり、室内と言えどやや温度が下がったようで、肌寒さを感じた。ぞくぞくと体が冷えていく中で、体の中心で熱い物がぽこりと腹を膨らませているのがよくわかった。
昼寝から起きた時に感じた尿意は時間と共にどんどん大きく膨らんでいた。じんじんと疼く嫌な感覚に身を捩る。
トイレに行きたい。でも、まだここからは出る訳にいかない。でも、出るわけには行かない。我慢、我慢と頭の中で繰り返す。
いっそもう一度寝てしまおうと目を閉じる。しんと静まり返った中、聞こえるのは傍に置いたランプがちりちり鳴る音と自分の鼓動。他には何も聞こえない中、意識は自然と自分の内側に向いてしまう。
お菓子を口にしたので空腹は無かった。ジュースを飲んだので喉の渇きも感じない。さっきまで寝ていたので眠気もない。
そうして満たされた結果、次に湧き上がるのは生理現象だ。逃れることができない自然の流れ。
ああ、トイレに行きたい。頭の中にあるのはそれだけ。
ジュースは何本飲んだか。こんなことになるのなら飲むんじゃなかった。最後にトイレに行ったのはいつだったか。ごろごろしていて、そろそろ家庭教師の時間だと気付いたのはぎりぎりになってからだった。そのまま慌てて自室を飛び出したので、最後に行ってから結構な時間が経っていると思う。
自然と思考がそちらに向いてしまうのを必死に切り替える。考えると余計に行きたくなる。気を紛らわせる為に違うことを考えようとしたけれど、こんな狭い室内で他に意識を向けられるものはない。
硬い床で痛くなってきたお尻の位置をずらす。膝が自然とゆらゆら揺れた。
目を開けて、ランプの明かり越しに扉を見る。硬く締まった扉。外から開けるための鍵はポケットの中にある。ノブには捻れば開く鍵が見える。
もう諦めて出ようかと思ったけれど、その後に待ち受ける説教が脳裏に浮かび、体が竦む。
見張りの使用人に頼んで、黙っていてもらえないだろうか。次からはこんなことしないと言えば信じてもらえないだろうか。
考えて、流石にもう無理だろうなとも思う。次はもうしないなんて、今まで何度言ったか覚えてない。その度に甘い顔をしてくれた奴もいれば、わかったと言いながら親父にチクって、結果として夜にしこたま怒られたこともあった。今回は絶対に後者になるだろう。
ああ、くそ。ほんとにこんなところに隠れるんじゃなかった。後悔しても何も変わらないけれど、そう考えずにはいられなかった。
あれからどれくらい時間が経ったか。窓の外は日が沈み、室内はランプの明かりが心許なく照らすだけで、ほぼ真っ暗だった。
尿意は時間と共に確実に膨らんでいた。落ち着かず、立てた膝が落ち着きなく揺れる。体が冷えていくにつれて、その体の中心で熱く温められた液体の存在を強く感じる。もう考えないようにするのは不可能だった。
トイレ、行きたい。トイレトイレトイレ。狭いなりに快適だと思っていた空間が、今は牢獄でしかなかった。ああ、はやくトイレ。高い位置からこちらを見下ろす窓に目を向ける。外は暗いけれど、今が何時かはわからない。
硬い床から立ち上がり、そっと扉に近付いた。耳を澄ませて外の様子を窺う。静かにしないと聞こえないとわかっているのに、じっと立っていられず体が勝手に揺れる。両足が自然と擦り合わされて、自分の立てる衣擦れの音が耳についた。
気持ちが焦れて、いらいらしてくる。だからと言って出来ることなんてない。
外に見張りがいるのかいないのか、確認するために扉に大きな窓を開けてやりたい気分だ。そんなことをすれば外からも丸見えだと少し考えればわかるだろうけれど、今はそんなことどうでもよかった。
お腹が大きく膨らんで張っている。苦しさと、むず痒い衝動が体の内側で静かに暴れている。ああ、トイレ、トイレ、トイレ! 扉の前で自然と足踏みを繰り返してしまう。
何かなんてあるはず無いけど、何かないかと薄暗い室内を見回す。目に付くのは棚に並んだ色んな荷物。そしてその隅に置かれた、俺が食べたお菓子の空き袋と潰した空き缶。
せめて、缶を潰していなかったら、そこに出来ただろうか。そんなことが自然と頭に浮かんで、慌てて掻き消す。
何を考えてるんだ。そんなこと、絶対にありえない。そう思うのに、視線がそちらに向いてしまう。
さっきまで座っていた場所にもう一度座りなおす。じんじんと下腹部が疼く。少し痛いくらいの衝動。
ああ、くそ、なんでこんなことに。ポケットの中で小さな鍵の重みが恨めしい。全部自分の行動が招いたとはいえ、腹立たしく感じてしまう。
お腹が重い。苦しい。ぞくぞくと悪寒に似たものが全身を走り抜ける。ぶるりと震える。押し寄せる波に、体を固くして必死に耐える。落ち着かなくて、立ったり座ったりを繰り返す。
ぱんぱんにお腹が膨らんでいて、中身を出そうと縮もうとしている。出口へ熱い液体が押し寄せるのを感じる。
あ、あ、やばい、だめ、だめだ、絶対駄目だ。体を揺すって必死に誤魔化す。だめ、だめだめだめ、トイレ、トイレ行きたい、ほんとやばい。じっとしていると今溜め込んでいる熱い液体が一気に噴き出してしまいそうで、体を揺すって必死に耐える。
あ、あ、あ、だめ、やばい……! 大きな波が押し寄せる。トイレ、トイレトイレトイレ、トイレっ……! 咄嗟に顔を上げ、視線の先で硬く締まった扉を見た。
ああ、やばい、といれ、トイレ、ほんとに、ほんとにトイレっ、おしっこっ……! 波が押し寄せて、一度は引いて、また押し寄せる。
引くたびに強くなって、ぞくぞくと悪寒が頭のてっぺんから足の先まで走り抜ける。お腹は張り裂けそうな程に苦しくて、中身を出そうと縮もうとする。
熱い液体がじわりと出口へ押し寄せる。あ、ああっ、だめ、やばい、だめ……! ばたばたと膝が暴れる。必死に堪えるけれど、じわじわと追い詰められていくのがわかる。だめ、トイレ、あ、ああ、あ、やばい、やばい、あ、あ、あっ……!
じゅ、と先端が熱くなる。咄嗟に手が伸びて、ズボンの上から出口をぎゅうと塞いだ。下着がじわりと熱く濡れて、肌に張り付くのがわかる。
やばい、おしっこ、でる、やばい、ほんとやばいっ……! ふうふうと浅い呼吸を繰り返して湧きあげる尿意に必死に抗う。
ぎゅうぎゅうと出口を指先で塞ぐ。そうしていないと一気に噴き出してしまいそうで、ズボンの前から手が離せない。
泣きそうになりながら、そろそろと腰を上げる。手は一瞬たりとも離せない。真っすぐ立てず、お腹を抱えるように前屈みになってしまう。
ずっしりと重くなった膀胱が苦しくて、むず痒い尿意が押し寄せて、出口が切ない衝動に襲われる。代わる代わる足踏みを繰り返しながら、視線を彷徨わせる。
ほんとにやばい、もう、ほんとにでそう、やばい、どうしよう、どうしようっ。自分の足踏みがうるさく響く。
上手く息が出来ない。は、は、と浅い呼吸を必死に繰り返す。どうしよう、どうしよう。トイレトイレトイレ、ほんとにやばいっ。
でる、でるでるでる、ほんとにやばいっ……! 僅かでも気を抜いたら出てしまう。それくらい切羽詰まっていて、他のことなんて欠片も考えられない。
ああ、やばい、でる、でる、あ、あ、あっ。ぎゅうぎゅうと指で押さえた先端に熱い液体が込み上げる。じゅう、じゅ、と熱い液体が吹き出して、下着を濡らす。
だめ、あ、あ、ああ、あっ……! ぎゅうぎゅうと押さえて、足踏みを繰り返して、必死に我慢するけれど、もう体は限界で、呼吸の僅かな振動ですら自分を追い詰めていく。
トイレ、トイレトイレトイレっ、あ、ああ、あっ、どうしよ、トイレ、トイレ、おしっこ、おしっこっ……! お腹が苦しい。これ以上ない程に膨らんでいる。
体はもう限界で、早く中身を出せと圧力を掛ける。おしっこ、おしっこもうほんとに無理、出したい、でも、でもっ……!
視線の先に、ぴたりとしまった扉がある。自分で鍵を掛けた扉。これを開ければトイレに行ける。でも、でも。扉の向こうに広がる状況が脳裏に浮かんだのは一瞬だけ。すぐに激しく大きな波に押し流された。
ひくひくと先端が疼く。あ、あ、あ、あぁっ……! 駄目だと何度も何度も繰り返すけれど、もう限界なんてとっくに超えていた。内側と外側、両方の力で必死に閉じていた出口がぐわっと開いて、熱いおしっこが吹き出す。
指先が熱く濡れていく。下着が熱く濡れて、肌に張り付く感触。ズボンの内側で、足に熱い液体が伝う感触。
あ、あ、あっ、あああっ……! 体が動いていた。片手でズボンの前をぎゅうぎゅうと押さえたまま、ドアノブへ飛びつく。足がランプを蹴飛ばしたけれど、気にする余裕は無い。
捻るだけの鍵なのに、手が震えて開けられない。その間にも、じゅう、じゅうとおしっこが吹き出す。だめ、だめだめだめっ、おしっこ、おしっこおしっこっ、うあ、あっ……!
我慢してるのに、塞いでいるのに、その隙間から溢れてしまう。
子どもみたいにお尻を突き出し、ぎゅうぎゅうとズボンの前を押さえて、その場でばたばたと足踏みを繰り返して。それは誰が見てもみっともない格好だけれど、体の中で暴れまわる大きな波にはそうでもしないと抗えない。
必死に扉を開ける。ばたばたと足踏みを繰り返すその音が、だんだんと湿り気を増していた。
何とか鍵が開いた。そのまま勢いよく扉を押し開ける。薄暗い室内に一気に明るい光が差し込んで、目が眩んだ。目を細めながら、体の内側で暴れまわる衝動に突き動かされて、足を動かす。
我慢しているのに、そのつもりなのに、体はもう言うことを聞かない。必死に押さえて我慢しているのに、それ以上の衝動でおしっこが吹き出す。
じゅうう、と熱いおしっこが湧き上がる感触に、足に熱いおしっこが伝う感触に、衣類がべったりと張り付いていく感触に、もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。
うあ、あ、だめ、むり、もうむり、トイレ、トイレトイレトイレっ、何でも良い、トイレっ、おしっこ、おしっこでる、むり、おしっこ、でる、もれるっ……!
足を踏み出し、廊下へ飛び出す。そのまま自室へと向かおうとしたのに、その前に人影が現れる。
「ワイアット様!」
使用人の声。誰かが近付いてくる足音も聞こえた。
「っ、や、めろっ……!」
道を塞ぐ使用人の隣を無理やり通ろうとしたけれど、腕を掴まれてしまう。振りほどこうとしても、体の内側で暴れまわる生理現象のせいで、体に上手く力が入らない。
「申し訳ありませんが、旦那様からの指示です。すぐに来られますので……」
「や、めろっ、離せっ! 通してくれっ……!」
ほとんど悲鳴にも近い声だった。それでも使用人は俺の腕を離さない。そうしている間にも、手の中で熱いおしっこが吹き出す。
膝が震える。無理に足を動かそうとしたけれど、一歩踏み出すのが限界だった。
「あ、あっ、だめ、ああ、あ、あぁっ……!」
崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。掴まれた腕だけがその場に残る。使用人が何か声を掛けたようだったけれど、何も聞こえなかった。
じゅうううう、と野太い水音が響いた。
先端から熱いおしっこが吹き出す。駄目だ、我慢しないと、そう思ったのも一瞬だけ。すぐに押し流されて、じゅうじゅうと熱く吹き出すおしっこでいっぱいになった。
頭が真っ白だった。ただ、我慢に我慢を重ねたおしっこが気持ち良くて、他には何も無かった。おしっこは全然止まらない。我慢しただけ溢れて、勢いよく吹き出して、それがとても気持ち良い。
おしっこ、で、た。でちゃった。
ぞくぞくと背中に悪寒にも似た快感が走る。ただただ気持ちよくて、それ以外何もなかった。
体の中に水音が響いている。お腹の奥がぞくぞくして、軽くなっていく。
お腹が軽くなっていく。浅く短くしか出来なかった呼吸が深く長くなっていく。はあ、と息が漏れた。
+++
真っ白だった世界に色が戻る。ぼんやりとぼやけた視界に見慣れた絨毯が広がる。
はー、はー、と自分の呼吸の音が聞こえた。頭上でざわざわと喧騒が聞こえたけれど、何を言っているかはわからない。
あれだけ苦しくて辛かった尿意は消え去り、すっきりとした爽快感が体を満たしていた。
ズボンと下着がぐっしょりと濡れていた。ズボンの前を握る手もしとどに濡れて、ぽたぽたと水滴が滴る。足元の絨毯が濡れて色を変えているのが見てわかった。
内側の爽快感とは裏腹に、全身が重くて怠い。今すぐ倒れ込んでしまいたいくらいだった。
がくがくと震える足には力が入らず、膝をついて座り込む。濡れた絨毯は硬くなっていて、ぐじゅ、と嫌な感触がした。
掴まれていた腕が離されて、力なく足元へ落ちてきた。ふうふうと呼吸を繰り返しながら顔を上げると、すぐそばで使用人がこちらを見降ろしていた。目を丸くして、驚きの色が顔いっぱいに広がっていた。
その視線に、一気に羞恥が込み上げる。
やってしまった。間に合わなかった。……おしっこ、漏らした。
一度は去った熱が一気に戻り、全身が燃えるように熱くなった。
どうしようと考えている間に、複数の足音が聞こえた。他の使用人が呼んだのだろう、怒りの表情を浮かべた親父が一歩一歩踏みしめるようにこちらに近付いてくるのが見えた。
いつもなら逃げ出すけれど、今は足が張り付いたように動かない。その貫かれそうな鋭い目つきに、今は恐怖よりも羞恥を覚えた。
ぐっしょり濡れて、肌に張り付いて、不快さと寒さを感じる。ただ、体が燃えるように熱い。
遠目には状況がわからなかったようだが、傍に近付くにつれ、その表情が変わっていく。親父の鋭い瞳が、周りにいる使用人と同じように丸くなっていく。その目と視線がぶつかった瞬間、耐えきれずに顔を伏せた。
みっともない。恥ずかしい。俯いていても視線が降り注ぐのがわかる。逃げ出したいけれど、体が動かない。このまま消え去ってしまいたい。でもそんなことが出来るはずもなく、ただ俯くことしか出来ない。体が震えた。
ざわざわと使用人の声が聞こえる。それを割るように、低い溜め息が聞こえた。
「……とりあえず着替えてこい、馬鹿者」
聞こえてきたのは存外柔らかい声で、それが胸の奥に染み込む。焼けそうな程熱い顔の中で、目がひと際熱くなった。
震える足で立ち上がる。靴が吸い込んだ水分を吐き出して、ぐじゅ、と嫌な感触がした。使用人のひとりが手を貸そうとするのを止めて、その場をひとり離れた。
自室に戻り、そのまま風呂場へ行く。靴のまま浴室へ入り、汚れ物を順番に脱いでいく。靴、靴下、ズボン、それから下着。どれもが水分を吸ってずしりと重い。
熱く濡れていたのに、今となっては冷たく、体が凍えそうに寒かった。脱いだ物を捨てるように浴室の床に置いて、冷えた下半身にシャワーを掛けた。その温かさに息が漏れた。
軽く洗って浴室を出ると、誰が置いたのか、着替えが用意されていた。乾いた衣類を身に纏うと、ぐちゃぐちゃになっている頭が少しだけ落ち着いた気がした。
部屋に戻ると、呼んでもいないのに使用人がいた。ちらちらとこちらを見ていて、どうやら俺を待っていたらしい。どこか居た堪れない様子だったが、それはこちらも同じだ。今は誰とも顔を合わせたくない。
わざとらしい程に顔を背けてやったけれど、使用人は出ていく様子を見せない。何なんだと考えて、ひとつだけ思い当たるものがあった。
「鍵ならズボンのポケット。風呂場に置いてるから勝手に持ってけよ」
自分で取りに行く気は欠片もなかった。あんなもの、触れるどころか見たくもなかった。汚れ物を片付けるのも使用人の仕事だ。どうせこいつらが後で洗うのだから、鍵も回収してもらえばいい。
鍵のことを伝えても、使用人はその場から動かない。
「旦那様がお呼びです」
その言葉に思わず顔が強張った。行きたくない。もうこのままベッドに入って、何も考えずに眠りたい。誰の顔も見たくない。それが親父の顔なら尚更だ。全身で否定を表現したが、使用人は引き下がる気はなさそうだった。
仕方なく使用人に続いて部屋を出た。いつもの説教を思い出し、今から気分が滅入る。只でさえ最悪な気分なのに、これから地の底から響き渡るような声でこんこんと説教を聞かされると思うと、何でも良いからここから逃げられないかと考えてしまう。
けれど既に遅いだろう。どうせ親父の指示で入り口も裏口も見張りが付けられているだろうし、窓から出ようにも外のガードマンがいつも以上に目を光らせていることが想像できた。
溜め息が漏れる。全部自分のせいだとは言え、嫌なものは嫌だ。せめて早く終わりますようにと考えていると、使用人が向かう先が親父の部屋ではないことに気付いた。階段を上り、廊下を歩いていると、どこに向かっているのかがわかって、余計に逃げ出したくなった。
やってきたのは、先程まで籠っていた倉庫室の前。親父は腕を組んで仁王立ちしていて、その向こうでは使用人が数人、床に這いつくばっている。その手には雑巾やら洗剤のボトルやらが握られていた。
足音で気付いたのか、親父がこちらを向く。逃げ出したい気持ちをぐっと堪え、せめてもの抵抗に視線だけを逸らした。
「お連れしました」
「ああ、ありがとう」
俺を連れてきた使用人は頭を下げて元来た道を戻っていく。俺と親父の間には何の障害物もなくなった。目を逸らしているのに、鋭い視線がこちらに向いているのがわかった。
「皆、ご苦労だった。後はこいつにやらせる」
えっ。咄嗟に声が漏れた。屈んでいた使用人達が顔を上げ、立ち上がりながら俺の方を見る。親父の視線もこちらに向いていた。
「後はお前が片付けろ」
「なっ、んで、俺が……!」
言った瞬間、やばいとすぐに分かった。余計なことを言った。親父に下手なことを言うと、とんでもないことになると、知っていたはずなのに。親父の鋭い視線が更に鋭くなり、表情がわなわなと変わっていくのがすぐにわかった。
「お前が汚したんだろうが、この馬鹿者!」
地の底に響き渡るような怒鳴り声に、全身が震えた。
「勝手に倉庫の鍵を持ち出し、中の物を食い荒らし、挙句小便まで垂れて! どこまで人に迷惑を掛けたら気が済むんだ!」
耳を塞ぎたくなるような怒声に咄嗟にぎゅっと目を閉じた。心臓が跳ねて、ばくばくと高鳴る。
「……悪いが、この馬鹿に片付けを教えてやってくれるか」
親父はため息を漏らした後、使用人にそんなことを言った。それに答えるように、使用人が動き、俺の傍に寄る。
その手に握られていた雑巾が差し出された。受け取りたくなかったけれど、親父の視線の先でそんなことができるはずもない。
そうして、俺は泣く泣く床に這いつくばり、自分が汚した絨毯をひたすら拭くことになった。
スプレーに入った何かを吹きかけ、その上から雑巾で水気を拭っていく。四つん這いになって床を拭くのはみっともない上に、腕も腰もしんどくて堪らない。けれど、すぐそばで親父が仁王立ちで見ているとなると、さぼることも出来ない。
仕方なく手を動かし、ある程度拭き終わったのは夜もすっかり更けた頃。やっと終わったと体を伸ばしていると、今度は親父の部屋へと連行された。
体力も気力も嫌だと感じる気持ちも尽き果てた頃、やっと説教から解放された。やっと自室に戻る頃には空は明るみ始めていて、何かを考える余裕もなく、ただただベッドに潜り込んだのだった。
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初出: 2021年7月23日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年7月23日