神社の入口には朱色の大きな鳥居があり、それを待ち合わせの目印にしている人がたくさんいました。誰もが表情が柔らかで、待っているだけなのに楽しそうに見えました。
夜にも関わらず、鳥居の向こう側は色鮮やかで賑やかです。ここからでも屋台がずらっと並んでいるのが見えて、眺めているだけでも楽しくなってきます。
浴衣の袖を揺らして、下駄でいつもより小さな歩幅で歩いて。いつもと違う格好は特別感があって、駅からここまで来るだけでもわくわくしました。
店員さんの助言通り、下駄は特に時間を掛けて選びました。そのおかげでちゃんと足に合っていて、歩いてもそんなに痛くなりません。この後、夏祭りの会場を歩き回るのも問題なさそうです。
手首に付けたお気に入りの腕時計を見ると、待ち合わせまでは十五分ありました。浴衣だと歩くのに時間が掛かるのと、楽しみな気持ちが抑えきれないのとで、早め早めに行動した結果、流石に早く着きすぎてしまいました。
浴衣とお揃いの巾着からスマホを取り出して、メッセージを送ろうとして、やっぱり止めます。待ち合わせ場所につきました、なんて連絡を入れたら、急かしているみたいになってしまいます。
早く会いたいな、早く夏祭りを一緒に楽しみたい。楽しみで踊る胸をそっと押さえて、今はこのもどかしい気持ちを楽しんでおこうと、そっとスマホを巾着へ戻しました。
その代わりに鏡を取り出して、お化粧が崩れていないかを確認します。少しぺったりしてしまった前髪に手櫛を通して、纏めた後ろ髪も少し整えて。問題ないことを確認したら、今度は浴衣の襟元や帯を確認します。背中側は見えないので手探りになりますが。
周りにいる子たちはみんな綺麗で、可愛くて、素敵です。浴衣もとても似合っていて、お化粧も上手です。
そんな人たちを見ていると、本当に大丈夫なのか、浴衣が崩れていないかと、どんどん気になってきます。楽しくふわふわした気持ちに少しずつ不安が混じるのを感じました。
浴衣は金魚の柄にしたけど、やっぱりもう一つの花火の方が良かったかな。色も、青色が爽やかで良いと思ったけれど、藍色の方が大人っぽくて、彼の隣ではその方が良かったんじゃないかな。
着付けも、頑張って自分でやって最後に確認だけしてもらいましたが、お母さんに最初からやってもらった方が良かったかな。
ひとりでいるからか、今更考えても仕方ないことを色々考えてしまいます。不安が大きくなってきて、自然と俯いていました。
暗いアスファルトの上に、下駄を履いた自分のつま先が見えます。今日は特別だからと頑張って塗った水色のペディキュアがなんだか色褪せたように感じました。
はあ、と不安が溜め息となって漏れ出しました。腕時計を確認すると、待ち合わせまであと五分。もう少し時間があれば、今からでもお手洗いに行って、着崩れが無いか確認できたかもしれません。色々考えている暇があれば、最初からそうすれば良かった。
またどうしようもない後悔がひとつ増えてしまって、楽しみな気持ちは萎んでしまって、胸の内は不安でいっぱいでした。
「千雪」
つま先を眺めていると、思ったより近くで名前を呼ばれて、慌てて顔を上げました。
いつの間にか目の前には涼太郎さんがいました。彼は浴衣ではありませんが、ラフな格好は夏祭りにぴったりでした。ズボンもTシャツも爽やかで涼し気で、とても似合っていて、とても素敵です。
「ごめん、待たせた」
「そんなことないです、私がはやく着きすぎて」
「それなら連絡くれたら良かったのに。俺の家、すぐそこだから、早く来れた」
「待つのも楽しかったから、大丈夫です」
涼太郎さんの家はここから歩いて十五分程だそうです。そもそも、今日のお出かけは彼が近くの神社で夏祭りがあるからと誘ってくれたのがきっかけでした。
「浴衣、似合ってる」
その言葉に、頬がじんわりと熱くなるのを感じました。たった一言、それだけでさっきまでの不安が一気に萎んで、胸の内側が嬉しさでいっぱいになってしまって、我ながら単純です。
「あ、ありがとうございます……。あの、自分で着たからあんまり綺麗じゃないかも、です」
「自分で着たの? すごいな。こっちは洋服で来てごめん」
「そんな、謝ることじゃないです。その服も、涼し気で素敵だと思います」
「ありがとう。それ、髪も自分でやったの? すごいな。器用だね」
涼太郎さんは手を伸ばして、私の頭に触れようとしましたが、触れる前にぴたりと止めました。
「……撫でたら崩れるから駄目だった」
ぽつりと呟くように彼は言います。その反応がなんだか面白くて、心遣いが嬉しくて、つい頬が緩みます。それに釣られるように涼太郎さんも笑って、下ろした手で私の手を握ります。
さっきまでの不安な気持ちは影も形もありません。夏祭りの雰囲気に浮足立つ気持ちと、繋いだ手に緊張する気持ちが混ざって、ふわふわと飛んで行ってしまいそうな程に温かな気持ちでいっぱいでした。
+++
屋台がずらりと並ぶ道を、人の流れに合わせてゆっくりゆっくりと歩きます。ざわざわと人の話し声と、からころ下駄の鳴る音。辺りには楽しさがいっぱいに詰まっていて、自分が今、夏祭りに来ているのだと実感していました。
「見ているだけでも楽しいですね」
「そうだね。何か見たいものあったら遠慮せずに言って」
「はい、ありがとうございます」
つい浮かれて、右を見たり左を見たり、子どものようにきょろきょろしながら歩いていました。涼太郎さんが手を引いてくれるので人にぶつかることはありませんでしたが、自分が大人気なく舞い上がっていることに気付いて、慌てて前を向きました。彼はそんな私を見て、穏やかに笑っていました。
「何か食べる?」
「そうですね、何にしようかな……」
そう言われると、またきょろきょろしてしまいそうになります。出来るだけ落ち着いて、見える範囲を見ていると、彼は空いている手で少し先の屋台を指差して言いました。
「あれを買って来ても良い?」
「あ、はい」
繋いでた手が離されて、涼太郎さんが屋台の方へ近付いていきます。はぐれないようにその背中を追いかけると、ふわりと温かくて甘い香りを感じました。そっと隣から様子を窺うと、彼は丁度大きな紙袋を受け取っているところでした。
ふたり並んで屋台の前を離れ、再び人の流れに合わせて歩きます。
涼太郎さんは先程受け取った紙袋を早速開いていました。取り出したのは、丸くてふわふわのベビーカステラ。ひとつ自分の口に含むと、もぐもぐ口元を動かしながら、次のひとつを取り出して私の方へ差し出します。
「え、えっと……」
「嫌い? ベビーカステラ」
「いえ、好きです」
「じゃあ、口開けて」
そう言われて、その通りにおずおずと口を開くと、ベビーカステラを食べさせてくれました。人がいる中でそんなことをされるのはとても恥ずかしかったですが、嬉しさもたくさんありました。
夏祭りが久しぶりだったので、ベビーカステラも久しぶりでした。ふわふわで甘くておいしくて、ちょっぴり懐かしい気持ちになりました。
「美味しいですね」」
「うん」
返事はもごもごと籠っていました。隣を見ると、丁度次のひとつを口に入れたところで、つい笑ってしまいました。
「ベビーカステラ、好きなんですか?」
「うん、好きだよ」
「ちょっと意外です」
「そう? 昔からすごく好きで、祭りに来たらいつも買ってた」
そう言いながら、再び私の方に手が伸びます。二度目なら少しは慣れるかと思いましたが、やっぱり恥ずかしくて、でも嬉しくて。
二人で同じものをもぐもぐ噛みしめながら歩くのは、手を繋ぐのとは違う意味で胸が温かくなりました。
「出先でお祭りを見かけたら、ベビーカステラが売ってないか見に行ってた」
ぽつりと呟かれた意外な一面に、つい笑ってしまいました。
「ふふ、それで買って帰るんですか?」
「そう」
「折角なのに一通り回ったりとかしないんですか?」
「ひとりで回っても仕方ないから」
それはなんだか勿体ない気がしましたが、彼らしいなとも思いました。
「ベビーカステラ、お祭りでしか売ってませんからね」
「ね。どこかで普段から売っていれば良いのに」
「今度調べてみましょうか」
「……やめておこう。多分通い詰める」
その返事が面白くて、つい声を上げて笑ってしまいます。涼太郎さんは柔らかい表情を浮かべたまま、くすくす笑う私の口元にベビーカステラを押し付けました。
ふたりで食べると無くなるのもあっという間でした。思ったよりたくさんいただいてしまったようで、夕食は食べていないのにお腹がいっぱいになっていました。次は何か飲み物が欲しい気分でした。
ゆっくりとした歩みでしたが、それなりに進んでいたようで、前は分かれ道になっていました。
奥に進む道はおそらく神社の拝殿に続いていて、反対の道には今までと同じように屋台がずらりと続いています。大半の人は屋台の続く方へ進んでいきました。
人の流れを追うように見ていると、屋台のひとつにかき氷の文字を見つけて、ついつい目を奪われました。喉も乾いたし、夜とは言え暑いし、次はあれが食べたいな。
隣の涼太郎さんの様子を窺うと、彼は拝殿へ続く道を見ていました。神社に来たのだし、ちゃんとお参りするのかな。そう思うと、屋台ばかり見ていた自分が少し恥ずかしくなりました。
私が見ていたことに気付いたのか、涼太郎さんがこちらへ視線を落としました。
「ああ、ごめん。行こうか」
「お参りしに行きますか?」
「俺は別に良いけど、千雪は? お参りしたい?」
「いえ、私も別に大丈夫です」
そういえばさっき、ひとりならベビーカステラだけ買って帰ると言っていました。あんまりお参りとかしないタイプなのかもしれません。
涼太郎さんはそれでも拝殿への道を見ていました。
道は奥の階段へと真っすぐ伸びていて、階段の脇には小さな建物が見えました。そこにはずらりと人の行列が続いていて、そのほとんどが女性です。お参りの為に並んでいるのかと思いましたが、そうでないことはすぐにわかりました。
人の隙間からお手洗いのマークが見えました。人が多いのと建物が小さいのとで、女性用は特に大行列になっています。
屋台の続きを見る前に一度お手洗いに行っておきたいとは思いましたが、あの行列だとどれだけ時間が掛かるのかわかりません。
「トイレ、行く? ここが駄目なら、近くにコンビニがあるから、そっちに行っても良いけど」
「コンビニ、あるんですか?」
「歩いて十分くらいかな。行く?」
その言葉にほっと安心しました。万が一行きたくなっても、コンビニが近くにあるなら大丈夫そうです。今はそこまで行きたいわけでもないので、後にすることにしました。
「今は大丈夫です。後で寄っても良いですか?」
「良いよ。行きたくなったら遠慮なく言って」
再び屋台の並ぶ道へ足を進めます。先程見つけたかき氷の前まで来たので、彼の手を少し引いて呼び止めました。
「あの、かき氷買っても良いですか?」
「良いよ。何味が良い?」
「あ、駄目です、自分で買いますから……!」
お財布を取り出して屋台へ寄る彼を慌てて追いかけます。自分の巾着からお財布を出そうとしますが、使い慣れていないのと慌てているのとで上手く出てきません。
その間にも彼は代金を支払ってしまっていて、私はお礼を言うやら謝るやら、シロップを何にするかを伝えるやらで、いっぱいいっぱいになってしまいました。
かき氷は歩きながら食べるのが難しかったので、道の端によって落ち着いて食べることにしました。
氷の山に、ペディキュアと似た青色のシロップ。ストローで出来た小さなスプーンで少し掬って口に運ぶと、冷たいものがじんわりと溶けていって、乾いた喉が満たされるのを感じました。
「美味しいです」
返事はありませんでしたが、隣で涼太郎さんは柔らかく笑っていました。
空になったスプーンで再びかき氷を掬って、今度は彼の方へ持ち上げます。彼は少し屈んでから、口を開けてくれました。さっき頂いたお返しのつもりでしたが、してもらうよりも自分からする方がずっとずっと恥ずかしかったです。
食べた後、彼がありがとうと言ってくれて、それだけで頬が熱くなって、胸がぽっと暖かくなりました。暑くて、熱くて、それを冷やそうと氷を少し多めに食べましたが、それは口の中であっという間に溶けて消えていきました。
全部食べ終えた頃には火照った体はすっかり冷えていました。残ったカップには青い液体が残っています。幼い頃にはストローでジュースみたいに飲んでいましたが、流石にもうそんな子供ではありませんし、それに涼太郎さんの前でそんなことをするのは恥ずかしすぎました。
近くのゴミ箱にカップを捨ててから戻ると、彼は少しの間の後、べ、と舌を見せました。その舌は青く染まっていて、私も彼の真似をして舌を見せてみます。自分ではわからないけれど、多分同じように青く染まっているのでしょう。彼はふっと柔らかく笑っていて、釣られるように私も笑いました。
止めていた足を再び動かして、屋台を順番に見ていきます。時折、足を止めて買い物をして。子供の頃に楽しんだくじ引きや金魚すくいには何となく手が出なくて、そうなると自然と食べ物ばかりになっていました。
鯛焼きを食べたり、たこ焼きを分け合ったりしていると、すっかりお腹が膨れていました。
喉が渇いたのでソフトドリンクを買い、それを飲みながら歩いていると、ぞくぞくとお腹の奥から込み上げるものを感じました。
少し前からお手洗いに行きたいと感じていましたが、それは意識せずにはいられないほどに強くなっていました。
お手洗い、言わないと。そう思うけれど恥ずかしくて、うまく言葉が出て来ません。
あまり水分は取らないほうが良いとわかりながらも、言いたいことを誤魔化すかのように、手元のカルピスについ口を付けていました。さっきまで縁のあたりまで並々と入っていた中身は既に半分ほど無くなっていて、それだけ飲んでしまったと知ると、どんどん不安が膨らんでいきました。
どうしよう。そっと隣の涼太郎さんの様子を窺うと、彼も同じように手に持った紙コップに口を付けていました。
涼太郎さん、お手洗い行かないかな。その時に一緒に行けたら、言わなくて済むのにな。そんな都合の良いことを考えていると、涼太郎さんがこちらを見たので、しっかりと目が合いました。
私が内心慌てていると、彼は腕時計を確認してからもう一度こちらを見ました。
「あと少しで花火が始まる」
その言葉に、何か気付いた訳ではないとわかって、少しほっとしました。けれど、体の内側でじりじり込み上げる感覚は脈打つように強くなっていて、焦る気持ちはどんどん膨らんでいきます。
「さっきの階段を上がったあたりだとよく見えると思う。行く?」
「あっ、はい、そうですね」
その申し出に、内心ほっとしていました。申し訳ないことに、私の頭は花火よりも、さっきの分かれ道のことばかり考えていました。
先程の道の途中にはお手洗いがありました。あの階段を上がる前に行かせてもらおう。そう思うと不安が少しだけ和らぎましたが、まだ心配事はありました。
彼と一緒に見た、ずらりと並んだ行列。でも、あれから時間も経ったし、流石に少しは行列も短くなっているかもしれません。
それにあの時、近くにコンビニがあると涼太郎さんは言っていました。万が一、まだ行列が残っていたとしても、コンビニに連れて行ってもらえば大丈夫なはずです。
期待と不安が胸の中で膨らんで混じり合っていきます。それを少しでも薄めたくて、残ったカルピスを飲み干しました。
+++
花火の時間が近付いたからか、お祭りを楽しむ人は当初よりも多くなっていました。中身を飲み干した紙コップはゴミ箱に捨てて、はぐれないように手を繋いで、私たちは今来た道を引き返していました。
一歩踏み出す毎に、お腹の奥で水風船がたぷんと揺れるのがわかります。今日はとても涼しく、その上、浴衣は風通しが良いので、暑さはほとんど感じません。むしろ水分を取ったのもあって少し寒いくらいで、ぞくりと悪寒が体に走りました。
いつの間にかお腹の下の方がずっしりと重くなっていて、ぞくぞくと嫌な感覚が波となって全身を走り抜けていきます。
大きな波が頭のてっぺんからつま先まで走り抜けて、ぶるっと体がひとりでに震えます。
「寒い?」
そう声を掛けられて、慌てて否定しました。
正直、少し肌寒くはありましたが、そんなことはどうでも良くて、今はお手洗いに行くことだけが頭を占めています。
はやく、はやく。さっきの場所まではやく戻らないと。そればかり考えていました。
繋いだ手が汗でじっとりと濡れている気がします。いっそ離してもらおうかとも思いましたが、それだと逸れてしまいそうで、それも出来ません。
空いた手は自然とお腹へ添えられていました。触れているその奥で、熱いおしっこがこぽこぽ沸き立っているのがわかります。
人が増えたのもあり、前に進む速度は随分ゆっくりになっていました。前に見えるのは人の背中ばかりで、なかなかさっきの分かれ道に辿り着きません。
私達が前に進むのはゆっくりなのに、尿意が膨らんでいくのはとても早くて、内心、とても慌てていました。
どうしよう、どうしよう。おトイレ、はやく行きたいのに。こんなことならさっき通ったときに、あの行列に並んでおけば良かった。かき氷、食べない方が良かったかな。今更考えたってどうしようもないのに、そんなことばかり考えてしまいます。
きゅんきゅんと足の付け根が切なく疼きます。ずっしりと重くむず痒い尿意は足を踏み出すごとに強くなっていました。
ああ、どうしよう、おトイレ、おしっこ。必死に耐え忍びながらも、もう限界近くて、おトイレのことばかり考えていました。
分かれ道に来たらすぐに言わないと。体の内側で暴れる欲求に必死に耐えていると、自然と以前のデートを思い出してしまいます。
ちゃんと言えなくて、失敗してしまったあの日。思い出すだけで恥ずかしくて情けなくて、消えてしまいたくなります。
もう二度とあんなことは駄目。今日はちゃんと言わないと。絶対、あんな失敗はしないんだから。
体の内側で、切ない衝動の波が引いては押し寄せます。波は引く毎に大きくなって戻ってきて、その度にぶるりと体が震えます。
あ、あ、だめ、おトイレ、おしっこっ……。どうしよう、ほんとに、おトイレ、おしっこ。ぞくぞく、悪寒が体の内側で暴れまわっていて、全然落ち着いてくれません。
おしっこ、だめ、我慢、我慢。そう思うけれど全然落ち着いてくれなくて、膝が静かに震えます。
あ、あ、あっ、だめ、だめだめだめ、だ、めっ……。じんじんと鈍く刺すような衝動。出口がひくひくして、熱いおしっこがすぐそこまで押し寄せているのがわかります。
我慢、我慢、我慢。必死に言い聞かせて、必死に我慢して、でもおしっこがどんどん押し寄せるのが止まりません。
「っ、あ、ぁ……!」
呼吸に乗って漏れた声は、お祭りの賑やかさに混じって消えます。けれど、感覚はどこにも消えずに残っていました。
じわり、と熱いおしっこが出口から溢れて、下着を濡らしていました。思わず足が止まっていました。自然と繋いだ手が解けて、自由になった両の手はぎゅうと硬く握りしめていました。
だめ、だめだめだめっ。おしっこ、だめ、まだ、だめ、なのに。
膝が震えます。呼吸を繰り返して、切ない衝動を逃がす様に体を揺すって、そうすると少しだけ波は引いていきます。
「千雪?」
突然立ち止まった私を、周りの人は不審そうに見ながらも避けて進んでいきます。ただ、隣にいた涼太郎さんだけが私の側に寄り添うようにいました。
「どうした?」
自然と俯いてしまい、見えるのは自分のつま先だけ。涼太郎さんが心配してくれているのはよくわかりますが、顔が上げられません。じっとしていられなくて、つま先がもじもじと落ち着きなく動いていました。
大丈夫です、と言いかけて、以前の失敗が頭に浮かびました。思い出したくもない、二度とあんな失敗はしたくない、苦い思い出。
全然、大丈夫じゃない。おトイレ、もう我慢できません。はやく行かないと、また、あんなことになってしまいます。
「……あ、のっ」
声が震える。恐る恐る顔を上げると、涼太郎さんは心配そうにこちらを見ていました。
はやく、はやく、おトイレ。おしっこしたい、本当にもう限界。早く行きたい、おしっこ、はやく、はやく。さっきからそればかり考えています。
ちゃんと言わないと。息を吸って、吐いて、もう一度吸って。
それから。
「あの、わた、し、――――っ……!」
お手洗いに、行きたい、です。
勇気を出して絞り出した言葉は、突然の大きな音と重なって、消えていきました。
どーん、とお腹の奥に響く大きな音。それと共に夜空がぱっと明るくなり、そしてまた暗くなりました。皆の視線が空へ向き始めて、それからまた同じような大きな音が鳴り響きました。
「……あ、花火」
ぽつりと彼の呟きと同時に、また花火が明るく咲きました。
夜空は一定の間隔で色鮮やかに輝いて、それに合わせて大きな音が響きます。私の声はその音にかき消されてしまったようでした。
大きな音で互いの声は聞き取りづらくなってしまいました。それでも涼太郎さんは私の方へ顔を寄せて、ちゃんと聞こえるように話してくれます。
「ごめん、聞こえなかった。どうした?」
もう一度、言わないと。そう思うけれど、やっぱり恥ずかしくて顔を伏せてしまいます。
あ、あ、だめ、おトイレ、おしっこっ。驚きで一度意識の外に出た尿意は更に強くなって戻ってきていました。
震える膝をぎゅうっと寄せて必死に我慢を続けますが、もう本当に限界近くて、両足の付け根で出口がひくひくと疼いていました。
「あ、のっ……」
彼の顔は見れません。俯いて、見えるのは彼のズボンの膝あたり。それでも、ちゃんと言わないと。はくはくと浅くなる呼吸を必死に繰り返し、その言葉を絞り出すように口にしました。
「お、おしっこっ……!」
言ってから、あまりにも直球な言葉に羞恥が一気に燃え上がりました。でも、限界ぎりぎりの自分の中ではうまく纏まらなくて、内側で暴れまわる言葉をそのまま言う以外出来ませんでした。
今度は花火の音にはかき消されなかったけれど、それはお祭りの喧噪の中では小さすぎて、とても他人に何かを伝える音量ではありません。
少しの間の後、硬く握り締めていた私の手に彼の手が触れました。そのまま彼は私の手を引いて、人の流れに沿って歩き始めました。
「わかった。とりあえずさっきの場所まで行こう」
その言葉に、私の小さな声が届いていたことがわかりました。
「いっぱいでも、さっき言ったコンビニがあるから大丈夫」
頷いて返事をしました。トイレに行きたいことを知られたことは恥ずかしかったけれど、それ以上に安心していて、心が緩んでじわりと涙が込み上げます。泣くのを必死に堪えて、彼についていきました。
ゆっくりした人の流れの中、涼太郎さんは時折、前の人を追い越して進んでくれます。私はそれについていくのが必死で、おしっこを我慢するのにも必死で、もう頭の中がぐちゃぐちゃでした。
おトイレ、おしっこ、おしっこしたい、はやく、はやく。時折大きな音と共に花火が頭上で輝きますが、それを楽しむ余裕なんて全くありませんでした。
きゅんきゅんと足の付け根が切なく疼いて、出口がひくひくして、熱いおしっこが今にも噴き出してしまいそうです。我慢、我慢と必死に自分に言い聞かせながら、ただただ足を動かします。
はやくおトイレ、はやく。さっきまでの楽しさもどきどきも頭にはもうありません。ただただ、おトイレに行きたい、おしっこがしたい、出したい、それしか考えられません。我慢しすぎて、お腹が苦しくて、破裂してしまいそうです。
時折、どーんと響き渡る花火の音がお腹に響いて、それだけでおしっこが溢れてしまいそうです。だめ、もうちょっと、もうちょっとだから。折れてしまいそうな心を必死に奮い立たせながら、涼太郎さんの手をぎゅうっと握り返しました。
そうして、やっと先程の分かれ道にまで戻ってきましたが、状況は悪化していました。
花火が目当ての人で境内への道は混雑していました。道の脇にあるお手洗いらしき建物も、先程とは比べ物にならない程の人が並んでいました。行列はもはやどこが先頭でどこが終わりなのか、それを探すだけでも時間がかかりそうです。
どう、しようっ。立ち止まったまま、両足は落ち着きなくもじもじと足踏みを繰り返していました。
おしっこ、どうしよう、おしっこっ……! おトイレ、行けると思ったのに、もうちょっとだと思ったのに。
膝が小さく震えて、その上で出口がひくひく疼いて、熱いおしっこがまたじわりと溢れてしまいます。
ああ、だめ、だめだめだめ、おしっこ、おしっこっ……! もじもじ身を揺らして何とか抗おうとしますが、もう本当に限界です。胸が詰まったように上手に息が出来なくなっていきます。
少しの間、ふたりで立ち止まっていましたが、すぐに遼太郎さんは口を開きました。
「コンビニまで行こう。……大丈夫?」
その言葉にどきっとしました。全然大丈夫ではないのが、彼にはお見通しなのかもしれないと思うと、恥ずかしくて、消えてしまいたくなりました。
大丈夫じゃない、なんて言えませんでした。でも、大丈夫ですとは嘘でも言えませんでした。
お手洗いはそこに見えているのに、行けないなんて。お腹がきゅうきゅうと疼いて、もう我慢できないと暴れています。
おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! 子どもみたいに泣き出したくなるのを、涼太郎さんの前だからと必死に堪えます。
ここでじっとしていても何も変わりません。仕方なく、折角辿り着いたお手洗いに背を向けます。泣き出しそうになりながら、必死に足を動かしてその場から離れました。
屋台の前を、人の流れに逆行するように進んでいきます。はやく、はやくっ。気持ちは焦れて、でも下駄ではそんなに早く歩けなくて、それでも手を引いてくれるのに合わせて頑張って歩きます。
足が痛くなっていましたが、そんなことに構っている余裕はありません。おしっこ、はやく、おしっこっ、お願い、おトイレ、ほんとにもう限界だから、おしっこ、はやくっ……!
叫び出したくなるような衝動をぐっと堪え、必死に歩きます。涼太郎さんが人の間をやや無理やりに抜けてくれたので、待ち合わせをしていた鳥居まで戻ってくるのはあっという間でした。
神社を出てしまえば、人は疎らで、時折通る車に気を付けさえすれば、普通に歩くことが出来ました。出来る限り急いで歩きますが、もう限界で、足が上手く動きません。
「コンビニが駄目だったら、俺の家、すぐそこだから、来れば良い。大丈夫だから」
頷いて返事をしたけれど、もう頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えられていませんでした。
ぞくぞくと嫌な悪寒でぶるりと体が震えます。ぱんぱんに膨らんだお腹が、もうこれ以上入らない、もう限界だと訴えているのがわかります。
おしっこが出したくて出したくてたまりません。あ、あ、あ、おしっこ、おしっこおしっこっ、だめ、だめっ……!
ひくひく疼く出口から、熱いおしっこがぶじゅ、と吹き出して、思わず全身が硬く強張ります。咄嗟に、空いている手で浴衣の薄い布地の上からぎゅうっと押さえます。繋がれた手がぴんと張って、そのまま数歩前に進んで、足が止まりました。
あっ、だめっ、だめだめだめ、おしっこ、おしっこでちゃうっ、だめっ……! ぎゅうぎゅう押さえても、おしっこがしたいのが全然治まらなくて、何とか我慢しようと体が動きます。
ぎゅうぎゅう押さえて、両足をぴたりと寄せて、くねくねと体を揺すって。頑張って我慢しているのに、おしっこがじゅうっと出て、また下着を濡らします。
「千雪っ」
名前を呼ぶ声が聞こえます。だめ、我慢、こんなところでなんて、だめ、絶対だめ、なのに。
涼太郎さんが見てる。ちゃんと、おトイレまで我慢しないと。押さえた手を離そうと思っいましたが、離したら出ちゃう。
「コンビニ、もう少しだから」
頷いてから、足を少しだけ動かすと、ぞくぞくした感触が一気に押し寄せてきました。だ、めっ、だめ、おしっこ、あ、あ、あっ……! そのまま一気に溢れてしまいそうなのを、必死に堪えます。
膝をぴたりと寄せて、ぎゅうぎゅう押さえて。頑張って我慢してるのに、おしっこ、全然治まらない。もじもじ、お尻が揺れてしまいます。
上手く呼吸が出来なくて、短く浅い呼吸を繰り返しますが、苦しくて辛くて、ぽろりと涙が零れます。
あ、や、おしっこ、おしっこっ……! 何でも良いからおしっこ、おしっこしたい、お願い、おしっこ……!
「ぁ、あ、あっ……」
じゅわ、と手の中が温かくなって、太ももに熱いものが伝うのを感じました。あ、あ、あ、だめ、だめだめだめっ、だめっ……! 我慢しているのに、まだ駄目なのに。
限界の体はもう我慢なんて無理で、破裂しそうな膀胱が中身を押し出そうとしています。
我慢しているのに、ぎゅうぎゅう押さえているのに、おしっこが溢れて、熱くて。
顔を上げると、夜道にひと際明るい物が見えました。それがコンビニだと、そこがお手洗いだと理解した時には、もうどうすることも出来ませんでした。
じゅ、じゅう、じゅ。熱いおしっこが吹き出して、手を濡らしていきます。
「や、っ……、あ、あ、やあぁっ……!」
少しずつ溢れ出したおしっこは、その瞬間、堰を切ったかのように一気に溢れ出しました。
じゅううう、と体の中に水音が響き渡ります。それから、静かな夜道にびちゃびちゃと水音が響き渡りました。突然雨が降ったような激しい音でした。
「あ、や、ぁぁっ……」
あ、あ、だめ、おしっこ、で、てる。駄目なのに、我慢しないといけないのに。ぎゅううっと押さえても、おしっこは止まりません。押さえた手の中に温かいものが溜まって、びちゃびちゃ音がして溢れていきます。
頭の中が真っ白になって、じゅうじゅうという水音だけが体の中を走り抜けていきます。我慢に我慢を重ねたおしっこはあったかくて、とても気持ち良くて、全身から力が抜けていきます。
激しい雨のような水音を、大きな花火の音が一瞬掻き消しました。夜空に咲いた色鮮やかな明かりに、私と、すぐ前にいる涼太郎さんの姿が一瞬照らされて、再び夜に飲まれました。
「あ、ゃ、み、ないで、っ……」
私、また、遼太郎さんの前で、おもらししてる。嫌だと思っても、見ないでと隠そうとしても、もう体はなんの言うことも聞いてくれません。
おしっこ、出ちゃった。止まらない。我慢しないとだめなのに、我慢、できなかった。
俯いた視線の先、裸足のつま先に熱い雫が落ちて、びちゃびちゃと濡れていきます。まるで大雨の中で傘を指していないときのよう。でも、雨の時と違って、濡れるのは下着と両足だけ。
生温かい感触に、段々軽く楽になっていく体に、ああ、と熱い息が漏れました。
+++
息を吸って、吐いて。胸の奥から大きく呼吸を繰り返していました。激しかった水音は鳴り止んで、辺りはしんと静かです。は、は、と自分の呼吸の音が大きく聞こえました。
浴衣の前を押さえていた両手はびっしょりと濡れていました。大切にしていた腕時計も濡れて、ベルトの部分がいつもより固く、重く感じました。
ぐっしょりと濡れた両足に、その奥でしとどに濡れて肌に張り付いた下着に、やってしまったことを嫌というほど教えられます。
やっちゃった。間に合わなかった。我慢できなかった。
じわりと目が熱くなるのを感じました。張り裂けそうだったお腹は空っぽで、熱く濡れた両足はすっかり冷たくなっていて、その寒さにぶるりと身震いしました。
全身で感じる失敗に、顔が熱くなっていきます。それなのに体は氷の中にいるように冷たくて、震えが止まりません。
両足は根っこが生えてしまったかのように動きません。頭が重くて持ち上がらなくて、視線が地面へ落ちていきます。下駄を履いた裸足のつま先、頑張って塗ったペディキュア。全部台無しになってしまいました。
「……危ないっ」
突然、ぐいと肩を引かれて、根っこが生えていた足がふらふらと力なく動きました。壁の方へ引き寄せられ、その瞬間、隣を車が走り抜けていきました。一瞬ヘッドライトに照らされた私の足元では、大きな水たまりが光を反射していました。
肩を掴んた手が離れて、少し迷ったように空を掴んだかと思うと、私の頭に触れました。髪を崩さないようにしているようで、大きな手がぎこちなく動いて、私の髪を撫でます。その感触に、我慢していた涙が込み上げます。
「……ごめん、なさ、いっ」
「大丈夫、大丈夫」
お化粧が崩れるから駄目なのに、ぽろぽろ涙が溢れてきて、何とか止めようと拭っても全然止まらなくて、拭うから余計にお化粧が崩れてしまって。それでも涼太郎さんは大丈夫だと、ただそう言ってくれました。
+++
「とりあえず、俺の家においで。着替えて、風呂に入ると良い」
「……ありがとうございます、ごめんなさい……」
「大丈夫。歩ける?」
頷くと、涼太郎さんは何やら思い出したかのようにポケットへ手を入れます。
「足だけでも拭こうか。濡れてたら、下駄、痛いだろう」
そう言ってハンカチを差し出すけれど、私の両手はぐっしょり濡れたままで、受け取ると汚してしまいます。
「どうしたの? 今日はまだ使ってないから、綺麗だよ」
「だ、だめです、よごれちゃうっ……」
「ああ。後で洗えば良いよ」
そう言って、彼はその場に膝を折ってしゃがみました。それから私の足に軽く触れて、持ち上げるように促します。
「気になるなら、浴衣とか洗う時に一緒に洗ってくれたら良いよ」
「でも……」
「大丈夫だから。ほら、足上げて」
少し強引に言われると従うしかなくて、おずおずと足を上げると、彼の手がハンカチで包み込むように拭いてくれました。
その感触は擽ったくて、でも居た堪れなくて、泣きたいのか笑いたいのか自分でもよくわかりません。
「下駄も軽く拭くから、ちょっとだけ俺の肩を掴んで立ってて」
「で、でも、手も、濡れてるから……」
「気にしないから良いよ。ほら、転ぶ前に掴んで」
そう言われても、そういうわけにもいきません。どうしようかと慌てながらも、咄嗟に自分もハンカチを持ってきた事を思い出しました。
慌てて巾着の中からハンカチを取り出し、両手を軽く拭いました。でもそのまま触れるのは申し訳なくて、ハンカチ越しに彼の肩に触れます。
「今日はほとんど汗かいてないから、そんなに汚くないよ」
「そ、そうじゃないですっ……!」
「冗談。はい、今度は反対の足、上げて」
私が慌てている間に、涼太郎さんは下駄を拭いていたようで、足を下ろすと、湿ってはいましたが先程よりもさっぱりしていました。今度は反対の足を上げて、彼の手が拭いてくれました。
両足とも拭いてもらうと、それだけで気持ちも少しさっぱりしたように感じました。
涼太郎さんは立ち上がると、私の足を拭いたハンカチを気にした様子もなくズボンのポケットにしまいました。
「行こうか。十分くらいだけど、歩ける?」
頷くと、涼太郎さんは私の少し前を歩き始めました。
歩いていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきました。それでも不意に自分の失敗が蘇ってきて、溢れる涙を拭いながら、ゆっくり彼の後ろを着いていきます。下駄が濡れたので鼻緒が固くなってしまって、歩くのは少し痛かったです。
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涼太郎さんの家について、お風呂場をお借りしました。
「着替えはなんか適当に用意するから、ゆっくり温まっておいで。洗濯機も使って良いから」
「ありがとうございます。あ、あの、ハンカチ、貸してください。洗います」
「気にしなくていいのに」
さっき汚してしまったハンカチをお借りして、浴衣のままお風呂場に入りました。帯を解いて浴衣や下着を脱いで、お風呂で軽く洗ってから洗濯機を使わせてもらいました。
それから髪を解いて、頭のてっぺんからシャワーを浴びました。冷えていた体がゆっくり温められていくと、強張っていた体と心の両方から力が抜けていって、はあ、と溜め息が漏れました。
また、失敗しちゃった。それでも涼太郎さんは優しくて、その優しさで余計に泣いてしまいそうになります。なんであんなに優しいんだろう。私は何もできないし、迷惑ばっかり掛けてるのに。
お風呂から上がったら、もう一度ちゃんとお礼を言わないといけません。夏祭りも楽しかったって伝えて、花火が見れなくてごめんなさいも言わないと。
シャワーを浴びながら伝えることをまとめて、よし、と気合を入れてから、お風呂から出ました。
お風呂から上がると、バスタオルとジャージ、それからコンビニの袋が置いてありました。中を見ると下着で、まだ封も開いていなかったので、私がお風呂に入っている間に買ってきてくれたみたいです。
お礼を言うことがひとつ増えました。胸の中で先にありがとうを言ってから、袋の口を開けました。
ジャージは男性ものなので少し大きかったけれど、問題なく着ることが出来ました。
手の先で余っている袖をまくってから、裾を踏まないように気をつけながらお風呂を出ると、リビングには彼の姿がありませんでした。どこだろうと探すより先に、部屋の奥のガラス窓の向こうに姿が見えました。
ベランダへ近付くと、足音に気付いたのか、彼がこちらを振り向きました。
「やっぱり俺のじゃ大きいね。ごめん」
「だ、大丈夫です! 着替えとか下着とか、すみません、ありがとうございました」
「どういたしまして。いっそここに着替えを置いといたら?」
「お邪魔じゃないですか?」
「全然。パジャマと普段着、一着ずつくらいあったら泊まる時に便利かもね」
そんなことを話しながら、私もベランダに出て隣に並びました。本当にそういうところも優しくて、この人のことを好きだと改めて思いました。
「涼太郎さん、あのっ」
大きく息を吸って、さっき考えたことを順番に言いました。
迷惑を掛けたこと、助けてくれたこと、夏祭りが楽しかったこと。しどろもどろで上手には言えなかったけれど、ありがとうとごめんなさいをたくさん伝えるのを、彼はじっと聞いていてくれました。
言い終わると、どういたしましての言葉と一緒に、大きな手が私の頭に触れました。まだ少し湿っていた髪が、彼の指の間を通り抜けていきます。
「この後はどうする? 帰るなら送っていくけど、泊まるなら今のうちに親に連絡を入れるように」
「泊まっても良いんですか?」
「良いよ。そのぶかぶか、可愛いからもう少し見ていたい」
そう言いながら、頭を撫でていた手が余っているジャージの袖を摘まみます。服に着られている状態なのを思い出して、頬がぽっと熱くなりました。
「お泊り、したいです。ちゃんと連絡いれます」
「ん、分かった。……ああ、そうだ。アイス食べる?」
「はい、食べたいです」
部屋の中に戻って、まずお母さんに連絡を入れてから、ふたり並んでアイスを食べました。そんなことをしていると、洗濯機が終わる音が聞こえました。
涼太郎さんがお風呂に入る間に、汚してしまった浴衣や下着ベランダに干していきます。
洗濯かごが空になってから、ふと顔を上げるとぼんやりと明るい場所が見えて、そこがあの神社だとすぐにわかりました。
花火もすっかり終わってしまって、見えるのは屋台の明かりです。それだけでも他のところよりは明るくて、柔らかく温かく見えました。
また、一緒に行けたら良いな。今度は失敗しませんように。花火も二人で見れますように。
神社でお参りもせずに帰ってきた上に、こんなところからなんて、横着しているようで罰が当たるかもしれませんが、そんなお願い事をこっそりとして、お部屋に戻りました。
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初出: 2021年8月12日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2021年8月12日