また会いましょう 前編

 マンションが並ぶこの辺りは、多くの人が住んでいる割に意外と静かだ。暗い時間帯だと少し怖いけれど、落ち着いた雰囲気自体は結構好きだった。
 時刻は夕暮れ時。スクールバッグを肩に掛けなおして自宅へ向かっていると、向こう側から人が歩いてくるのが見えた。あまりじろじろ見るのは失礼だとは思いながらも、つい目が引き寄せられていた。

 小柄な姿は小学生くらいだろうか。フリルが沢山ついた綺麗なワンピースを着て、足元ではエナメルシューズが上品そうに輝いていた。
 栗色の髪の毛は柔らかそうでふわふわだ。俯きがちで顔はよく見えなかったけれど、まるでお人形がそのまま歩いているかのようだった。これでは目を向けてしまうのも仕方ないと思う。

 その子もこちらに気付いたようで、伏せていた顔をそっと上げた。栗色の髪の下で、真っ黒な大きな目がきらきらと輝いていた。白く柔らかそうな肌、頬は柔らかく染まり、小さな唇はぷっくりと膨らんでいる。
 服に負けないくらい顔も綺麗で整っていた。本当にお人形か、もしくはどこかのご令嬢かと本気で考えてしまうくらいだった。

 ただ、その表情は辛そうに見えた。黒い瞳には涙が溜まっていて、小さな唇は噛みしめられたまま小さく震えている。泣くのを堪えているようで、どうしたのだろうと心配になった。
 通り過ぎる瞬間、互いの視線がぶつかる。涙の中で揺れる目は助けを求めている様に感じて、つい足を止めていた。
「大丈夫?」
 お節介かもしれないと思いながらも、声を掛けていた。

 子どもは同じように足を止めて、こちらをじっと見つめていた。落ち着きなく身をもじもじと揺すって、小さな手は縋るものを求めてワンピースの裾を握っている。どこか居心地悪そうに見えた。
「え、と、突然ごめんね。困ってるように見えたから、どうしたのかなと思って」
 転んで怪我でもしたのかと思ったけれど、ワンピースの下から覗く膝は綺麗だった。腕も顔も傷は無いようだから、怪我ではないかもしれない。
「どこか痛い? それともはぐれた? 私、この辺は詳しいから、案内できるよ」
 思い当たることをあれこれ話しかけてみるけれど、当の本人は潤んだ瞳でこちらをじっと見ているだけだった。

 反応がないまま一方的に話し掛けていると、段々自分が不審者に思えてきて、内心苦笑する。ただ、その子は逃げる様子は見せなかった。
 こちらをじっと見たまま、何か言いたそうに見える。けれど、その小さな唇は噛みしめられて震えていた。何が言いたいのか読み取ってあげたいけれど、表情だけでは流石に分からない。
 どうしようかと悩んでいると、ワンピースを握っていた小さな手が動いて、私のプリーツスカートをおずおずと握った。

「あ、のっ」
 やっと発せられた声は小さくて震えていて、今にも泣き出しそうに聞こえた。
 何を言おうとするのか、ちゃんと聞き取ろうと膝を曲げて距離を縮める。その子は私のスカートを握ったまま、小さな口を小さく開いた。

「ぉ、おしっこ、もれちゃうっ……」
 飛び出した言葉に、聞き間違えたかと一瞬思った。でも、改めて様子を見てみると、両足は小さく足踏みを繰り返していて、もじもじと落ち着きなく身を揺すっている。聞き間違いではないと確信した瞬間、一気に焦りが押し寄せた。
 かなり切羽詰まっているように見える。でも、そう言われても、どうしたら良いのか。全く想像しなかった事態に、答えを求めて必死に頭を動かす。

 近くにコンビニは無い。駅の方へ行けばあるけれど、結構時間が掛かる。近くに公園があるけれど、そこには遊具だけでトイレは無かったと思う。
 一番近いところと言えば、我が家だ。私の足で五分程。この子ならもう少し掛かるかもしれないけれど、駅よりはずっと近い。今なら両親もいないし、子どもにトイレを貸すくらいなら上げても大丈夫だろうか。

 考えている間にも、辛そうな様子が目に映る。
 落ち着きなく動くのに合わせて、フリルたっぷりのふわふわスカートが揺れる。体勢もいつの間にかやや前かがみになっていて、ぺたぺたと足踏みを繰り返す姿は、余裕が無いのだと痛い程に伝わった。
「うち、すぐそこだからおいで。もうちょっと頑張れる?」
 こくこく頷きながらも、足踏みは止まらない。私のスカートを握る手を取って、小さな手を引いて急ぎ足で自宅へと向かった。

「あっ、ぁっ……おしっこ、おしっこっ……」
 うわ言のように呟くのが聞こえる。はやくはやくと思っても、どうしても子供の歩幅ではそこまで速くは進めない。本人が必死なのはよくわかるけれど、限界ぎりぎりなのもあって足取りはゆっくりになってしまう。
 でも、そうこうしながらも、なんとかマンションの前までは辿り着いた。あとはエントランスを抜けて、エレベーターに乗ってしまえば、うちはすぐそこ。そう考えていたけれど、ゆっくりだった進みは更に遅くなっていく。

「大丈夫? もうちょっとだから」
 声を掛けても返事はなかった。そして、とうとう進みは止まってしまう。
 立ち止まったその子はもう足踏みすらもしておらず、繋いでいない方の手はワンピースの上から足の付根をぎゅうぎゅうと押さえていた。
 小さな体が震えている。前かがみになって、お尻を突き出していて、ぎゅうぎゅうと押さえて。それは誰か見てもおしっこ我慢のポーズだった。それも本当にぎりぎりの。

 どうしよう、どうしよう。見ているこちらまで慌ててしまう。
 小柄だし、抱っこして運ぼうか。でも、エレベーターに乗ったとしても、その後も少しは時間が必要だ。今のこの状態からそんなに我慢できるだろうか。
 どこか下の階の人にトイレを貸してもらおうかとも考えたけれど、声掛けできるような知り合いはいない。

 こうやって考えている間にも、我慢の限界は着実に近付いている。何か助けを求めてマンションの入り口できょろきょろ見回す。
 そして、もうこれしかないと、小さな手を掴んで、やや強引に引っ張った。
「おねーさん、おしっこっ、おしっこでちゃうっ……!」
「わかってる! 仕方ないから、そこでしちゃおう!」
 エントランスには入らず、建物に沿って横へ回った。
 このまま進めばマンション裏手に駐輪場や駐車場がある。そこまでの道には壁に沿うように花壇が並んでいた。

 花壇は手入れが行き届いていて、雑草一つない。一定間隔で咲く小さな花のひとつに近付いて、引っ張っていた手を離した。
 黒い眼は涙をいっぱいに浮かべて、戸惑ったようにこちらを見ていた。
「ここでしちゃおう。見張っててあげるから大丈夫。緊急事態だから仕方ない。ね?」
 早口に言いながら、私も相当混乱していた。とにかく、早くなんとかしてあげないといけない。その一心で何とか安心してもらおうと言葉を重ねる。

「ぅ、あっ、ぁっ……!」
 激しく動いていた体がぴたりと止まる。もしかしてと嫌な想像が過った瞬間、がばりとスカートが大胆に持ち上げられる。ちらりとグレーの下着が視界に入った。
 それから手が中へと潜り込んだけれど、スカートが再び上から覆いかぶさってしまう。
「あっ、あっ、スカートっ……!」
 片手はスカートの中に、そして反対の手でふわふわのスカートを何とかしようとしているけれど、小さな手ではうまくいかないようだ。
 ばたばたと忙しなく動きながら、泣き出す寸前の顔がこちらを振り向いた。栗色の髪が揺れて、大きな黒い瞳は涙をいっぱいに溜めていた。

「お、おねーさんっ、スカートもってぇっ……」
 返事より先に、慌てて手を伸ばして、後ろからワンピースのふわふわの裾を持ち上げる。静かな空気の中、は、は、と苦しそうな呼吸の音が耳についた。
「あ、あっ、あ、あ、あっ」
 足踏みを繰り返し体を上下に揺らしながら、小さな手がスカートの中へ潜り込んでいく。真後ろに立てば、身長差もあって様子がよく見えた。
 そして、その光景に一瞬目を疑った。

 グレーのボクサーブリーフは膝下まで下ろされて、小さな両手は体の前に添えられていた。何に添えられているのか、見るつもりは無かったけれど目に入ってしまって、慌てて目を逸らす。
 小さな手の中にあったのは小さな男性器だった。その瞬間、苦し気な呼吸が途切れて、ちょこんとしたその先端からは勢いよくおしっこが吹き出した。

 じゅううう、と激しい水音が静かな空気を切り裂いて響いた。野太い水流はびちゃびちゃと地面に落ちて、雫を散らしていく。
「ぁ、あ……は、あぁぁ……!」
 驚いている私とは裏腹に、当の本人は心底気持ちよさそうな声を漏らしながら、ぽかんと口を開けていた。はー、はー、と肩を上下させて繰り返される呼吸には甘い色が滲んでいる。
 どれだけ我慢していたのか、おしっこはものすごい勢いで花壇へと注がれる。彼の正面にある花壇の土は黒く濡れて、吸収しきれないおしっこが水たまりを作り始めていた。色鮮やかな花には水滴が付き、夕日に照らされてきらきらと輝いていた。

 長く続いた水音は段々と小さくなっていき、ぴちゃぴちゃと軽い音を最後に止まった。しんと静かな夕暮れの中、はあはあと大きく呼吸を繰り返す音だけが聞こえた。
 少しの間の後、ごそごそと彼の手元が動いたかと思うと、肩越しにこちらを見上げてくる。それを合図にスカートから手を離すと、小さな手がふわふわのスカートの形を整えた。
 服を整え終わると、彼はくるりとこちらを振り向いた。互いの視線が交わっていたけれど、互いに何も言えずにいた。綺麗なワンピースの後ろで、大きな水たまりが夕日を反射していた。

 こうして改めて見ても、まだ私には綺麗なお人形かどこかのご令嬢のように見えた。紛れもない証拠を見てしまったとはいえ、この子が男の子だというのが未だに信じられない。見間違いじゃないかとまだ少し疑っている自分がいた。
「あ、あの……ありがとうございました」
 綺麗な声で彼はそう言うと、ぺこりと頭を下げた。彼くらいの年齢だと声変わりもまだみたいで、こうして声を聞いても、女の子だと言われたら信じてしまうかもしれない。
「どういたしまして。……えっと、さっきの道まで案内しようか」

 彼はこくりと小さく頷くと、肩越しに自分の後ろを振り向いた。大きな水たまりを見てなのか、白い頬がかあっと赤くなる。お花への水やりだとしてもここまではあげないだろう。
 随分我慢していたみたいで、この小さな体のどこにこれだけ入っていたのかと驚きすら覚えてしまう。
 手を伸ばすと、小さな手がぎゅっと私の手を握った。それから、先程より落ち着いた、それでいて軽やかな足取りで私たちは来た道を戻った。

「公園って、あそこの公園?」
 ぽつぽつと話をしていると、彼が近くの公園から来たことが分かった。
「はい。あそこで撮影してて、出番まだだから、近くを探検してたんです」
 歳の割に落ち着いて丁寧な口調で語られた内容に、先程と同じくらい驚いた。
「撮影って、映画か何か?」
「ドラマなんです! ……あ。あんまり言っちゃ駄目なんだった」
 慌てて口を噤みながらも、彼は誇らしげな表情だった。

「そうなんだ、すごいね!」
「へへ。出番、ちょっとだけですけど」
「あ、そのお洋服は衣装?」
「うん。女の子の役なんです。ちょっと恥ずかしいけど、演技が良かったら次は男の子の役をさせてもらえるから、頑張るんだ」
 それで、彼の格好にも合点がいった。お芝居のことを話す様子はとても楽し気で、本当に好きなんだなあと感じさせる。

「似合ってるよ。本当に女の子かと思っちゃった」
「ありがとうございます。ドラマでもそんな風に思ってもらえるかな」
「きっと大丈夫だよ。自信持って」
 嬉しそうに笑う様子は無邪気でとても可愛い。ドラマに出る子役だけあってか、何と言うか華があって、人の目を引き付けるものを持っているように感じた。

「公園の傍まで一緒に行こうか。暗くなってきたし、ひとりだと危ないから」
「ありがとうございます。……あ、あと、えっと、その」
 それまでのしっかりした話し方が突然もじもじと口籠るようになった。どうしたのかと思っていると、白い頬がかあっと真っ赤に染まって、それから先程より小さな声で彼は言った。
「さっきのこと、ありがとうございました」
「ああ。……探検してて、トイレに行きたくなった?」
 真っ赤な顔をしたまま、彼はこくりと頷く。
 トイレを探しているうちに限界近くなって、そこで私とすれ違ったみたいだ。そう思うと、思い切って声を掛けていて良かった。

「あはは。大丈夫だよ。間に合ってよかったね」
「はい。……あの、内緒にしてくれますか」
 初めから誰かに言うつもりはなかったし、そもそも誰かに言える話ではとても無かった。けれど幼い少年にとっては、誰かに知られたらと思うと、不安で仕方なかったのだろう。
「もちろん。これはふたりだけの秘密にしよう」
「ほんとですか!」
「ほんとほんと。私も誰にも言わないから、君も誰にも言っちゃだめだよ?」
「はい!」
 秘密の約束。それで彼は安心したようで、やや曇っていた表情は日が差し込んだようにぱあっと明るくなった。

 そこで丁度、道の向こうに公園が見えた。普段はほとんど人のいない公園に、遠目でもわかるくらい多くの人がいるのがわかる。車が止まったり、色々な機材が置かれていたり、あまり詳しくはないけれど、確かに撮影か何かをしているように見える。
「ここで大丈夫?」
 あまり近くまで行くのもどうかと思い、その場で足を止める。彼は頷くと、もう一度頭を下げた。
「はい! 本当にありがとうございました!」
「どういたしまして。頑張ってね。応援してるよ!」
 彼は手を振りながら、私に背を向けると公園の方へ走っていく。それを少し眺めてから、私も踵を返した。

 自宅へと戻りながら、すごい経験をしてしまったと改めて感じた。人生で二度とは無いだろう。
 そういえば、彼の名前を聞き忘れてしまった。ドラマの名前も聞いていない。いつ放送されるのだろう。見つけられるか少し心配になった。せめてどちらかだけでも聞いていれば調べられたのに。
 そんなことを考えながら、マンションの入り口に辿り着く。自然と向いた視線の先では、花壇に広がった水溜まりがひっそりと輝いていた。

後編は こちら

 

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初出: 2022年10月26日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2022年10月26日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
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