暗い夜更けはご用心 前編

 いつもと違う天井に一瞬思考が止まったが、すぐに今が旅先だと思い出した。
 夕食に舌鼓を打ち、お風呂で汗を流したところまでははっきりと思い出せるが、その後が曖昧だった。おそらく部屋に戻った後、いつのまにか眠ってしまったのだと思う。

 喉の渇きを感じ、手荷物用の小さな鞄からペットボトルを引っ張りだすが、中身は既に空だった。部屋を見渡すと、テーブルの上に保温ポットと茶筒が目に入ったけれど、今は冷たいものが飲みたい気分だった。
 玄関に自動販売機があったと思い出す。行くか行かないか悩んだのは一瞬だった。
 座椅子に掛けていたパーカーを羽織ると、ポケットに財布を入れて立ち上がる。眠気はどこかに去り、今は喉の渇きを潤したい気持ちの方が大きかった。

 廊下は非常灯が足元に点々と灯っているだけで薄暗く、不気味な雰囲気を醸し出していた。曇った窓の外には、街灯一つない鬱蒼とした森が広がっている。足を踏み出すと、ぎしっと床が軋んだ。
 風情があると言えば聞こえは良いが、要はあちこちガタが来ているだけな気もする。そういえば他の宿泊客を見ていない。他の部屋にお客はいるのだろうか。というか、今日に限らず普段から宿泊客は入っているのだろうか。
 そんな心配をしてしまうほどには、良いとは言いづらい旅館だった。

 同じような扉を三つ横切ると廊下は途切れて、左手に階段が現れた。階段にも同じように非常灯が足元を照らしているが、どこか不安定で頼りない。
 念のために手すりを持ち、足を下ろすと、ぎいーっと廊下より大きく床が軋んだ。足を踏み外すよりも、床を踏み抜いてしまわないだろうかと不安になりながらも、階段を降りることが出来た。

 正面には玄関が見えており、その脇のスペースに納まった自動販売機が強い光を放っていた。
 人工的な光は自然の闇の中では強すぎるほどだった。光に引き寄せられる虫よろしくそちらに近付こうとしたところで、視界の隅で何か動いたような気がして足を止めた。
 右を見ると、真っ直ぐ伸びた廊下の奥に何かがあることに気付く。けれど廊下は二階の客室前よりも薄暗く、この位置からは何があるのかははっきり見えなかった。
 少しの間見つめていたが、何かが動く様子はない。気のせいだったのだろうと、気を取り直して自動販売機に向かった。がこんと大きな音を立てて、缶が落ちる。しんと静まった空気の中では、飲み口を開けるときのぷしゅっという音がとても大きく聞こえた。

 喉の渇きを満たし、部屋に戻ろうと階段の前まで歩いたところで、再び足を止めた。
 また何かが動いた。先程見た廊下の奥に再び視線をやる。目が暗闇に慣れたようで、先ほどより幾分はっきりと形を捉えることが出来た。

 廊下の突き当り、扉の前あたりに何かがある……というか誰かがいる。扉の前に誰かがしゃがみ込んでいるように見えた。
 あの扉の向こうは確かお風呂とトイレがあった。どちらも別棟になっていて、心もとない飛び石が建物と建物を繋いでいた。
 お風呂もトイレもこの建物と並べて遜色ないくらいには草臥れていた。ぼっとん便所ではなく、和式の水洗トイレであることに逆に驚いた気がする。

 旅館の人か、それとも他の宿泊客か。どちらにしても暗い中で見える人影は不気味で、とりあえず見なかったことにした。
 部屋に戻ろうと足を踏み出したとき、ばきっと一際大きく床が軋んだ。あまりの音にとうとう踏み抜いてしまったのかと思ったけれど、床は何も変わっていなかった。単に弱い部分を踏んでしまっただけのようだった。

 ほっとしていると、今度はひっと息を飲むような声が聞こえた。視線を感じ、再び廊下の奥に目をやると、小さかった影が縦に伸びていた。
 ずっと暗い中にいたからか、更に目が慣れて、人影が男の人であることがわかった。彼はこちらに背を向けたまま、頭だけで振り向くようにこちらを見ている。

 悲鳴を上げたのは彼のようだった。
「ごめんなさい。びっくりさせました?」
 咄嗟に謝罪の言葉を口にする。彼は何の反応も見せない。聞こえなかったのかともう一度謝ろうと思ったとき、彼はその場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
 驚いて咄嗟に駆け寄る。彼は体を丸くして蹲っていた。
「だ、大丈夫?」
 彼は俯いたまま、こくこくと頷いていた。
 どう見ても大丈夫ではない。誰かを呼ぶべきか、それとも救急車を呼ぶべきか。

 ポケットからスマホを取り出そうとして、手は空を掴む。そういえばスマホは部屋に置きっぱなしだ。
「どこか痛い? 誰か呼んでこようか?」
「だっ、大丈夫です……!」
「でも、苦しそうだよ? 救急車とか」
「ち、違うんですっ……!」
 私の言葉を遮るように彼は言い、顔を上げた。
 少し幼さの残った、大人と子供の中間のような顔。高校生か大学生か、社会人だとしても若くて、多分年下だと感じた。

 大きな瞳は涙で潤んでいて、薄い唇は震え、絞り出すような声で彼は言った。
「そ、そのっ、僕、僕、トイレっ……!」
 突然の宣言に、今度は私が目を丸くして固まる番だった。

 トイレ。私の耳がおかしくなければ、彼は確かにそう言った。
 私の目の前で丸められた体をびくびくと震わせているのは体調が悪いわけじゃなくて、トイレに行きたいからだと彼は言っているのだろうか。
「と、トイレ?」
 聞き間違いではなかったようで、彼は大きく頷いた。ふるふると震えている様様子は相当に切羽詰っているように見えた。

「そ、そっか。じゃあ早く行っておいで」
 返答に困った上で言えたのはそんな言葉だった。他に何を言えば良いのかわからない。
 彼はその場を動こうとしない。しゃがみ込んだまま、がたがたと震えているだけだった。
「どうしたの? 場所わからない?」
「く、暗くて、見えないから……」
 彼の声は震え、今にも泣き出してしまいそうだった。なんだか自分のせいで彼を泣かせてしまったようで、罪悪感で胸が痛んだ。私はたまたま通りかかっただけで、何かをしたわけではないのに。

 けれど、声を掛けてしまった手前、ほっておくことは出来なかった。
「わかった、途中までついていってあげるから。ほら、行こう?」
 手を差し出すと、彼はおずおずと私の手を握った。彼の手は温かくて、思ったより大きかった。

 彼と手を繋いだままで扉を開ける。途端にびゅうと風が吹き込んできて、ぶるっと体が震える。横目で様子を窺うと、彼はやや前かがみの体勢で、そろそろと歩いている。
「大丈夫?」
 彼はこくこくと頷いた。深く考えずに大丈夫と聞いたけれど、彼にとってはかなり気恥ずかしいことを聞いたかもしれない。大きな瞳の下、白い頬がほんのり赤く染まっているのは羞恥か、それとも本当に限界が近いからか。

 剥き出しの土の地面をざくざくと足音を立てながら歩く。私の左手は痛いほど握られていて、彼が泣き出しそうな顔をしてひょこひょこと足を進めている。
 街灯など光源になるものが何もないせいか、外は思った以上に暗い。非常用の明かりがある室内の方がまだ明るいだろうか。彼が怖がるのもわからなくはないと思った。
 確かトイレは建物の裏にあった。記憶を辿って、裏手に回り込むと、建物の影が掛かって更に暗くなる。目が慣れていたので何とか雰囲気を掴めたのが救いだった。

 目的地であるトイレは旅館に寄り添うようにある。木製の小屋は周りを背の高い雑草に囲まれて、暗い中では非常に不気味だ。中には誰もいないようで、建物の中も真っ暗だった。
「ほら、ついたよ。行っておいで?」
 扉の前で手を離したが、彼は私の手を握りしめたままだった。そわそわと足踏みを繰り返し、右手はズボンの裾を握ったり放したりしている。
「どうしたの?」
 声を掛けたが返事はない。ざくざく、ざく、と彼が不規則に土を踏み固める音だけが聞こえた。

 目の前には彼が待ち望んだトイレがあるのに、どうして彼は私の手を放さないのか。
「ここ、トイレだよ?」
「で、電気、が……」
「え?」
「ここ、電気がつかないんですっ……」
 彼に手を握られたまま、暗いトイレの中を覗き込む。中はあまりに暗すぎて、慣れた目でもどこに何があるのかすらもわからない。
 入り口横の壁を手探りで撫でると、手にスイッチらしきものが触れた。押してみるが、ぱちっと軽快な音がするだけで明かりはつかない。
 彼の言う通り、電気が付かない。他にスイッチがあるのか、それとも電球が切れてしまっているのか。確かめようにもこの暗さではどうしようもない。
 せめて他の明かりがあればとポケットに手を入れたけれど、財布が入っているだけだった。

 トイレの前でどうしたものかと頭を抱える。
 ざく、ざくと不規則な足踏みの音に混じり、荒い呼吸が聞こえる。彼は眉を寄せ、その目は泣き出す前のように涙で潤んでいた。
 母親に縋る子供のように私の手を握る手の反対側は、幼子のようにズボンの中央を揉んでいる。
大人と子供の中間のように見えたのが、今は幼い子供の様にしか見えない。

 辛そうな我慢の様子に、はやく楽にしてあげたいと思う。換えの電球を探しに行く、灯りになるものを探しに行く、他のトイレを探す。いくつかの方法が頭に浮かぶが、どの方法を選んでも彼にもうしばらくの我慢を強いることになる。
 考えて、とりあえず旅館に戻れば、何か明かりになる物があるかもしれないと思った。
「もうちょっとだけ、我慢できる?」
 我ながら非情な問いかけだと思った。彼の様子は誰がどう見ても限界で、もう一刻たりとも我慢していられないというのが痛いほど伝わってくる。

 彼は縋るような目でこちらをじっと見つめている。どちらの返事もないが、それが何よりも強くNOを伝えてきた。
 かくなる上は。私は彼の方を向き、言い聞かせるように言った。
「仕方ない。ここでしちゃおう」
 彼は戸惑うような表情を浮かべる。
「我慢できないんだから仕方ない。ね?」
 返事はなかったが、只でさえ落ち着きのない動きが、更に落ち着きを無くし始めていた。
 足踏みを繰り返していた両足はぴたりと寄せられ、時折ぶるりと大きく体を振るわせている。私の手は痛いほど握られ、彼の反対の手はズボンの前を忙しなく揉む。見ているこちらが辛くなるほどの様子だった。

 しばしの沈黙の後、彼は小さく頷く。その様子に思わず安堵の息が漏れた。
「じゃあ私は少し離れているから。終わったら呼んでね。一緒に部屋まで戻ろう」
 そう言って彼の側を離れようとしたが、彼は私の手を強く握ったまま離さない。自分の手を少し強く引いてみたが、しっかりと握ったままだった。
「どうしたの?」
 彼の意図が分からず、そう聞くしかない。彼は少し口籠った後、弾かれたように顔を上げる。
「く、暗いの駄目で、あのっ……」
 どこか辿々しい喋り方だった。元々なのか、それとも切羽詰まっているからか。

「大丈夫、ちゃんと待ってるから」
「あ、あっ、あっ……!」
 手を離したとほぼ同時に、彼は声にならない声を上げる。今度は私がパニックになる番だった。
 彼は両手でズボンの前をぎゅうっと握っていた。前屈みになり、激しい足踏みを繰り返す姿から目が離せなかった。
 見ては行けないものを見ている罪悪感に、只でさえ混乱している頭が更に混乱する。
「う、あっ、あ、も、むりっ……、でちゃっ……」
 足踏みで布が擦れる音と、あ、あ、と吐息に乗って漏れ出る声。足踏みが止まり、片足立ちになって、ぎゅううっと足の付け根を刺激して。
 弾かれたように彼の右手がズボンの中に差し入れられる。それを視界にとらえた瞬間、私は慌てて背中を向けた。

 間髪を置かず、じゅうううと静かな水音が、それを追いかけるようにびしゃびしゃと地面を濡らす水音が聞こえた。
「は、あ、あぁっ……」
 生々しい排泄の音と、胸の奥から湧きだしたような吐息交じりの声。何とか他のものに意識を逃がそうと視線を彷徨わせるが、薄暗い中では何も見えない。
 その分過敏になった聴覚が彼の吐息を拾い上げる。安堵の中に快感を混ぜた熱い溜息に、どうしようもない羞恥と興奮を覚えた。

 ばくばくと胸が高鳴り、気分が高揚していくのは何故だろう。見てはいけないと思いながらも、横目で見てしまう。ズボンの前を大きく引き下げ、反対の手で持たれたその先から、太い水流が噴き出しているのが見えて、慌てて目を逸らした。
 本当に限界まで我慢していたのはよくわかった。ばしゃばしゃと雑草を揺らす水音は聞こえ続ける。
 すごい量、どれだけ我慢していたのだろう。これだけ我慢していたら辛かっただろうなと純粋に思った。

 長い水音の後、辺りは再び静寂に戻った。整い切らない彼の荒い呼吸と、ばくばくと激しく高鳴る自分の鼓動だけが聞こえた。
「す、すみません……、お、終わりました……」
 蚊の鳴くような小さな声だったが、夜の静寂の中ではちゃんと聞こえた。たどたどしかった喋り方が少しだけしっかりとしていた。
「そ、そっか。じゃあ、戻ろうか」
 今度は私の方が動揺していた。どちらからともなく手を繋いで、来た道を戻る。手を洗ってないことはその時は何とも思わなかった。

 部屋に付くまで、彼の方を振り向く勇気はなかった。
 旅館の中に戻り、二人でぎいぎいと階段を軋ませて二階へ上がる。非常灯が照らす不気味な廊下を歩いて、彼は私の部屋の隣で立ち止まった。
「すみません、ここです」
「そっか。じゃあ、私はこれで」
 私が手を放しても、彼はまだ私の手を握っていた。

「あの、すみませんでした。ありがとうございました。
 僕、ほんとに暗いの駄目で、見えないし、怖くて、でもすごくトイレ行きたくなって。
 お姉さんがいなかったら、大変なことになってたかもしれないです。ほんとに助かりました」
 上手く纏まらないのか、ごにょごにょと話す姿はなんだか可愛らしくて、反対の手でつい頭を撫でていた。
「どういたしまして。それじゃあ、お休み」
「あ、はい。おやすみなさい」
 今度こそ手を放して、彼は部屋の中に戻っていく。私も自分の部屋に戻り、目を閉じて朝を待つのだった。

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初出: 2019年3月9日(当サイト) 掲載:2019年3月9日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
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