辺りは夕暮れ。周りの景色に見覚えは無く、何故自分がここにいるのか、ここがどこなのか全くわからない。それでも足を動かして、早足に歩いていた。どこに向かっているかはわからなくても、どこに行きたいのかは痛い程にわかっていた。他のことは欠片も考えられず、纏わりつく嫌な感覚が早くするんだと責め立てる。
歩きながら周りを見渡して、何となく角を曲がって。見覚えのない町で、待ち望む場所を探し求める。お腹の中では鈍い衝動が渦巻いていて、時折、突き刺すような悪寒が体に広がった。
角を曲がると、突然空白が出来た。そこだけ切り取ったような真四角の空き地が広がり、中央には灰色の建物があった。壁の一部にはくり抜いたように入り口がある。向こう側は真っ暗で、中に何があるのかは見えなかった。
思わず足を止めて、その暗闇を見つめていた。立ち止まった瞬間、分散していた感覚が一気に集まってきて、じいんと重く響いた。体がひとりでに震えて、反射的に足を交差させた。
駄目、だ。我慢、我慢。呪文のように頭の中で唱えるが、それはすぐに塵となって消えていく。鈍く、それでいてしっかりと芯を持ったある一つが、他の考えを全て蹴散らしていた。
入口の向こうは本当に真っ暗だった。すべてを飲み込んで、すべてを受け止めて、すべてを隠してくれそうな暗闇。ここだと何故か思った。これだと不思議と思った。
考え事をする余裕はもう無かった。お腹の中では一刻を争う攻防が繰り広げられている。ぞくりと悪寒が広がり、体が震える。じわりじわりと熱い物が押し寄せて、鳥肌が広がった。
ああ、もう無理。本当に、もう駄目。……トイレっ! お腹の中で大きく膨らんだ膀胱がたぷんと揺れた。切羽詰まった尿意に追い立てられながら、暗闇の中へと思い切って飛び込んだ。
灰色の建物の内側は本当に暗かった。入口から差し込む光は床を伝って先細っていに、途中で消えている。正面の壁は全く見えず、とても広い空間があるように見えた。
そんな暗闇の中央で、後ろから差す夕日を浴びてきらりと輝くものがあった。その見慣れた姿に安堵を覚えて、そしてすぐに驚愕した。
そこにあったのは、男性用の小便器だった。縦に細長く伸びた直方体は、こちらに向いた面がくりぬかれたように丸みを帯びてへこんでいる。なめらかな曲線を描いた部分は全てを受け止めるようだった。
ああよかった、トイレに辿り着いたと安堵する。暗闇の向こう側に助けを求めたのは間違っていなかったのだと思ったが、その一方で感じた異常さを無視することは出来なかった。
こういうものは普通、壁際に置かれることが多い。少なくとも、こんな部屋の中央にぽつんと置かれているなんて、今まで見たことが無かった。
それでも、気になる点が位置だけであれば、今すぐにでも飛びつくように駆け寄って、間違いなく排泄を始めていたと思う。もう余裕なんて殆ど無くて、今もそわそわと足が動くのを止められない程には切羽詰まっている。
そう出来なかったのは、他にも違和感があったからだ。
暗い空間の中央ですらりと立った小便器は、見覚えのある陶器の白ではなく、硝子のように透明だった。白も黒も持たない、暗闇に消えてしまいそうな無色のそれは一筋の光に照らされて、美術品のようにそこに存在していた。
只でさえ混乱している頭がさらに混乱し始める。知らない場所で激しい尿意に襲われて、トイレを求めて駆け込んだ建物の中には、透明の小便器が一つ置かれている。一体どういう状況なんだ。訳が分からず、入口に立ったままもじもじと体を捩って、その異様な光景を眺めていた。
何か納得のいく理屈を付けたいが、ぐちゃぐちゃの頭の中を尿意が更に掻き混ぜる。ああもう、おしっこしたい、トイレっ……! 何を差し置いても、とにかく今はこの荒れ狂う尿意から解放されたくてたまらない。じっとしていると嫌な衝動はどんどん膨らんでいて、足踏みをして必死に紛らわせる。けれど、どれだけ誤魔化したところで、原因を解決しなければどうしようもないことは、この感覚が痛いほど教えてくれていた。
もじもじ、そわそわと体が動く。それでも、目は透明の便器に釘付けだった。これは、使っても良いんだろうか。大丈夫なんだろうか。躊躇う気持ちを尿意が押し退けていく。ああ、ほんとやばい、トイレっ、おしっこっ……! お腹の中で熱い液体がたぷんと揺れる。
床を踏む足が一歩前へ出る。反対の足が追いかける。ぞわぞわと悪寒が広がり、手を握り締めて必死に堪える。二歩目を踏み出して、両足を寄せる。腰が引けて、落ち着きなく揺れているのが分かる。
三歩目を踏み出すと、もう歩数なんてどうでも良くなった。
「あ、あ、あっ……」
四歩、五歩、六歩。歩数を一気に重ねながら、耐え切れず情けない声が漏れた。きつく締めたベルトに手を掛けながら、小走りに駆け寄る。汚れ一つ無い透明の小便器の前に立った瞬間、気が緩んだのか、尿意が一気に駆け上がった。
「っ……、あ、ぁ……!」
じわりと出口が熱くなった気がした。咄嗟に片手でズボンの上からそこを握り締める。駄目、無理、やばい、出る。もう少しだけ、我慢、我慢、ああ、でも、ほんとにもう無理っ……!
子供みたいにズボンの前をぎゅうぎゅう押さえながら、反対の手でもたもたとベルトを緩める。ボタンは片手だと難しくて、両足を寄せて、もじもじ体をゆすりながら両手を動かす。
ボタンを外して、チャックを下ろして。待ち望んだ瞬間が今まさに訪れることに安堵の息が漏れかけて、それは一気に喉元に戻った。
ばたばたと煩い足音と、荒く短い呼吸の音が聞こえたかと思うと、外から差し込んでいた夕日が突然消えた。突然、世界が真っ暗になって体がびくっと跳ねたが、次の瞬間には明るくなった。先程のような一筋の光ではなく、部屋の電気が付いたかのように、周り全体が柔らかな明るさに包まれていた。
「良かったねー、ちゃんとゴールできました。……あら?」
後ろから聞こえたのは、柔らかい女性の声だった。突然起こった出来事に、荒々しい尿意は一瞬だけ姿を消していた。
手はズボンの前に添えたまま、体を捻って後ろを見る。あったはずの入口は無くなっていて、そこには二人の人間が立っていた。
一人はスーツを着た男性で、長身は俺と同じように前かがみになって丸められていて、整った顔は苦しそうに歪んでいた。
そして、もう一人は女性で、おそらくさっきの声の主だ。彼女は、宙に浮いていた。
あまりの光景に、自分が何を見ているのか理解が出来なくなった。瞬きしても、やはり女性の足は床を踏んでおらず、黒いワンピースの裾が揺れている。背中には小さな黒い羽があって、ぱたぱたと動いていた。
「あらー、あらあらあら」
男性も女性も驚いたようにこちらを見ていた。やはりここは入ってはいけない場所だったのだろうか。入る前の躊躇いが再び頭を過る。知らなかったと謝って、すぐにここを出た方が良いか。そう思った瞬間、驚きで追いやられていた尿意が再び主張を始めた。体の内側に大きな波が走り抜けて、全身が大きく震えた。
もう何が何かわからず混乱していると、女性の丸い目がにやりと細められた。その表情は何故かとても嬉しそうに見えた。
「なるほどなるほど。波長が合っちゃったのか」
女性は小さな声で呟いてから、隣の男性に視線を向ける。彼は涙の浮かんだ瞳で縋るように彼女を見上げていた。真面目そうな雰囲気に似合ったスーツはあちらこちらに皺が寄っている。特に、体を丸めた中央、ズボンの股の部分は強く握りしめたように放射線状の皺が目立っていた。
「順番は守りましょうか」
「なっ、そんなっ……無理だ、頼むっ、もうっ、ほんとにっ……!」
「駄目ですよー。ちゃんと自分の番まで我慢しましょうね」
男性は体を震わせると、耐えかねたように両手がズボンの前を握り締めた。くしゃくしゃの皺が更に深くなる。手で押さえて、体を捩り、必死に我慢する姿は幼い子供のようだ。
多分、あの人も俺と同じなのだ。あのすらりとした長身の内側には、溢れる寸前まで水分が溜め込まれていて、早く出せと暴れているのだろう。
ふと視線を戻すと、俺のすぐ傍に女性は移動していた。小便器を挟んで向こう側に、彼女は音もなく浮いている。突然のことに驚きで体が跳ねて、じゅわっと出口が熱さを感じた。咄嗟に手がズボンの中へ潜り込み、柔らかな下着の上から疼く出口を押さえた。
何かを言おうと思ったが、混乱して言葉が出てこない。頭は真っ白だった。何を考えたら良いのかすらわからない。体の中には、ただ熱く煮えたぎる尿意しかなかった。
透明な便器越しに、女性の細身な体が歪んで見える。彼女はにこにこ笑いながらこちらを見ていた。
「おしっこ?」
柔らかそうな唇がゆっくり動いて、一音一音明瞭にその言葉を口にした。単純で率直、幼い子供に訊ねるような、幼い子供が言うような、そんな純粋な話し方。取り繕うなんて欠片も考えられず、ただそっと頷いて、その言葉に返事をした。
「そっかそっか。ここまで我慢出来て偉かったね。では、どうぞ?」
彼女の細められた目が俺を見る。瞬間、体の内側に激しい衝動がぶわっと広がった。紛らわせていた尿意が一気に押し寄せて、頭のてっぺんから足の先まで大きな波が走り抜ける。重く膨らんだ膀胱を揺らして、その中身を出口へ向かって押し出そうとするのが分かった。
「あ、ぁ、あっ……」
人前だ、ましてや目の前にいるのは女性だ。そんなことするなんて、流石に。抗う言葉は一瞬だけ浮かんだけれど、すぐに波が連れて行ってしまった。
ぎゅううっと膀胱が縮む感触。破裂寸前、ぱつんぱつんに膨らんだ水風船が限界だと中身を押し出す。風船から伸びる細い道が熱い液体で満たされて、その先の出口へ攻め寄せる。
押さえているのに、下着の内側で出口がぷくっと膨らんで、ぶじゅっと破裂するような感覚が広がった。指先が、触れる下着が、その奥の出口が熱く濡れる。
「あ、っ……!」
上手く息が出来ない。何も考えられない。ただ手が動いて、下着の中に潜り込む。先端は堪えきれずに、じゅ、じゅうと熱い雫を零していた。
泣き出しそうになりながら無理やり引っ張り出して、震える手でその先を便器へ向けた。その瞬間、女性の唇が大きな弧を描いたのがとてもはっきり見えた。
「あ、あっ……、っ、はぁぁ…………!」
じゅいいいい、と激しい水音が響き渡った。雫は一瞬の間もなく繋がって野太い水流へと姿を変える。勢いよく噴き出した熱いおしっこは透明な便器へぶつかって、ぴちゃぴちゃと水滴を散らした。
あ、あぁ、あ。出た、おしっこ、やっと出来た。ぽかんと口が開いて、長い息が胸の底から溢れ出す。天にも昇る気持ちとはこれを言うのだと実感していた。気持ちよさ以外、体の中には何もない。力が抜けて、溶けてしまいそうな程に心地良かった。
はち切れそうな程に膨らんでいた膀胱からおしっこが次々に飛び出していく。排泄が、生理現象がこんなに気持ち良いなんて今まで知らなかった。背中が快感でぞくぞくして、ぶるりと震えた。
お腹が徐々に軽くなっていく。自分でも驚く程出ているのに、まだ止まらない。全身が温かさに包まれて、じっとりと濡れた感触が体に纏わりつくような気がした。多少余裕ができた分、落ち着きを取り戻して我に返る。
視線の先に、先程の女性がいた。透明な便器の向こう側で膝を折ってしゃがみこんでいる。彼女の頭は、今まさに噴き出すおしっこが当たっているあたりで、猫のように細くなった目は楽し気に俺の手元を、そこから噴き出すおしっこを見つめていた。
「いっぱい我慢してたねー。えらいえらい」
その言葉に羞恥が広がり、全身がぶわっと熱くなった。何か言おうにも真っ白な頭には何の言葉も浮かばず、目を伏せるしか出来ない。その間にもおしっこは止まらず、じゅうじゅうと、ぴちゃぴちゃと水音が響き渡っていた。
「っ、く、ぁ、あっ……!」
苦悶の声が聞こえたかと思うと、突然、横から体を押された。体勢を崩しそうになったけれど何とか踏み止まり、横に少しずれるだけで済んだ。驚いてそちらへ目を向けると、先程の男性が鬼気迫る表情でそこにはいた。握り締めたズボンはくしゃくしゃな上に、中心が大きく色を変えている。
「あ、あっ、ああぁっ……!」
千切れた声を漏らしながら、男性は乱暴な手つきでズボンと下着を引きずり下げた。中からぶるんっと男性器が雫をまき散らしながら顔を出す。荒く短い呼吸を繰り返しながら、男性はその先端を何とか便器の方へと向けた。
ぶじいいいぃぃ、と空気を切り裂くような水音が響いて、彼の手元からすさまじい勢いでおしっこが飛び出した。まっすぐレーザーのように噴き出した水流の先端はやはり透明な便器の内側へと叩きつけられて、大粒の雫をまき散らす。
まだ出し切れてない俺の細いおしっこと、限界の限界まで我慢した男性のおしっこ。細い水流と太い水流が交差して、透明な便器の内側へ注ぎ込まれている。その向こう側で、女性は頬杖をつきながら、やはり笑っていた。
「あーあー、順番は守らないと駄目ですよ」
その言葉は彼に届いているのかいないのか。男性は目は伏せて、熱い呼吸を繰り返しながら立ち尽くしていた。手には力が入っておらず、中央が濡れたズボンがばさりと足元へ落ちた。太もものあたりに引っかかったグレーの下着はぐっしょりと濡れて色を変えていた。
「横入りなんて、いけないお兄さんだねぇ」
女性は膝を伸ばすと、小便器の上へ手を乗せて、こちらへと顔を近付けた。猫のような大きな目をした可愛らしい顔つきに、心臓がどきりと跳ねる。
そうこうしている間にやっとお腹は軽くなって、何度か雫を零してから、おしっこは止まった。軽く振ってから戻そうとして、下着が少し濡れていることに気付いた。
「あらー、ちょっとだけ間に合わなかったね」
女性にも見えてしまったのか、そんなことを言われて顔が熱くなる。ごそごそと服装を正して、ベルトを締めなおす。その間にも男性のおしっこは激しい水音を響かせていた。
肌にじっとりと張り付く感触は気になるものの、体の中は空っぽですっきりしていた。冷静になることができたものの、改めて今の状況の意味不明さを実感していた。
全部が全部、訳が分からない。この場所も、この透明な便器も、限界寸前でおしっこをしている男性も、それを見て笑いながらふわふわ浮いている女性も、何が何だかちっとも理解できない。
混乱して立ち尽くしていると、女性は便器の横へ回り込み、俺のすぐ傍へ近付いた。目線の高さは同じで、彼女の足はやはり地面から離れている。何度見ても、彼女は浮いている。背中の小さな羽がぱたぱた動いているが、あんなもので人は飛べないだろう。
「良いですねー。あたしと波長がぴったりです。君とも楽しい遊びが出来そう」
彼女は楽しそうに言う。その言葉もよくわからなくて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「……な、なんなんですか、これ」
自分の思いを率直に口にすると、女性は笑みを深くする。
「なんだろねー。心配しなくても、きっとわかるから大丈夫だよ」
「わかるって、何が……」
「夢魔に気に入られちゃうなんて可哀そうに。でもごめんね、見逃す程あたしは優しくないんだな」
彼女の言葉にぽかんと口が開く。今、何と言った? その言葉を聞き返そうとしたが、それより先に彼女が動いていた。
両手を広げて、ぎゅっと抱き着かれた。その行動にどきっと胸が跳ねた。
「ひとまず、今日のところはさようなら。近い内に会いに行くから楽しみにしててね」
彼女の体温が広がっていく。全身がじっとりと温かい。特に、背中。それからお尻のあたり。温いものが張り付いて、纏わりつくような感じがする。
いつの間にか目を閉じていることに気付いた。はっと目を開けると、広がっているのは見慣れた自室の天井だった。訳の分からない空間でもないし、そこには男性も女性もいない。いるのはただ自分一人。
どうやら夢を見ていたらしい。理解不能な出来事も夢だとわかると納得がいった。
起き上がろうとして、思わず固まった。体が寒さでぶるりと震える。冷えた肌にじっとりと纏わりつくものがあった。
布団を捲る。その内側で、白いシーツに薄く色付いた円が広がっていた。下着とパジャマのズボンはぐっしょりと濡れて、肌に張り付いている。あの女性の体温のような温かさは全くなく、悲しい程に冷めたかった。
うそ、だ。信じたくない光景に、全身が強張る。いやいや、流石にこれも夢なんだろう。子供じゃあるまいし、そんなこと。
夢なら覚めてくれと底から思ったけれど、何度目を閉じても現実は変わらない。パジャマはお尻どころか背中までぐっしょり濡れてしまっていた。
最悪だ。なんで、おねしょなんか。頭を抱えている間にも、濡れた服の不快感と冷たさが広がる。現実逃避もそこそこにして、とりあえずシャワーを浴びて着替えないといけない。布団も何とかしないと。シーツは洗えるけれど、布団自体はどうしたらいいんだ。
情けない状況に泣きそうになる。鼻を啜りながら、にんまり笑う口元を何故か思い出した。
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初出:2023年10月27日(pixiv・サイト同時掲載)
掲載:2023年10月27日