練習の成果もあって、お別れの挨拶も自然と言うことが出来ていた。軽く頭を下げて、去っていく背中を見送る。頭を上げると同時にため息が漏れた。
手に持ったグラスに口を付けて、喉の渇きを潤していると、また違う人が傍に寄ってくる。会釈をして、今度は挨拶と自己紹介。それからは無理に話さずに、聞き役に徹する。苦手な歓談もこうして心構えをすると、幾分気楽に挑むことが出来た。
ただ、聞き役とは言え、こうもずっと話し続けていれば疲れを感じる。しかも相手はそれなりの立場の人ばかりで、失礼な対応をするわけにもいかない。気持ちを引き締めて、笑顔と共に相手の話に相槌を打った。
ひとりになると、グラスに口を付けて喉を潤す。そして、この後のダンスタイムに思いを馳せた。
教養を付けるための座学と、立ち居振る舞いと、社交ダンスの練習。ここしばらくの頑張りは我ながら褒めてあげたい程だ。勉強の成果もあり、以前と比べればそれなりに上手な受け答えは出来るようになったと思う。礼儀作法も随分板についた。今のところ、大きな失敗はないはずだ。強いて言うならば、お話をした相手の顔と名前がほとんど一致していないことくらい。
けれど、ダンスに対しては不安しかなかった。元々運動が苦手なのもあって、練習を何度重ねても上手くいかなかった。この後のことを考えるだけで、緊張が高まってくる。
大丈夫、とにかく落ち着こう。ダンスの先生も楽しむことが大切だと言っていた。ひとり静かに深呼吸をして、グラスに残ったジュースを飲みほした。
気を紛らわせるために、ぐるりと部屋の中を見渡す。大広間は様々な人が溢れかえっている。
世話役の執事さんを除いて、大半の男性は上質そうな燕尾服を上品に纏っていた。どの人も整った顔立ちをしていて、手足がすらりと長い。王子様のようだと思ってから、どの人も正真正銘の王子様だと気付く。
歓談を交わした人も中にはいるけれど、ほぼ全員が初対面だ。この方々と社交ダンスをするのだと改めて意識すると、緊張で胸の奥底がきゅうと締まった。
女性が着るのは華やかなドレス。ふわふわで、ひらひらで、色鮮やか。ウエストまでがきゅっと締まっていて、そこから下はふんわりと広がっている。髪はふわふわだったり、さらさらだったり。整ったお顔には綺麗なお化粧が施されていて、どの人も華が咲いたように綺麗に笑っていた。
私自身も綺麗なドレスを着せてもらって、お化粧をしてもらった。少し動きづらいけれど、歩くのにもだいぶん慣れたと思う。
他のお姫様を見て、ぴんと胸を張った姿勢を真似るように背筋を伸ばしてみる。私も同じように綺麗に見えていると良いな。せめて、服に負けていませんように。
あの人が私を見たら、褒めてくれるかな。そんなことを考えながら、鮮やかなドレスに目を走らせる。華やかな中に色味を押さえたシックなドレスを見つける度に、自然と目がそちらを向いた。もしかしてと胸が期待で踊るけれど、どの人も私の探し人ではなくて、その度にひとり気を落とす。
自分は招かれざる者だと彼女は言っていたから、いないのが普通なのかもしれない。それを抜きにしても、そもそもこういう場所は好きではなさそうだ。
また彼女に似合いそうなモノトーン調のドレスを見つけて、それが彼女ではなくて落胆する。様子を見に来るって言ったのに、ちゃんと約束したのに。胸の内で不満を漏らすけれど、きっと彼女には届いていない。
次に会ったときに文句を言ってやろう。グラスを持ち上げて中身に口を付けると、あの時に指切りを交わした右手の小指が視界に入る。空のグラスに彼女の顔がぼんやりと浮かんだ。
+++
その日もたくさんの練習を終えて、くたくただった。疲れて重い足で自室へと廊下を歩いていく。
どれだけ練習しても不安は消えない。頭で動きを覚えても、体が付いてこない。それに、見ず知らずの男性とあんなに密着するなんて、想像しただけで緊張した。今、教わっている女性の先生が相手でも上手くできないのに、当日、見ず知らずの男性とだなんて、上手くいく姿が想像できなかった。
ため息が自然と漏れる。いつものように廊下を曲がろうとして顔を上げると、その奥に黒い人影が見えた。真っ黒ですらりと長い人影には見覚えがあった。
曲がるべき角を通り過ぎて、足が勝手に廊下の奥へと進む。このお城には不似合いな真っ黒な影に吸い寄せられるようだった。
人影は廊下の奥を曲がる。追いかけて私も同じように角を曲がると、少し向こうにその姿が見える。駆け寄ろうとすると、またその人は角を曲がってしまう。
追いかけて、曲がって、また追いかけて。気付けば全く知らない場所にいた。他の場所より薄暗く、無機質な扉がずらりと並んでいる。窓も幾分曇っていて、その向こうに見える庭にも見覚えが無い。お城は広いので、行ったことのない場所はたくさんある。
見知らぬ場所に不安になっていると、追いかけてきた人影すら見失ってしまったことに気付いた。
周りを探してみたけれど、追いかけてきた彼女どころか人の気配すら感じられない。並んだ扉はどれもぴたりと閉まっている。何の印もなく、勝手に開ける訳にもいかず、それ以上探すことは出来なさそうだ。
お話、したかったのにな。静かにため息をつく。
彼女と一緒にいてはいけないと言われているけれど、私が知っている中で、彼女が一番優しくて、一番好きだった。いつでも優しくて、どんな話も聞いてくれて、困っていると助けてくれる。今みたいに不安な時は、彼女と話をするだけですごく楽になった。
会いたかったな。そう思いながら、来た道を引き返す。日が傾き始めて、廊下は薄暗くなり始めていた。人気がないのもあって、少し不気味だった。空気もひんやりしていて、体が冷えていく。背筋がぞくぞくした。
くつくつと自分の内側に沸き立つ衝動から目を逸らす。ダンスの練習の際にはたくさん水分を取る。一度意識してしまうと、欲求は強くなっていく。
はやく戻ろう。落ち着かない気持ちを振り切るように、少し速足で廊下を歩いた。
来た道を戻っているつもりだけれど、本当に正しいのか、だんだんと不安になってくる。廊下に置かれた高そうな装飾品も、窓の外に見える景色も、知らない物ばかりだ。
早く見慣れた場所に出てほしい。せかせかと歩きながら、頭の中はお手洗いのことでいっぱいになっていく。
誰か、誰でも良いからすれ違わないかな。そうしたら迷ったと素直に言って、お部屋まで連れて行ってもらうのに。恥ずかしいとか、みっともないとか、そんなことを気にしている余裕は無くなり始めていた。
歩く速度が上がっていく。廊下を走るのは良くないと思いながらも、気が急いてしまう。
はやく、はやく。記憶を頼りに廊下の奥を曲がると、反対側から同じように角を曲がった人がいて、早歩きだった私は突撃するようにぶつかっていた。
「わっ、すみませんっ、失礼しましたっ」
咄嗟に伸ばした手が相手の体に触れる。手に柔らかい感触。目前には真っ黒な布地が広がっていた。
私より背が高いその人は、私をそっと受け止めていた。顔を上げると、目深に被ったフードの下で、黒い目がこちらを見ていた。
「気を付けて。怪我でもしたら大変」
白い手がぽんぽんと肩を叩く。思いもしなかった出会いが嬉しくて、曇っていた気持ちが一気に晴れていく。
「アメリア!」
「変わった場所にいるね。その上、随分慌てていた」
ここにいる理由はともかく、慌てている理由は素直には言いづらい。口を噤む私を気にした様子もなく、彼女はローブのフードを正していた。
「どちらまで? 良ければ案内しようか」
「良いの?」
「一緒にいて怒られても構わないなら」
そんなこと全然構わない。さっきまで沈んでいた気持ちが一気に持ち上がる。我ながら単純だなと思いながらも頬が緩んでいた。
「部屋に戻りたいけれど、迷っちゃったの」
「随分器用な迷い方だね。こっちは物置ばかりで、用が無ければ誰も来ないのに」
「アメリアを見かけて、追いかけたら見失って、戻ろうと思ったらわからなくなっちゃった」
「それは悪いことをしたかな。ちゃんと部屋まで送り届けるよ」
こっち、と歩き出した彼女の隣に並ぶ。ひとりじゃなくなった途端、さっきまでの不安な気持ちはどこかに行ってしまった。その代わりに、消えずに残った物が強くなる。
はやく、はやく。アメリアについて廊下を歩きながら、お手洗いのことばかり考えてしまう。違うことに気を逸らしたくても、そんな余裕はあまり残っていなかった。
彼女に自室の前まで連れてきてもらうと、ふうと安堵の息が漏れた。
「もう戻ってこれないかと思った」
「大袈裟だよ。じゃあ、これで」
そう言って踵を返そうとした彼女の手を咄嗟に掴む。折角会えたのに、お話せずに終わりなんて寂しい。今日は会えないと一度は諦めたはずなのに、目の前にいると離れがたくて堪らなかった。
「あの、忙しい?」
「用事は大体終わったかな」
「じゃあ、お部屋に寄っていって」
「サユリこそ用事があるんじゃないの? 随分慌てていたけど」
言われて、恥ずかしさに頬が赤くなる。素直に言うのは恥ずかしすぎて、でも、慌てているのも事実で。スカートの下でさり気なく両足を擦り合わせながら、どう言おうかと考える。
「言いたくないなら言わなくて良い。入って良いの?」
「うん、もちろん!」
頭を撫でられて、掴んだ彼女の手をぎゅうと更に握る。そのまま手を引いて、一緒に自室へ入った。
やっと戻ってきた自室に安心して気が緩むと、込み上げる感覚が更に強くなった。体の内側で沸き立つ衝動が大きな波となって全身を走り抜ける。ぶるっと体が勝手に身震いして、咄嗟に両足をぎゅうと寄せた。
ソファのいつもの位置に彼女は座る。ばれないようにさり気なく体を揺すって気を紛らわせる。せめてお茶の用意だけでもと思っていると、くすくすと笑い声が聞こえた。
「そういうこと」
彼女の方を向くと、フードを脱いだ彼女が笑っていた。
「もてなしはいらないよ」
「でも、お茶くらい」
「喉は乾いてない。それよりこっちに座ったら? それとも、先にあっち?」
彼女はこっちと良いながら自分の隣をぽんぽんと叩く。それから、あっちと言いながら部屋の隅を指差した。指差した先を目で追って、自室の隅の見慣れた扉に辿り着く。頬がかあっと熱くなるのが分かった。
「……意地悪」
「意地悪じゃないよ。折角だから、期待には応えておくけど」
白い手が袖口から細長い杖を取り出す。そして先端がソファの隣のスペースをとんとんとんと三回叩いた。
突然、何かに背中をぐいと押された。体が前屈みになって、バランスをとるために足が勝手に動く。前へぱたぱたと歩いていって、それでも転んでしまいそうになって、咄嗟に前に手が伸びる。目の前にはソファに座ったアメリアがいて、私は彼女の肩に手をついて、覆いかぶさるような体勢になっていた。
「いらっしゃい」
珍しく私が長身の彼女を見下ろしていた。フードに隠れていない顔は雪のように真っ白だ。整った顔立ちに改めて見とれそうになっていると、服の上から彼女の手が背中を撫でた。お尻の上、腰のあたりをそっと撫でられると、全身がぞくぞくして身震いした。大きく膨れたお腹が疼いて、吐息と一緒に小さく声が漏れた。
「ま、待って、駄目」
「可愛い顔。そんなになるまで我慢しなくても、適当な部屋のトイレを使えば良かったのに」
何も言っていないのに彼女にはお見通しで、本当に敵わない。言い当てられた恥ずかしさで顔が熱くなった。
「だって、誰かのお部屋かもしれないから」
「それで慌てていたの? 相変わらず真面目だね」
彼女はくすくす笑う。多分赤くなっている顔を見られたくなくて、俯いて隠す。でも今の体勢では彼女は下から私の顔を覗き見てしまう。息が掛かりそうな距離で真っ黒な瞳にじっと見つめられると、それだけでどきどきした。
「あの、背中、離してほしい……」
「意地悪はもう良いの?」
「してほしいなんて言ってないもん……」
「それは失礼」
ぽんぽんと背中を撫でてから、彼女の手が離れる。慌てて立ちなおして、そのまま先ほど彼女が指差した扉に向かう。扉の前で肩越しに振り向くと、黒い目がこちらを向いていた。
「すぐ戻ってくるから、どこにも行かないでね」
「わかったよ。どうぞ、ごゆっくり」
彼女の視線を感じながら、扉を開けた。
ぱたんと扉が閉じて、完全に私一人になった瞬間、咄嗟にスカートの上からそこをぎゅうっと押さえた。顔を上げると、すぐそこに待ち望んだお手洗いがある。さっきからこんこんと込み上げていた衝動が一気に強くなった。
「あ、あ、や、だめっ……」
ひとりでに声が出る。みっともなくスカートの前をぎゅうぎゅうと押さえながら、便器に近付く。だめ、でちゃう、もうちょっとだけ待って。震える指先で下着を下ろしながら慌てて後ろを向く。座るとほぼ同時にじゅううう、と熱いおしっこが噴き出していた。
はあ、と息が漏れる。ぴちゃぴちゃ、陶器を叩く水音。
危なかった。重かったお腹が軽くなっていく。気持ちよくて、体から力が抜ける。我慢しすぎたからか、いっぱい出ていて、全然止まらなかった。
+++
身支度を整え、すっきりした気持ちで扉を開ける。
ソファに座った彼女が顔を上げて、目が合った。真っ黒な目は全て見透かしているようだ。扉の向こうで私が慌てていたことや、はしたなくスカートの前を押さえていたことも知っているんじゃないか。そんな訳ないのに、まるで見られていたように感じて、気恥ずかしさに顔を伏せる。
しんと静かな中、とんとんとん、と三回何かを叩く音が聞こえた。驚いて顔を上げると同時に、再び背中が何かに押される。転ばないために足が勝手に動いて、先ほどと同じように彼女の前に進む。伸ばした手が彼女の肩を掴むのも同じ。
気付けば私は先程と同じように、彼女の肩に手を置いて覆い被さっていた。
「おかえり。すっきりした?」
「……ばか」
下から覗き込まれると、顔を隠すことも出来ない。くすくすと楽しそうに笑う表情に、恥ずかしくなって目を逸らす。普段は無表情なのに、こんな時だけ楽しそうだ。本当に、意地悪。
彼女の手が背中を撫でる。今度は彼女の隣へと促された。抵抗せずにソファに座って、そのまま寄りかかった。
しばしの沈黙。それから、あのね、と口を開く。ぽつぽつと胸の内の不安を吐き出している間、彼女は何も言わない。相槌の代わりなのか私の頭を撫でていて、それがとても心地よかった。口に出した不安が少しずつ軽くなっていくように感じた。
「真面目だね。舞踏会なんか出ても何の得もないのに」
第一声がそれで、つい苦笑いした。
「お世話になってるし、出来ることはしたい。やる以上は皆さんに恥をかかせる訳にもいかないし」
「恥くらいかかせておけば良い。城がサユリを令嬢として面倒を見ると決めたのだから、恥も面倒も被るのが当たり前。サユリが気負う必要はない。いい気味くらいに思っておいたら?」
時々思うけれど、彼女はお城に対して割と辛辣だ。特定の誰かに対して何かを言うことはないけれど、お城全体については随分当たりが強い。その割にお城に住んでいるのだから不思議だ。気になるけれど、そこを指摘して彼女がいなくなると困るので、言わないようにしていた。
「ありがとう。でも、出来る限りのことはしたいから頑張る」
「頑張るのも程々に。そんなに心配しなくてもサユリなら大丈夫だよ」
「でも、ダンスは本当に苦手だから、頑張らないと」
「難しく考えなくても、相手に合わせて適当に動いていればそれっぽくなる」
随分簡単に言うなあと、つい苦笑いが漏れた。
「動く方向を間違えないようにとか、足を踏んだら大変だとか、色々考えちゃうよ」
「踵じゃなければ踏んでも大して痛くないよ。この機会にたくさん踏んでおいたら?」
「もう……」
本気なのか冗談なのか。どっちにしても彼女なりの励ましのようで、強張っていた肩の力が抜けた。
「アメリアは来ないの?」
「私は招かれざる者だよ。城に嫌がらせがしたくなったら行くけれど」
魔女は忌み嫌われる存在だと彼女は言っていた。実際、お城の人からは魔女に関わってはいけないと何度も何度も言われたし、こうして一緒にいるところを見つかると叱られた。それでも懲りずに部屋にアメリアを招く私に、最近は諦められているのか、お叱りの頻度もずいぶん減っていた。
お城の外の人にも魔女は避けられる存在なのだろうか。そうだとしたら、人の集まる場所には行きたくでも行けないんだろう。そもそも、あまりそういう場所は好まないようにも思うけれど。
「そっか」
「そんなに沈んだ顔をする程のこと?」
「だって、アメリアがいたら安心できるなって思ったから」
彼女と共に舞踏会に出られるかもしれないと少しだけ期待したので、気持ちが萎んだ。顔にも出ているようで、彼女の白い手が私の気持ちを宥めるように髪を梳いていた。
彼女は少し宙を仰ぐと、ため息を一つ漏らす。
「少しだけ様子を見に行くから、元気出して」
「えっ、良いの?」
来てくれるのはとても嬉しい。でも仕方ないといった口調だったので、無理をさせているのではないかと心配になった。
「あまり顔を見られたくないから少しだけになるけど、それでも良いなら」
「本当に大丈夫なの? 困らせてない?」
「困ってないし、もしそうだとしても困らせておけば良い。今回、サユリは恥も面倒も掛ける側。気にせず、練習に集中したら良い」
「嬉しい。ありがとう、約束だよ」
感情を持て余して、思わず彼女の手をぎゅうっと握る。アメリアは少し呆れたように、眉を下げて笑っていた。
そうだ、と握りしめた彼女の手を広げて、小指と小指を絡めた。こんなことをするのは何年ぶりだろう。幼い子供のようだけれど、今は約束を何かの形にしたい気分だった。
「なにそれ?」
彼女はされるがままになって、私の手元へ静かに視線を落としていた。
「指切りって言って、約束するときにする手遊びみたいなものなんだ」
指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った。子どもの頃によくやったように、絡めた小指を上下に揺らして歌を口ずさむ。
「随分物騒な呪いだね」
「ふふ、約束だよ。絶対だからね」
「わかったよ。指を切られるのは困る」
真面目な口調でそんなことを言うから、つい笑ってしまった。さっきまでの不安は随分軽くなっていて、むしろ綺麗なドレスを着るのが、そしてそれを彼女に見せるのが楽しみになっていた。
+++
彼女にはどんなドレスが似合うだろう。まず思い浮かぶのは黒いドレス。いつも真っ黒だから間違いなく似合う。足も腕も長くて、肌も透き通るように真っ白で綺麗だから、シンプルなデザインでも美しくなると思う。でも装飾がたくさん施されたものでも、着こなしてしまいそうだ。
でも、普段が真っ黒な分、華やかなドレスを着ているところも見てみたい。青よりも赤が良いかな。黒い髪には赤色がきっと映える。魔女なんてとんでもない、この広間で誰より美しいお姫様に変身するんだろうな。
そうして思いを馳せてみても、彼女の姿は私の頭の中にしかない。約束したのに。指切りもしたのに。実は私が気付かなかっただけで、もう顔を出した後だったりして。気付かない間に帰ってしまったなんてことはないだろうか。そうだったら寂しい。
空のグラスをメイドさんに渡して、部屋の隅に寄る。あちらこちらで談笑が行われる中、メイドさんや執事さんが食器やグラス、机を動かし始めていた。そろそろダンスに切り替わる時間みたいだ。
緊張で胸がどきどきと高鳴る。落ち着いてダンスの動きを思い出そうとして、内側からじわじわと沸き立つ欲求に気付いた。
どうしよう、お手洗いに行きたくなってしまった。たくさん話をして、水分をたくさん取ってしまったからだ。じわじわ、むず痒いような衝動がお腹の奥で疼いている。一度意識してしまうと、お腹が重みを増したようにも感じた。
お手洗いに行こうにも、このドレスはひとりでは脱げない。誰かの手を借りないと。親切にしてくれる人の顔が何人か浮かんだけれど、こんな時に限って誰も見つけることが出来ない。
他の誰かの手を借りようと思ったけれど、メイドさんはどの人も忙しそうに動き回っていて声を掛けづらい。そうしている間にもどんどん衝動は強くなる。ドレスの下で、出来るだけさり気なく足を擦り合わせて、切ない衝動をやり過ごす。
部屋はどんどん様子が変わっていく。中央に広い空間が用意されて、部屋の隅には楽器が運び込まれていく。
どうしよう。焦りと不安で頭がいっぱいになっていく。こんな状態でダンスなんてで出来ない。只でさえ不安なのに、頭の中はぐちゃぐちゃで、ステップなんてひとつも思い出せない。
とにかく部屋から出ようかと思ったけれど、扉の傍にはたくさんの人がいた。こんなタイミングで部屋を出るなんてどうしたのかと声を掛けられたら。もしかしたら、ダンスが嫌で逃げると思われたら。
でもこんな状態でダンスなんて踊れない。膝をすり合わせ、ぎゅううっと足の付け根を寄せる。長くふんわりしたスカートが足を隠してくれるのがせめてもの救いだった。
どうしよう、お手洗い、おしっこ。両足が忙しなく動く。ぎゅうと寄せて、足踏みをして。それでも衝動は全然治まらなくて、きゅうきゅうと出口が疼く。だめ、お手洗い、でも、でも。部屋の隅で俯いて、ぎゅうっと両足を寄せる。だめ、おしっこ、おしっこ、おしっこ。他のことが考えられない。打ち寄せる波が一旦引いて、でも次の瞬間には更に強くなって押し寄せる。
あ、あ、あ。出口が熱くなる。だめ、だめなのに。必死に我慢するけれど、じわりじわりと熱いおしっこが込み上げる。ぎゅうと閉じた出口から、熱いおしっこがじゅうと溢れて下着が濡れる。あ、あ、だめ。我慢しているのに、体はもう限界で、ぶじゅう、とおしっこが噴き出して下着を更に濡らす。
手が震える。出ちゃう、だめ、おしっこ。人前なのに、手で出口をぎゅうと押さえてしまいたい。そうしないと出てしまいそう。でも、このドレスじゃ押さえられない。代わりに大きく広がったスカートをぎゅうと握る。
だめ、だめだめだめ。息が詰まって苦しい。誰か、助けて。お手洗い、おしっこ、でちゃう。目尻が熱い。でちゃう、でちゃう、どうしよう、おしっこ、でちゃう。誰か、お願い。
「緊張されていますか、お嬢さん」
突然声を掛けられて、驚いて息を飲む。慌てて顔を上げると、いつの間にか目の前にシンプルな燕尾服を着た人が立っていた。太い黒縁の眼鏡を掛けていて、その上前髪が長くて顔はよく見えない。男性にしては小柄だったけれど、心配そうに身を屈めてこちらを見ていた。
「あ、あ、あのっ……」
「そんなに緊張されずとも大丈夫ですよ。落ち着くために、何か飲み物でもお持ちしましょうか」
頭が真っ白で、さっきまで散々口にした挨拶の言葉は全く浮かばなかった。
ただ、飲み物という言葉に咄嗟に首を振る。これ以上何か飲むことなんて出来ない。思えばあまりに失礼な対応をしてしまったけれど、目の前の人は「そうですか」と気にした様子もなく言った。
どうしよう、どうしよう。声を掛けられたということは、ダンスのお誘いだろうか。とうとうダンスタイムが始まるのかもしれない。でも、こんな状態でなんて絶対踊れない。それどころか、今すぐにでもお手洗いに行かないと、もう我慢できない。はやく、おしっこ、おしっこしたい、でも、でも。
何とかこの人にお別れを告げて、誰でも良いからメイドさんに声を掛けて、お手洗いに行かないと。頭ではわかるのに、言葉が何も出てこない。ぎゅうと強張った体の中心で、じんわりと下着がまた濡れる。やだ、だめ、だめ、でも、もうっ……。
ぐっしょりと濡れた下着が張り付く感触。つうっと太腿に熱いものが伝う。あ、あ、あ。どうしよう、どうしよう、どうしよう。目の前の人の顔がぼやける。だめ、だめだめだめ、誰か助けて、もうだめ、でちゃう、おしっこでちゃうっ……。
後編は こちら
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初出: 2020年9月12日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2020年9月12日