山道を歩いて早数時間。高かった日はいつの間にか傾き始め、辺りは橙色に染まっていた。
道と言うにはあまりに過酷な道に途中で何度も引き返そうと思ったが、うたはその都度、昇級に喜ぶ同世代の笑顔を思い浮かべては足を進めた。
今に見てろ、私があの「口封じの書」を盗み出し、目にものを見せてやる。落ちこぼれなんかじゃない、私にだってやればできるところを見せつけてやるのだ。
昇級試験のことを思い出すと、それだけでうたは胸が苦しくなる。大人というにはまだ若い少女であっても、既に子供の年齢は超えていた。あの辱めを思い出しただけで、羞恥と怒りで居た堪れなくなる。あんな失態は二度としてたまるものか。私は、噂に聞くあの「口封じの書」を山姥から見事に盗み出してやるのだ。
ただふつふつと湧き上がる思いとは裏腹に、日が傾きだすと焦りも感じる。
しかしそんなとき、うたの目の前に突然小屋がぽっかりと現れた。小屋が二つ、小さなものと大きなものが寄り添うように立っている。これが噂に聞く山姥の小屋に違いないとうたは思った。
忍び装束の上に来た着物の襟元を整えながら、うたは山小屋に近づいた。
いくら自分が忍者であるとは言え、山姥に気付かれずに盗み出すのは難しいだろうとうたは思った。
それならば、道に迷った村娘のふりをして、山姥の小屋に泊めてもらい、山姥が寝静まったころに盗み出す。山姥と言えど夜は眠りにつくだろう。それに純粋無垢な村娘の姿ならばきっと気を許すに違いない。
これ以上ない完璧な計画だ、とうたは自負した。
くたびれた桃色の着物に、傷んだ草履。どこからどう見ても道に迷った村娘だ。うたは深呼吸を一つしたのち、あえて呼吸を乱して大きな小屋の扉を叩いた。
「あの、ごめんください! どなたか、どなたかいらっしゃいませんか?」
大げさなくらいに困った様子を振りまきながら扉を叩く。するとほんの少しの間をおいて、がらがらと木の引き戸が開けられた。
小屋から出てきたのは若い女だった。
線が細く、痩せた女性は白い着物を羽織り、そして着物以上に白い顔をしていた。想像していた山姥とは似てもに使わない姿にうたは気を許しかけたが、内心ほくそえんでいた。病弱な女性の姿で油断させようという魂胆だろうが、そんなことはまるっとお見通しである。
完璧な計画によって彩られた完璧な自信にまた一つ花が添えられたようにうたは感じた。
「どなたですか?」
小さくか細い声だった。うたは道に迷ったことを大げさな演技で訴える。女は力のない笑みを浮かべると、うたを中へ入れてくれたのだった。
女はかさねと名乗った。病弱な彼女は療養のため、山奥の小屋で自然に囲まれて暮らしているのだという。そんなことを言って油断をさせようとしても、そうはいかないぞ。愛想の良い笑顔を浮かべながら、うたはそう思った。
見ていろ山姥、お前がどこに口封じの書を隠していようと、私が見事に見つけ出し、さくっと盗み出してやるのだから。
突然の来訪にも関わらず、かさねは夕食を用意してくれた。
白米に味噌汁、そして野菜中心のおかず。療養しているという言葉通り、体に優しそうな食事だった。
うたは恐る恐る白米に箸を伸ばし、味噌汁を啜って、そして固まった。
味噌汁から慣れない不思議な味がする。その違和感に、もしかして薬が盛られているのではないかと思った。言われてみれば薬品のような苦みがする。
顔を上げると、かさねは茶を入れるために背を向けていた。その隙に味噌汁の椀を静かに入れ替える。入れ替えた味噌汁を啜ると変な味はしなかった。
お茶の入った湯呑を置くかさねにお礼を言いながら、やってくれるなこの山姥とうたは内心思った。
味噌汁のお代わりを進められたが断り、代わりに茶で喉を潤しながら、うたはこの後の流れに思いを馳せていた。
食事を終えたら、疲れていることを理由に早めに床に入らせてもらおう。こちらが寝たふりをすれば、かさねもきっとすぐに寝付くに違いない。かさねが寝たのを確認したらこちらの独壇場だ。
今までの会話や家の中の様子から「口封じの書」の在りかには見当がついていた。
今いるのは大きな小屋の方だった。あの隣の小さな小屋は何かと聞くと、かさねはこう答えた。
「物置です。道具やら本やら衣類やら、何でも置いているんです。真っ暗で危ないですので、近づかないでくださいね」
この山姥は小さな小屋に書物も隠しているに違いない。村娘だと思って油断したな。
茶のお代わりを頂きながら、うたは胸の内で悦に入っていた。
予定通り早めに床に入らせてもらって数刻。辺りもすっかり暗くなっていた。
耳を澄ませると、隣の部屋からかさねの寝息が聞こえた。少し様子を見たが、起きる様子はないように思えた。
着慣れた忍び装束に着替え、うたは部屋を出た。足音を立てずに小屋を出て、そのまま隣の物置へ向かう。
不用心にも物置には鍵がかかっていなかった。中に入ると、かさねの言った通り、本当に真っ暗だった。床板がないようで、草履はむき出しの土を踏みしめていた。
そろそろと手探りで進むと何かに躓いた。飛び出しかけた悲鳴を飲み込み、倒れる体を支えるために手を突こうとしたが、体は地面にはぶつからずにそのまま浮き上がっていく。
突然のことに混乱している間もなく、うたは自分の体に何やらうねうねしたものが巻き付くのを感じた。
「な、なにこれっ! や、やめろっ、はなせっ! いや、いやっ……!」
忍んでいることも忘れ、うたは叫び声を上げる。胴に巻き付いた何かを引きはがそうと指を掛けたが、どれだけ引っ張っても離れない。
それどころか、今度は違う何かが腕に絡まって、抵抗する腕を引き剥がしていく。
やめろ、はなせとどれだけ叫んでもそれは動きを止めない。気付いた時には足にもそれは絡みついており、うたがどれだけ抵抗しようとびくとも動かなかった。
絡みついたそれは、うたの体を宙に浮かせたまま、手足を広げさせた。大の字にされたうたはただただ悲鳴を上げるしか出来ない。
うたの悲鳴が響く中、真っ暗な中にぽっと一点の明かりが灯った。
巻き付いた何かから逃れようと体を捩りながら、うたはその明かりに釘付けになっていた。
一点の明かりはだんだんとこちらに近づいてくる。それがろうそくの炎だと気づくのには時間はかからなかった。
頼りないろうそくの炎が近づくにつれ、うたは自分が何に巻き付かれているのかを知ることが出来た。
それは太い植物の蔓だった。太くしなやかな蔦はうたの力で引きちぎることは難しい。
護身用の小刀のことがすぐに頭に浮かんだが、刀を抜こうにも腕は既に動かない。ただ、そもそも小刀を持ってくるのを忘れているので腕が動いたところで抜く刀はここにはない上に、あったところで手入れのされていない小刀では蔦どころか小枝一本切り落とせなかったことだろう。
ろうそくの炎がうたの体を頭から足に向かって照らす。そして、再び顔が照らされると、うたはろうそくを誰かが手に持っていることに気付いた。
その白い手は炎に照らされ、闇の中でぼんやりと浮いている。誰の手か、なんて、答えは一つしかなかった。
「やっぱりというか、想像通りというか」
それは間違いなくかさねの声ではあったが、先ほどまでのか細さはない。むしろ夜の闇を引き裂くように鋭く、凛としたはりのある声だった。
「か、かさねさんっ、いえ、山姥めっ! こ、こんなことをして、ただじゃおかないんだからっ!」
威勢を張っているものの、うたの声は震えていた。かさねはそんなうたを見て微笑んでいる。先ほどまでの病弱な様子は欠片もなかった。
「我が家に入った泥棒を捕まえてはいけませんでしたか」
「ど、泥棒じゃないです、くのいちです!」
「泥棒と一緒だと思うのですが」
しっかりと体のあちこちを締め付けられ、うたは二重の意味で焦りを感じていた。
完璧だった計画がこともなく失敗してしまったのが一つ。そしてもう一つの焦りの原因からうたは必死に目を逸らしていた。
夜の山は冷えると聞いていたが、想像以上に寒かった。動きやすさを重視した忍び装束は防寒性など欠片もない。その上この小屋は隙間風が吹き込むようで、細い風が体を擽り、どんどん体温を奪っていた。
「さて、町娘さんのふりをしたくのいちさん。うたちゃん、でしたね。こんなところに入り込んで、一体何が目的ですか」
うたは口を噤んだ。
じっと見つめてくるかさねの視線から目を背け、うたは何とか逃げ出す方法が無いかと思考を巡らせる。けれど隙間風はうたの体をどんどん冷やし、うたの焦りを煽っていく。体が冷えると同時に頭も冷えてくれれば良かったが、そうはいかなかった。
お腹の下の方がきゅんと疼く。それは紛れもない尿意だった。うたは自分の間の悪さを呪った。こんな時に尿意を催してしまったなんて。
考えてみれば、夕食時に味噌汁を避けた分、茶をたくさんいただいていた。その後は早く床に付き、かさねが寝付くのを確認して、すぐに行動に移した。
さらに思い出せば、過酷な山の道中、川で水分補給はしたものの、一度も用を足してはいない。
それに気づいたとき、うたはどうしようもない後悔と恐怖に襲われた。
脳裏に浮かんだのは、忘れたくても忘れられない昇級試験での失敗。あんな思いは二度としたくないと思った上のこの計画のはずが、あの時と同じ状況を招いている。
違う、今はあの時とは違う。うたは首を振ってその考えを否定する。
あんなことは二度としない、絶対にしないんだから。もうあの時とは違うんだから。否定して否定して、強く否定すればするほどあの失敗が強く浮き上がる。頭の片隅に押しやりながら、うたは必死にこの状況から逃げ出す術を考えていた。
「ふふ、まあ、何となくうたちゃんの目的はわかります」
かさねはうたの目をじっと見つめたまま言う。
「折角こんなところまで来てくださったわけですし、記念にお見せしましょう」
しゅるしゅると蔦の動く音がした。よく見ると、かさね自身も太い植物の蔦に腰かけている。その横から細い蔦が何かを持ち上げ、かさねの手に渡す。
かさねがそれを持ち上げ、ろうそくの炎に照らしたとき、うたは息を飲んだ。
「そ、それっ……!」
「我が家に伝わる口封じの書。お目当てはこちらですね、見習いくのいちさん」
「み、見習いじゃないですっ! 私はこれでも立派なくのいちなんだからっ!」
「あらあらそうでしたか。その割には装備が少ないのではなくて? クナイ一つ、小刀一本持たないくのいちなんて、私、見たことありませんでした。今はそういう身軽な形が流行りなのでしょうか」
痛いところを付かれ、うたは黙る。これで何か一つでも盗み出していれば格好も付いたのだろうが、結局みすみす捕まっているのだから、返せる言葉もない。
かさねはぱらぱらとページを捲りながら言う。
「これはとても大切なものなので、あげるわけにはいかないのです。でもせっかくなので、一つ実践してあげましょう」
「実践……?」
かさねがぐいと顔を近づけた。うたはかさねの目を見て、慌てて目を逸らそうとしたが出来なかった。
濁ったような目の色がうたの視線を縛り付ける。
その濁った色を見ていると、頭が真っ白になり、体から力が抜ける。力が抜けた体は絡みついた蔦に寄って支えられる。
その時、びゅう、とひときわ強い隙間風が小屋の中を吹き抜けた。その風は二人の髪を揺らし、二人の間のろうそくの炎を揺らす。
力が抜けた体を冷たい風が撫で、うたは忘れていた感覚を取り戻した。ぶるっと震えた体に、うたははっとした。寒さで剥き出しになった手足に鳥肌が立ち、ぞくっとした悪寒が頭の先からつま先まで駆け抜けた。そして、体の真ん中、お腹の奥がきゅんと強く疼く。
時間とともに強まる尿意に、うたは息を飲んで耐え忍ぶ。
「な、なにをしたんですかっ……!」
「なにをしたと言われても、する前です。まあ、でも一つ手間が省けました」
ぺらぺらとかさねは本を捲りながら言う。
「口封じの書は文字通り相手の口を封じます。
一番早い口封じは殺してしまうことですが、殺してしまうと足が付く。そうではなく、生きたまま相手の口を封じるための手法をまとめたのがこの書物。
別に口を封じると言っても、口を聞けなくするわけではなく、こちらとしては不都合のあることを話されないようにするのです。
つまりは、話そうとしたときに何かが歯止めとなって話せない状態になればいい。例えば、話そうとすると痛みを感じる、息が出来なくなる、恐怖を感じる。
引き金を引いたときにそういった状態を引き起こすための手法がこの本にはたくさん載っています」
そう言うと、かさねは本を閉じた。
「あなたにとって何が一番辛いことか。それを探るのが大変なのですが助かりました」
「な、なにが言いたいんですかっ!」
「私はこの山で静かに暮らしたいのです。あまり口封じの書のことを知られて、人が来るようになっても困ります。
ですので、あなたの口も封じまして、二度と口に出来ないようにしてさしあげますね」
「そんなこと、っ!」
「出来ない? それともさせない?
うふふ。ちなみにうたちゃん、口封じの書はおそらく噂か何かで聞いたのでしょうが、実際に盗みに行った人の話は聞いたことがありますか?
忍者やくのいちも昇級試験やらがあるくらいですから、それなりにしっかりした組織を築いていることでしょう。
その中で、盗みに入った人、もしくは実際に盗んだ人の話をどこかで聞いたことはありますか? 無いのなら、それが答えですよ」
かさねの言う通りだった。
噂に聞いた口封じの書。その存在は話で聞くものの、実際に盗みに行った人の話は一つもなかった。失敗した成功した以前に、盗みに行こうとした人の存在すらうたは知らない。
背中に嫌な汗が流れ、それが夜の空気に冷やされる。冷え切った体の中央で、熱い液体がこぽこぽと温められているのを感じた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。身動き一つ出来ない状況で、うたは焦りを感じながらも、どうすることも出来なかった。腕も足も動かない。体には蔦が巻き付いていて、宙に浮いている。
今思えば穴だらけの完璧な計画。自分の考えの浅はかさをうたは今になって後悔していた。
「うたちゃん、のどは乾いていませんか?」
「乾いてません」
かさねはそんなことを言う。口先だけで返事をしたが、かさねは気を悪くした様子もなかった。
「そうですか。でもそうですよね。ふふ、お茶、たくさん飲んでくださいましたもんね」
返事はしなかったが、嫌な予感がした。
「お味噌汁、お口に合わなかったようでしたね。すみません。珍しいおネギを使ってみたのですが、確かにあれはいまいちでした。薬のような味でしたね」
「味噌汁に、何か盛ったんじゃないですか」
「まさかまさか。お味噌汁には何も。うふふ、でもお茶の方には少し。気付かれませんでしたか?」
うたは息を飲んだ。まさか、まさか。お腹の奥、大きく膨れた水風船がまた少し膨らんだ気がした。
「でもたくさん飲んでくださいましたし、お薬は必要なかったかもしれませんね」
「お、おろせっ! おろしてっ! これを外しなさいっ!」
かさねはただ笑うだけ。うたはもう一度同じことを言ったが、何も返事はない。
言葉を繰り返せば繰り返すだけ、うたは自分の下腹部が重くなっていくのを感じた。
先程から何度も思い出されるあの光景が、色鮮やかに目前に映し出される。もうあんなことは二度と嫌だ。何とか振りほどこうとするが、蔓は全く緩む様子がない。
「ふふ、先ほどから苦しそうですが、大丈夫ですか?」
嘲笑うような声に、うたは鋭くかさねを睨みつける。
何とかして逃げ出さないと、と思うものの、お腹の中で膨らむ水風船が考えを乱す。
ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた頭の中で、緩く芯を持っていたその存在はどんどんと強く大きくなり、思考を支配していく。
だめ、だめ、だめなんだから。振り払っても纏わりつくその感覚を必死に振りほどく。大丈夫、もうあんなことにはならないんだから。絶対、絶対ならない、ありえない。
「もう一度聞きますね。のどは乾いていませんか?」
「かわいてませんっ……! いいから、早く下ろしてっ、これを外してっ!」
ちゃぷちゃぷと水の揺れる音がした。いつの間にか、かさねの手には水差しとコップがあった。
どうするつもりかと見ていると、かさねはコップに水を注ぐとそのまま一息に飲み干す。白い喉が上下する様子に、うたは思わず生唾を飲み込んだ。
「ここ、とても乾燥するのですよね。書物などの保管には適しているのですが、生き物はまめに水分を取った方が良いようです」
うたは自分がとても喉が渇いていることに気付いた。
今、水を一杯差し出されれば、かさねがして見せたように一気に飲み干したに違いない。けれど、この状況でそんなことは出来なかった。
足の付け根、その奥にある水風船はとても大きく膨らんでいて、その中身を早く出したがっている。今、そこにこれ以上水を注ぎこんだら。
切ない衝動を全身で堪えながら、うたはただその状況に耐える以外出来なかった。
「うたちゃんはいらないようですので、あとはこの子たちに飲んでもらいましょう」
うたが顔を上げると、かさねは水差しをおもむろに傾けた。
その中に並々と注がれていた水は彼女の足元、蔓の生えている地面に勢いよく落ちていく。
びしゃびしゃびしゃ、びちゃびちゃびちゃ。そんな音が小屋の中に響き渡る。その音は聞きたくなくても勝手に耳の中に飛び込んできて、うたの体の中で響き渡る。
よく知っている、聞き覚えのあるその音は、うたの体の中で同じ音を奏でさせようとしていた。
「あっ、あっ、だめ、やめてっ! それやめてっ!」
ぞくぞくと全身に走る衝動。うたの下腹部で膨らんだ水風船は同じ音を奏でようと暴れる。必死に抑えようとするが体は言うことを聞かない。
只でさえ身動きの取れない状態で、体の中はうたの意志など関係なく、欲求のままに暴れまわろうとする。それを理性で必死に押しとどめながら、うたは叫んだ。
「おねがい、おねがいですっ、それだめ、それやめてっ……!」
びしゃびしゃと地を打つ音がうたの欲求を誘う。まるで呼び水だ。うたの中で温められた水分が呼ぶ声に応じて飛び出そうとする。それを懸命に押しとどめるが、焼け石に水だった。
「ああ、あ、だめ、おねがいですっ、やめてっ、やめてっ……!」
「そう言われましても、他に飲んでくれる人はいませんもの」
「飲む、飲むからっ! わたしが飲むからっ! おねがい、やめてくださいっ……!」
必死の訴えに、水音が止まる。肩で息をしながら、うたは顔を上げた。
息を整えながら、お腹の中身を必死に沈めていると、目の前にコップが差し出された。
「さあ、どうぞうたちゃん。ああ、でもそのままでは飲みづらそうですね。では特別にこうしましょう」
並々と注がれた水にうたは再び生唾を飲む。すると、さっきまで縛り上げられていた両腕から蔦が離れた。
自由になった両手をゆっくりと下ろして、両手でコップを持つ。そのままかさねを見ると、彼女はただ微笑むだけだった。
うたは思い切ってコップに口を付け、一気に水を注ぎこんだ。カラカラに乾いていた喉は生ぬるくなった水を簡単に飲み干していく。
喉が潤っていくのを感じ、うたは思わず胸を撫で下ろした。コップから口を話すと同時に、ほっと息が漏れる。
空になったコップを握ったままでいると、こぽこぽと小気味よい水音がして、並々と水が注がれた。先程までかさねの手にあった水差しは蔦によってうたの横に持ち上げられていて、その中身をすべてコップに注ぎ込んでいた。
空になった水差しはそのまま闇の中に消えていく。
手に残されたコップを見て、うたは思い切って口を付けた。潤いを取り戻した喉を流れていく水はそのままお腹の底へちゃぷちゃぷと注がれていくようだった。
一口、また一口飲み込むたびに、お腹の水風船が膨れていく。その切ない衝動を堪えながら、うたは再びコップの中身を飲み干した。
「たくさん飲まれましたね。おかわりは必要ですか?」
首を振って否定すると、かさねは声もなく笑みを浮かべた。
ただでさえ満杯だった水風船に更に水分が注ぎ込まれ、うたのお腹はこれ以上ないほどにぽっこりと膨らんでいた。
その上、薬の効果なのか、うたはどんどん強くなる尿意に襲われていた。腰に巻き付いた太い蔦の下、自分の着物を止める細く赤い帯がその膨らみを押さえつけている。
腕から蔦が離れたと同時に足の拘束も幾分緩まったようで、蔦が巻き付いてはいるものの、少し動かすことは出来た。
ぎゅうと両足を寄せ、その奥で激しく暴れる水風船の中身にうたは耐えるが、その限界が近づいていることは誰よりもうた自身がわかっていた。逃げ出すことよりも、今、全身を支配している耐え難い欲求のことしか考えられなかった。
おトイレ、おトイレ行きたい。あのときもこんな状態で、そのことしか考えられなかった。もしかしたら今はあの時よりもずっと我慢しているかもしれない。
何度も何度も蘇るあのときのことは脳裏に焼き付いていた。思い出したくないのに忘れられない。忘れたいのに思い出してしまう。
身を捩ると、その分蔦が強く絡みつく。そうするとお腹に回った蔦がそこを強く押さえつけて、うたは泣きたくなるほどの衝動に襲われた。内側から外側から、切なくもどかしい衝動に襲われて、ただじっと耐え忍ぶことしか出来ないなんて。
「昇級試験のことを思い出しますか?」
かさねの凛と鋭い声が、今まさにうたの脳裏にあったことを言い当てる。思い出したくもない過去の過ち。
「な、なんのことを……!」
とぼけてみても、意味がないことはよくわかった。うた自身があの時のことを思い出してしまっている。
「その時も身動きが取れなかったのでしょうね。物音一つ立てれない状況、ただあなたは耐え忍ぶしか出来なかった」
「な、なんで知っているんですか……!」
「見ていれば何となくわかります。答え合わせをしてあげましょうか」
「や、やだ、言うな、言わないでっ……!」
うたの必死の懇願にも関わらず、かさねは言葉を続ける。
「動けないということは屋根裏か何かでしょうか。少し動いただけで床が軋み、下にいる人に気付かれてしまう」
「いや、やだ、やだやだやだっ……!」
「おトイレに行き忘れたのでしょうね。あとは試験に緊張していたのもあるでしょうか。
屋根裏に上って、下から聞こえる会話に耳を澄ませないと行けないのに、それどころではなくなってしまった」
首を振って、嫌だと訴えるが、かさねは言葉を止めない。
かさねの言葉の一つ一つがうたの頭の中をかき回す。底に沈めようとしたその記憶はうた自身の手で今掘り返されていた。それをかさねは簡単に拾い上げ、事実としてうたに付きつける。
うたの目の前にはあの時の光景が広がっていた。
昇級試験、ある屋敷の屋根裏に入り込み、密会にて繰り広げられる会話を聞き出す。物音を立てればいることがばれてしまう上に、会話が聞こえなくなってしまう。
「屋根裏もここと同じで、隙間風が抜けて体が冷えたのではないでしょうか。
どんどんおトイレに行きたくなって、でも抜け出すわけにもいかない。少しの身動きが物音に繋がる状況で、ただ身を強張らせて、必死に我慢したのでしょうか」
身を丸めて、じっと我慢することがあんなに辛いことだとうたは知らなかった。
じっとしているとおしっこが出てしまいそうで、でも少し体を揺すっただけで、薄い床はぎしっと音を立てる。
気付いた時にはズボンの上から両手でぎゅうぎゅうと押さえつけていた。そうでもしないと、我慢できなかった。
でも、それでも我慢できなかった。
「きっと我慢できなかったのでしょうね。さっきの反応、音にあれだけ敏感ということは、そのまま――」
「やっ、やめてっ……! 言うな、言うな言うな言うなっ! 言わないで、言わないでっ……!!」
違う違うとうたは首を振ってその光景から目を逸らす。
でも誰よりもうた自身があの光景が現実だとわかっていた。自分はとんでもない失態を犯したのだと。
+++
寒くて、どんどんおしっこはしたくなる。ちゃんと済ませておけばよかったと何度も考えたけれど、過去には戻れない。
試験を放棄してお手洗いに行こうかとも何度も考えたけれど、出来なかった。
我慢して、我慢して、我慢して、我慢して、何度も何度も我慢したけれど、とうとう限界を迎えた。
膝立ちになって、太腿をぎゅっと合わせて、両手でおしっこの出口をぎゅうぎゅうと押さえて。
もう会話なんて何にも聞こえなくて、おしっこのことしか考えられなかった。
おしっこしたい、おしっこ、おしっこおしっこおしっこ。ぎゅうぎゅうと押さえる指先が濡れていた。
じゅ、とおしっこが少し出た。だめだめだめ、おしっこまだだめなの。ぎゅううっと抑えたけれど、おしっこはまたじゅうって出て。
じゅ、じゅう、じゅじゅ、じゅ、じゅっ、じゅわあっ。手はびちゃびちゃで、床も濡れていた。あ、あ、おしっこ、おしっこおしっこおしっこ、がまん、だめ、おしっこ、おしっこ。
我慢してるのに、押さえているのに、駄目なのに、あっ、あっ、あっ、あああぁっ。じゅ、ぶじゅーっと、いっぱいおしっこが出て、もうだめだった。じゅうーっておしっこがいっぱい出ていて、とまらない。
手に当たって、床にも当たって、じゅー、びしゃびしゃ、色んな音がした。床に私のおしっこが広がる。
床だけじゃない。その下にも私のおしっこが溢れて、びちゃびちゃ、ぴちゃぴちゃって。誰かがそれをこう言っていたと後から聞いた。--おしっこの雨。
その後のことはあんまり覚えていない。
けれど、私はもうあんな思いはしたくない。あんなこと二度としない。そう強く心に誓ったのだ。
+++
「可愛い失敗ですね。でも、うたちゃんの中では消しても消せない記憶となって刻まれている」
「やだ、やだやだやだっ……」
「ふふ。その記憶、利用させていただきましょう。口を封じさせていただきますね」
今はあの時と違う。でもあの時みたいにおしっこを我慢してる。
お腹はぱんぱんに膨れていて、おしっこでいっぱいで、おしっこがしたくてしたくてたまらない。あんなこと二度としない。二度としたくない。
そう思うのに、頭の中はおしっこでいっぱいで、あの時のことを思い出してしまう。
うたは身を捩って体の中で暴れる尿意に耐える。細い蔦があちこちに絡みつき、うたの体を宙で支える。体を捩り、必死に我慢を繰り返すが、体に絡みついた蔦は解けない。
足の付け根、じんじんと切なく疼くそこを擦り合わせるが、衝動は一向に収まらない。
「おねがい、おろして、おねがいだからっ……!」
何度目かの懇願。けれど蔦は絡みついたままで、かさねはただ微笑むだけ。かさねの濁った瞳がただまっすぐにうたに向けられている。
おトイレ、おトイレ行きたい。あの試験の時のように、うたはその思いに身を焦がす。
お腹の中の水風船は薬の効果もあり、もう限界まで膨らんでいることだろう。こぽこぽと温められた液体はただ一つ存在する出口を押し開けようと内側から刺激する。泣き叫びたくなる切ない衝動に、うたは身を捩るが、そんなことでは尿意は収まらない。
一挙一動を繰り返すごとに、一秒一秒と時を重ねるごとに、その衝動はどんどんと強くなる。
「ん、ん、あ、あぁっ……!」
もうじっとしていられず、うたは自由になった右手でそこをぎゅうっと押さえつけた。
内側からの激しい衝動はもうどうもできず、外側から押さえつけるしかない。でもそれも原因を取り除いたわけではなく、ただ一時の猶予を与えられたにすぎない。
「おろしてっ、おねがいです、おねがいだから、おろして、おろしてぇっ……!」
返事はない。
「ごめんなさいっ、あやまりますから、絶対に言いませんからっ、おねがい、おねがいだから、おろしてっ……」
ぎゅうと、ぐりぐりと、はしたなくもそこを押さえつけながら、うたは必死に許しを乞う。視界が白くくらみ、ぼんやりと滲む。
おトイレ、おトイレ行きたい、お願い、おトイレ。うわ言のように口にしていることにうたは気付いているのかいないのか。
もう頭の中にはただ一つしかなかった。
あの時のことをなぞるように、同じことを考えて、同じ行動をしてしまう。
違うのは、今は動いても大丈夫なこと。物音を立ててはいけないわけではない。会話を聞かないといけないわけではない。
それは頭より体が理解をしていたようで、体を捩って、足をばたつかせ、ぐりぐりとそこを押さえつけている行動は、とても屋根裏では出来なかっただろう。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ゆるして、おねがいです、おトイレ、おトイレ行かせて……!」
ああっとうたは思わず声を漏らした。膨らみ切った水風船が収縮し、熱く温められた液体を出口から押し出す。ぶじゅっと一瞬漏れた液体はうたの指先を濡らす。
あの時と同じ。
揺れた指先、湿った下着はすぐに冷たくなる。まだだめ、だめなんだから。頭ではわかっても体がわかってくれない。
おトイレ、おトイレおトイレおトイレ。
試験前に行かなかった自分を呪う。山道でも何処でも済ませなかった自分を呪う。
「そろそろ限界でしょうか」
「おねがい、おトイレ、おトイレっ……、おねがいだからっ……!」
「さあ、どうしましょうか」
じゅううっと再び、溢れる。両手でぐりぐりと押さえつけるが、衝動は一向に収まらない。
何でもいい、おトイレ、おしっこ、おしっこしたい。喉の奥から絞り出したような声が漏れた。全身、どこもかしこも力が入っていて、どこか少しでも力が抜けたら一気に溢れ出してしまう。そんな状態だった。
おしっこ、おしっこしたい、おしっこおしっこおしっこっ……! もう余計なことを考える余裕は欠片もない。頭の中はおしっこのことでいっぱいで、お腹の中はそれ以上にいっぱいだった。
あの時に出来た道をただ進むがごとく、うたは身を捩る。
道の終わり、ゴール地点はもう目の前だった。あと一歩踏み出せばゴールテープを切る。進みたくないのに、違う道に逸れたいのに、こんなこともう二度としたくないのに、うたはただ前に進むしか出来なかった。
「あ、あ、あっ、あああっ、ああああぁっ……!」
狭い小屋の中、暗闇にうたの悲鳴が響く。同時に、じゅわっと一気におしっこが噴き出した。
あの時のように必死に両手で押さえつけるが、一瞬止まっただけで、間髪を入れずにまた噴き出す。手がびちゃびちゃに濡れていた。
我慢してるのに、押さえているのに、駄目なのに。あんなこと二度としないって、二度としたくないってそう思ったのに。
ぶじゅっ、じゅうぅ、ぶじゅっと、おしっこが噴き出す。
だめ、だめ、だめなのに、だめなのに。じゅー、じゅー、びしゃびしゃ、びちゃびちゃ。どこかで聞いた音が聞こえる。
力が抜けて、もうどこにも力が入らなかった。気持ちいい。おしっこ、出てる。手も足も濡れて。あったかい。
視界の中心にぼんやりとした光が浮かぶ。ろうそくの炎。丸い光。徐々に意識が戻ってきて、うたは自分の失態を理解せざるを得なくなる。
目を逸らしたくても逸らせない。我慢に我慢を重ねたおしっこは止まる様子を見せず、膨らみ切った水風船の中身を吐き出していく。
「あらあら。我慢できませんでしたね、うたちゃん」
闇を裂く張りのある声に、うたはびくっと体を縮める。
ろうそくの炎の向こう側、かさねの濁った目がじっと見つめていた。
「や、やだ、見ないでっ、見ないでくださいっ……!」
身を捩ろうにも、絡みついていた蔦がその動きを阻害する。先ほどまでは力なく巻き付いていただけの蔦が、再びうたの体を強く締め付けた。
「ふふ。うたちゃんから水分をたくさんいただいて、この子たちも元気になったようですね。折角なのでお手伝いを」
「やっ、いや、いや、やめろっ、やだ、やめてっ……!」
うたが驚きの声を上げるより早く、緩く手足に絡んでいただけの蔦が、当初のようにその手足を大きく持ち上げた。
大の字に広げられたうたは、なすすべもなく、その状態のまま放尿を続けるしか出来ない。
足の間、まっすぐにおしっこが地面にびちゃびちゃと落ちていく。隠したくても腕は動かず、閉じたくても足は動かない。
「たくさん出ますね。ここが屋根裏だったら、また雨が降ったことでしょう」
「いや、やだ、やだやだやだっ、見ないで、見るなっ……! なんで、おしっこ、とまんないっ……」
我慢に我慢を重ねたおしっこは下品な音を立てて流れ続ける。
どんなに嫌だと叫んでも身を捩っても、大きく広げられた体では何も隠すことはできない。かさねの濁った目はその光景を焼き付けているかのように、じっとうたを見つめていた。
「いや、やだ、やだぁ、ああああっ……!」
我慢を重ねた分だけ、排泄は続く。
泣きべそをかきながら、うたはただ排泄を続けた。大した時間ではなかったのだろうが、うたにとっては永遠にも近い、消えてしまいたいほどの時間、消えてしまいたいほどの羞恥を感じ続けていた。
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うたは自分が気を失っていたことに気付いた。
目を開けると、朝焼けが辺りを包んでいる。そこは薄暗い小屋の中ではなく、蔦に持ち上げられているわけでもなく、うたは山道の片隅で横になって眠っていたようだった。
寝起きのせいか、それとも他の何かのせいか、頭がぼんやりしていて、記憶が曖昧だった。
近くに小川が流れていたので、そこで顔を洗い、喉を潤す。ひどく喉が渇いていた。口を開けて寝ていたのだろうか。
傷んだ桃色の着物を整えながら、うたは着物の忍び装束を着ていないことに気付く。驚いて辺りを見回すと、自分が寝ていた辺りに風呂敷包みがあるのを見つけた。
いつもなら中に着るのにな、と首を捻りながら風呂敷を開けて、うたはそのまま固まった。
入っていたのは紛れもない自分の忍び装束だ。けれどそれはぐっしょりと濡れている。
特にズボンはしとどに濡れ、つんと鼻を付く臭いがした。そして、それに沿えるように置かれた濁った灰色の石。それを見た瞬間、こちらを見つめる灰色の濁った瞳が脳裏に浮かぶ。
自分がこの山に来た目的とその結末が一気に蘇り、うたはもう一度川で顔を洗う。何度も何度も顔に冷たい水をかけ、頭の中で熱を持った記憶を冷まそうとした。
頭が羞恥で焼き切れそうになるあの記憶。絶対に思い出したくない記憶。うたはびしょびしょになった顔を着物で拭うと、しとどに濡れた忍び装束を川に付けた。そのままごしごしと川の水で洗いながら、もう二度とあんなことはしないと、心に誓ったのだった。
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以下 おまけの人物設定
うた
袖のない黒色の着物。着物の丈は短く、その下には短めのズボン(短い着物の丈に隠れるほど)。帯は赤で細め。
伸ばしている最中の黒髪を無理やり後ろでまとめたポニーテール。簪はうまく使えないので紐で結ぶ。
黒い草履は足首できっちりと固定されているため、脱ぎづらい。
腰には短刀を差しているが、手入れをしていないために切れ味は鈍く、その上本人の意識にないのでよく忘れる。
昇級試験にて屋根裏に籠っている際、我慢できずにおもらししたことがトラウマ。なかなか昇級試験に挑めない。そのため年の割に低い位にいるのがコンプレックス。
今回は噂になっている「口封じの書」を盗みに行く。「口封じの書」は鳴かず山に住む山姥が所有する。誰も手に入れたことが無い書物を手に入れることで一気に昇級、同級生への一発逆転を目論んでいる。
あまり頭は良くない割に自分の思考に頼る。裏読みもいっちょ前にするが、見当違いの読みをして、真逆の方向へ進むこともしばしば。
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初出: 2018年6月4日(pixiv) 掲載:2022年7月30日