三回目の

 1回目

 他の奴らを待たせてでも、居酒屋のトイレを待てば良かった。電車を見送ってでも駅のトイレを使えばよかった。
 後悔先に立たず。その言葉の意味を痛いほど噛みしめながら、俺はただただ薄暗い道を自宅へ急ぎ足で進む。

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 宴もたけなわ、幹事がお金を集めている時に、トイレに行きたいと言い出した奴は何人かいた。俺もその一人で、荷物を持って部屋を出たが、レジ横のトイレは男女混合の大行列が出来ていた。トイレくらい複数用意しとけよ、なんて仲間と言い合いながら行列に並んだものの、会計が終わったときには俺は数歩前に進んだだけ。個室に入るには何時間も掛かるんじゃないかと思えるほどの進み具合だった。
 駅のトイレの方が早いなと結論を出し、皆でぞろぞろと駅へ向かう。日中は暑くなってきたが、日が落ちた後は裏腹に肌寒さを感じた。
 上着が欲しくなるひんやりした空気は、下腹部に溜まった熱い液体を刺激していく。駅に着いたらトイレに行こう。そう思いながら、周りの奴に合わせてのんびりと歩いていく。

 駅の改札を潜ると、ちょうど電車が来たところだった。しかも、よく見ると俺の帰る方向の電車。仲間に手を振り、閉まりかけの扉に体を滑り込ませて、電車に乗る。それからいつものように開いている座席に座って、そこでやっと気が付いた。
 窓の外でゆっくりと景色が動き出す。反対側のホームに、一緒に飲んだ奴らの姿が見えた。立ち止まっている奴ら、そして背中を向けてホームの奥、ピクトグラムの掲げられた入口の中へ消えていく奴ら。
 そう思った瞬間、ぼやけていた尿意が一気に形を持って、腹の奥でずしっと重さを持つ。やばい、トイレに行くんだった。焦りと感じる反面、何とか自分を落ち着かせる。小さい子供じゃないんだ、最寄り駅くらいまで我慢できる。最寄り駅でトイレに行こう。焦る自分から目を逸らし、窓の外を見る。ゆっくりと動き出した電車は一つ目の駅に停車するところだった。

 そわそわと落ち着かない体と心を持て余し、がたんがたんと電車に揺られる。次が最寄り駅だと意識した瞬間、一気に尿意が増した気がした。気が緩んだからだろうか。
 トイレ行きたい、早く着かないかな。この区間こんなに離れてたっけ。もうついても良いんじゃないか。いつもならもう着いているはずだろ。
 睨みつけるように外を見ると、やっと目当てのホームが移りこんだ。のろのろ遅い電車は、更にスピードを落とし始める。じっとしていられず、完全に止まるのを待ちきれずに席を立って、扉の前に移動した。
 早くとまれ、早く開け、早くトイレ。焦れる思いが胸を焦がす。早く早く早く。扉の窓には不機嫌な顔をした男が体を揺らして立っている。
 ぷしゅーっと間の抜けた音がして、扉が鈍く開いた。体を滑り込ませてホームに降り立った。駆け込み乗車ならぬ駆け込み下車だ、なんて考える余裕がある自分が不思議だった。

 てか、トイレ、どこだよ! 駅から自宅まで徒歩5分だから、この駅でトイレを使うことなんて一度もなかった。こんなことなら把握くらいしておけばよかった。
 普段は見ない案内看板でトイレを探す。右端から左端まで目を走らせるが見つからない。もう一度目を走らせると、隅に控えめに書かれたピクトグラムを見つけた。もっとわかりやすく書いとけよ! 見つけると同時に小走りにトイレの方向へ進む。全力で走りたいが、走ったらやばい。早く行きたいが、早く行けない。ジレンマに悶えながら、少しでも早く足を進める。
 やばい、めっちゃトイレ行きたい。飲み放題だからって飲みすぎた。安い居酒屋のくせにビールが旨かったのが悪い。あのビールが旨くなければここまで飲まなかったのに。八つ当たりでしかない愚痴を零しながら、足を進めて、歩いて歩いて歩いて、そして俺は足を止めた。
 ホームの一角が青いシーツで囲われている。でかでかと張られている『工事中』の文字に、マジかよ、と思わず声が漏れた。
 工事中ならあっちの看板にも張ってろよ! そんなことを今思ったところで、どうしようもない。腹の中は飲んだビールでいっぱいで、でもそれを吐き出す場所は目の前にあるのに、今は使えない。こっそり使ってやろうかと悪い考えも浮かんだが、そもそもきっちり囲われていて入ることもできない。

 唇をかみしめて、すぐそこにある階段を上る。こうなったら自宅まで我慢してやる。そわそわと落ち着かない足取りで改札に向かい、歩きなれた薄暗い道へ足を進めた。

 +++

 駅から歩いて徒歩5分。11階建ての古めのマンションの9階は景色もよく、夜は静かで住むには良いところだ。飲み会帰りには良い具合に静かで、頭を覚ますには良い距離だなと思ったこともある。
 けれど今はその距離が憎らしくて仕方なかった。もっと駅近にすればよかった。せめて帰り道にコンビニがあるところにすればよかった。住宅街は静かで、民家の明かりと古ぼけた街灯がぼんやりと道を照らす。コンビニやスーパーの人工的な明かりは自宅を超えて反対側にしか存在しない。

 他の奴らを待たせてでも、居酒屋のトイレを待てば良かった。電車を見送ってでも駅のトイレを使えばよかった。
 後悔先に立たず。その言葉の意味を痛いほど噛みしめながら、俺はただただ薄暗い道を自宅へ――正確には自宅のトイレへ――急ぎ足で進む。
 トイレトイレトイレ。トイレ行きたい。こんなに我慢したのは何時ぶりだろうか。小走りでアスファルトを踏みしめ、やっとの思いで辿り着いたマンションの入り口へ飛び込んだ。幸運にもエレベーターの箱は1階で停車しており、ボタンを押して中へ飛び込む。9階のボタンを押して、閉まるボタンを連打した。急いでいるんだからぴしゃっと閉まってくれよ。のろのろとマイペースに閉まる扉すらが俺を焦らした。

 扉が閉まり、完全に人目から隔離された瞬間、つい左手が股間に伸びていた。薄いブルーのジーンズ生地の中央をそっと摘むと、溢れそうな尿意がほんの少しだけマシになったように感じた。
 視線は階数表示に釘付けで、増えていく数字を頭の中で一緒に数えていく。……4、5、6、まだ着かない。7、トイレ行きたい。左手は落ち着きなくズボンの前をふにふにと揉む。8、トイレトイレトイレ。やばい、トイレ行きたい、トイレ、早く……9!
 俺の焦りも知らずにのろのろと開く扉の隙間に体を滑り込ませ、静まり返った廊下へ飛び出した。左手をズボンの前から引きはがし、ポケットに突っ込んでいたキーケースを引っ張り出す。手が離れた瞬間、一気に込み上げる尿意を必死に飲み込む。じゃらじゃらと鍵が鳴る音が、普段なら近所迷惑になるかと気にしていたが、そんな余裕はどこかに行ってしまっていた。
 扉の前に着くと同時に鍵を突っ込み、扉を引き開けた。トイレトイレトイレ! もうすぐだと思った瞬間、一気に尿意が溢れかえる。漏れる漏れる漏れる、トイレやばいほんと漏れる、やばいやばい、もう、ほんとおしっこ漏れる!
 スニーカーを足だけで脱ぎ捨て、ばたばたと室内へ駆けあがる。がに股で見っとも無く歩くと同時に、がちゃがちゃと煩くズボンのチャックを引き下ろす。出る出る出る、やばい、マジで出る! 電気のスイッチを適当に付け、数歩先の扉の中に飛び込む。人工的な明かりに照らされた狭い個室の中、待ち焦がれていた白い便器が大きく口を広げている。
 それを視界に入れた瞬間、性器の先が熱くなった。早く早く早く、トイレ、トイレ、おしっこ……! 震える手で慌てて性器を引っ張り出した瞬間。
「はあぁぁっ……!」
 安堵の息と一緒に、じょろじょろと熱く沸いたおしっこが飛び出した。間一髪、おしっこは下着ではなく白い便器の中に張られた透明の水面へ吸い込まれていく。
 危ないところだった。もう少し遅かったらマジでやばかったかもしれない。良い歳こいておしっこちびるとかほんと洒落にならなかった。
 膀胱をぱんぱんに膨らませていたおしっこはなかなかの勢いで放出されていく。おしっこ、気持ちいいな。焦れていた頭と体が解放され、ただ快感だけに満たされていく。たくさん飲んだからかなかなか止まらない。ビール、流石に飲みすぎたか。次からはちゃんと制御しないと。
 たっぷり時間を掛けておしっこを出し切り、やっと腹がすっきりした。服装を直そうとして、まだ鞄を肩から掛けたままだったことに気が付いた。焦りすぎだろ、俺。
 白い便器の中は黄色く色づいた水が並々と溜まっている。すごく出た、すごくすっきりした、すごく気持ちよかった。水洗レバーを捻り、俺を救った白い便器に背を向けた。

+++

 2回目

 電車に揺られ、俺はただ身を固くする。余計な動きをしたら、一気に溢れてしまいそうだった。
 いつぞやの飲み会帰りのことが思い返される。あの時もやばかったが、今日もやばい。あの時学んだはずなのに、俺はまた同じ過ちを繰り返していた。
 だって、飲み放題のビールはとても美味しかったから、元を取るために飲もうと思ってしまうだろう。居酒屋のトイレは相変わらず凄い行列だったから、駅まで我慢しようと思ってしまうだろう。駅に着いたらちょうど電車が来たところだったから、そんなの反射的に飛び乗ってしまうだろう。
 自分に言い訳をしながら、ただただ電車に揺られ、帰路を急ぐ。大量に飲んだはずなのに、酔いはどこかへ消え去っていた。
 どんなに俺が急いだところで電車の歩みは一定で、誰1人下車しない駅へ停車する。誰も下りないんだから1つ2つ飛ばしてくれよ。そんな我儘が通るはずはなく、マイペースな電車はマイペースにがたんがたんと進む。
 トイレトイレトイレ。すごくトイレ行きたい。最寄り駅で駆け込みたいが、あそこのトイレはまだ工事中だ。あの翌日、必死の思いで見た案内看板を確認すると、控えめなピクトグラムの横にはちゃんと『工事中』と書かれていた。そして付近の張り紙には皮肉にもこんなことが書いてある。
『トイレは工事中の為ご利用いただけません。お急ぎの方は隣のショッピングモールをご利用ください』
 トイレのために、改札を出て隣のショッピングモールに行けだなんて、非情すぎる。しかもこんな終電間際の時間、ショッピングモールは既に営業終了していて、トイレどころか敷地に入ることすらできない。
 つまり『トイレに行きたいのなら、ちゃんと自宅まで我慢しなさい』と言っているのだ。その張り紙は今の俺を見たらこう付け加えるだろう。『ちゃんとお家までおしっこ我慢できるでしょう? もうお酒が飲めるくらいの良い大人なんだから』

 一つ手前の駅を電車が出発する。電車に揺られ、俺の体も小刻みに揺れる。トイレ行きたい、トイレトイレトイレ、もう何でも良いからトイレ行きたい。電車に乗る前に済ませば良かった、居酒屋で済ませれば良かった、あんなに飲まずに調整すれば良かった。飲みすぎたビールは体を巡って、下腹部の水風船にどんどん注ぎ込まれる。もう水風船ははち切れそうな程膨らんでいるのに、まだ注ぎ込まれているようだ。ほんとやばい、トイレトイレトイレ。こんなにトイレが恋しいのはあの時以来だろうか。もしかしたらあの時以上かもしれない。
 右手は鞄の紐を強く固く握りしめ、その反面、左手は忙しなく動き続ける。膝丈のジーンズの上から太ももを擦りながら、じっとしていられず車内を見回す。乗客は俺一人のようだった。それを意識した瞬間、左手が勝手にズボンの中央へ伸びた。
 ジーンズの厚い生地の上から性器の先をそっと摘まむ。電車の中でおしっこ我慢して股間を揉むなんてガキと一緒だ。わかっているけれど、手はそこから離れない。
 膨らみ切った水風船は、中の水分を出そうと出口へ圧を掛ける。その圧を少しでも逃がすために、外から出口を押さえつけるしかなかった。
 トイレ行きたい、ほんと早く着いてくれ。願いが届いたのか、電車は緩やかに減速を始める。手をズボンの前から引きはがして、扉の前へ移動した。トイレトイレトイレ、早く着け、トイレ行きたい、マジで行きたいから。扉の窓には険しい顔をした男が映っていて緩々と体が揺れている。体が揺れているのは電車のせいだ。
 ぷしゅーっと間抜けな音がして、扉が開く。小走りでホームへ飛び出し、すぐそこの階段へ飛びついた。小走りで駆け上り、改札を出た瞬間、咄嗟に足を止めた。夜の涼しい空気が袖から伸びた腕と裾から伸びた足を擽る。震える体の中心で、熱い液体が波打った。やばいやばいやばい! 衝動的に右手でズボンの上から出口をぎゅうと圧迫する。波が治まった瞬間、手を放して、早歩きで慣れた道へ足を進めるが、数歩歩くとまた激しい波が膀胱を刺激する。反射的に足を止めて、腰を揺らして衝動を逃がす。やばいやばいやばい、ほんとやばい、トイレトイレトイレ。あたりを見回してもトイレなんてあるわけがなく、住宅街の道は人気もなくひっそりとしている。
 誰もいない。頭で理解すると同時に、左手でぎゅうとズボンの前を握りしめていた。出口を揉むと、ほんの少しだけ尿意がマシになったように感じる。誰もいない、誰もいないから、人が来たら離すから。言い訳をしながら性器の先をぐにぐにと揉み、そのまま足を進める。こんな格好、まさにガキじゃないか。おしっこ我慢できないよー!と全身で叫ぶガキの姿。『お家まで我慢できるでしょう?』 そんな張り紙の声が頭の奥で鳴り響く。『子供じゃないんだから』

 股間を左手でぐにぐにと揉みながら、必死の思いで足を進める。トイレトイレトイレ、ほんとトイレ行きたい、おしっこしたい。あんなにビール飲むんじゃなかった。途中でトイレ行くんだった。後悔したって現状は何も変わらず、ぱんぱんに膨れた膀胱は注ぎ込まれたおしっこを排出しようと圧を掛ける。
 待ち焦がれたマンションの入り口を潜り、エレベーターのスイッチに飛びつく。ボタンを押すが、箱は最上階にあるようだった。こんな時間に使うなよ。ボタンを連打するが、スピードが変わるはずもなく。
 静まり返ったエントランス、固く閉ざされたエレベーターの扉の前。左手でズボンの前を揉みながら、じっとしていられずに足踏みを繰り返す。トイレ、ほんとやばい、はやく、おしっこしたい、マジでやばい、出る出る出る。階数表示が頭の中で響く。
 11、10、9、泣き出したくなるほどの遅いカウントダウンに泣きたくなる。8、はやくはやくはやく、マジで出る、漏れる。7、これまでにないほどの強い欲求に体を捩る。漏れる漏れる漏れる、おしっこやばい、ほんと出る、おしっこ出るから! 6、おしっこおしっこおしっこ、ほんと出るから、はやく!
 5、じゅうと性器の先が熱くなった。強く摘む。下着が熱く濡れる。4、じゅううと熱い雫が零れる。止まらない。強く揉むが止まらない。やばいやばいやばい。エレベーターはまだ来ない。熱く雫が漏れだし、下着を濡らす。やばい、もうやばい。やばい、ほんとやばい。トイレ、おしっこもう出る、漏れる、トイレ、おしっこおしっこおしっこ、おしっこ!!

 頭で理解した時には体が動いていた。出口を握りしめたまま、エントランスを飛び出す。何でも良い、トイレ、おしっこ、おしっこ、おしっこ!
 マンション横の駐輪場に駆け込んだ理由は自分でもわからない。こじんまりした駐輪場は花壇が囲っている。外を囲うように背の高い木が植えられ、目隠しになっている。花壇の内側には小さくカラフルな花が並んでいて、管理人が手入れをしている光景を見たことがあった。青いホースを片手に水を撒いている光景が脳内に浮かんでいた。

 3、駐輪場の片隅、ちょうど角になっているところに体を滑り込ませる。おしっこおしっこおしっこ。2、地団太を踏みながら、ズボンの前を寛げる。やばい、おしっこ出る、ほんと出る、やばい、はやくはやくはやく! 1、雫を零し続ける性器を乱暴に引っ張り出した。
 先端を木の根元に向けた。ぽろぽろと雫が間隔を縮め、細い水流となる。

 0。唾液を飲みこみ、胸に溜まった息を吐き出すと、水流は一気に太さを増した。蛇口を大きく捻った水道のように、水を撒くホースのように、俺の体のホースから熱いおしっこが噴き出していく。夜の静けさの中に、じょおおと不似合いな水撒きの音が響き渡った。
 危ないところだった。危機を脱した安堵と解放感と快感に、頭が解けそうだった。おしっこ気持ちいい。おしっこするのってこんなに気持ちよかったっけ。真っ白な頭の中を癖になりそうな快感が満たしていく。
 膀胱から解き放たれたおしっこは地面に吸い込まれ、土を黒く濡らした。いつもは冷たく綺麗な水を貰っている植物たちに、俺の中で熱く沸かされたおしっこが降り注ぐ。ごめんな、と内心で謝罪の声を掛けた。
 じょろじょろと太い水流は勢いこそ弱まったものの、なかなか止まらない。地面はもう水分を吸い切らないようで、土の上に水たまりを作り始める。出続けるおしっこは水滴を撒き散らして水たまりに注ぎ込まれていく。膨らみ切った膀胱は最後の一滴までもを絞り出そうとしているようだった。

 夜の帳を切り裂いた水音は徐々に弱まり、再び辺りは静かになる。はぁと熱い息を吐き出すと、余韻でぶるっと体が震えた。
 カラフルな花も木の幹も水滴に濡らされ、足元の水たまりを気にした様子もなく佇んでいる。花壇に広がる水たまりに羞恥を感じた。いっぱい、出た。危ないところだった。……すごくすごく、気持ちよかった。
 性器をしまうと、濡れた下着が冷たくて不快を感じた。おしっこ、ちびった。でも、ちょっとだけだから。本当にちょっとだけ。セーフ、セーフ。
 先ほど飛び出たエントランスに戻ると、エレベーターの箱は1階で停止していた。先程とは違い、ゆったりと乗り込み、9階のボタンを押す。
 扉が閉まり、俺一人を乗せた個室はゆっくりと上へ進む。人工的な明かりにまぶしいほど照らされた箱の中、先程ははっきり見えなかった自分の姿がよく見えた。
 皺が寄ったブルージーンズ。冷たく濡れた下着が不快感を訴え続けているその真上が、丸い形に色濃く染められている。何がそこを染めたのかなんて、一つしかない。鞄を持った手を動かし、さりげなくそこを隠した。
 ちょっとだけだから、セーフ。本当に、本当にちょっとだけだから。

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 3回目

 三度目の正直。二度あることは三度ある。同じ三回目でも二つのことわざがあるが、俺は後者を押したい。
 終電に間一髪飛び乗れたのが幸運だったと自分では思っていたが、むしろ不運だったのかもしれない。人のいない自分だけの車両で、俺は身を縮めて内側から沸き立つ衝動に耐えることしか出来ない状態だった。

 やばい、飲みすぎた。前にも同じことを同じ状況で感じたことがあった。いい加減に学べばいいものの、俺はまた同じ過ちを繰り返している。
 今日は今までのどの日よりお酒をたくさん飲んでしまい、解散もいつもより遅くなってしまった。そのせいで、駅に着いた時には終電がまさに今出発するところだったので飛び乗らざるを得なかった。だからトイレに行く余裕が無かった。
 言い訳をしたところで、現状は何も変わらない。理由がどうであれ、俺が今途轍もなく強い尿意を感じている結論は何も変わらない。

 やばい、トイレ行きたい。おしっこしたい。じりじりと耐え難い衝動が絶え間なく俺を襲う。じっとしていることすら辛く、足が勝手に小刻みに震えた。トイレトイレトイレ。気を抜くと吹き出しそうな熱い液体を必死の思いで留めて、むず痒い尿意に体を捩る。
 後悔をし始めるとキリがなかった。トイレに行くんだった。飲みすぎるんじゃなかった。早く切り上げるんだった。飲み会に行くんじゃなかった。そんな根本のところまでもを悔やんでしまう。楽しかった余韻もお酒のほろ酔い加減もどこかに吹き飛び、今は激しい尿意しか感じられなかった。

 頭には先日のことが浮かぶ。ぎりぎり家まで我慢できた時のこと。白い便器に向かって、溜まりに溜まったおしっこを一気に放出した時。あんなに気持ちよかったのは初めてだった。毎日見ている自宅の便器がこんなに恋しく思えたのはあの時以来だ。いや、もしかしたらあの時以上に今の方が恋しいかもしれない。
 だってあの時は無事に間に合ったのだから。我慢できず、駐輪場の花壇に立ちションしてしまったこともあった。本当にぎりぎりになりながら、ほんの少しだけ下着にちびりながら植え込みに駆け込んだあの時。自宅に飛び込んでおしっこをしたとき以上の気持ちよさだったかもしれない。
 ひんやりとした夜の空気が火照った体を冷やして、尿道を熱いおしっこが通るのがよく分かった。膀胱をはち切れそうな程に膨らましたおしっこは、永遠に出続けるんじゃないかと思うほど長時間出続けていた。

 今日はどちらの日よりたくさん飲んでしまった。しかも思い出せば、今日の飲み会は話が盛り上がりすぎて途中でトイレに立っていないかもしれない。飲み会の最中は全く感じなかった尿意が、今一気に押し寄せているのだろう。本当にやばい。おしっこしたい。マジでしたい。他のことは何も考えられない。トイレトイレトイレ。おしっこしたい。もう何でもするから、おしっこさせて、本当にやばいから!

 電車はいつも以上にゆっくり走っている。早く早く早く。1キロで良いからスピードを上げてほしい。思いとは裏腹に電車は緩やかにスピードを落とし、駅に停車する。扉が開くと数人が下りていく。スーツの背中が一つ、他の人とは違う方向に進む。目で追うと、彼は吸い寄せられるようにピクトグラムの下へ入っていく。
 俺もトイレ! 叫びだしたくなる衝動と共に、出口がじゅうと熱くなった。咄嗟に左手で出口を摘まむ。やばい、おしっこしたい、すごくしたい、トイレトイレトイレ! 必死に耐え忍ぶ俺に動じることもなく、扉はぷしゅーっと間抜けな音と共に閉まる。トイレから切り離されたこの空間は再び進み始める。窓の外、待ち望んだはずのピクトグラムが遠くなっていく。
 降りるわけにはいかないとわかっていた。終電だから降りたら帰れなくなる。でも、おしっこ、トイレあったのに。
 あの人は何の躊躇いもなく、小便器に向かっておしっこをするのだろう。スーツのズボンを寛げて、ちょろちょろと気持ちよさそうにおしっこをするんだ。ずるい、俺の方がおしっこ我慢してるのに。俺だっておしっこしたいのに。

 どれだけ念じたって電車のスピードは変わらない。どれだけトイレを望んだって、この電車にはトイレは現れない。
 左手はズボンの前から離せなかった。車両に人がいるかいないかなんて構っていられない。離すと、それだけでおしっこが溢れてしまいそうだった。ぱんぱんに膨らんだ膀胱は悲鳴を上げる。けれど俺が飲んだビールはまだまだ残っているのだろう、全身を巡った後、行きつくべき場所へ注ぎ込まれていく。もうこれ以上入らないと悲鳴を上げているにも関わらず、ぐいぐいとその場所を押し広げて注がれているのだ。こうして外から出口を塞いでいないと、一瞬のスキをついて溢れてしまう。
 トイレトイレトイレ。おしっこおしっこおしっこ。はっはっと短い息を繰り返し、少しでも衝動を逃がすが、そんな僅かな抵抗を嘲笑うかのように尿意は暴れまわる。ああ、もうはやく、トイレ、トイレ、トイレ!

 一つ手前の駅を電車が出発する。間延びしたアナウンスに待ち焦がれた駅名が混ざる。もう少しだ。わずかな安堵に気が緩む。そのスキを見逃さず、尿意は一気に波だった。左手で押さえている性器の先から、熱い雫がじゅうっと零れる。今まで感じたことのないビックウェーブに、体を捩った。左手は落ち着く間もなく性器をぐにぐにと揉んで衝動を逃がす。おしっこしたい、ほんとにしたい、もう何でも良い、トイレトイレトイレ、おしっこ出る、ほんと出るから、はやく、お願い、ほんとはやくついて。
 体を揺すっても、強く押さえても、衝動は収まらない。再び、出口がじゅ、と熱くなった。ああ、やばいやばいやばい、ほんとやばい、出る、おしっこ出る、ほんと出るから、はやくついてくれ!
 座っていられず、立ち上がって扉の前に行く。まだ景色が動き続けていて止まらない。体を上下に揺すって、足踏みを繰り返して。ズボンの前を抑える手は両手になる。ぎゅ、ぎゅと一定のリズムで揉み続け、少しでも尿意を逃がす。
 景色がゆっくりになる。もうすぐだ、もう少しだけ我慢、もう少しだから。自分を励まし、言い聞かせ、尿意を必死に抱え込む。
 見慣れたホームがゆっくりと扉の向こうに現れる。薄暗い窓には泣き出しそうな男が映る。体を揺らし、お尻を突き出し、両手でズボンの前を強く揉んでいるその姿は誰が見ても同じ感想を抱いただろう。
 ああ、と口から情けない声が漏れた。トイレトイレトイレトイレ! 叫びだしたくなる衝動を押さえつける。膀胱の中で熱く沸き立つおしっこはここから出せと暴れていた。もう少し、あと少し。あと少し歩いたらおしっこができる。おしっこが出せる。

 扉があいた瞬間、俺は飛び出した。階段を駆け上って、改札を潜る。走っているつもりだったが、きっと情けない格好で歩いていたことだろう。お尻を突き出し、ズボンの真ん中を両手で握りしめ、よたよたと歩く姿は、誰が見たって『おしっこ我慢』のポーズだ。でも、そうしていないと、もうどうしようもなかった。俺の中で暴れるおしっこは、もう一秒も待てないと暴れ続けている。
 ただおしっこがしたい。自宅のトイレでなんて贅沢は言わない。あの植え込みで良い。頭の中に自宅のトイレの姿はもうなかった。管理人が水を撒いていた、俺が我慢できずにおしっこを撒き散らしたあの花壇。あそこで良い。あそこが良い。
 おしっこ、おしっこしたい、おしっこおしっこおしっこ。頭も体も同じことを叫んでいた。全身で『おしっこ我慢』を訴えながら、歩きなれた道を亀の歩みでひたすら歩く。たった5分。それだけ我慢すればもう我慢しなくていい。おしっこできる。思いっきり、勢いよく、気持ちよくおしっこできるのだから。

 歩いて歩いて歩いて。マンションの姿が見え始めた時、一瞬気が緩んだ。マンションの下に花壇が見えたのだ。目隠しになっている大きな木の姿。頭の中に先日の醜態が一瞬だけ浮かんで、すぐに真っ白く塗りつぶされた。
 じゅわっと勢いよく、出口からおしっこが噴き出した。立ち止まり、握っている手に更に力を入れるが止まらない。古ぼけた街灯が俺の姿を照らしていた。大粒の雫は下着を濡らし、ズボンを濡らす。ブルージーンズに染みが浮かんだ。大きな染みは熱く濡れている。
 まだ駄目だ、もう少しだから。そんな思いは何処にも引っかからず、夜の闇に熱い吐息とともに消えていく。再び零れた雫は下着を濡らしてジーンズに零れ落ちる。染みは更に大きく、色濃くなっていた。
 やばいやばいやばい。パニックになりながら、必死におしっこを堪えようとするが、止まらない。じゅ、じゅ、と息をする度に、熱い雫は零れる。
 もう良い。もうここで。鉛のように固まった足を引きずり、古ぼけた街灯の足元に近寄る。おしっこ、おしっこおしっこおしっこ。それしか考えられなかった。
 声にならない声を零しながら、性器を抑えていた手をズボンに掛けた。雫が零れる。零れて、零れて、雫は細い水流となってぴゅっ、ぴゅっとズボンを濡らす。はやくはやくはやく! 湿った手でチャックを下ろそうとするが、震えていてうまく手が動かない。そうしている間にも性器の先からおしっこは細く噴き出して、下着を、ズボンを濡らしていく。
 体が震える。おしっこおしっこおしっこ、もうやばい、でる、でるでるでる、でる……!
「あぁぁっ……!」
 情けない声と共に、じゅわあっと太い水流が一気に飛び出した。反射的に両手で出口を抑えたが、もう止まらない。断続的だった水流は一気に勢いを増し、下着の内側に叩きつけられる。水流が渦巻き、じゅううう、と太い音がした。
 足の間から、裾から、足を伝って、足元に大きな水たまりが広がっていく。手の中で渦巻いた水流は派手な音を立て、足元の水たまりに落ちて雫を撒き散らす。ズボンも下着も、靴も靴下も熱く濡れている。頭も体も熱かった。
 おしっこ、出てる。真っ白な頭にまずそれが浮かんだ。やっと解放された気持ちよさに熱い息が漏れた。それから間に合わなかったこと、漏らしてしまっていることを把握したが、その意味を理解はできていなかった。ただ、この気持ちよさに酔いしれて溺れていたいと思った。

 水音が消え、夜の静寂に自分の呼吸の音だけが聞こえた。解放感の余韻で、ぶるっと体が震えた。
 やっちまった。すっきりした体でまずそう思った。暗い住宅街の古い街灯の下、アスファルトを黒く濡らした水たまりは光を反射してきらきらと光っている。その真ん中でただただ立ち尽くしていた。
 顔を上げると、自分のマンションまであと少しというところだった。たったこれだけの距離を我慢できなかった。子供じゃないのに。理解すると、情けなさと恥ずかしさで鼻の奥がツンとする。鼻をすすって、水たまりから足をどけた。乾いたアスファルトを踏みしめると、スニーカーがぐしゅっと水分を吐き出す。嫌悪感を感じたが、どうすることも出来なかった。ただただマンションまでまっすぐ歩く。
 エントランスに入る前に、ふと後ろを振り向くと、ぼんやりした街灯の下から自分の足元まで濡れた足跡が続いていた。おもらしした子はこのマンションに帰ってきました、という紛れもないサインだった。逃げ出すようにエレベーターに飛び乗り、階数ボタンと閉まるボタンを連打する。
 扉が閉まり、閉鎖された個室の中、自分の姿が赤裸々に照らされる。ぐっしょりと濡れたブルージーンズは中心から内ももに向かって色を変えている。その情けなさに逃げ出したくなったが、どうすることも出来ない。
 お酒は控えよう。それからトイレには必ず寄ろう。小学生のような教訓に情けなくなりつつも、守らなかった場合どうなるのかは濡れた下着とズボンが痛いほど教えてくれていた。
 エレベーターが9階に到着する。静まり返った廊下を、いつも以上に足音を殺して、俺は自室に戻るのだった。

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初出:2017年5月8日(pixiv) 掲載:2022年7月30日

10
成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。