電信柱の根元、膝下程の高さの植え込み、青いポリバケツの陰。それらが順番に指差されて、私はその一つ一つに首を振る。
「まったくワガママなわんこだね」
そう言って彼女は笑った。
彼女は私のご主人さま。私は彼女に従順なわんこ。首輪も紐もないけれど、胸の奥底、最も深い場所を繋がれているから必要ない。そんなものなくたって、私はきちんと後をついていく。
ご主人さま、もう、ほんとにもう。小さな声で伝えると、彼女は笑う。
「だからさっきから色々提案しているじゃない。
あ、ほら、あそこはどうかな。公園の砂場。今なら誰もいないから、端と言わずに真ん中を使えるよ」
そんなことを言われたって、私は首を振るしかできない。そうすると彼女は笑って歩いていく。
「押し付けるだけが躾じゃないの。自分で好きなものを選ぶことも大切だからね」
そう言って彼女はまた違う場所を指差して、あそこはどうかなと笑顔で言う。
今度は道路の端に伸びる電信柱。蛍光灯がその足元を照らして、まるで真っ暗な舞台を照らすスポットライトのようだ。
あんなところでなんて。首を振るけれど、限界は間違いなくすぐそこに迫っていた。足を進めるたび、お腹に溜まった熱い液体がちゃぷちゃぷと暴れる。
ああ、いっそ強制してくれたら、そこでしなさいと言ってくれたら。その一言だけで、今の私は間違いなく頷いてしまうのに。
でも、ご主人さまはそれを許してくれない。私に選ばせるのだ。私が、私自身が我慢できないと、そこでさせてくださいと言わせるのだ。
ご主人さまはまた違う場所を指さす。今度は輝く看板の下。首を振ったけれど、もう本当に辛かった。
足を止めると、一気に尿意が押し寄せる。その場で立ち止まっていることすら辛くて、足踏みを繰り返す。
ご主人さま、お願いです、ほんとに、ほんとにもう。後ろから伝えるけれど、ご主人さまはただ笑う。
「さっきから色々勧めているのに、全部断っているのはあなたでしょう」
そんなこと言われたって、とてもじゃないけれど頷くことはできない。どうしよう、どうしようと、焦る気持ちでご主人さまの後をついていくだけだ。
おトイレ行きたい、おしっこしたい。夜の空気は体を冷やして、どんどんと尿意が増していく。もうじっとしていられない。はやく、はやく。
ご主人さまが指をさして、私は首を振って。それを何度も何度も繰り返すごとに、ご主人さまは何も指差してくれなくなってしまった。
そして、いつのまにか、今度は自分から探していた。
あそこはどうだろう、ここならまだ。例えば、建物のちょっとした隙間とか、誰かが停めた車の影とか。どこでもいいとは言えないけれど、ハードルはどんどん下がっている。
歩き続けるうちに、いつの間にか来た道を戻り始めていた。
足を進めるたび、体の中でじんじんと尿意が暴れまわる。動くと出そうで、でも動かなくても出そうで。おしっこ、おしっこ、おしっこしたい、ああ、もう、おしっこ、おしっこっ……。
もう他のことは考えられない。激しい波に身を捩り、ご主人さまの背を必死に追いかける。
おトイレ、おトイレ行きたい、おしっこしたい。次、ご主人さまがどこかを指差したら、私は頷いてしまうかもしれない。そこで、おしっこしないと、もう、本当に、本当に。
おしっこの出口がひくひくと疼いて、耐えきれずにスカートの上からぎゅうと押さえる。そんなみっともない格好のまま、ご主人さまの後を追った。
夜と言えど、誰かが通るかもしれない。そう思うと手を離したいけれど、もう離せない。押さえていないと、一気に溢れてしまう。ぎゅう、ぎゅうと出口を押さえて、限界ぎりぎりのところでおしっこを押しとどめる。
膀胱がこれ以上ないくらいに膨らんでいる。おしっこ、もう本当にだめ、おしっこ、おしっこしたい、おしっこ。ぎゅうぎゅう押さえて、足踏みを繰り返して。
おしっこ、おねがい、もう、もうほんとにおしっこ。胸の中で懇願を繰り返す。どこか、どこでもいいから、お願いです、ご主人さま。
出口の寸前までおしっこが満たされている。こうして押さえていないと、底の抜けたバケツのように溢れてしまうかもしれない。おしっこ、おしっこ、おしっこ。ああ、もう、もう我慢できないかもしれない。おしっこが、もう、もう本当に。
大きな波が全身を走り抜け、びくっと震える。じわりと熱いおしっこが出口に滲む。
ああ、だめ、だめだめだめっ、おしっこ、おしっこっ。もう、もうほんとに、ほんとにっ……。
もう限界で、焦れた体が身震いする。大きな波が頭の先からつま先まで走り抜ける。破裂寸前まで膨らんだ膀胱が振動して、あっと嬌声にも似た声が漏れた。
ああ、もうだめ、もう我慢できないっ。もう、もうむり、ごしゅじんさま、もう、もうっ……!
焦れた思いを口にする前に、ご主人さまが足を止めた。私もその後ろで立ち止まったけれど、一気に押し寄せるおしっこが出口を内側から圧迫してくる。泣き出しそうになりながら地団太を踏んで、ぎゅううっと痛いほどに出口を押さえて、切ない衝動に全身で耐える。
「わんこちゃん、あそこはどう?」
ご主人さまがどこかを指差して、私はその先を確認する前に何度も何度も頷いていた。もう、どこでも良い、何でもいい、ほんとにもうおしっこ我慢できないっ。
指の先は真っ暗な公園に向いていた。一度指差された砂場ではない、もっと奥、明かりの漏れる公衆トイレに向けられていた。
「随分気に入ったね。それは良かった」
それはまさしく今の私が求めていた場所だった。ご主人さまは楽し気にこちらを見ている。
もうまっすぐ立っていることすらできなくて、ただただ頷いて、早くそこに行きたいと訴える。膨らみ切ったお腹を抱えるように体を丸めて、ご主人さまを見上げた。
はやく、はやく、ご主人さま、はやくっ。躾のなっていないわんこは、不躾にもご主人さまを急かす。
もう本当に限界で、もう本当に我慢できない。心の底からそう思う。おしっこ、おしっこ、はやく、もう、もうむり、もうがまんできない、もう、ほんとにおしっこでちゃうっ。
真っ暗な公園は全くの無人で、わずかな明かりに照らされている。
足の付け根をぎゅうと押さえて、前屈みでひょこひょこと歩いていく自分がどれだけ不格好かは理解していたけれど、もうそうしていないと抗えなかった。
はやく、はやく、おねがい、おしっこ、はやく、はやく。必死に我慢を繰り返し、噴き出しそうなおしっこを押しとどめながら足を進める。
やっとの思いで公衆トイレに辿り着き、真っ暗だった視界に一筋の光が差した気がした。目前に伸ばされた救いの手を取ろうとした私を、ご主人さまの声が留める。
「そっちじゃないよ、わんこちゃん」
どういう意味か理解出来ない私を置いて、ご主人さまは一つ隣の入り口に足を進めてしまった。
ま、待ってください。声を掛けても、ご主人さまは待ってくれない。まって、まってっ、だって、そっちはっ……!
蛍光灯が点る建物の中は昼間のように明るい。無機質なタイルに囲まれた中、二つの個室に向かい合うように並ぶのは、白い陶器の便器。おトイレには違いないけれど、こちらは間違いなく男性用で。
「はい、到着。よく頑張ったね」
そんな、そんな。何か間違えているのかと思ったけれど、目が合ってもご主人さまはただ笑うだけ。
「さあ、どうぞ?」
葛藤したけれど、すぐに生理的な欲求が思考をぐちゃぐちゃにかき回す。もうだめ、もう我慢できない、もう、もう、本当の本当に限界だった。
男性用と言えど、個室は同じ。中に入ってしまえば、女性用と同じように使用できる。一抹の期待で、へっぴり腰で個室の扉に近付く。
一歩、二歩と扉との距離を縮めて。もう手が届く、やっと、やっとおしっこ出来る。そう思ったのも束の間で、私は扉を目の前にしながらそれ以上進めなかった。
二つ並んだ扉。片方は開いていて、その中にはモップやらバケツが押し込まれている。
そして、もう片方は閉まっていて、ぼろぼろの張り紙がされている。無慈悲なその文字に、これ以上ない絶望を感じた。たった漢字三文字、一目で理解できるのに、信じられなくて何度も何度も目を走らせる。
――――故障中。
うそだ、そんな、そんなのっ……! 目の前に、すぐそこにあるのに使えない。
それにもかかわらず、体は勝手に準備を始めてしまう。破裂してもおかしくないんじゃないかと思うほどに膨れた水風船が、中身を吐き出そうと出口を押し広げる。必死にそれを食い止めるけれど、我慢はもうとっくに限界を迎えていて、じわりじわりと熱いおしっこが下着を濡らす。
だめ、だめだめだめっ。でもっ、もう、ほんとにっ、ほんとにっ……! 泣き出しそうになりながら、救いを求めてあたりを見回す。絶望の淵に立った私を、ご主人さまは入り口で楽しそうに見ている。
もうだめ、おしっこ、おしっこでちゃうっ、なにか、ほんとになんでもいいからっ、はやく、おしっこ、おしっこっ……!
じわりと熱いおしっこが溢れる。今にも噴き出すその勢いを必死に押しとどめる。けれど、もう、もうほんとに、ほんとにだめ。
おしっこ、おしっこおしっこっ、もうむり、おしっこ、おしっこでるっ、もうでる、もう、もう、もうむり、もうでちゃうっ……!
それが目に入った瞬間、体が勝手に駆け寄っていた。壁に並んだ白い陶器、その周りには身を隠してくれるものは何もなかったけれど、もうそれで良かった。破裂寸前の膀胱を助けてくれるなら、もう何でも良い。
両手で一気に下着を膝まで下ろす。そのまま不格好に近付いて、便器の下の部分を跨ごうとしたけれど、下着が引っかかって足が開けない。じゅ、じゅうと断続的におしっこが噴き出して、足の間で伸ばされた下着を濡らす。
半分泣きながら、下着を足首まで下ろした。脱ぎ捨てようと足を振るけれど、靴が引っかかって脱げない。はやく、はやくはやくはやくっ、もうだめ、おしっこ、おしっこおしっこっ、おしっこでちゃうからはやくっ……!
半狂乱になりながら、破れんばかりに下着を引っ張って足を抜いた。ぐっしょりと濡れて重くなった下着を気に留める余裕はもう全くなくて、邪魔だとばかりにその場に放置する。
じゅう、じゅ、じゅー。熱いおしっこが細く、鋭く噴き出し、足元のタイルを濡らす。だめ、だめだめだめ、おしっこ、おしっこでる、おしっこでるっ、もうだめ、もうでる、でるでるでるっ……!
開いた足の間からおしっこを撒き散らしながら、不格好にそこを跨いで。しゅー、鋭く噴き出したおしっこが陶器の床を叩いて。
あ、あ、あ、ああっ、あああっ……! ぶじゅ、とまたおしっこが噴き出す。
やっと整った体勢に、待ち望んだ開放に、緊張が解けたまさにその瞬間だった。
後ろから太ももが掴まれたかと思うと、右足が大きく持ち上げられた。驚いて肩越しに振り向くと、先ほどまで入り口にいたご主人さまが後ろに立っている。
「ほら、わんこはこうやっておしっこするのよ」
私はご主人さまに支えられ、男性用の小便器に向かって片足を上げていた。わんこの私にはふさわしいのかもしれない格好。でも、その恥ずかしさに目を背けたくても、明るい照明の下ではどうすることも出来ない。
嫌だと抵抗したのは心だけで、体は全く言うことを聞かなかった。足を持ち上げる手を振り解くことも出来ず、本当の本当に限界だった体は差し伸べられた救いの手に全力で縋りつくだけ。
しゅう、しゅ、しゅー、と細く、鋭くおしっこが出て、止まって、また出て。駄目だ、嫌だとどれだけ思っても、もう歯止めになるものはすべて奪い去られていた。
いや、やだ、や、やぁっ……! 悲鳴と同時に、ぶじゅううと激しい音をたてて、熱いおしっこが激しく噴き出した。その凄まじい勢いに、びちゃびちゃと雫を派手に撒き散らして白い陶器を激しく叩く。
ご主人さまはしっかりと私の足を抱えて、私のおしっこを眺めていた。
本来なら人目を阻む行為を、とんでもない体勢で行っている。その非常識さに羞恥は確かに感じていたけれど、それ以上に快感が勝っていた。
見ないでくださいと、いやいやと首を振るけれど、抵抗なんて口先だけ。今の私はただ心のそこから気持ちよくおしっこをすることしかできない。
ああ、おしっこっ、おしっこでてるっ……。溶けそうな心地よさに全身から力が抜ける。
「すごいね、いっぱい出てるね。全然とまらないね」
後ろからご主人さまが言う。はやく終わってほしいのに、お腹にはまだまだおしっこが溜まっている。
じょろじょろと呆れるほど心地よい音が響く。私は返事もせずに、ただ頭を垂れて放尿の快感に酔うだけ。
「こうしている間に、誰か来たらどうしようか。ここ、男の人のトイレだから、男の人におしっこ見られちゃうかな。
でも、こんなに立派なおしっこだったら、わんこちゃん褒めてもらえるかな」
ご主人さまの言葉に我に返る。身を捩って抵抗したけれど、ご主人さまの手は簡単にそれを諫めた。
盛大な水音が静かな公衆トイレに響いている。外の誰かに聞こえたら、ここに来てしまったら。冷静になればなるほど悪い想像が膨らんでいく。
はやく、はやくと思うのに、おしっこは全然止まらない。私はただ、犬のように片足を上げて、お腹いっぱいにため込んだおしっこをし続けるだけだった。
幸か不幸か、私のおしっこが終わるまで誰かが来ることはなかった。
……すっきりした、気持ちよかった。体の中が空っぽになったように軽かった。
はあ、はあ、と長く息を繰り返していると、持ち上げられていた足が下ろされた。両足で立っているはずなのに、地に足がついていないようにふわふわした。
蕩けた心地でご主人さまを見上げると、頭を撫でられる。
「上手におしっこ出来たね」
幼子に言うような誉め言葉だったけれど、なんだかとても嬉しくて、わんこの私はその手の平に頭を摺り寄せる。
「よし、帰ろうか」
ご主人さまは私のスカートを正してから、出口へと歩いていく。その後を追いかけようとして、先程脱ぎ捨てた下着が目に入った。土ぼこりの積もったタイルの上に落ちたそれを拾い上げようとしたところで、ご主人さまは私を呼ぶ。
「わんこちゃん、行くよ」
少し迷って、伸ばしかけた手を戻す。そのままの状態で背中を追いかけた。
帰路をご主人さまと歩きながら、私はまた身を縮める。あれから三十分も経っていないのに、再び尿意を催していた。夜風に冷やされたのか、それとも我慢しすぎてお腹がびっくりしたのか。重くなっていく膀胱が収縮して、悪寒が走る。
とてもじゃないけれど、おトイレを申し出ることは出来ず、私は出来るだけ平静を装いながらご主人さまの背を追う。
お家の前でご主人さまは立ち止まると、私の方を向く。
「さて、わんこちゃん。もうおしっこは大丈夫?」
その質問に図星を突かれ、咄嗟に動揺が隠せなかった。ご主人さまはそんな私を見て、楽し気な目をしていた。全て知り尽くしたようなその目に、お腹の中の水風船が更に大きさを増した気がした。
従順なわんこである私は、ご主人さまに嘘はつけない。否定できずに小さく頷くと、ご主人さまはあらあらと困った風に言った。
「それじゃあ、そこはどう?」
ご主人さまは先程までのようにどこかを指差した。その先を目で追って、思わず固まる。
そこは、お家を越えた少し先、道路の端に伸びる電信柱だった。その足元は明かりに照らされていて、真っ暗な舞台にスポットライトが差しているようだ。
頷けず、かといって横にも触れずに、ご主人さまの顔を見上げるが、彼女はただ笑うだけ。先程、嫌というほど感じた尿意がどんどん強くなる。
少しの間の後、耐えきれずに小さく頷いた。
恐る恐る足を進め、電信柱の傍に寄る。さあ、わんこちゃん。その声に従って、私はスポットライトの下で舞台の幕をゆっくりと持ち上げた。本来ならもう一枚あるはずの幕は先ほどの場所に置いてきてしまった。
大切な部分は何にも遮られず、夜の闇の中で明るく露わに照らされる。
真っ暗な舞台、役者は従順なわんこが一匹。スポットライトの下で全てを露わにして準備を整える。
ばくばくと高鳴る心臓の鼓動だけが聞こえる中、その場にしゃがみ込む。
「そうじゃないでしょう」
その言葉の意味が理解できずに、そのままの体勢で見上げる。ご主人さまは腕を組んでじっとこちらを見下ろしていた。
「ほら、さっき教えてあげたでしょう。わんこはどうやっておしっこするの?」
思わず息を飲む。それは思い出すまでもない、ほんの少し前にご主人さまに教わったこと。
躊躇う気持ちはあった。こんな道端で、もし誰かが通ったら。先程の公衆トイレより人が通る可能性は高い。
ご主人さまを見つめる。真っ暗な夜の闇の中、舞台からその表情はよく見えない。けれど、胸の奥底に繋がれた鎖を引っ張られたように感じた。
私はやはり従順なわんこで、ご主人さまの言葉に抗うなんて出来るはずがないのだ。
恐る恐る両手をついて、犬のように四つん這いになった。そして、先ほど持ち上げてもらった右足を今度は自分で大きく持ち上げる。
露わになったおしっこの出口が電信柱の根元に向いた。不安定な体勢にふるふると体が震えた。
「よくできました」
ご主人さまが私の前にしゃがみ込んでいた。その顔を見ると頭を撫でられて、私は目を細めて嬉しさを伝える。
夜風が吹き、裸の体を撫でる。あ、と小さな声が漏れて、それと同時におしっこが噴き出した。
びちゃびちゃと噴き出したおしっこは電信柱の根元に降りかかる。持ち上げた足がぶるぶると震える。恥ずかしさと気持ち良さで、頭がぼおっとする。
先程、呆れるほど大量に出したはずなのに、今度のおしっこも全然止まらなかった。
こんなところで、こんなはしたないことをしている。でもすごく気持ちよくて、全身が快感でぶるりと震えて、あぁっと嬌声にも似た声が漏れた。
舞台の上、従順なわんこはちゃんと出来ていますか。涙で歪む視界でご主人さまを見る。返事はなかったけれど、優しく見つめる目が何より嬉しくて、私はただ一人の観客の前ではしたなく踊る。
「上手にできたね」
最後の一滴まで出し切って息をつく。その言葉に持ち上げていた足を下ろして、四つん這いになった。
おしっこが太ももを伝って、膝をついていた地面を黒く濡らしていた。
「帰ろうか。上手にできたご褒美をあげないとね」
その言葉だけで、わんこは泣き出したいほどに嬉しくなる。
両手を引いて立ち上がらせてもらい、私はご主人さまに並んでお家に向かった。その後の気配に、その言葉に、わんこは泣き出したいほど嬉しくなる。
夜風に冷やされた体が発熱したように熱くなっていくのを感じた。
肌に触れるシーツが心地よくて、柔らかく温かい布団に身を埋めて惰眠を貪る。けれど、朝一番の尿意はだんだんと強くなっていき、眠気を押しのけ始めていた。
目を開けると、隣ではご主人さまが穏やかな顔で眠っていた。
ご主人さまを起こさないように静かに体を起こす。
強まっていく尿意に、ベッドの上から部屋の中を見回す。ご主人さまはわんこの私のために専用のおトイレを用意してくれている。いつもは部屋のどこかに置かれているのだけれど、見える範囲にはないようだった。
しばらくはベッドの上で身を捩っていたけれど、尿意はどんどんと強まっていく。待ては得意だったけれど、じっとしているのは苦手だった。
とうとう耐えきれずに、そっとベッドを抜け出した。
裸では流石に肌寒くて、着替えを探したけれど、昨日ご主人さまが全て洗ってくれたことを思い出した。仕方なく、裸のまま部屋の中をうろうろする。
キッチンの方に来てみたけれど、そこにもやはり見当たらない。お風呂場にも洗面台にも、もしかしてと玄関まで見たけれど、靴が並んでいるだけだった。
どうしよう。もう一度ベッドを覗いてみるけれど、ご主人さまはまだ穏やかに眠っている。
部屋の中をうろうろと探ししている間にもどんどん尿意は増してくる。
どれだけ探してもおトイレが見つからない。このままだと、大変なことになってしまう。
はやくおしっこしたい。もじもじ、そわそわと落ち着いていられず、思考も散り散りになる。
体の内側で燻る切ない衝動に身を焦がされ、じっと立っていられない。だからと言って座ってもいられず、ベッドに戻って横になった。
布団に潜り込み、手を足の間に挟み込んで、尿意に切なく疼くおしっこの出口をそっと押さえる。
時折寝返りを打って、ご主人さまの様子を探るけれど、安らかな寝息が聞こえ続けていた。
あんまりごそごそしていてはご主人さまを起こしてしまうと思いながらも、いっそ起きてほしいとも思ってしまう。
ご主人さま、お願いです、はやく、はやくおトイレに。布団の中で身を捩って尿意を堪える。一晩の間にたっぷりと作られたおしっこは膀胱を大きく膨らませている。おトイレ、おトイレ、おしっこしたい。
もじもじ、ごそごそと身を捩るたびに布団が揺れる。
もう、悪いわんこでも構わない。ご主人さま、起きて。お仕置きは受けます、だからお願いです、起きて、おトイレ行かせて、おしっこしたいっ。
ふー、ふー、と呼吸を繰り返す。我慢、もう少しだけ我慢。その言葉を重ねるごとに、確実に限界は近付いている。
昨夜のお散歩が恋しくて仕方ない。今、電信柱を指差されたら、喜んでおしっこしてしまうかもしれない。
ああ、おしっこ、おしっこしたいっ。おしっこはお腹いっぱいに溜まっていて、もうこれ以上入らないと全身が訴えている。
おしっこ、おしっこ、おしっこしたい。はやく、はやくご主人さま、お願いだから、はやく、おしっこっ、もう我慢の限界なんですっ。
身を丸めて、はくはくと息を繰り返す。息を吸い込むわずかな隙間すらないかのように浅い呼吸しか出来ない。
我慢して、我慢して、今にも途切れてしまいそうな我慢の糸を、全力で支えて。それを何度繰り返したかわからない頃、ごそごそと布団が揺れた。弾かれたように顔を上げると、ご主人さまがゆるりと目を開けていく。
「おはよう、わんこちゃん」
寝起き特有の掠れた声だった。おはようございますと返し、本当ならば朝の穏やかな会話を交わしたいけれど、余裕は欠片も残っていなかった。
ご主人さまっ、おトイレっ、おトイレさせてくださいっ……。もう我慢の限界で、ぎゅうぎゅうとおしっこの出口を押さえながら、ご主人さまに泣きつくように言う。
ご主人さまは幾分間を開けてから、昨日のように笑った。
「わんこちゃんのおトイレならちゃんと用意しているよ」
ご主人さまが寝ている間にお家の中は全部探した。でもどこにもない。それを伝えるけれど、ご主人さまは笑うだけ。
「わんこちゃんは探し物のが苦手だね。もう一度、よおく探してごらん」
裸のまま、ベッドから抜け出してもう一度部屋中を探す。棚の隙間にも、テレビ台の下も、気になるところは全部見た。キッチンも、玄関も、お風呂場にもない。
私の後ろを追うように、ご主人さまがベッドから出てくる。
ないです、どこにもないんです。そう言っているのに、ご主人さまはそんなはずはないと言うだけ。
「見てない場所はない?」
そう言われて、唯一見ていなかったお手洗いの扉を開けた。けれど、そこにも私のおトイレはやっぱりない。
狭い空間の中心で口を広げる白い陶器に、全身がぞくぞくと震えた。これはご主人さまや普段の私が使うおトイレ。わんこの私は使ってはいけない場所。
尿意に身を焦がされ、その場で足踏みを繰り返す。後ろを振り向くと、ご主人さまが首を振る。
身を裂かれる思いでお手洗いの扉を閉めて、もう一度部屋を見回すけれど、どこにも見当たらない。
もうじっとしていられない。足踏みの最中、片手は絶えずおしっこの出口に添える。時折ぎゅううっと押さえないと噴き出してしまいそうだった。
ない、ない、本当にどこにもない。そうしている間にもどんどん尿意は強まっていく。
膀胱はぱんぱんに膨らみ、おしっこをたっぷりと抱え込んでいる。それは内側から出口を押し開けようと暴れまわる。
おしっこ、おしっこしたい、もう、もう我慢できない。ご主人さま、お願いです、もう、もうだめ、おしっこ、おしっこっ。
泣き出しそうになりながら、ご主人さまに縋る。
踵を上げて爪先で激しく地団太を踏む。太腿を寄せて、その間でおしっこの出口を強く押さえる。おしっこ、おしっこでちゃう、もうだめ、ほんとにだめっ。もう限界ぎりぎりで、ほんの少しでも気を抜いたら出てしまう。
下着一枚も着ていないのに、本当に裸なのに、服をたくさん着込んだ時のように全身が熱かった。
手の中で、ぎゅうと痛いほど押さえられたおしっこの出口が今にも開こうとしてひくひくと震える。
今、ご主人さまがどこかを指差したら、抗える気がしなかった。ゴミ箱でも、台所のシンクでも、いっそフローリングの床でも良い。そこでしなさいと、そこでして良いよと言われたら、その瞬間におしっこしてしまう。
「ヒントをあげようか」
こくこくと頷くと、ご主人さまは仕方ないなあと笑った。
「昨日の散歩は楽しかったね。
そういえば、躾けたわんこは屋外でしか排泄しないんだって。家では我慢して、散歩に行ったときにちゃんと済ませるの。賢いよね」
その言葉に咄嗟に玄関を見たけれど、そこにはやはりない。
お家では我慢する、お外で済ませる、お外でしかしない。お家の中ではなくて、お外。玄関じゃなくて、外、どこか他に外、なんて。
……もしかして! とある場所が浮かんで、同時に足は動いていた。おしっこの出口を押さえたまま、出来るだけお腹を刺激しないようにひょこひょこ歩く。
キッチンを越え、ベッドの方へ。そして、ベッドの向こうにあるカーテンを引いた。
ベランダには洗濯物が干されていて、その足元にはスリッパ。
そして、ベランダの隅には私のおトイレがあった。白い枠の中、きっちりセットされたわんこ用の青いトイレシート。
それを見た瞬間、じゅわ、と熱いおしっこが溢れて手を濡らした。じたばたと足踏みしながら、鍵を開け、重い扉を横に開けた。
朝の空気は静かで肌寒い。布一枚纏っていない裸の体は簡単に冷やされて、悪寒が全身を走った。冷えた体の中心で、たっぷりと溜まったおしっこが温められているのがわかった。
開けた扉の前で、右足、左足と足踏みを繰り返す。すぐそこにあるおトイレに飛びつきたいけれど、裸のままベランダに出ることに抵抗がないわけがない。
でも、おトイレ、おしっこっ。内側で激しく暴れる尿意が、ここでじっとしていることを許してはくれない。前にも進めず、かといって後ろにも戻れず、その場で地団太を踏む。
ご、ご主人さまっ……! 震える声で言えたのはそれだけだった。
おトイレ、おトイレにっ……。ご主人さまは何も言わない。ああ、もうだめ、おしっこ、あ、あ、あ、あっ。じゅ、じゅう、と手の中が熱くなる。太腿の内側に熱い何かが伝う。
あっ、あぁっ、もう、もうむり、もう、もうほんとにっ……! 我慢しているのに、おしっこがじゅわ、ぶじゅ、と手を濡らす。繰り返し床を踏む足に合わせて、ぴちゃ、ぴちゃと水音が鳴る。
おしっこ、おしっこ、おしっこっ、ほんとに、もう、もう、あ、あ、ああぁぁっ…………!
ぶじゅう、と手の平におしっこが一気に吹き付ける。内側から抉じ開けられそうな出口をぎゅううっと押さえつけてベランダに飛び出した。
裸足のまま灰色のコンクリートを一歩進み、二歩進み、縺れた足でわんこのおトイレを跨ぐ。
押さえた手の平からおしっこが青いシートに降り注ぐ。ぶじゅうう、手の平に当たったおしっこは雫を撒き散らし、足元にうるさく落ちていく。
上手に呼吸が出来ず、がくがくと体が震える。それに合わせておしっこがぶじゅ、ぐじゅ、と噴き出す。
は、は、と肩で息をしながら、和式トイレのように小さな私のおトイレに腰を落とす。じゅ、ぶじゅう、と断続的に溢れるおしっこを堰き止める手をゆっくり退けた。
おしっこの出口は待ちわびたようにその口を大きく開く。断続的だったおしっこが間隔を狭める。喉に詰まっていた息を吐き出すと、ぶじゅーっと太く真っすぐ噴き出した。
はー、はー、と、空っぽになっていく体に空気を吸い込んだ。何も考えられず、ただただその快感に酔いしれる。
おしっこ、おしっこ、ああ、気持ちいい……気持ち、良い。真っ白に塗りつぶされた頭で感じられるのはそれだけだった。
勢いよく、滝のようなおしっこがシートにぶつかっている。びちゃびちゃと跳ねた雫がおトイレの白い枠の外側までもを黒く濡らしていた。
たっぷりと時間を掛け、お腹を空っぽにしてもなお、私はしゃがみ込んだまま動けなかった。強すぎる心地よさの余韻で頭がくらくらした。
少しずつ落ち着きを取り戻していきながら、足元に目をやる。青いシートは中心部分が濃い黄色に染まっている。それでも吸収しきれなかったのか、おトイレの白い枠の外側が黒く濡れていた。
部屋の中から視線を感じる。ご主人さまは何も言わずに、窓際から私をじっと見ている。傍に寄ろうと立ち上がろうとして、自分が今、裸でベランダにしゃがみ込んでいることを思い出した。
体を丸めてしゃがみ込んだまま、じっとご主人さまを見る。ご主人さまも何も言わず、視線が交わるだけの時間が過ぎる。
そのままじっとしていると、肌寒さに体が震えて思わずくしゃみが出た。
しばしの沈黙の後、ご主人さまは笑って両手を広げた。私は何も言わず、部屋の中に戻ってその腕に静かに身を預ける。冷えた体にご主人さまの体温を感じた。
ぎゅうと抱きしめられ、頭をくしゃくしゃと撫でられて、ないはずの尻尾が大きく揺れた気がした。
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初出: 2018年10月27日(pixiv) 掲載:2020年10月31日