夜を濡らす雪の玉水

「ゆうちゃん、大丈夫?」
「う、うん、だいじょぶっ。ちゆちゃんは?」
「うん、大丈夫」
 隣に座るゆうちゃんは電車に乗り込んだ時から、すでに落ち着きがありませんでした。その様子を見ている私の方が不安になり、声を掛けます。大丈夫の言葉とはとは裏腹に、彼女はもじもじ、そわそわと落ち着きがありません。
 どう見ても大丈夫ではない様子のゆうちゃんに、私は初めこそ励ましの言葉を掛けることが出来ました。けれど時間がたつにつれ、私にもそんな余裕はなくなっていきます。だって、私も同じ場所にいて、同じだけの飲み物を飲んでいたのですから。
 初めての飲み会、初めてのお酒。楽しさと雰囲気に飲まれて色々なカクテルを飲んでいた自分に、今の状況を伝えに行きたい気分でした。そんなに飲んだら大変なんだよ。お店のトイレは混んでいて、終電の時間を勘違いしていたせいで私たちは駅につくやいなや電車に飛び乗ることになるんだよ、と。

「あ、あ、あ、あのねっ!」
 水分を取りすぎたことを後悔してると、突然ゆうちゃんが声を上げました。それと同時に次の駅のアナウンスが流れ始めます。
「わ、わたし、次、乗り換えなんだっ! だから降りるねっ、ちゆちゃん、また明日ねっ!」
 彼女とは時々通学を一緒にしていましたが、この駅で降りるところは一度も見たことがありません。わかりやすい誤魔化に、私は咎めるよりもうらやましくなりました。
 私だって降りたいけれど、ここで降りたら、次の乗り換えに間に合わなくなります。お金もあまりないからタクシーは使えません。
 今降りたら家に帰れなくなってしまう。ゆうちゃんは降りても大丈夫なのかな。タクシーに乗るのか、それともお迎えに来てもらうのか。どっちでも、うらやましいな。

 ゆうちゃんはまだ開いていない扉の前へ移動しました。じっとしているつもりなのかもしれませんが、動かない瞬間はないと言えるほどに、そわそわと体のどこかが動いています。膝をすり合わせ、両足は交互に小さく持ち上げられ、幾分前かがみになった姿は、誰がどう見てもわかってしまうでしょう。彼女がここから飛び出して、次に飛び込む先は乗り換えの電車ではないはずです。
「んぁ、あ、あっ、あっ……!」
 びくっとゆうちゃんの体が跳ね上がったと思うと、そのまま両手でぎゅうっとスカートの前を握りしめました。その仕草に、見てはいけないものを見てしまった気になりました。
 下から持ち上げるようにスカートの前を、その奥の足の付け根をぎゅっと押さえるポーズ。……ゆうちゃん。心の中でそっと彼女の名前を呼ぶのと同時に扉が開きました。扉の隙間に体を滑り込ませるように、彼女は電車の外へ飛び出していきました。
 人気のない駅のホームで、彼女はスカートの前を抑えたまま、向こうへと消えていきます。その方向から目を離せないでいると、再び扉が閉まり、電車が動き始めます。

 ひとりになった瞬間、私は自分のことしか意識できなくなりました。お腹の奥がきゅううっと縮むのを感じます。その中にずっしりと溜まった水分を意識せずにはいられませんでした。
 ただただ窓の外へと意識を逸らし、時間が経つのを待ち続けるしか出来ません。姿勢を正して、膝を寄せて。膝の上に置いた鞄をぎゅっと握りしめながら。
 ゆうちゃん、大丈夫かな。切羽詰まった状態で駆け下りっていたゆうちゃんのことが気にかかるのは、きっと純粋な心配だけではないのでしょう。いいな、今頃、お手洗いに行けているのかな。私も降りたいな。降りて、お手洗いに行きたいな。
 そんな甘い誘惑に揺れ動く心にちゃんと言い聞かせます。だめ、ちゃんと、ちゃんと我慢しないと。……我慢、するんだから。脳裏に過るのは先日のこと。もう、あんなこと、絶対しないんだから。

 一つ一つ、駅が過ぎ去っていきます。乗り換えの駅までもう少し。そこで乗り換えたら、お家まではすぐです。そこまで我慢するのだと頭ではわかっているのですが、わかっていても難しいことは難しいのだと、私は痛いほど思い知らされていました。
 ……お手洗い、行きたい。意識をそらそうとしても、他のことは考えられません。少しでも早く電車を降りたい、電車を降りてお手洗いに行きたいと、そればかり考えています。降りるわけにはいかないのに。ちゃんと我慢するんだと誓ったばかりなのに、既に心は落ち着きをなくしていました。

 電車の扉が開いて、ひんやりとした外の空気が流れ込みます。足元がひんやりと冷やされ、体がぶるりと震えます。
 出発時間までまだあるのか、扉はなかなか閉まりません。そうすると外からの空気がどんどん入ってきて、どんどん寒くなっていきます。はやく閉まって、はやく出発して。そう思っても扉は閉まらないし、電車はなかなか動き出しません。
 ただでさえお手洗いに行きたいのに、こんなに寒いと余計にそれが加速していきます。その上、今は行こうと思えばお手洗いに行ける状態。……今のうちにお手洗い、いけるかな。一度降りて、お手洗いを済ませて、すぐに戻ってこれば。心が揺らぎ、甘い誘惑が頭に浮かびます。
 でも、もし間に合わなかったら。戻ってきたときに電車が出発していたら。
 でも、でも、お手洗い、すごく行きたい。とってもとっても行きたい。このままじゃ、このまま我慢してたら。先日の遊園地でのことが思い出されます。もし、万が一、ありえないけれど、あの時みたいに、もし間に合わなかったら。

 寒さに指先が悴みます。鞄を抱えてぎゅっと体を丸めても寒さは全然変わりません。冷えた体の中心で、熱く温度を持った液体がぽこぽこと煮立つのを感じ
ます。
 ああ、だめ、おトイレ、おトイレ行きたい。他のことなんてもう何も考えられません。だめ、だめだめだめ、もうだめ、もう我慢できない、おトイレ、おトイレ行きたい、おしっこしたいっ。
 まだ扉は閉まりません。降りようと思えば電車を降りられる状況。心の天秤がゆっくりと傾いていきます。
 ……おトイレ、行ってもいいかな。間に合うかな。扉開いてるし、なかなか閉まらないから。きっと大丈夫だよね。急げば大丈夫。……それに。お腹の中、ぱんぱんに膨れた水風船は内側からの圧力に押され、きゅうきゅうと切なく鳴いています。もうだめ、もうこれ以上我慢できない。おトイレ、行こうっ。大丈夫、走ればきっと間に合う。

 心の天秤が傾き、片方のお皿がかちゃんと床に当たります。意を決して立ち上がろうと腰を浮かせると、ほぼ同時にベルが鳴り響きました。そんな、うそでしょ。無情にも鳴り響くベルの音に呆気に取られていると、再び扉が閉まります。そして電車は次の駅に向けて走り出すのでした。
 あと、ほんの一瞬、ほんの少しだけ決意するのが早かったら降りられたのに。後悔したって何も変わらず、私はただ流れる窓の外を眺めるだけです。
 おトイレ、おトイレ行きたい。もう我慢できない。おトイレ、はやくおトイレ。一度その方向に流れた思考は留まることを知りません。そして思考に流されるように、体もその方向へ流れていきます。
 お腹の奥、膨らみ切った水風船にはさらにお水が注がれているようでした。注がれたお水は居場所を探し、たった一つ空いた出口へと強く激しい波となって押し寄せます。
 ああ、だめ。だめなのに。でも、だめ、おトイレ行きたい、おトイレおトイレおトイレ。はしたなくも、もうそんなことしか考えられません。

 ほんの少し前までは閉まってほしいと願っていた扉。今度はすぐにでも開いてほしいと願います。体を冷やした外の空気へ飛び出していきたい。先ほどまでとは何から何まで真逆のことを考えながら、私はただじっと耐え忍ぶことしかできません。でも、このままだと、耐え忍ぶことすらできなくなりそうでした。
 スカートの下、ぴったりと寄せられた太ももが勝手に擦りあわされます。そのずっと奥、タイツに覆われた足の付け根が切なくうずきます。ぎゅっと鞄を握りしめた手が震えていました。
 まだ駅は見えてきません。はやくはやくはやくっ。荒くなる呼吸を必死に落ち着けようとしますが、上手く息を吸うことが出来ず、短い呼吸を繰り返すのがやっとです。
 おトイレ、おトイレおトイレおトイレっ……! もうなんでもいいです。おトイレ、おトイレいきたい。今、目の前におトイレがあったら、この電車の床に突然お手洗いが現れたら、私は何のためらいもなく使っていたことでしょう。

 冷えた爪先から火照った頭のてっぺんへ、ぞくぞくっと悪寒が駆け抜けました。それは悪戯にお腹の水風船を揺らします。揺らされた水風船の中、温められた水分は大きく波打ち、激しく揺れ動き、たった一つの出口へと雪崩れ込みます。
 じゅうっと足の付け根が、下着が熱く濡れるのを感じました。あ、あ、あっ、あっ……! 零れそうになる悲鳴を飲み込み、ただその衝動に耐え忍びます。でちゃった、どうしよう、ちょっとでちゃったっ。もう冷静に考える余裕なんてどこにもありません。おトイレ、はやく、だめ、本当にだめ、もう、でちゃうっ。
 心が緩むのに合わせて、再び下着が熱く濡らされます。だめ、もうだめ、でちゃう、おしっこ、おしっこでちゃう、おしっこもれちゃうからはやく……!
 鞄を握りしめていた手は勝手に鞄の下に潜り込んでいました。そしてスカートの上からその部分をぎゅううっと押さえつけます。はやく、はやくっ。でちゃう、おしっこでちゃう。お腹の中で荒れ狂う波は全然収まらず、それどころかどんどんと勢いを増しているようにも感じます。
 もうだめ、ほんとにでちゃう、おしっこ、おしっこでちゃう。乗り換えのことや終電のことなんて欠片も頭の中にはありません。ただただ今は、次の駅、そこにあるおトイレのことを考えるだけです。
 おトイレ、おトイレ行きたい。お家でなくても良いです。駅のお手洗いで構わないから、もうなんでもいいから早くっ。乗り換えの駅までなんて、その先のお家までなんて、絶対に我慢できない。おしっこでちゃう、もうほんとにだめ、おしっこもれちゃうっ……!

 押さえているにも関わらず、ひくひくと震えるそこはじんわりと熱く湿り気を増していきます。でちゃう、でちゃう、だめ、だめだめだめっ。頭がぼおっと熱くて、もう何も考えられません。おしっこ、おしっこでちゃう、だめ、おしっこ、もうだめ、おしっこでちゃうよっ……!
 私は静かに耐え忍ぶことすら出来ませんでした。このままじっとしていると、もう一秒たりとも我慢できないと体が訴えます。
 私は椅子から立ち上がっていました。鞄を肩に掛け、ぎゅうっと両手で肩紐を握りしめます。足はがくがくと震えていて、じっとしていられず足踏みを繰り返します。ぱんぱんに膨らんだお腹の水風船のせいでまっすぐ立つことが出来ません。体を伸ばしてしまえば、水風船が一気に縮んで、出口から勢いよく噴き出してしまいそうでした。

 まだ? おトイレ、まだですかっ? そう思うと同時にアナウンスが流れました。窓の外には無機質なコンクリートのプラットホームが流れています。
 やっとついたっ、やっとおトイレに行けるっ、おしっこできる! 気が緩んだことで体も緩んだのでしょうか、じゅうっと、我慢しているはずのおしっこが噴き出します。咄嗟に右手でスカートの上からぎゅううっと押さえると、そこはぐしゅっと湿っていました。つうっと、熱い液体が太ももの内側を伝うのを感じます。
 だめ、はやく、はやくはやくはやくっ。スカートの奥の奥、おしっこの出口をぎゅうっと押さえたまま、私は扉の所へ駆け寄ります。ゆっくりと電車がスピードを落とし、やがて完全に止まり、そして少しの間の後、扉が開きます。

 私は駆け出していました。きっと今の私は、電車から飛び出していったゆうちゃんと同じ格好、いえ、もしかしたらゆうちゃんよりもっと凄い格好をしているかもしれません。お尻を突き出して、スカートの前をぎゅうっと押さえて。でも、そんなことを気にする余裕は全くありませんでした。
 おしっこおしっこおしっこっ……! おしっこでちゃう、おしっこ、おしっこどこっ。階段を駆け下りると、突き当りにお手洗いのマークが見えました。
 それが見えた瞬間、またおしっこが零れて、そこを押さえる指先が熱く濡れます。ああっ、だめ、あとちょっと、ちょっとだけ、もうちょっとだけ我慢しないとっ……。
 足を踏み出す度、じゅ、じゅうっと溢れるおしっこが足を濡らします。押さえる手がぐっしょりと濡れ、タイツがほんの少し重くなっていました。でちゃう、でちゃうでちゃうでちゃう、おしっこでちゃうっ……!

 飛び込むようにお手洗いの扉を押し開けると、その奥には待ち望んだものがありました。薄暗い中で、壁で仕切られ覆われた、和式のおトイレ。
「あ、あ、あっ、あああっ、」
 待ち望んだ場所を目の前にしたことで、体が勝手に緩んでしまったようでした。じょろろ、と太い水流が指先に当たり、足の間から落ち、足元を濡らします。
「や、あ、あ、だめぇっ……!」
 だめ、まだだめ。両手で、指先で出口をぎゅううっと押さえつけると、ぶしゅっと、水道の口を抑えた時のような音がしました。
 出口を抑えたまま、手を挟むように膝をぎゅうっと寄せ、私はお手洗いの中、個室の中へ飛び込みます。あふれ出したおしっこが足を濡らし、タイルへ小さな水たまりを作っていました。
 個室の中へ飛び込むと、もう自分でも訳が分かりませんでした。
 おしっこ、おしっこおしっこ。じゅう、じゅうう、とおしっこが溢れる音。一歩、二歩、三歩進んだところで、私は和式トイレを跨いでいました。その瞬間、ぶしゅうっ、と今まで以上の太い音を立てて、おしっこが勢いよく溢れ出しました。
「あっ、あ……あぁぁっ……!」
 押さえていた指を離すと、おしっこが勢いよく噴き出しました。じゅーっと大きく鈍い音を立てて、足の間から、下着を濡らし、タイツを濡らして、まっすぐに下のおトイレへ降り注ぎます。
 じゅー、じょぼぼぼ、と大きな音を立て、私はおしっこをしていました。荒い呼吸の間に、熱いため息が漏れます。あっ、あっ、おしっこ、でてるっ。じゅうって、すごい音、いっぱい、ものすごくいっぱい。やっと解放されたその瞬間は、頭が熱に溶かされていて、まともなことは何も考えられませんでした。出来たのは、おしっこをするのはこんなに気持ちがいいのかと、その気持ちよさに酔いしれることだけでした。

+++

 我慢に我慢を重ねたおしっこはお酒の効果もあり、ものすごい量でした。止まらないのではないかと不安にあるほどたっぷりと、膨らみ切ったお腹の中を空っぽにして、やっとその勢いを弱めていきました。
 熱に浮かされた頭が冷えていくにつれ、自分の状況をありのままに見つめます。タイツも下着も下ろす余裕もなく、れどころかしゃがみ込むことも出来ずに、私は用を足していました。
 おしっこは下着もタイツも靴も、下半身のすべてを濡らしています。着替えなんて持っていません。靴もぐしょぐしょで、よく見ると、スカートも濡れて色を変えていました。
 どうしよう。全く知らない駅で、お家まではまだ距離があって、スカートもタイツも下着もぐしょぐしょで、とても人前には出られません。どうしようどうしよう、どうしよう。
 冷静になった頭はすぐにパニックに襲われました。震える手でおトイレを流し、手を洗います。混乱して、どうしたらいいのかわかりません。鞄の中からハンドタオルを引っ張り出すと、その時、スマホが点滅していることに気付きました。
 画面を見ると、メッセージが来ていました。一つは先ほど別れたゆうちゃんから。そして、もう一つは――。

 震える手で、私は短いメッセージを打ちました。『涼太郎さん、今、大丈夫ですか』。
 助けて、涼太郎さん。スマホを握りしめていると、一分も立たずにスマホが震えました。メッセージかと思いましたが、スマホは震え続け、画面には着信中の文字。縋る思いで、私は電話に出ました。
「なにかあった?」
 彼の第一声に、涙があふれ出します。状況を言わないとダメなのに、何も言えません。涼太郎さん。涙で震える声でただ名前を呼ぶことしかできない私に、涼太郎さんはほんの少し黙った後に言いました。
「今、どこにいる?」
 駅名、そしてお手洗いにいることを伝えると、電話の向こうでがさがさと物音がし始めました。
「迎えに行くから待っていて。できるだけ急ぐ」
「涼太郎さんっ、」
「大丈夫、すぐに行くから」
 そう言って電話が切れました。通話が切れた画面のまま、私は震えた手でスマホをぎゅっと握りしめました。
 涼太郎さんが来てくれる。そう思うと安心でしたが、この状況は不安でいっぱいでした。たった1つ繋がれた救いの糸を守るように、私はスマホを握りしめたまま彼の到着を待ちました。

 どれくらい待った頃でしょうか、スマホが再び震えました。スマホの震えは一瞬で止まり、画面にはメッセージが表示されます。『ついた。出てこれる?』
 ゆっくりとお手洗いの出口へと歩くと、張り付いたタイツが気持ち悪く、靴はぐしゅぐしゅと嫌な感覚を伝えます。そっと扉を開くと、そこには涼太郎さんがいました。本当に駆けつけてくれたのでしょうか、寝間着のようなジャージで、上着も羽織っておらず、頬が寒さで赤く染まっていました。
「ごめん、待たせた」
「涼太郎さんっ、わたし、わたしっ……」
 ありがとうと、ごめんなさいと、おもらししちゃったことを伝えないといけないのに、言葉がうまく出てきません。先ほど落ち着いたはずの涙が再びじわりと目を覆います。
「これ、」
 涼太郎さんは私の目の前に、たった一つ持っていた紙袋を差し出しました。
「着替えとか飲み物とか、適当に入れてきた。足りないものがあったら買いに行ってくる」
 紙袋を受け取り、返事の代わりに頷くと、ぽんぽんと頭を撫でられました。温かい手の感触に、涙腺が一気に緩みます。
「ごめんなさいっ……」
「大丈夫。とりあえず、着替えておいで。車で送るから」
 お手洗いの中に戻り、紙袋の中を見ました。男性物のジャージの上下に、コンビニの袋。その中には未開封のタオルと女性物の下着、そしてお水とスポーツドリンクが入っていました。

 ジャージに着替え、濡れた衣類を紙袋にまとめて一息つきます。辺りはしんと静かで、私がたてる物音以外には何の音もしませんでした。
 荷物をまとめてお手洗いの外に出ると、少し離れたところに涼太郎さんはいました。壁に寄りかかり、ぼんやりとどこかを見つめていましたが、扉の音に反応してこちらを見ました。
「持とうか」
 左肩に自分の鞄、右手に紙袋を持った私に彼は手を差し出しますが、私は首を振って答えました。遅い時間に迎えに来てもらっただけでも申し訳ないのに、汚れ物の入った荷物を持たせるわけにはいきませんでした。

 会話もないまま、私は涼太郎さんの少し後ろを歩いて、彼の車へ乗りこみました。荷物は後部座席に置かせてもらい、何度か乗ったことがある助手席に座ります。いつもここに座るときはとても緊張しますが、今日は今までの何倍も緊張しました。
 だぼだぼのジャージ一つ身にまとった状態を意識する度に自分の失敗を思い知らせれます。涼太郎さんは何も言わずに車を走らせ始めました。エンジン音が聞こえると、沈黙が少しましに感じられます。
「そんなに気にしなくて良いと思う」
 先に話したのは涼太郎さんでした。
「お酒を飲んだら、慣れないうちは色々やらかしてしまうものだから。吐いたり漏らしたり」
「ごめんなさい……」
「だから気にしなくていいよ。体調は大丈夫か? 気持ち悪いとかない?」
「大丈夫です。本当に、ありがとうございます」
「それなら良い。
 俺も飲みすぎて吐いたりしたことあるから、そんなに気にしすぎない方が良い」
 淡々と、いつもの調子でしたが、彼の言葉は何より心を軽くしてくれます。
 ごめんなさいとありがとうを言えたことで、肩から力が抜けました。強張っていた体をシートに預けると、車の揺れが心地よくて、瞼が重くなってきます。だめ、迎えに来てもらって、助手席で寝るなんて。必死に目を開きますが、だんだんと意識がぼんやりしてきます。
「千雪?」
 名前を呼ばれた気がしましたが、それが現実なのか夢なのかわかりません。だめ、寝ちゃだめなのに。そう思っているはずなのに、瞼はどんどん落ちてきます。
「寝てていいよ。疲れただろう。おやすみ」
 だいじょうぶです、わたし、ちゃんとおきてます。そう返事をしたつもりでしたが、ちゃんと届いているのでしょうか。一番安心できる涼太郎さんの隣、ゆらゆらと心地よく揺られながら、結局私は失礼ニモ寝入ってしまうのでした。

+++

 体がふわふわしていました。ざく、ざくと足音が聞こえますが、私の足は宙に浮いたままです。目を開けると、辺りは真っ暗でした。
 涼太郎さん。名前を呼ぶと、返事の代わりに頭が撫でられました。私は涼太郎さんに抱きかかえられているようです。涼太郎さん、私、自分で歩けます。そう伝えますが、涼太郎さんは返事もなく私を抱きかかえたままです。
 ひんやりした空気の中、私を支える涼太郎さんの腕の温かさを感じました。寒くて、もっと温めてほしくて体を寄せると、よりしっかりと抱きしめられます。
 涼太郎さん、どこに行くの。聞いても返事はなく、ただただ歩いていくだけです。涼太郎さん、涼太郎さん、おろしてください、私、ちゃんと歩けます。それに、その、あの、えっと。その先の言葉は頭には浮かんでいるのに、恥ずかしくて口にすることを躊躇ってしまいます。
 ぞくぞくと悪寒が走り、ぶるっと体が震えました。お腹の下の方がぞくぞくして、足の付け根がむずむずします。どうしよう、困ったことにお手洗いに行きたくなってしまいました。

 周りは真っ暗でどこにいるのかもわかりません。涼太郎さん、どこに行くんですか。聞いても返事はなく、足音が聞こえるだけです。
 ちゃんと言ったら下ろしてくれるのかな。ちゃんと言ったらお手洗いに連れて行ってくれるのかな。そう思いますが、涼太郎さんにお手洗いのことを言おうとすると、恥ずかしくて喉に鉛が詰まったように言葉が出なくなるのです。たった一言、お手洗いに行きたいと伝えるだけなのに。
 足音が聞こえるたびに、どんどんお手洗いに行きたくなっていくようでした。涼太郎さん、涼太郎さん。何度も何度も声をかけますが、返事は一度もありません。時々頭を撫でて、私を抱えなおして、ただただ歩いていくだけです。涼太郎さんが進めば進むほど、私はお手洗いから遠ざかっているような気がしました。涼太郎さん、そっちじゃないの。ねえ、本当にどこに向かっているの。私を下ろして、ちゃんと歩かせて。

 余裕はどんどんなくなっていって、私はもう涼太郎さんの腕の中で耐え忍ぶことしかできません。おトイレ、おトイレ行きたい。涼太郎さんには恥ずかしくて言えないけれど、心の内ではずっと訴えかけていました。どこかおトイレ、お願いだからおトイレに行かせて。他のことなんて考えられないくらい、頭の中はおトイレのことでいっぱいです。
 お腹の中の水風船がぎゅううっと縮み、体がぶるぶると震えました。ああ、もうだめ、おトイレ、おトイレ行きたい、おしっこしたいっ……。
 叫びだしたくなる切ない衝動に身を縮めて耐えますが、限界が近いことは自分が一番よくわかっていました。おしっこ、おしっこしたい、だめ、ああもうだめ、おしっこ、おしっこでちゃう。
 涼太郎さんっ。弾かれたように名を呼びますが、やはり返事はありません。その間にもぞくぞくとした衝動が体の中で暴れています。ああ、あ、あ、だめ、だめ、だめ。喉の奥で鉛のように固まっていた言葉が、一気に飛び出しました。涼太郎さんっ、だめ、もうだめ、私っ、私っ……。
 固まっていた言葉が飛び出すとともに、いろんな感情が湧き上がり、私は泣き出していました。涼太郎さんっ、でちゃう、おしっこもれちゃうっ……! おしっこでちゃうから、おといれっ、おといれいかせてぇっ……!

 その言葉に反応してか、足音が止まりました。返事はありませんが、宥めるように頭を撫でられています。
 驚いて固まる私を涼太郎さんは抱き上げました。脇の下に手を入れて持ち上げる、まるで子供を持ち上げるように抱き上げられたかと思うと、そのまま何かに座らされました。
 辺りは真っ暗なままでしたが、何に座らさせられたのか、すぐに私にはわかりました。丸くて、真ん中はへこんでいて、背中にはもたれる場所があります。見えませんでしたが、それは白く輝いているのではないかと思いました。
 おトイレっ……! 待ち望んだおトイレに違いありません。安心したのもつかの間、その安心のせいで激しい衝動が一気に襲い掛かります。だめ、だめだめだめ、もうちょっとだけ、まだだめっ……!
 おしっこをするためズボンを下ろそうとしますが、上手く掴めません。何度やってもズボンが掴めず、脱ぐことが出来ません。そうこうしている間にも体は勝手に安心し、お腹の水風船は縮もうとしています。
 なんで、どうしてっ……! 焦れる思いとは裏腹に指先は滑り、ズボンを掴むことが出来ないのです。おトイレ、やっとおトイレに来たのにどうしてっ……! 地団太を踏みながら顔を上げると、涼太郎さんが私の前で腰をかがめてこちらを見ていました。涼太郎さん、どうしよう脱げないのっ、おしっこ、おしっこもうでちゃうっ……どうしようっ……!

 涼太郎さんは私の方に手を伸ばしたかと思うと、また頭を撫でます。そうすると、あちこちに入っていた体の力が一気に抜け、私はおトイレに座り込んでいました。
 じゅわ、と下着が、ズボンが温かくなりました。ああ、だめ、でちゃうっ。涼太郎さん、涼太郎さんっ、でちゃうっ……! 力なく名前を呼ぶと、ずっと待っていた涼太郎さんの返事が聞こえました。――もう大丈夫。
 その声が聞こえると、もう体のどこにも力が入らなくなりました。立ち上がることもできず、目を開けることもできません。もちろん、我慢することもできませんでした。
 我慢から解き放たれたおしっこが、じゅううと勢いよく出始めました。あ、あ、おしっこっ……、私、おしっこっ、おしっこしてるっ……。お尻がだんだんと濡れていき、温かくなっていきます。いっぱい我慢していたからか、おしっこは全然止まりません。ズボンはぐしゅぐしゅに濡れていきます。脱がないと、と思いましたが、全身から力が抜けていて、指先ひとつ動きません。
 涼太郎さん、おしっこ、でちゃった。やはり返事はなく、その代わりに頭が撫でられます。ただ、真っ暗で分からないはずですが、優しく笑ってくれている気がしました。

+++

 目を開けると、私は薄暗い部屋のベッドにいました。私のお家ではないことはすぐにわかりました。顔を上げると、少し離れた絨毯の上で、涼太郎さんが横になっているのが見えます。ここは、彼のお部屋のようでした。
 迎えに来てもらってからの記憶が曖昧です。一つずつ、順を追って思い出そうとしながら、私は気付いてしまいました。むしろ、目が覚めた時から気にはなっていたのですが、そうであってほしくなくて目を背けていたのです。

 お尻が、いえお尻だけでなく背中までもがぐっしょりと濡れていました。恐る恐る掛け布団を持ち上げると、ベージュのベッドマットが私のお尻を中心に濡れて、大きく色を変えていました。さっと血の気が引いて、頭が真っ白になっていきます。
 おもらしして、着替えを持ってきてもらって、帰りの車で寝て、そして人のベッドでおねしょするだなんて。私は、どれだけ彼に迷惑をかけたら気が済むのでしょうか。自分で自分が心底嫌になりました。今すぐ消えてしまいたいと思いましたが、お尻の冷たさが私が存在していることを教えてくれます。

 とにかく洗わないと。ベッドから降りようとすると、涼太郎さんがもぞもぞと動くのが見えました。驚きと後ろめたさと申し訳なさで、体が凍ったように固まります。
 涼太郎さんは寝返りを打ったのち、ゆっくりと起き上がりました。くしゃくしゃになった髪をかき上げながら、焦点のあっていないぼんやりした目でこちらを見ます。
「おはよ、」
「おはようございます……」
「気分、悪いとか、頭痛い、とか、ない?」
「だ、大丈夫です……」
 寝起きだからか、いつもよりももったりとした話し方でした。そのまま涼太郎さんは起き上がると、こちらに近づいてきます。ぐっしょりと濡れたお尻の下が更にひんやりした気がしました。
 どうしよう、どうしよう。何か言わないと、何かしないとと思うのに、頭は真っ白で、体は鉛のように固まって動きません。
「りょ、涼太郎、さん、」
 真っ白な頭で、名前を呼びます。顔を上げることが、彼の顔を見ることが出来ませんでした。
「その、あの、私っ……ごめんなさいっ……」
「ん? ……あ」
 涼太郎さんも気付いたようでした。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。すぐに洗います。あと、新しいのも買って返します。
 私、こんな迷惑ばっかりかけて、ほんとに申し訳なくて、もう嫌われても……っ」
 思いつく限りの謝罪を伝える私の言葉を止めたのは、涼太郎さんの手でした。夢と同じように、頭を優しく撫でられると、全身から力が抜けていきます。
「大丈夫、大丈夫」
 ぼろぼろと涙がこぼれ、お借りしたジャージを濡らします。
「昨日も言ったけれど、そんなに気にしなくていい」
「でも、」
「俺も昔、飲みすぎて吐いたこととか、おねしょしたこととかあるから。そんなくらいで嫌わない」
「ほんと、に?」
「吐くのは今でもたまに。おねしょは最近無いけど、飲みすぎたらもしかしたらまたするかもしれないし、」
「そ、そっちじゃなくて、」
「ん?」
「嫌いにならない、ですか」
 ならないよ、と涼太郎さんはすぐに言ってくれました。その言葉だけで私は嬉しくて、自分の情けなさをより実感します。
「ごめんなさいっ……」
「大丈夫だから、とりあえず風呂に入って、落ち着いておいで」
 ぐすぐす鼻をすすりながら、お風呂場に連れて行ってもらいます。着替えは後で用意しておくからと言われたので、私は言われるがままにお風呂に入りました。

 お風呂からあがると、洗濯機が動いていました。そしてその横にタオルとジャージ、そしてコンビニの袋があります。中を見ると、未開封の女性の下着がありました。昨日と言い、コンビニに走って買ってきてくれたのでしょうか。お金を使わせたことも申し訳ないし、女性の下着を買わせたことも申し訳ありませんでした。

 着替えてリビングに行くと、机の上にコンビニの袋が三つ、大きく膨らんだ状態で置いてありました。テレビを見ていた涼太郎さんは私に気付くと、こちらにおいでと手招きします。
「朝ごはん、何が良いかわからなかったから、適当に買ってきた。気に入るのがあったら食べな」
 そう言うと、涼太郎さんは袋の中身を取り出します。おにぎりがいっぱい、サンドイッチ、菓子パンや総菜パン、プリンにゼリーにヨーグルト、焼き菓子やスイーツなんかもあります。美味しそうなものが机の上にどんどん並べられていき、決して大きくない机の上はすぐにいっぱいになってしまいました。
 彼の特大の優しさと不器用さに、つい笑いが零れます。暗かった気持ちに一筋、柔らかい光が差しこみました。
「ふふ、すごいです。どれを食べるか迷っちゃう……」
「好きなだけ迷って、好きなだけ食べると良い」
 それじゃあ、と焼きプリンを手に取りました。蓋を開けて、一口食べると、とても美味しくて、それを伝えようと涼太郎さんを見ます。彼は私を見て、穏やかに笑っていました。カーテンの開けられた窓の外は穏やかな日差しに包まれていて、今日は温かくなりそうだな、お洗濯もすぐに乾きそう、そんなことを考えたのでした。

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初出: 2018年3月18日(pixiv) 掲載:2019年3月6日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。