先輩の隣に座る勇気はないけれど、出来るだけ近くに座りたい。そう思った結果が何故か真正面の席になっていた。
机を挟んで向かい側にいるその人をさり気なく見る。正面だからさり気なくもない気もがするけれど。
こんな飲み会の席でも背筋をぴんと伸ばし、静かにグラスを持っている姿は様になる。そんなことを思っていると、一瞬目が合う。目つきはいつもより穏やかだけれど、それでもキリっとした真っすぐな目に見られるとドキッとした。先輩は特に何も言わずに、手元の小皿に目を落とす。
俺も一瞬目を逸らしたけれど、どうしても目が向いてしまう。失礼だと思いながらも、白いブラウスを持ち上げる大きな胸に目が向くのは男として仕方ないと思う。
先輩、中津梗花に対する第一印象は巨乳でクール系の厳しそうな女性。それはまさに俺の好みドストライクで、ぜひとも仲良くなりたいと思った。下心は、ないとは言えない程度にはあった。
そんな俺の軽薄な思いは、彼女と関わることでだんだんと変わっていく。
始めは厳しい注意の言葉にへこんだ。けれど、その言葉が仕事に対する熱心さから来ていることはすぐにわかった。先輩はひとりでいることが多かったが、決して嫌われているわけではない。その証拠に、今もひとりでサラダを摘まむ先輩はあちらこちらから話しかけられていた。
仕事熱心で、先輩は誰より自分に厳しい。そしてさり気なく他人をフォローする姿勢に、俺は先輩のことを更に好きになっていった。
以前、こんなことがあった。仕事でやらかして俺がへこんでいると、先輩はカフェオレの缶を俺に押し付けた。
「買い間違えた。あげる」
温かいカフェオレを握ったまま呆けていると、先輩は一言「気にするな」と言って笑った。先輩の普段のクールな雰囲気がふっと緩む。その笑顔は柔らかくて温かくて、とても可愛くて、へこんでいた心にじんわりと染み込むものを感じた。
あの時の笑顔はしばらく頭から離れなかった。
先輩、笑うと可愛いからもっと笑ったらいいのに。後日、何かの合間にそう伝えたことがある。先輩は何も言わなかった。聞こえなかったのかと思っていると、持っていたファイルでぺこっと俺の頭を叩き、無言でその場を去ってしまった。
やいのやいのと賑やかな飲み会の席でも、先輩は口数が少ない。それでも普段よりは柔らかい雰囲気で、周りの人とぽつぽつと会話を交わしている。時折ふっと緩む表情が可愛い。笑ったらもっと可愛い。もっと笑えば良いのに。そう思うと、先輩の視線がこちらに向いた。もの言いたげな視線をぼんやりと見つめ返していると、隣から揶揄う声が聞こえた。
「柏原、お前、ほんと中津のこと好きだなあ」
「可愛い可愛い言いすぎ。あんまり言うとセクハラになるぞー」
周りから言われて、自分が思ったことを口にしていたことにそこで初めて気が付いた。
「だって、普段ぶすーっとして難しい資料読んで、時間になったらさーっと帰っちゃうじゃないですか。先輩、笑ったら可愛いんだから、もっと笑ったら良いっす」
「だってさ、中津」
「仕事中に仕事して、終わったら帰る。別に悪いことしてないけど」
「良いとか悪いじゃなくてー、もっと笑いましょーって」
「へらへらしながら資料読む奴がいるか」
先輩はいつも通りのむっつりした顔でグラスのビールに口を付けた。俺も同じようにビールを煽ると、間髪を入れずに次が注がれる。
相変わらずのつれない返事にため息が漏れる。やるせない気持ちを流し込むようにそれを一気に飲み干した。
その後も色々話していた気はするけれど、何を話していたかは思い出せない。ただ、気付いた時には、先輩が俺の隣に座っていた。俺が移動したのか、先輩が移動したのかはわからないけれど、近くなった距離が嬉しかった。
机に寄りかかる俺とは裏腹に、彼女は相変わらずぴんと背を伸ばしている。いつも姿勢良いよなあ、横顔も綺麗だ、笑わないかな。じっと見ていると、周りから冷やかすような声が聞こえた。
「柏原、ぶつぶつ言いながら見つめすぎ」
「ほんとあいつ中津のこと好きだな。どこに惚れたんだか」
どこって、全部に決まってる。笑うと可愛い、いや、笑わなくても綺麗で可愛い、でも笑ったらもっと可愛い。仕事すげー出来るし、何を聞いてもすぐ教えてくれる。困ってたら絶対助けてくれるし、むしろ困る前にさり気なく助けてくれてる。おっぱいも大きいし、笑うと可愛いし、あと、頭も良いし。
手元のビールを飲み干すと、また誰かが注いでくれる。それをまた飲もうとすると、横から伸びてきた手にグラスを取り上げられた。
「飲みすぎ。そろそろやめときな」
そう言って先輩は俺のグラスを自分の手元に置いてしまう。何するんすかと手を伸ばすと、先輩は再びグラスを持ち上げ、そして中身を一気に煽る。
ちょ、それ、俺が今まで飲んでたやつ! どきっとした俺とは裏腹に、先輩は気にした様子もなく、中身を一気に飲み干した。
「もう無い。これで終わり」
その言葉通り、そのグラスにそれ以上ビールが注がれることはなかった。というより、いつの間にかラストオーダーの時間も過ぎ、注文したビールも底を尽きていたようだった。
間接キスだ、なんて女の子みたいなことを考えてしまう。なんだかそわそわする気持ちから先輩の様子を窺ったけれど、特に変わった様子もない。それがなんだか寂しくてやるせなくて、今こそビールを煽りたかったけれど、もう飲むものはなかった。
+++
居酒屋から出ると、外はどんよりとした天気だった。空は真っ暗に曇っていて、今にも雨が降り出しそうで、じっとりした湿気が体に纏わりつくようだ。
ちゃんと立っているはずなのに、何故か視界がふらつく。まっすぐ歩いているはずなのに、体がふらふらと揺れる。飲みすぎたかな、そこまでは飲んでいないと思うけど。
「おい、大丈夫か、柏原」
大丈夫です、と言ったつもりだったけれど、上手く口が回ってしない気もする。さて、家に帰ろうと足を踏み出したものの、地面をちゃんと踏みしめている感じがしないのは何故だろう。
「中津、送ってやれよ」
「なんで私が……」
「あれだけ熱烈な告白されたんだから、面倒みてやれって」
右足、左足。よたよた歩いていると、突然、横から腕を取られた。
まず聞こえたのはため息。先輩は俺の隣に立ち、呆れたような顔でこちらを見上げていた。
「電車?」
一瞬、何を聞かれているのかわからず固まる。けれどすぐに、帰りの交通手段を聞かれているのだと理解して、頷いて返事をする。
次は最寄り駅を聞かれる。無駄な言葉が一切無い質問に、俺もただ駅名だけを伝えた。
「送る」
「え、良いんすか」
「そんな状態でひとりで帰れると思えない」
「そんなに酔ってないっすよ」
「自分の足取りを見て言いなさい」
ちゃんと歩けてますよと言うと同時に、足元がふらつく。けれどすぐに踏みとどまって、ほら、大丈夫でしょと先輩を見たけれど、呆れた表情がより一層強まっていた。
「先輩、なんか顔がこわい」
「元々こういう顔」
「うそだあ。笑ったらあんなに可愛いのに。ほら、笑ってくださいよ」
「良いから、ちゃきちゃき歩きなさい。まったく」
背中をぽんと叩かれ、再びよたよたと歩き始めた。
先輩は俺より背が低いけれど、歩く速度は変わらない。そういえばもともと歩くのが速い人だったなあと思い出した。
「めっちゃ曇ってますね」
「そうだね」
「でも夜風が涼しいっす。気持ちいー」
「そうだね」
「ねー、先輩、折角二人だし、どっか行きません?」
「行かない。こんな時間からどこ行くの」
「カラオケとか? あ、二軒目とか! 二次会しましょ、二次会!」
「足取りもおぼつかない酔っぱらいが何言ってるの」
先輩は相変わらずつれない対応。でも、話しかけたら必ず返事をしてくれる。優しいし、こういうところが好きだなあと改めて思った。
+++
駅に付くころには幾分酔いも醒めていた。結構飲んだなあと、頭の片隅でぼんやり考えながら、空いているベンチに座る。
隣の席は空いたままだ。座ったらどうすかと促そうとして、その先輩がいないことに気が付いた。どこに行ったのかと見回していると、少し向こうから歩いてくる。
「どこ行ってたんすか」
「自販機。はい、これ」
手渡されたのはペットボトル。透明なミネラルウォーターが並々と入っていて、それを見た瞬間、思い出したかのように喉の渇きを感じた。
「喉、乾いてるでしょ」
「なんでわかるんすか」
「あれだけお酒飲んで、少し歩いたから、そうじゃないかなと思っただけ。飲んどきな」
「はあい。ありがとございます」
いざ口を付けると、自分の想像以上に水分を欲していたようだった。ごくごくと喉が鳴るのに任せて中身を流し込むと、満タンだったペットボトルはすぐに空になってしまう。
「……そんなに喉乾いてたの」
「なんか、飲んでも飲んでも喉が渇いてる感じっす」
「ビール飲みすぎ。こっちも飲む?」
「ありがとございます
先輩が持っていたもう一本のミネラルウォーターも貰って口を付ける。半分程飲むと、やっと体が潤った気がした。
「次が終電みたい。ぎりぎりだったね」
「終電逃してたら、俺ともう一軒行ってました?」
「その時はタクシー拾って、君を押し込んで帰ってた」
「えー、その時は先輩も一緒にタクシー乗ってくださいよ。で、二軒目行きましょう」
「はいはい」
軽口を流されながら、ペットボトルの残りに口を付ける。二本目のペットボトルを飲み干して、結構飲んだな、腹がちゃぷちゃぷするな、と思っていると、電車が姿を見せた。
空になったペットボトルをゴミ箱に捨て、俺は先ほどまでよりしっかりした足取りで最終電車に乗り込んだ。
+++
先程、ペットボトル2本分も水分を取ったことを後悔していた。
最終の電車ということもあり、ある程度の乗客はいた。酔った大学生の楽しそうな話し声や、社会人の真面目そうな会話が聞こえる中、俺と先輩は特に会話もせず、じっと扉の傍に立っていた。
窓の外を眺めているふりをしながら、俺の意識はどんどん膨らんでいく尿意に囚われていく。
どうしよう、トイレに行きたくなってきた。すごく、いや、ものすごく行きたい。気にしないようにすればするほど、逆にトイレのことを考えてしまう。出来るだけ平静を装うものの、膝がそわそわと揺れる。出来るだけ自然に、絶対にばれないように、足を位置を動かして体を揺する。
早く着け、早く着いてくれ。電車を急かしながら視線の方向を変えると、先輩と目が合った。たまたまというわけではなく、目が合っても逸らされない。
なんだろう。もしかして、ばれた、とか。嫌な想像にさっと血の気が引く。トイレが我慢できないとか、知られたら恥ずかしすぎる。
「大丈夫?」
「な、なにがっすか」
「顔、真っ白。一旦降りた方が良いんじゃない?」
「終電だから、降りたら帰れなくなりますよ」
「その時はタクシー呼ぶよ。気持ち悪いなら、早めに降りた方が良いけど」
先輩は俺が飲みすぎて気持ち悪くなっているのだと思ったらしい。
本当に吐きそうだったら、先輩の言葉に甘えていたと思う。けれど、トイレに行きたいから電車を降りるとか、恥ずかしくて口が裂けても言えない。ガキじゃないし、我慢できる。やせ我慢でしかない考えを自分の中で奮い立たせた。
「大丈夫ですから。ありがとうございます」
トイレを我慢していることを隠そうとしたせいで、思った以上に不愛想な言い方になってしまった。しまったと思ったが、先輩は気にした様子もなく、再び視線を落とした。
電車が速度を落とし、窓の外に駅が見えてくる。最寄り駅まであと3駅。それくらい我慢できる。ぞくぞくと込み上げる悪寒に耐えながら、胸に溜まった息を吐き出した。
+++
電車は走る。次が俺の降りる駅。必死の思いで我慢を続けてきたけれど、やっと着くのだと思うと、気が少し緩んだ。それに反比例したかのように尿意が強まる。
うあ、やばい、駄目だ、もう少しだから、我慢、我慢、我慢。自分に言い聞かせて、大きく息を吐く。込み上げる衝動を自分の中に何とか押しとどめながら、近付いてくる最寄り駅に思いを馳せる。
降りたら、さりげなくトイレに行こう。さっき先輩が自販機に行ったみたいに、自然と行けばきっと大丈夫だ。
もし聞かれたら、念のためにちょっと行っておきたい、それくらいの感覚で言えば、なんとも思われない。トイレなんて誰だって行くし、それに、もしかしたら先輩も行くかもしれないし。
もう少し、もう少し。ジーンズの下で、下っ腹がぱつぱつに膨れているのがわかる。ああ、トイレ行きたい、早くおしっこしたい。先輩と一緒にいるのに、トイレのことばかり考えているのが恥ずかしくなる。
でも仕方ない。飲み会ではしこたま飲まされたし、その後、あれだけ水を飲んだんだし。これで行きたくならない方がおかしい。
電車がスピードを落としていく。もう少し、あと少し。
「ここだったっけ」
「はい、そうっす」
扉の前、先輩と肩を並べて、俺は情けなくもおしっこのことばかり考えてる。ガキみたいだ、そう思うけれど、限界寸前では他のことは考えられない。表面を取り繕っていられるだけ、大人だと思ってほしい。
ああ、はやくはやくはやくっ。窓の外の景色がだんだんと止まっていく。トイレ行きたい、おしっこしたい、はやく、はやく。
二人並んで電車を降りて、改札口への階段を降りる。焦る気持ちから、自然と速足になる。先輩は特に気にした様子もなく、隣を同じように歩いていた。先輩も歩くのが速い人で良かったとこっそり思った。
階段を降りると、向こうに改札口が見えた。そして、横に伸びる通路を奥に進めばトイレがある。決して綺麗ではないけれど、今は贅沢言っていられない。改札に向かいながら、さりげなく通路に近付こうとして、俺は息を飲んだ。
通路の入り口あたりで、同年代の男女が輪になって話している。何やら盛り上がっている様子で、その場所から移動してくれそうにはない。
トイレに行くには、あの輪を横切らないといけない。なりふり構っている余裕はないと体は訴えるけれど、こんな時に限って大人の自分が見栄を張る。見栄を張っている場合かと言うかのように尿意は下っ腹を内側から押すけれど、でも、流石にこれを横切っていくなんて。そこまでトイレに行きたいと、そこまで切羽詰まっているのかと思われないだろうかと、気にしなくても良いことを気にしてしまう。
「柏原」
先輩に呼ばれ、びくっと体が震える。
「改札はこっち? 反対側なら回らないといけないみたいだけど」
「あ、ああ、こっちで合ってるっす」
返事はとても上擦った声になった。先輩は気にした様子もなく、ICカードを出して改札へ向かう。その背中を見て、横目で隣の通路を見る。
幼い自分が暴れている。トイレ、おしっこ、早く行かないと漏れちゃう! そんな風に騒ぎ立てるガキの俺を、大人の自分は後ろに押し込めて隠してしまう。
腹が重い。歩くたび、じん、じんと膀胱が揺れる。先端の出口がじくじくと疼く。トイレ、おしっこ。頭の中はそれでいっぱいだった。
震える手で定期券を出して、改札を通る。先輩の隣に並び、出口に向かって歩きながら、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
我慢、我慢、我慢。平静を装いながら、ひたすら歩く。
会話をする余裕なんてない。俺が黙っているから、元々口数の少ない先輩も何も言わない。それは気まずい沈黙ではなかったけれど、折角二人でいるのに俺は何をしているんだろうと情けない気持ちにさせるには十分すぎた。
ああ、トイレ行きたい、家まで我慢できるか。自分に問いかけておきながら、答えは誰よりもわかっている。やばい、かも。どこかでトイレに寄れるだろうか。考えて考えて、そういえばコンビニがあったと思い出す。
何か適当に言って、コンビニに寄ろう。そこまで我慢しよう、というか、我慢しないといけない。先輩の前で立ちションとか絶対に出来ない。我慢できないとか、それこそ、絶対あり得ない。
我慢しているからなのか、ただ歩いているだけで息が上がる。荒くなる呼吸を押さえながら、体の中で荒れ狂う尿意の波を必死にやり過ごしていた。
「あ」
駅の出口から外に出る。声を上げたのはふたり同時だった。
曇っていた空は更に黒く染まり、しとしとと雨が降っていた。激しい雨ではないものの、傘無しで歩くには厳しい程度にはしっかりと降っている。
ふたりで立ち尽くして、そこで閃いた。改札のあたりまで戻れば売店がある。そこで傘を買って来ると言えば良い。先輩にはここで待ってもらって、売店に行くついでにトイレに行けば良い。
俺の中ではトイレに行くついでに売店に寄るになっていたけれど、優先順位はなんだっていい。
曇り空から一筋の光が差したような気分だった。暗雲を晴らす閃きに、俺は隣の先輩を見る。
先輩は自分の鞄を開くと、中から何かを取り出す。かさかさ音を立てながら、袋を外し、広げていくのは折り畳み傘だった。
「傘、ある?」
「ないっす。あ、あの俺、戻って買って……」
「こんな時間に売店空いてないんじゃない?」
あ。先程と同じ声が漏れたけれど、今度は俺ひとりの声だった。折角差し込んだ一筋の光は、すぐに黒く分厚い雲に隠されてしまう。
「一緒に入りなよ。ちょっと狭いけど、家、そんなに離れてないんでしょ?」
「そうっすけど、でも」
言葉の続きは言えなかった。でも、トイレに行きたいから。そんなこと、先輩の前では口が裂けても言えない。
「ほら、行くよ」
言い訳を考える暇はなかった。隣に並び、狭い折り畳み傘に一緒に入る。肩が触れるとか、顔が近いとか、ほんの一瞬は感じたけれど、それどころじゃなかった。荒れ狂う尿意を何とかすることに必死で、先輩に傘を持たせていたことを気にすることも出来なかった。
だ、大丈夫だ。コンビニまで我慢するだけ。何か適当に理由を付けてコンビニに寄るだけで良い。
膝が、足が、手が震える。トイレ行きたい、おしっこしたい。こんなに我慢したのはいつぶりだろう。
しゃらしゃら振り続ける雨が恨めしい。俺がこんなに我慢してるんだから、雨ももう少しくらい我慢しろよ! 八つ当たり以外の何でもないけれど、その時は本気でそう思った。
+++
一歩踏み出すことに、出口がじんじんする。
ああ、おしっこ、おしっこしたい……! 今、ひとりだったら、間違いなくその辺で立ちションしてる。その道の隅っことか、今通り過ぎた電信柱のところとか、ああもういっそこの道の真ん中でもしてるかもしれない。
ただでさえ切羽詰まっているのに、雨音が余計に煽ってくる。お前も出せばいい、気持ちいいぞ。そんな声が聞こえる気がする。ああ、くそ、はやくはやくはやく! 家までが、というかコンビニまでがこんなに長いと感じたことはない。普段なら考え事をしている間に家に付くのに。
先輩の隣で、俺は平静を装えているだろうか。自分がどんな顔をしているかわからない。ただ、ひたすらまっすぐ歩いているだけ。
ちゃんと歩けているだろうか。それすらわからない。ただ、早くコンビニに行っておしっこしたい。そんなことばかり考えている。他のことを考える余裕は既にない。
雨で体が冷える。そうすると余計におしっこがしたくなる。冷えた体の中心で、熱いおしっこが並々溜まっているのがわかる。
寒さと尿意で、ぶるっと体が大きく震えた。膀胱がぎゅっと一気に縮もうとして、邪魔になった中身を押し出そうとする。ジーンズの中で、先端の出口がひくひく、じんじんする。口を開いてしまいそうな出口をぎゅうっと締めるけれど、出したがる体は勝手にそこを開こうとする。
あ、あああ、やばい、おしっこ、おしっこしたい、おしっこ、おしっこっ……!
先輩がいる。すぐそこにいる。先輩の前で押さえるわけには行かない。でも、ああ、本当に、もう、おしっこしたい。
我慢、我慢我慢我慢、ああ、でも、やばい、もう、もうほんとにおしっこっ……! じわ、と先端が熱く濡れる。雨で冷え切った体の中で、そこだけが熱湯を掛けたように熱くなる。
あ、ああ、あ、だめ、だめ、でる、もれる、やばい、やばいやばいやばいっ……! 手が動く。駄目だと押しとどめる。指が空を掴む。
「柏原?」
先輩の声。心配そうにこちらを見ている。何か言わないと。そう思うけれど、すぐに頭の中はおしっこでいっぱいになる。
また、じんわり、熱い、おしっこが、ああ、やばい、でる、もれる、そんなの、でも、だって、ああ、もう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。感じるのは気が狂いそうなほどの激しい尿意。出口ぎりぎりまで押し寄せている。熱くて、激しい波。
大きく体が震える。熱く強烈な波が、出口を抉じ開ける。じゅわあ、とそこが熱く濡れる。
ああ、あああ、だめ、あ、あ、あ、あっ……! 考えるより先に手が動く。ズボンの中心を、その奥で開きそうなおしっこの出口をぎゅうと摘まんだ。
おしっこしたい、もう、ほんとに漏れる、おしっこ、おしっこが、もう、ほんとうにもれる、おしっこっ……!
「あ、え、あ、柏原……と、トイレ?」
ばれた。先輩に知られた。どこに残っていたのか、大人の自分の見栄で咄嗟に手を離す。けれどその瞬間に出口がこじ開けられそうになって、すぐにまた手で握りしめる。
押さえてないと、手で塞いでないと、おしっこが、一気に出てしまう。ぐにぐに揉んで、少しでも気を逸らしてないと、もう、我慢できない。
「え、ええと、あっ! 向こう、コンビニ、看板見えてるから、そこまで行こう!」
珍しく上擦った先輩の声に、頷いて返事をする。
なりふり構っていられない。一瞬でも気を抜いたら、もう我慢できない。前を握ったまま、ただまっすぐ歩く。先輩は傘を持って、俺の隣を歩いている。
おしっこおしっこおしっこ。おしっこもれる、ほんとにもうやばい。尿意の波が体の中で荒れ狂う。波が引かない。大きな波が押して、押して、押し寄せて。先端が、出口が、ひくひくする。
ああ、もうでる、ほんとにもれる、おしっこ、おしっこ、なんでも良い、おしっこ、おしっこ、もうむり、もれる、でる、おしっこでるっ……!
向こうにコンビニの明かりが見える。その瞬間、手の中がじゅわあっと熱くなった。あ、あ、あ。ぎゅうと押さえて、ぐにぐに揉んで、必死に誤魔化しながら、足を進める。
といれ、といれといれといれ、はやく、おしっこ、おしっこもれる、でる、おしっこ、おしっこっ……!
「もう少しだから。がんばれ」
先輩の声。珍しく上擦っている。どんな顔をしているのか、今の俺には見ることは出来なかった。
あと少しが、もう少しが遠い。ぞくぞくぞくと波が込み上げて、どんどん強まっていく。出口がじんじんして、ひくひくして、熱くなって、押さえている指が熱い。雨音が、熱いおしっこを誘い出す。
あ、あああ、でる、だめだ、がまん、がまん、でも、おしっこ、おしっこ、あ、ああ、もう、もうっ。我慢してる、我慢してるのに、じわじわ、出て、熱くて。
膝が震える。動けない。震える手でぎゅうと出口を押さえる。
息が上手く吸えない。はく、はくと息苦しさに喘ぐ。おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! 塞いでいるのに、じわりと熱いおしっこが滲む。あ、ああ、あ、もう、もう、おしっこ、もうっ……!
道の真ん中。駄目だと、はやくと、わかっているのに。がくがく足が震えて、冷えた指先が震えて。ああ、もう、もう、おしっこ、ああ、もう、おしっこ、がっ……!
じゅわあ、と出口が熱くなる。手が、足が、温かくなる。だめだ、こんなの、いやだ、だめ、がまん、でも、もう、ほんとうに、もう、もうっ……!
ばちゃっと、水の跳ねる音。次の瞬間、胸のあたりが温かくなっていた。
先輩が、俺を抱きしめていた。正面から抱き着かれて、小さな手が俺の背を撫でる。傘が先輩の後ろに落ちている。しとしとと振り続ける雨が俺と先輩を濡らしていく。
「あ、せ、せんぱ、い?」
「じっとしてて。何も言わなくて良いから」
じゅう、じゅわあ、とおしっこが出口から零れ出す。
あ、あああ、でる、でる、おしっこ、もう、でる、ああ、でも、あ、あ、ああ、ああああぁっ……。
震える俺の体を、先輩が抱きしめている。温かい。背を撫でる手の動きに、強張っていた体からじわじわと力が抜けていく。
握りしめていた指から力が抜け、だらりと落ちた。塞がれていた出口は障害を無くし、少しずつ口を開いていく。
下半身が熱く濡れていく。細く、しょろしょろと噴き出すおしっこはだんだんと勢いを増していく。じゅうううう、くぐもった水音は雨音よりも大きく、びちゃびちゃびちゃと雨粒よりも大きく熱いおしっこが足元を濡らしていく。
我慢に我慢を重ねたおしっこは熱湯のように熱い。温かくてどこか心地よくも感じた。
俺を抱きしめる先輩も、きっと熱く濡れている。それでも、先輩は何も言わない。小さな温かい手が背を撫でるだけ。震える手を持ち上げ、彼女の背に回すと、俺たちの距離は更に近付いた。
おしっこは全然止まらない。散々飲んだビールと、電車に乗る前に飲んだミネラルウォーターが、全部おしっこになっているのかもしれない。じょろじょろと大量に出ることに、我ながら呆れてしまう。
「すみません……」
絞り出した声は思ったより小さくて、震えて掠れていた。それでも先輩はちゃんと聞いてくれていたようで、言葉が帰ってくる。
「バカップルが抱き合ってるくらいにしか見えないだろうから。大丈夫、大丈夫」
じゅううう、びちゃびちゃびちゃ。雨音の中でひときわ激しい水音が響く。ああ、おしっこ、出てる、止まんない。止めようとは思えなかったし、止まらなかった。気持ちよくて、はあ、とため息が漏れた。
「どれだけ我慢してたの、まったく」
「すみません、ぜんぜん、とまんない……」
「どうせ雨に濡れてわかんないだろうから、全部だしちゃえ」
永遠に出るんじゃないか。何度もそう思うほど、我慢に我慢を重ねたおしっこは時間を掛けて、俺たちを濡らした。
最後の一滴まで出ると、体が自然と身震いした。
「終わった?」
頷いて返事をすると、最後にぽんぽんと俺の背を撫でてから、先輩は離れた。落ちた傘を拾いあげると、何事もなかったかのように傘を俺の方に傾ける。
肝心の俺は、激しい運動を終えた後のように放心状態だった。
すっきりした。雨に濡れてびしょびしょの体は不快さもあったけれど、何より今の排泄の快感でいっぱいだった。
醒めたはずの酔いが戻ってきたかのように、意識がぼんやりする。歩こうとすると、長距離を走った後のように、足ががくがくと震える。
「寄りかかる?」
「だ、大丈夫っす。流石にそこまでは」
寄りかかる以上のことをしておきながら今さら何を言っているんだ、と冷静を取り戻した頭で思った。
+++
当たり前だけれどコンビニには寄らなかった。
コンビニを通り過ぎて数分歩くと、俺のアパートに到着した。
「もうちょっとだったのにね」
傘を畳みながら先輩はそんなことを言う。先輩の言葉の意味を理解して、頬が熱くなった。
そう言えば一言も謝っていなかったことを思い出し、咄嗟に頭を下げる。
「す、すみませんでした、俺、とんでもないことして……!」
「まあ、生理現象だし、あんまり気にするな」
先輩の口調は、いつぞや俺が仕事でやらかした時と同じだった。
廊下を歩いて、俺の部屋の前に着く。廊下には濡れた足跡が続いていて、俺も先輩も頭のてっぺんから足の先までしっかりと濡れてしまっていた。
「部屋、ここ?」
「はい」
「そっか。それじゃあ、おやすみ。風邪ひかないようにね」
言うが早いか、踵を返して歩き出そうとする先輩を慌てて引き留める。
「え、ちょ、ちょっと待ってください、先輩、どうやって帰るんすか!?」
「……歩いて、とか? これだけ濡れてたらタクシー乗れないし」
「何言ってんすか! 絶対危ない! もう12時超えてますし、女の人が一人で歩いて帰るとか絶対やばいっすから!」
「そう言われても。他に方法ない」
他の方法なんて、アパートに辿り着いた時には思いついていた。言うか言わないか、少し悩んだ。下心が無いわけじゃない。でも、心配と申し訳なさがほとんどを占めていることには違いなかったから、俺はおずぞうとその言葉を口にする。
「泊まっていったら良いじゃないっすか」
かっこよく言えたら良かったものの、どうも先輩を直視して言うことは出来なかった。
「柏原は良いの?」
少しの沈黙の後、先輩は普段と変わらない口調で言った。
「そんなの、俺はっ」
良いに決まってる、むしろ……! 俺の言葉の続きを遮ったのは、小さなくしゃみの音。
「……ごめん、続けて」
ぐすぐすと鼻を啜る先輩の姿に、色々な言い訳や建前やその他もろもろは一瞬で吹き飛んでいた。
「あああ、もう、話は後にしましょう! とにかく風呂入ってください!」
濡れた鞄から鍵を取り出し、扉を開ける。片付けてないとか、散らかってるとか、色々思うところはあったけれど、とにかくまずは着替えないといけない。
立ち尽くす先輩の腕を引いて、俺は部屋の中に入った。
+++
水音が二つ聞こえる。窓の外から雨音、そして部屋の中からはシャワーの音。
きょとんとする先輩をとりあえず風呂に押し込んだ。それからとりあえず部屋着に着替えて、適当な服を先輩の着替えとして脱衣所に置いておく。
濡れた頭をタオルで拭きながら、落ち着いてきた頭で色々考える。
俺、割と、とんでもないことをしている気がする。そもそも女性に家まで送らせたこともおかしいし、途中で漏らして迷惑かけて、その上、家に連れ込んでいる、とか。
何してるんだ、俺。そんなつもりはなかったとどれだけ思っても、言い訳以外のなんでもない。
俺は、先輩が好きだ。見た目も中身も、今の俺が知っているところは全部好き。色々あって結果として家に連れ込んでしまったことも、正直に言えばすごく嬉しい。下心もないわけじゃない。
でも、先輩は多分何とも思ってない。俺が何を言っても軽く流されたし、今日は醜態ばかり見せている。酔っぱらって、送らせて、その上、漏らした、とか。
手の掛かる奴だと思われたんだろうな。うっとおしい後輩、良くて手の掛かる弟みたいな感じか。好かれるわけないし、むしろ嫌われたかもしれない。
「柏原」
突然呼ばれて、飛び上がりそうな程驚いた。いつの間にか風呂を終えていたようで、先輩がリビングの入り口に立っていた。
俺のTシャツとルームパンツはサイズが大きいようで、服に着られている状態だったけれど、それがとても可愛かった。
「お風呂、ありがとう」
「い、いえ」
声が上ずる。あんまり見てはいけないと思いながらも、ついつい目が行ってしまう。
お風呂上がりの先輩はどことなく雰囲気も表情も柔らかい気がする。そう思っていると目があって、次の瞬間にはバスタオルを投げられた。
「あんまり見るな、ばか」
「だ、だめっすか」
「化粧落としたし、今、眉が無いから。見るな」
そう言われると気になって、よりその部分に目が行く。言われてみるといつもより眉が薄い気もするけれど、全然気にならない。むしろ、普段より力が抜けている感じがして、俺はこっちも好みだなと思ってみたりした。
+++
「布団、使ってください。俺がいつも使っているやつで申し訳ないですけど」
「気にしないで。私、床で寝れる人」
「いや、そういうわけには行かないっすから。ちゃんと使ってください」
少し強めに言うと、先輩は無言でベッドに座った。
俺が話しかけないから、先輩も何も言わない。窓の外の雨音だけが聞こえる。
いつもの自分の部屋に先輩がいる。それだけで自分の部屋なのに居心地が悪く感じた。
「柏原」
「はいっ」
「なにおどおどしてるの」
「別になんも」
「飲み会ではあんなに大胆だったのに」
「あ、あれは、その、酒の勢いというか」
「知ってる。私、寝て起きたら忘れるから気にしなくて良いよ」
ばさっと、掛け布団を捲る音。見ると、先輩はベッドの上で寝る体勢を整え始めていた。
「寝る。布団借ります、ありがとう」
「寝たら、俺の言ったこと忘れちゃいますか」
横になろうとした先輩は、その動きを止める。そしてベッドの上に座ると、こっちをじっと見た。
「酒の勢いはありましたけど、俺は思ってもないことは言わないっすからね!」
笑ったら可愛いと本当に思った。もっともっと笑ったら良い。それは紛れもない本音だったから。
先輩はこちらをじっと見ると、ふわりと笑った。いつもより力が抜けていて、ゆるく笑う顔はいつもの笑顔以上に可愛い。
目が合う。じっとこちらを見られているのが恥ずかしくて、俺はその場から逃げ出そうと立ち上がる。
「お、俺も風呂入ってきます!」
「待ってよ。言い逃げはずるいんじゃない?」
「言い逃げってなんすか! 別に変なこと言ってませんけど、俺!」
「あれだけ熱烈な告白しておいて、今も思わせぶりなこと言っておいて、そのままはないと思うけど」
「こ、告白!?」
突然の言葉に声が裏返る。
俺、告白、した? 笑うと可愛いとか、二次会しようとか、そんなことは言ったけれど、そこまでのことを言った覚えはなかった。
しばしの間の後、先輩は小さくため息をつく。
「やっぱり酔った勢いか」
「ま、待ってくださいっ、え、まじで? 俺、言いましたっけ!?」
「美人とか可愛いとか、胸が大きいとか、そういうところ全部含めて好きだとか、色々言ってましたけど?」
血の気が引いた。確かに、そういうことは考えたし、むしろ今も考えているけれど、まさか口に出しているとは思わなかった。酒の勢いって怖い、じゃなくて!
しばしの沈黙。
「……寝る」
「ま、待って待って、待ってくださいっ!」
横になろうとするのを慌てて止める。ベッドの上に座る先輩に近付いて、俺は床にしゃがむ。少し下から、先輩を見上げる体勢。先輩は変わらずこちらをじっと見ていたけれど、俺はつい目を逸らしてしまう。自分の胸がばくばく鳴っていた。
「別に撤回しなくても、寝たら忘れるから大丈夫」
「違います、違いますからっ! だからそのっ……!」
あーもう、こんな勢いで言う羽目になると思わなかった。準備なんて何にも出来てない。情けないけれど、緊張しまくっていて、手も足も震えている。
「ビールでも買ってこようか」
「え?」
「飲んでもう一回酔った方が言いやすいんじゃないかと」
「そんなことないっすから!」
先輩だって、俺が何を言おうとしているかわかっているだろうに、なんでこんなに普通にしていられるんだろう。そういうところは少し悔しい。
普段からそうだ。先輩は俺が何を言おうと平常心で、俺の言葉を簡単に流してしまう。でも、見るべきところは見ていて、へこんでいたら慰めてくれて、困っていたら助けてくれて。話しかけたら、面倒そうではあるけれど、絶対に返事してくれて。
そういうところが、本当に好きだと思った。
「あーもう! 好きです、先輩のことが好きです! 可愛いと思ってるし、めっちゃ美人だと思ってたし、おっぱい大きいなっていつも思って見てました!」
「ん」
もうどうとでもなれ、とぶちまけるように言う。
先輩は小さく呟くと、俺の頭を撫でる。普段と変わらない、というか普段よりもっと子供扱いに、項垂れそうになる頭を必死に支えた。
しばらく俺の頭をわしゃわしゃと撫でると、先輩は小さく口を開いた。
「で、どうする?」
「どうするって何がっすか」
「とりあえず、おっぱい揉む?」
今、飲み物を飲んでいたら、間違いなく吹いていた。
「ななななな何言って……! 先輩、酔ってます!!?」
「酔いなんてとっくに醒めてる」
「絶対まだ酔ってる!」
「失敬な。今日はほとんど飲んでない。ほとんど素面です」
絶対嘘だ。酔いが残っているか、もしくはさっき風呂の間に酒が入ったかのどっちかしかありえない。
昨日、俺が風呂場に酒を置き忘れた可能性を本気で考えながら、頭を撫で続ける先輩を見つめ返す。
「だ、大体っ! 先輩は俺のこと、どう思ってるんすか!」
「どうと言われても」
「先輩はどうとも思ってない相手におっぱい揉ませるんすか!」
ああ、もう、俺も何言ってるんだ。
「正直言うと、よくわからない」
機嫌よさげに俺の頭を撫でながら、その言葉は鋭く俺の胸を突き刺す。勢いとは言え、思い切った告白の返事としては、なかなかに痛い言葉だった。
「元気な後輩だと思ってたし、今も思ってる。いつも話しかけてきて、面倒だと思いながらも嫌ではなかったし、可愛いとか言うのも、まあ誰にでも言ってるんだろうと思いながらも、嬉しかったし。
可愛いとか美人とか、こんなに言ってくる人は生まれて初めてだったから、嬉しいなあと思った」
「俺、誰にでもそんなこと言わないっす」
「うん。それで今日、君が酔ってるとは言え、なんか色々言われて、なんかドキドキした。成り行きで送ることになって、まあ、色々あって、泊まれって言われて。
色々考えたけど、まあ、君なら良いかと思った」
先輩の言葉の意味を、俺は勘違いしていないだろうか。
「後輩とは言え、男の人の家に泊まる以上は覚悟してるよ」
頭を撫でていた手が下りてきて、俺の頬に触れた。小さい手は風呂上りなのに冷たかった。冷え性なのかな。それとも、先輩も緊張してる、とか。
「ね、柏原。私は君のことが好きなのかな」
「そんなの、俺に聞かれても、わ、わかんないっす」
「それもそうか」
「でも」
冷たい手に自分の手を重ねる。
「わかんないなら、俺のこと、好きにさせても良いですか」
「させてくれる?」
「頑張る。頑張るっすから、俺のこと、好きになってくれますか?」
返事はなかった。その代わりに先輩はふにゃりと笑って、その顔が近づいてくる。俺も床に座っていた体を持ち上げて、先輩に近付いた。
「俺、まだ風呂入ってない」
「入ってくる? あと、またおもらししないように、トイレも済ませないと」
「……それはもう忘れてほしいんすけど」
くすくす、彼女は笑う。やっぱり笑うと可愛い。
「おもらししたら、まだ抱きしめてあげよう」
「もうしないっすから! ああもう、緊張してるの俺だけっすか」
「失敬な。私もしてるよ、ほら」
そう言って、彼女は俺の手を自分の胸に押し当てる。柔らかな感触にどきっとする。緊張と興奮で高まる鼓動と同じくらい、手の平に鼓動を感じた。
「すげえドキドキいってる」
「でしょ」
「なんか、先輩の意外な姿を見てる気がする。普段お堅いけどプライベートは意外とフランクとか?」
「別に普段も堅いつもりはなかったけど。普段がフランクだと嫌いになる?」
「んなわけない。むしろ、もっと好きになるかも。ギャップ萌えみたいな」
「はあ。私みたいなのに惚れる人の思考はよくわかんない」
「色々あるんすよ。それより、その、良いすか」
「なにが?」
「……おっぱい、すげえ揉みたい」
先輩はこんな状況だと言うのに、子供の様に無邪気に笑った。
+++
物音に目が覚める。一定間隔の機械音。どこかで聞いた気がするけれど、今しがた覚醒したばかりの頭ではなかなか正解に行きつかない。
ゆっくり目を開けると、見慣れた自分の部屋だった。起き上がって、伸びをして、あくびを一つ。
「あ、起きた。おはよう」
声を掛けられ、思わずびくっと体が跳ねる。顔を上げると、部屋の入口から先輩が顔を覗かせていた。
「勝手に洗濯機使ってる」
「え、あ、はい」
先輩がいる。俺のTシャツとズボンを着てる。なんで、と考えて、すぐに昨夜のことを思い出した。
「ぼんやりしてる。二度寝したら? 私は、洗濯物が乾いたら帰るから」
「あ、帰っちゃう、んすか」
「そりゃそうでしょう」
話していると、段々と寝起きの頭が覚めてきた。昨日のことを思い出して、先輩がそこにいることを確かめて、安心と何とも言えない嬉しさを感じた。
「先輩、もう一日泊っていきません?」
「やだ。今日は家でゆっくりしたい」
「じゃあ、俺が先輩の家行きたい」
「また今度ね」
「先輩、冷たい……」
昨日の笑顔が嘘のように、先輩は普段の雰囲気に戻っていた。やっぱり昨日の先輩は酔ってたんじゃないだろうか。
酔った勢いだったとしたら納得はいくけれど、正直へこむからそうであってほしくはない。
「部屋、片づけておくから、また改めてね」
「そう言って、適当にあしらってんじゃないんすか」
「なんで」
「なんか冷たい!」
「冷たくないよ。いつも通り。それに、冷たいというなら君の方こそ」
「なにがっすか」
「いつまで『先輩』? あれだけ熱烈に色々言いながら、実は名前を知らないとか言ったら怒るよ」
「し、知ってるに決まってるじゃないっすか! だって先輩だって、名字で呼ぶし」
「壱啓」
唐突に名前を呼ばれ、思わず黙る。
「なんでそんなすんなり呼べるんすか」
「昨日、散々呼んだのに。忘れちゃった?」
「覚えてますけど、その、状況が違うというか、素で呼ぶのは恥ずかしいとか先輩には無いんですか!」
「はいはい」
先輩はこちらに歩いてきたかと思うと、寝ぐせの付いた俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「壱啓。いっけい。良い名前だと前から思ってた」
「ありがとうございます。……梗花、さん」
「うん。ふふふ」
笑い声が聞こえたので顔を上げると、先輩はすぐ目の前にいた。ふわりと笑う様子は、やっぱり可愛いなと思う。
「なんか、楽しそうすね」
「名前を呼んでもらえるのは、なんか良いなあと思った」
「もっと呼んだら、もっと俺のこと好きになってくれる、とか」
「どうだろう。試してみる?」
近づいてきた先輩に手を伸ばして背中を抱き寄せると、更に距離が近づいた。
「梗花さん、きょーかさん、きょうか、さん」
「壱啓」
口付けて、息継ぎの合間に名前を呼んで、まだ口付けて。帰っちゃうのか、帰したくないなあと思っていると、洗濯機の終わる音が聞こえた。
「洗濯終わった。干してくる」
「雨、止んだんすか」
「うん。良いお天気だから、すぐに乾きそう」
また雨降ればいいのに。そしたら洗濯が濡れて、先輩は帰れなくなるのに。
思っただけのつもりが、どうやら言葉に出ていたらしい。先輩は俺の頭を撫でると、折角近付いた距離をまた遠ざけた。
「そんなこと言わない。別に、来週でも再来週でも、一緒に過ごそうと思えば過ごせるでしょ」
「その間に俺に飽きたとか言いません?」
「仮に飽きても、君のこと、好きにさせてくれるんでしょ」
先輩は俺の返事を待たずにベッドを降りてしまった。
ベッドに再び横になっていると、洗濯籠を抱えた先輩が部屋を横切る。
「先輩、じゃなくて、梗花さん」
「なに?」
横になったまま名前を呼ぶと、先輩はベランダに出る窓の前で足を止める。
「俺のこと、少しは好きになったすか」
天井を見上げたまま、聞いてみる。顔を見るのは、恥ずかしかった。
少しの間の後、がらがらと窓が開く音がする。そして先輩、もとい梗花さんは言った。
「大好き」
え。咄嗟に起き上がったけれど、先輩は既にベランダに出ていた。窓越しに俺を見ると、昨日のようにふにゃりと笑い、そして背中を向けた。
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初出: 2019年6月29日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2019年6月29日