くききき、くききき。妙な声が聞こえる。低いが男ではなく、少し掠れた女の声だった。
自分が眠っていたことに気付き、目を開けた。まず最初にぼろぼろの木の屋根が目に入る。隙間が空いて、その向こうに青い空が見えた。
体のあちこちが痛む。頭は靄が掛かったようにぼんやりとしていた。
体を起こすと、じゃら、と鈍い金属の音がした。鈍い視界の中、同じく鈍い色をした鎖が擦れた音だとすぐに分かった。鎖は片方は床に刺された杭に、そしてもう片方は自分の首元に繋がっている。
手を伸ばして、息を飲んだ。首輪だ。首よりは一回り程大きいので輪は肩に落ちているが、頭が抜けるほど大きくはない。
ここはどこだ。なんで繋がれている。考えるのと同時に、また、くききき、と聞こえた。声のする方を見て、咄嗟に身を固くした。
そいつは異様に大きかった。俺の二倍はあるかという体を曲げ、ぼろくなった木の床に座っている。真っ白な髪が長く垂れているので顔はよく見えない。
一見、人にも似た姿にも思えたが、白い髪の隙間から見える目は真っ赤で、獣のようにぎらぎらとしている。赤い目はそいつの手元に向けられていて、こちらを見てはいないのがせめてもの救いだった。
そいつはまた、くききき、と声を上げる。赤い唇がにたりと持ち上げられるのが髪の隙間から見えて、それがそいつの笑い声なのだと理解した。
何もかも意味がわからない。ただ、異形のそいつに恐怖を覚えた。自分の心臓がうるさいほど高鳴っていた。
俺はこいつに掴まったのか。逃げようと思ったが首輪のせいで逃げられない。せめてもの抵抗に、その場で後ろに下がるが、俺の背はすぐに壁に当たる。
動いたせいで、鎖がじゃらりと鳴った。やばいと思った時には遅かった。
そいつは頭をゆるりと持ち上げ、ぎょろりと赤い目がこちらを見る。目が合った。真っ赤な目がこちらをじっと見ている。怖くて、逃げ出したいが、全身が強張って視線を逸らすことすらできない。
くきき、と笑い声が聞こえ、そいつが這うようにこちらに近付いた。は、は、と呼吸が荒くなる。来るな、こっちに来るな。怖くて、恐ろしくて、かちかちと歯が鳴る。
目の前まで来て、そいつの大きさを再認識した。身を屈めているのに、俺より頭3つは大きい。長く白い髪の隙間から赤い目がじっと見ている。怖い、怖い怖い怖い。体が震える。どうするつもりなんだ。食われるか、いたぶられるか。どちらも想像したくない。
「起きた、起きた。くききき、黒いの、起きた」
たどたどしいが、そいつは確かに喋った。くききき、そいつは楽しそうに笑う。
「くききき、くききき、食うか」
声が出ず、ひっと細い息が漏れた。今、食うと言った。何をなんて、言うまでもない。
上手く呼吸が出来ない。体の震えが止まらない。食う、食われる。嫌だ、嫌だ。逃げたいのに体のどこも動かない。がくがくと、自分でもわかるほど震えている。
ぬうっと白い手が伸びてくる。嫌だ、嫌だ嫌だ、食われたくない、誰か、誰か助けて。
声が出ない。歯がかちかちとなる。全身が震える。じわ、と足の間が温かくなって、しゅううと微かな水音がどこか遠くで聞こえた。
「ああ、小便か。くききき、小便、先か。人、そうだったか。くききき」
言われて、自分が漏らしていることに初めて気付いた。
恐怖で固まっていると、伸ばされた手が引っ込む。僅かに安堵を感じた瞬間、白い髪がぶわっと広がったかと思うと、そいつの背中から多くの手が伸びてきた。
二本どころじゃない、五本か六本か、もしかしたらそれ以上か。伸びた手は恐怖で固まる俺を持ち上げ、違う手が着物を脱がしていく。その間にもまた異なる手が足元に敷かれていた布を持ち上げて、別の手が違う布をそこに敷いて。
そいつの背中から伸びる手はすべて人の手だった。指があって、爪があって、手の平があって、そしてとても温かい。
「ああ、こういうとき、どうするんだったか。ああ、そうだ、そうだ」
俺を持ち上げたまま、そいつはまた違う手で俺の頭を撫でて、指先が乱暴に涙を拭う。
「良い子だ、良い子。泣くな、泣くな。くききき、小便くらい、誰でもする」
たどたどしい言葉だったが、慰められているのだとわかった。心の底から恐怖を感じていたが、その言葉に、そして手の温かさに、何故かほんの少しだけ気分が落ち着いた。
鼻を啜ると、そいつはまたくきき、と笑う。頭を撫でられながら、下履きを脱がされ、新しいものを履かされる。そして新しい着物に袖を通された。
そのどれもがたどたどしく、乱暴な手つきだったが、とても優しかった。
着替えが終わると、俺は新しい布の上に下ろされた。伸びていた多くの手は両肩から伸びる二本を残して、するすると背に戻っていった。
「くききき、食うか」
皿が差し出され、その上にはいびつな形の握り飯が載っていた。混乱した状態でただ漠然と見つめていると、きゅうと腹が鳴った。
「握り飯、違ったか。魚か、兎か。ああ、腹減ってないか」
「い、いや、食べる。……ありがとう」
受け取って、恐る恐る齧る。普通の、なんてことない誰でも作れる握り飯だった。変な味はしない。特別美味くもない。
でも、その普通さが何より美味くて、貪るように口に運ぶ。すると湯呑が差し出される、中は透明な水が満たされている。それを一気に煽って、また握り飯に齧りつく。
美味い。先程落ち着いた涙がまた零れる。それを拭いながら食う。くきき、また笑い声が聞こえた。
腹が膨れると、幾分落ち着きを取り戻せた。こいつは危害を加えるつもりはないらしい。
「ありがとう」
そいつはくききと笑う。
「俺を助けてくれたのか。何か知っているのか」
落ち着いた頭で思い出そうとしてもなにも思い出せない。名前も、年齢も、どこにいたのかも、ここにいる理由も、何一つわからない。
「何もわからないんだ。もし知っていたら教えてほしい。俺は何故こんなところにいるんだ」
「くききき。きっと難しい、でも大丈夫だ」
「難しい?」
「人、どうやるか、まだ覚えてる。なんとかなる、くききき」
俺の言葉は届いているようだったが、こいつが何を言っているかは理解できなかった。
どうしようかと考えていると、突然そいつは立ち上がり、のそのそと小屋の入口へと向かっていく。
「どこに行くんだ」
「くききき、飯、無い。魚、取ってくる」
「せめてこれ、外してくれないか」
首にぶら下がった首輪と鎖を指さす。そいつは首輪を一瞥すると、くききと笑いながら小屋から出て行ってしまった。
一人取り残され、途方に暮れる。言うことを信じるならば、とりあえずは戻ってくるようだ。
小屋の中を見回す。ぼろいが、ある程度の物は揃っているようだった。かまども草臥れてはいるものの、火をくべた跡がある。あいつが使ったんだろうか。
部屋の中を散策したかったが、身動きはほとんど取れなかった。鎖はあまり長くないので、小屋の入り口どころか、向かい側の壁にたどり着くことも出来ない。出来ることと言えば、ここでこうして座っているだけだった。
俺が逃げ出さないように繋がれているのだろうか。確かにこの状態では入り口に届かない。けれど、何となく、違う理由がある気がした。
考えたけれど、何もわからない。思い出せることもないし、出来ることもない。じれったさに、粗末な布の上に横になって、目を閉じた。少し寝ようか。ぼんやりする頭を休ませたかった。
+++
目が覚めると、景色は何も変わっていなかった。体を起こすが、あいつはまだ帰っていない。
辺りは薄暗くなり始めていた。日が暮れる。これからどうなるのだろうか。暗くなるにつれ、不安が大きくなっていく。
自分は空っぽで、縋れるのはあの異形の化け物だけ。自分がどうなってしまうのか不安で仕方なかった。
でも、そんな状態でも生理現象は変わらず感じた。ほんの少しの空腹感と、それ以上に膨らんだ尿意に身を捩る。用を足そうにも動ける範囲で届くのは軋んだ床ばかり。窓にでも届けばそこから出来ただろうが、とてもじゃないが届かない。
あいつが戻ってきたら外に行かせてもらおうと思い、座って帰りを待つ。けれど、なかなか帰ってくる様子はない。
辺りは暗くなり始めて、物音ひとつしない。焦れるにつれ、だんだんと不安になり始めた。戻ってこないのではないか。気まぐれでこんなことをしただけで、もう忘れられているのではないか。
首輪に手を掛けるが、とてもじゃないが外れそうにない。鎖も同じだった。せめて床に刺された杭が抜ければと引っ張ってみたが、びくともしなかった。
部屋の中は薄暗くなり、だんだんと寒くなっていく。それにつれて、尿意もどんどん増していた。いっそ床に、この引いている布にでもしてしまおうか。強い尿意に耐え兼ねて一度は下履きを下ろしたが、小便は出てくれなかった。ここでしてはいけないと無意識に思ってしまっているのかもしれない。
結局出来ることと言えば、ここでじっと帰りを待つことだけだった。帰ってこないかもしれないと心のどこかでは思ったが、それでもあいつを信じるしかなかった。
もじもじと耐え忍ぶけれど、もう既に尿意は相当なもので、腹が破裂しそうだった。手がひとりでにそこを押さえる。まるで幼子のようだと思うが、なりふり構っていられなかった。
もう、本当に限界近かった。いっそ漏らしてしまおうかと思う。でもそれだけはと思う自分もいる。
それからどれだけ耐えた後か。何度も何度も限界を感じた。もう漏らしてしまう、もう本当に無理だと思ったその時、ぎい、と鈍い音がして、扉が開いた。長い白髪を垂らした頭がぬうっと入ってきて、くきき、と笑った。
帰ってきたと思うと、勝手に力が抜けた。じわ、と下履きに小便が染みる。ぎゅうとそこを手で押さえ、それ以上漏れ出ないようにして声を掛ける。
「なあ、これ外してくれっ、ほんとに、頼むっ」
「くききき、どうした、どうした」
「頼む、もう漏れそうなんだっ」
そいつは赤い目で俺を見る。何が、と聞きたそうな様子だったが、すぐに合点がいったようだった。
見ただけで悟られる状態に恥ずかしさは感じたが、それ以上にもう限界だった。
「ああ、ああ、小便か。くききき、そうだそうだ、小便、させないとな」
体を丸めてそいつは俺に近付く。そして、刺さっていた杭を軽々と引っこ抜いた。俺がどれだけ引いても抜けなかったのに。何て力だ、と頭の片隅で思った。
「さんぽだ、さんぽ。外歩いて、小便させるんだったな。くきき、行くか」
それは犬だと言いたかったが、外に出られるなら何でもよかった。
震える足で立ち上がり、小屋の外へ出る。裸足で地面を踏みしめ、一番近い木に駆け寄った。じゃらじゃらと鎖がなる。
引きはがすように下履きを下ろし、小便をしようとしたが、上手く出てくれない。くそ、なんで、なんで。猛烈に小便がしたい、もう破裂しそうなほど腹は張っているのに。
うまく出ずに慌てていると、ぬうっと後ろから白髪が覗き込む。
「くききき、小便、出ないのか」
「み、見るなっ」
「ああ、そうか、そうだった。くきき、そうだった」
何がそうだったのか、聞く前にそれはわかった。肩越しにそいつを見た瞬間、また背中からぬうっと多くの手が伸びた。
「な、なにするんだっ」
くきき、そう笑って、そいつは俺の体を持ち上げる。その間にまた違う手が着物の前を広げて、違う手が下履きを完全に脱がせてしまう。咄嗟に抵抗するが簡単に押さえられた。
あっという間に、大きく両足を広げた格好で持ち上げられていた。幼子が用を足すときの格好に抵抗が無いわけがなく、身を捩って逃げようとするが多くの手に押さえつけられて無意味に終わる。
「童子、うまく出来ないからな、させてやるんだった」
「俺はもう子供じゃないっ、やめろ、おろせっ」
「くききき、良い子だ良い子、小便、出来るか」
幼子の様に股を広げられて、小便をさせてもらうなんてありえない。自分の年齢は思い出せないけれど、そんな年齢はとっくに過ぎていることだけはわかる。
嫌だと思うのに、さっきまでがちがちに固まっていた体からは勝手に力が抜けていく。上り詰める小便の感覚に、ひ、と息を飲んだ。
「い、嫌だ、やめろ、下ろしてくれ、するから、自分でするから下ろせっ」
「くきききき。ほら、大丈夫だ、小便してみろ、しい、しい」
「あ、あ、やめ、ほんとに出る、出るから、嫌だ、下ろして、下ろしてくれ、」
じわ、とさっきまでどれだけ頑張っても出なかった小便が先端に滲む。嫌だと思うのに、強張った体は勝手に抵抗を緩めていく。
必死に耐えていると、また違う手が小便で張った腹に触れる。温かい手が優しく撫でると、それだけでまたじわりと小便が垂れる。
「えらく、張っている。辛かろう。うまく出せるか」
「うあ、あ、やめ、ほんとにやめてくれ、でる、出るから」
「しい、しい。擦ってやれば出るか」
腹を撫でられ、気が狂いそうな尿意が駆け巡る。嫌だ、こんな格好で。身を捩るが、多くの手はがっしりと俺の体を支えている。
「あ、あ、でる、でる、や、うあ、あ、あぁっ……」
じゅうう、と耐えきれず、小便が噴き出した。
一度出てしまうともう止まらない。勢いよく木の幹にぶつかり、あちらこちらに雫を撒き散らす。
「くきき、良い子だ、良い子。小便、出来たな」
途轍もなく恥ずかしい格好なのに、体はしっかりと安心を覚えていて、全身どこも力が入らない。
ああ、もう最悪だ。顔を伏せるが、びちゃびちゃと小便を撒き散らす音は嫌でも聞こえるし、何よりすっきりしていく腹がそれを物語っている。早く終わってほしいのに、こんな時に限って全然止まらない。
「しい、しい。まだ出るか」
「うるさい、言うなっ……」
「くきききき。たくさん我慢したな、良い子だ、良い子」
また違う手が伸びてきて頭を撫でる。まるで幼子の扱いで、手を振り払いたかったが、力が抜けきっていて出来なかった。
どれだけ我慢していたのか自分でも呆れるほどたっぷりと出して、息をつく。腹に力を入れると、しょろしょろと残っていた小便が出て、本当の本当に全部出し切った。
我慢しすぎたせいか、抱えられた羞恥のせいか、全身疲れ果てていた。気力もなくぐったりしていると、またわらわらと手が伸びてきて、下履きを履かされ、着物を整えられた。かと思うと、持ち上げられたまま、そいつはのそのそと歩いていく。じゃらじゃらと鎖が揺れて鳴っていた。
「どこ行くんだ」
「戻る。黒いの、冷たくなる」
「歩けるから下ろしてくれ」
「くきき」
結局抱き上げられたそのままの体勢で小屋に戻り、定位置に戻される。じゃらりと鎖が鳴ったかと思うと、杭がその場に差し込まれた。どれだけ引いても押しても動かなかった杭が、こいつの手に掛かると玩具のようだった。
「魚、食うか」
「食べる」
「くきき、そうか、そうか」
そいつは嬉しそうにかまどに向かう。ざるに魚が数匹、どれも肥えていて美味そうだった。
ぱちぱち、と良い音がして、魚の焼ける匂いがする。ぐう、と腹が鳴る。くきき、とあいつは笑った。
「俺の面倒、見てくれるのか」
魚が焼けるのを見ながら、不安だったことを聞いた。悔しいけれど、こいつに見捨てられたら俺は生きていけない。
「くききき、買ったからな」
「買った?」
その言葉に、ぼんやりとしていた頭にある光景が浮かんだ。
狭くて固い中、黒い隙間から色んな目がこちらを見ていて、誰かが何かを言う。人、人を、人は。
「やめておけ」
その光景に飲み込まれそうになっていると、声を掛けられて、はっと我に返った。串に刺された魚が差し出されていた。
「忘れていること、きっとろくでもないことだ。そのままでいい」
受け取ると、そいつはくききと笑った。
魚に齧りつく。うまい。先程思い出しかけた何かはもうどこかに行ってしまっていた。
腹が膨れると、眠くなる。辺りは真っ暗で、小屋の中を頼りない明りがぼんやりと照らすだけ。
「くきき、寝るのか」
横になると、頭が撫でられた。そして、そいつが少し離れた壁際に座ったのがわかった。
「なあ、お前、名前は何て言うんだ」
「くききき、さあ、何だったか」
こいつも名前を思い出せないのだろうか。もしくは何か誤魔化しているだけなのか。何となく、隠し事や嘘をついているようには思えなかった。
「ああ、そうだ、そうだ」
再び足音がしたかと思うと、ごとりと重いものが隣に置かれた。目を開けると頭の大きさほどの壺がそこにあった。
「小便、ここにしろ」
「朝まで我慢するから大丈夫だ」
「くきき、そうか、そうか。ひとりで出来なんだら、起こせばいい」
「だから大丈夫だって」
くききき、そいつは笑う。
「おやすみ、黒いの。良い子だ、良い子」
頭を撫でると、そいつはまたのそのそと距離を取った。
「ああ。おやすみ、“白いの”」
そいつが俺を“黒いの”と呼んだから、俺は“白いの”と呼んでみた。黒髪の俺が“黒いの”なら、白髪のこいつは間違いなく“白いの“だから。
返事はなく、くきききと笑い声が聞こえた。
自分でも本当によくわからない。何故こうなっているのか、何故こうしないといけないか。何にもわからない。自分の名前も、元居た場所も、どうしていたのかも、何一つ思い出せない。
目を開けても真っ暗で、目を閉じても真っ暗だ。自分の形すら不安定に感じられて、不安で落ち着かない。
あやふやになる自分に投げられた“黒いの”という名称が、空っぽで消えてしまいそうな自分をぎりぎりのところで形作っているようだった。
くききき。笑い声が聞こえる。気味の悪い声なのに、何故かそれに安心した。
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初出: 2018年9月28日(pixiv) 掲載:2019年7月20日