何故、突然あの夢を見たのかわかりません。昔懐かしいあの光景。自分では完全に忘れていたと思っていたけれど、それは確かに私の中に焼き付いていたようでした。
一度思い出してからというものの、それはひりひりと火傷のような痛みを伴って意識の隅に居座り続けています。
特に、眠ろうと布団を被って、暗闇の中に自分を置くと、あの色褪せた光景は瞼の裏に映画のように映し出されました。その度に、何とも言えない衝動に襲われるのです。
今夜はそれが特に強い日でした。真っ暗な中、あの光景を赤裸々に映し出され、目を逸らすことが出来ません。どくどくと自分の鼓動が高鳴っていき、いてもたってもいられなくなりました。
そして、私は部屋着のワンピースにパーカーを羽織った状態で、部屋を飛び出しました。携帯電話と鍵だけをポケットに入れ、足早に向かったのは駅です。遅い時間、人もほとんどいない電車に飛び乗り、向かう先はただ一つ。
私は電車に揺られながら目を閉じます。
視界が真っ暗になると、途端にあの光景の再生が始まりました。
私だけが知っている、私だけの記憶。目を逸らしたくなるような、でも目を逸らせない、見ずにはいられない、そんな苦くも甘い光景。私はそれを観客となって見ていました。
+++
待ち望んだ終わりの挨拶。その瞬間、がたがたと椅子を引く音、そしてにぎやかな声が夕日の差す教室を埋めていきます。
私は自分の鞄を持って立ち上がります。そして、走り出したい思いをぐっと堪え、数人の友人たちと歩みを合わせて帰路につきました。たった一言、声を掛ければあんなことにならなかったのでしょうが、私にはそれが言えませんでした。
友人たちとわいわいと喋る帰路はいつもと全く同じでした。いつもと同じ楽しい状況。でも、私はちっとも楽しめません。頭の中はあることでいっぱいで、他のことを考える余裕はなく、でもそれを言い出すことも出来なかったのです。
歩いて、歩いて、私たちはいつもの公園にたどり着きました。そこからもいつもの流れです。私たちは公園に入ってすぐのところに鞄を置くと、公園の中央に集合します。
ここの公園で遊ぶのは私たちの日課でした。鬼ごっこをしたり、鉄棒をしたり、時にはお喋りをしたり。そうして暗くなってくると、誰かのお母さんが迎えに来て、それを合図にみんなは家に帰ります。
皆が鞄を置いていくのを見ながら、どうしよう、どうしようとばかり考えていました。
どうしよう、どうしよう。私はおトイレに行きたくてたまりませんでした。どうにかして行きたいけれど、うまい方法が見つかりません。
今日はお母さんが早く帰りなさいって言ってるから帰るねと言って帰ろうかな。でも、公園にもおトイレはあるし、ちょっとだけ遊んだら、おトイレ行ってくるねって自然に言っておトイレに行けば、大丈夫だよね。
もじもじ、みんなにばれないように小さな足踏みを繰り返しながら、私は鞄を置き、みんなの輪に加わりました。
今日は何をしようかの相談の間も、私はじっとしていられず、こっそり足踏みを繰り返します。向こうに見えるグレーの建物にばかり目が行ってしまい、その度にお腹の下の方がきゅんきゅんしました。
相談の結果、今日はかくれんぼをすることになりました。
じゃんけんの結果、私は隠れる側です。合図と同時にみんなが散り散りになります。
隠れる場所を探しているはずなのに、私はあのグレーの建物の方ばかり見てしまって、足も勝手にそちらに進みます。近づけば近づくほど、どんどん尿意は増していきます。
何歩か歩くごとに、じいんと強い尿意が襲ってきて、私は誰も見ていないことを確かめ、ほんの一瞬だけスカートの上からそこを押さえました。そうすると少しましになって、また歩き出して、そうするとまたおトイレに行きたくなって、またぎゅうっと押さえて。
そんなことを繰り返しながらグレーの建物、おトイレにたどり着きました。けれど、入り口にはテープが張られ、中に入れないようになっていました。
え、おトイレ使えないの? なんで、なんで。
後から知ったことですが、トイレの入れ替えの為、古くなったトイレの撤去が行われる予定だったそうです。でも、当時の私にはそんなこと知りえるはずもなく、まさに絶望の淵に立たされます。
じっとしているとどんどんおトイレに行きたくなっていき、私はぎゅうとそこを押さえてしまいます。人前でそんなところを押さえるなんて恥ずかしいと、すぐに手を放しますが、放すとまたすぐにおトイレに行きたくてたまらなくなって、また押さえてしまって。
じっとしていられず、その場で小さな足踏みを繰り返しながら、私はその建物を見つめます。けれど、どんなに見つめたってそこが使えるようになるわけではありません。
どうしよう、どうしよう。泣きそうになりながら、足踏みを繰り返していると、もういいかいの声が聞こえました。
慌てて、まぁだだよを返しながら、私はとにかくどこかに隠れないとと思いました。
きょりきょろ見回して、私は以前見つけた隠れ場所、グレーの建物の横に立っている、大きな桜の木の後ろ側に回りました。
公園の角に立っている大きな桜の木は、公園を囲う低いフェンスに密着するように立っていて、フェンスと木の作るわずかな隙間に入ってしまうと、子供の体ならすっぽりと隠れてしまうことが出来ました。もちろん、フェンスの反対側からは丸見えで隣の家の庭からはすぐにわかるのですが、公園の中からはなかなか見つかりづらい穴場でした。
以前見つけた穴場に咄嗟に隠れ、私は息を潜めます。でも、お腹の中のおしっこのせいで、全然息は落ち着かなくて、はっはっと犬のように短い呼吸を繰り返します。ばくばくと自分の心臓の音がこんなに大きく聞こえたのは初めてでした。
隠れたところで、ピンチな状況であることには何も変わりありません。おトイレ行きたい、おしっこしたい。頭の中はそればかりで、どうしようどうしようと答えを探し続けます。でも、この状況でいる限り、答えなんて見つからなくて。
かくれんぼを放棄して家に帰る。その唯一の答えは今の私にはわかりますが、当時の私にはわかりませんでした。
おといれいきたい、おしっこしたい、おしっこ、おしっこ。物音を立てるとばれてしまうとわかっていても、じっとしていられません。桜の木に背中を向けた状態でしゃがみ込んだまま、ひょこひょこと上下に体を揺らします。でもそうしていても、おしっこがしたいのは全然治まらなくて。
どうしようどうしよう。がまん、がまんがまんがまん。がまんしないと。でも、おといれいきたい、おしっこしたい。
ずっとずっと前から我慢し続けたおしっこはもうお腹いっぱいになっていて、これ以上入ったら破裂しちゃうんじゃないかというほどでした。
どうしよう、おといれ、おといれいきたい、おしっこしたいよ、このままだと、おしっこでちゃうよ。泣き出しそうになりながら助けを求めますが、助けがあるはずがありません。
もう本当に我慢できなくて、このままだと出ちゃいそうで、私はぎゅううっとそこを、おしっこの出口を押さえました。出口はもうじんじんとして、もう今にもおしっこが出てしまいそうでした。
がまんがまんがまんっ。ぎゅう、ぎゅうと出口を押さえながら、体を上下に揺らして。でもそれでも落ち着かないほどおしっこがしたくて。おしっこ、おしっこおしっこ、おしっこしたい、おしっこでちゃう、おねがいおしっこっ。
我慢して我慢して我慢しているのに、ぎゅうっと押さえているのに、とうとうおしっこがじわり、と溢れてしまいました。
ぎゅうぎゅうと、スカートの中に手を入れ、下着の上から押さえますが、もう本当に限界でした。じゅ、じゅ、とおしっこが出て、下着を濡らします。押さえている指が温かく濡れます。
だめ、だめだめだめ、がまん、おしっこがまんっ。そう思うのに、我慢しているのに、押さえているのに。じゅわあっと、おしっこが出て、熱くなって、押さえている指先が濡れて。
あ、あ、もうだめ、もうだめ、もうだめっ……! 咄嗟に私はお尻を少しだけ浮かせると、下着を膝下まで一気に引きずり降ろしました。
露わになったおしっこの出口からは、わずかな間もなく、おしっこが飛び出しました。
ぶじゅうぅーっと太く野太い音をさせて、溜まりに溜まったおしっこが地面に叩きづけられていきます。
その一瞬の気持ち良さに、安堵の息が漏れ出します。本当に本当に気持ち良くて、こんなに気持ち良かったのは生まれて初めてかもしれないというほどでした。
我慢に我慢を重ね、限界を何度も乗り越えて、本当の本当に限界まで我慢したおしっこは全然止まりません。
ものすごい勢いで足の間からまっすぐにおしっこが噴き出します。和式トイレのようにしゃがみ込んだ状態、でもその下にあるのはトイレではなくただの地面で。地面の土は私のおしっこで黒く濡れて、吸収しきれなかったおしっこを水たまりにしていきます。
あ、う、あ、おしっこ、おしっこでちゃったっ……。自分のおしっこを眺めながら、お腹が軽くなっていくにつれ、少しずつ冷静になり始めました。
そして今、自分がかくれんぼの真っ最中だということを思い出したと同時に、もういいかいの声が聞こえました。
あ、あっ、ど、どうしよう、どうしようっ。凄くたくさん出ているのに、お腹にはまだおしっこがあるのがわかります。
全然止まらなくて、おしっこ、いっぱい出ていて、それなのにまだ出そうで。
どうしようと慌てている間に、誰かのもういいよの声が聞こえました。だめっ、まだだめっ、だめだよ、だめなんだよっ。まぁだだよを返そうとしたときには、もう既に鬼の走り出す音が聞こえました。
どうしようどうしよう、もしこっちに来たら。焦っても、おしっこは全然終わらない。まって、まってまってまって、はやく、はやくしないと。待ってと早くを繰り返しても、どっちも待ってくれない。
何度も何度もどうしようを繰り返した後、おしっこはやっと止まりました。
慌てて下着を履くと、じとっと濡れた下着が気持ち悪かったけれど、我慢するしかありませんでした。さっきまでの我慢に比べると何倍もましだと思えました。
徒競走を終えた後みたいに、ばくばくばくと自分の心臓が激しくなっていました。足元は私のおしっこでびちゃびちゃで、そこだけ雨が降った後みたいでした。お前はこんなにいっぱいおしっこしたんだぞ、と誰かに言われているような気がして、今すぐにでもこの場所を離れたくなりました。
桜の木の横からそっと顔を出すと、公園の中央に友人たちが何人がいるのがわかりました。そのうちの一人、よりにもよって鬼と目が合ってしまいました。
あ、と思ったのもつかの間、鬼はびしっと私を指さして、みぃつけたと言います。私はしぶしぶと言った様子でそこから出て、みんなの輪に合流しました。まだ見つかっていない子がいるようで、鬼は引き続き捜索を開始します。
既に見つかった子たちと会話を交わし、あははと笑いを返します。先ほどまでとは別の意味で、頭の中がいっぱいで、他のことが考えられませんでした。
ちらっと桜の木を見ますが、この位置からでは水溜まりは見えません。大丈夫だよね、見つかってないよね。ばくばくと心臓はまだ高鳴っていて、今すぐにでも家に帰りたいと思いました。それと同時に、誰にも言えないことを思ってしまう自分もいます。
おしっこ、しちゃった。あんなところで。みんな、いるのに。しかも、あんなにいっぱい。恥ずかしさ、居た堪れなさ、罪悪感、そして。
……すごく、すっごく、気持ちよかった。
ぼんやりと熱に浮かされた時のような浮遊感に、頭がふわふわしていて、その後のことはあまり覚えていません。
+++
目を開けると、そこは変わらず車内です。電車はゆるゆると速度を落とし、駅に停車します。見慣れた駅名に、私の心臓がどくりと大きく音を立てます。
見えない糸に引かれるように、私はふらふらと電車を降りました。
夜のひんやりとした空気は肌寒くて、火照った頭を冷やしてくれます。でもそれにも負けないほどの熱が全身を支配していて、熱いくらいでした。
自販機でペットボトルのスポーツ飲料を買って、半分ほどを一気に飲み干します。体の内側から冷やされる感覚に、ぶるりと全身が震えました。そして、じわじわと感じていた懐かしい感覚が、更に強まりました。
ペットボトルの残りも飲み干し、ごみを捨ててから、私は改札を通り抜けました。
懐かしい町はあまり変わっていないように感じました。はやる気持ちに背を押さえ、私は静かな住宅街を歩いていきます。
見慣れた光景が増えていくにつれ、色褪せたあの光景に色が付けられていくようでした。今なら目を閉じていても、あの場所にたどり着ける気がすると思えるほど、私の心は何かによって引っ張られていました。
夜風が吹き、体を冷やします。ぶるっと全身が震え、あの感覚が更に強まります。自宅を出た時から感じていた尿意は時間とともに確かに強まっていました。
普段なら、間違いなくお手洗いに立つほどの強さ。駅でも、意識していなければ体が勝手にそこに向かってしまいそうでした。
じっとしていると時々強い波が来て、それを堪えるのに身を捩ってしまいます。あの時の私と比べると、まだ弱いかな、それとも同じくらいかな。足を進めながら、自分がどんどんあの頃に戻っているように感じました。
歩いて、歩いて。辿り着いたのは懐かしき母校でした。当たり前ですが真っ暗で、明かりは一つもついていません。門はしっかりと閉められ、人の気配は欠片もしません。
スタート地点に立った瞬間、全身がぶるりと震えました。どんどん、いきたくなっていきます。
あの時もそう。帰りのホームルームの間、椅子に座って私はただおしっこを我慢していました。お昼くらいからおトイレに行くタイミングを逃していて、ホームルームが始まる頃にはとってもとってもおトイレに行きたくて仕方なかった。
必死に気を逸らしてもどんどん尿意は強くなっていき、誰にも見られていないのを確認して、時々、ぎゅっとそこを押さえて我慢していました。
これが終わったらすぐにおトイレに行こう。何度も何度もそう思い、何度も何度も我慢を繰り返して。
そして、帰りの挨拶が終わったにも関わらず、私はこの門を潜ってしまったのです。頭もお腹も心の中もおしっこでいっぱいの状態で、すぐにでもおトイレに行きたいのに、すぐにでも行かないと大変なことになるのに、私はそれが言えなかった。出来なかったのです。
また夜風が吹き、全身が大きく震えました。鈍い、でもそれでいてどこか鋭い尿意に、私は身を捩ります。でもそれだけだと波は全然治まらなくて、私はあの時と同じように小さく足踏みを繰り返します。
そうやって尿意を堪えて、私は歩き始めました。真っ暗な夜道。あの時と同じ道。あのときはたくさんいたけれど、今は私ひとり。それが有難いようで、ほんのすこし寂しくもありました。
あの時よりもずっと大人になって、歩くのも早くなったはずなのに。あの公園はこんなに遠かったでしょうか。
一歩歩くごとに尿意は強くなっていって、じいんと強い波が来るたびにこっそりとそこを押さえます。あの時よりもずっと大人になったのに、私はあの時と同じようにそこを押さえて我慢しながら、公園へ急いでいます。
ああ、だめ、おといれいきたい。あの時の私と今の私が重なって、離れて、また重なって。おといれ、おといれいきたい。がまんがまんがまん。見つからないようにそこを押さえて、お腹の中にいっぱいいっぱいに溜まったそれを我慢します。
どうしようどうしよう。あの時と同じように、どうしようとパニックになりそうです。
どうしよう、こんなにしたくなると思わなかった。割と、いや、結構したい。すごくしたい。あの時もこんなにしたくなっていたでしょうか。
歩けば歩くほど尿意が強くなって、足を進めるのを止めそうになります。これ以上入らないと膨らんだお腹に更に水分が送られているよう。
ああ、どうしよう、おトイレいきたい、おしっこしたい。このままだと、ほんとに、ほんとに大変かもしれない。
折れそうになる心を奮い立たせ、やっとの思いで公園にたどり着きました。
公園は一部を除いて何にも変わっていません。遊具や砂場、そして角にそびえる大きな桜の木。
そこで、私はあの時と同じように絶望の淵に立たされていました。グレーの建物に駆け寄って、絶望したあの時の私と同じ。でも、私は駆け寄る必要すらありません。
ない。あの木の横にあったはずの、グレーの建物がないのです。どうして。あの時の工事は入れ替えだったはずで、撤去だけではなかったはずなのに。
どうしよう、どうしよう。あの時と同じで、考えたって答えなどあるはずがないのです。
建物があったはずの場所まで近づくけれど、やっぱりありません。どうしようどうしよう。どんどん冷静ではなくなっていきます。おトイレ、おトイレ行きたい。でも、おトイレはなくて。
じっとしていられず、足踏みを繰り返します。でもそれだけでも我慢できず、私はワンピースの上から、そこをぎゅっと押さえてしまっていました。すぐに手を放すけれど、そうして立っているだけでも尿意はどんどん強くなっていきます。
ああ、どうしよう、おといれ、おといれいきたいのに。
もういいかい。そう聞こえた気がしました。
夜中の公園で聞こえるはずがない声は、本当にしたのか、それともあの時の私が聞いた声か。
まだだめっ、だめ、まだ、まぁだだよ。
きょろきょろとあたりを見回して、誰もいないことを確認すると、私はふらふらとあの桜の木に近付きました。
あの時の私を隠してくれたこの木は何も変わらずそこにありました。横に立ち、あの時の隙間を覗き込みます。
フェンスに囲まれた木の後ろ側。秘密の隠れ場所。今の私でも頑張れば入れそうではありました。
でも、でも、本当に?
そんなつもり、ありませんでした。この場所が見たかっただけ。あわよくばの気持ちが無かったと言ったら嘘になります。でも、でも、だって、あの時から何年も経っていて、幼い私はもう大人の私になって。
当たり前だけれど地面は何一つ濡れていません。あの時の私のおしっこを受け止めてくれた地面。今の私のおしっこも受け止めてくれる? でも、だって、でも、でも。
こうしている間にも尿意はどんどん強くなっています。夜風が吹き、熱く火照った体を冷やして、お腹の中の水風船がきゅうっと収縮します。
だめ、だめだめだめ。おといれいきたい、おしっこしたい。受け止めてくれる場所はあります。でもそれはあの時の私を受け止めてくれた場所。幼くて、おトイレを我慢できなかった私を受け止めてくれた場所。
今の私は違う。ちゃんと我慢できる。我慢できるはずなのに。
どうしよう、どうしよう。じっとしていられない。足踏みして、それでも落ち着かなくて、時々ぎゅうっと押さえて。
おトイレ、おトイレおトイレ、どこかおトイレ。公園を見回したってあるはずがない。
今の私があの時の私に重なっていきます。おトイレ、おトイレいきたい。どこか、どこか、何でも良いからおトイレ、おトイレ、おトイレ……おしっこ、したいっ。
ぱっと脳裏に浮かんだのは駅のお手洗い。その瞬間、今の私がしっかりと形を取り戻しました。
だめ、ちゃんと駅まで我慢しないと。今の私はちゃんと我慢できる私。あの時の我慢できなかった私じゃない。ちゃんと我慢するんだ。
そう思って踵を返し掛けた瞬間、数人の笑い声が聞こえましま。驚いて、気づいたときには桜の木の裏側、秘密の隠れ場所に飛び込んでいました。
冷静に考えれば別に隠れる必要はなかったのだけれど、今の私はとんでもなく悪いことをしているような気がしていました。とても人には見せられない、見せてはいけない、そんな風に自分を感じていたのです。
しゃがみ込んでしまうと流石に今の私では見つかりそうで、立ったまま桜の木に背中を張り付かせるように身を隠します。
笑い声はだんだんと近づいてきていましま。そっと様子を窺い見ると、数人の女性が公園に入ってきました。
笑い声はこの人たちのようです。飲み会帰りなのか出来上がっているようで、時々大きな笑い声をあげています。聞こえてくる会話からすると、電車に乗る前に酔い覚ましをしているみたいでした。
女性たちは公園の中に入り、ベンチのあたりで会話を楽しんでいます。私は桜の木にぴたりと背中を付け、身動き一つ出来ません。
あの人たちがちょっとでもこっちに目を向けたら見つかるかもしれません。女性たちの話し声の中で、ばくばくと自分の鼓動がとても大きく聞こえます。
どうしようどうしよう。パニックになる私を、尿意が余計にかき回します。ああ、どうしよう、どうしよう。心の底から慌てたのはこれが初めてかもしれません。あの時でもここまで慌ててはいなかったでしょう。
じっとしている体の中で、尿意はここぞとばかりに暴れまわります。
どうしよう、おといれ、おといれいきたい。ぎゅううっと足を交差させて、太腿の内側をぎゅうっと寄せるけれど、それでも全然治まらなくて。足を交差させたまま、体が勝手に上下に揺れます。でも、そうでもしていないと、本当に限界でした。
早く行ってほしいのに、女性たちはそこで楽しそうに会話を続けています。はやく、おねがいはやくっ。私が女性たちに向けるのと同じように、お腹の中の水分たちもはやくはやくと私を急かします。
気を抜くと吹き出しそうなおしっこを必死に堪えますが、もう本当に限界ぎりぎりでした。
おねがい、はやくはやく、ほんとに、おねがい。おといれ、おといれいきたい、おしっこしたい。浮かぶ思いはあの時と同じ。でも、今はあの時じゃない。今は夕方じゃなくて夜中で、鬼はいなくて見ず知らずの人たちがいて、私は子供じゃなくて大人で。
おといれ、ほんとにおといれ、おしっこ、ほんとにおしっこしたい。こんなに我慢した時はあの時以来か、もしかしたらあの時よりずっと我慢しているかもしれないと思うほどです。おしっこがしたくてしたくてたまらなくて、泣き出しそうになっていました。
視線が勝手に足元に落ちます。
乾ききった地面。あの時の自分がしゃがんでいる姿が見えた気がしました。しゃがみ込んで、ひょこひょこと体を上下に揺らして我慢して、それでも駄目だからぎゅうっと押さえて、おしっこ、おしっこしたいって、我慢して我慢して我慢して。
じわ、とほんの少しだけ雫が溢れました。咄嗟に、ワンピースの上からそこをぎゅううっと押さえます。手を放すと出てしまいそうで、手が離せません。ぎゅう、ぎゅうと出口を押さえながら、視線を上げるがあの人たちはまだそこにいます。
ああ、もう、ほんとにおしっこ、おしっこしたい、ほんとに、ほんとにだめ。ぎゅうぎゅう押さえても、おしっこしたいのが全然治まりません。
おしっこ、おしっこおしっこおしっこっ、ほんとにだめ、おしっこでちゃう、おねがい、はやく、はやくして、おねがいだからっ。
太腿の間に挟まれた手が、出口を強く押さえます。だめ、おしっこ、おしっこおしっこおしっこっ、おしっこしたい、ほんとに、だめ、でちゃう、だめだめだめ。
手が勝手にワンピースの中に潜り込んで、下着の上から、ぎゅうと、ぎゅうぎゅうとおしっこの出口を塞ぎます。でちゃだめ、まだだめ、おねがい、はやくはやく、おしっこ、おしっこでちゃうっ。
膝が勝手にすり合わされるのが止まりません。あんまり動いたら見つかってしまうとわかっているけれど、じっとなんてしていられません。
おしっこ、おしっこしたい、ほんとにしたい。上手く息が出来なくて、短い息を繰り返して。でちゃう、でちゃうでちゃうでちゃう、おしっこでちゃう、おねがいはやく、はやく、はやくっ。
あっ、あぁっ、あぁぁっ……。じわり、と指先が熱い。はやく、ほんとにだめ、おしっこでる、ほんとにでる。
じゅ、じゅ、と熱いおしっこが指先を濡らします。だめ、がまん、がまんがまんがまん。がまんしてるのに、おさえているのに。じわり、じわりと熱いおしっこが出て、下着が濡れて、指が熱くて。
だめ、だめだめだめ、だめ、おしっこでちゃう、おねがい、でちゃうからっ。
おねがい、おしっこおしっこおしっこ、もうだめ、おしっこでる、でちゃう、ほんとにだめ、ほんとにでる、でちゃうっ。
おねがい、おしっこ、でる、でるでる、でちゃう、も、あ、や、だめ、おしっこ、だめ、だめだめだめ、おしっこ、あ、あ、あぁっ、ああぁぁっ……。
じゅう、じゅ、じゅうう、とおしっこが溢れてる。我慢しているのに、止まるのは一瞬だけで、また出て。容量オーバーなんてとっくに超えている膀胱から、おしっこが溢れ出す。
じゅう、じゅ、じゅ、じゅ。下着が濡れて、手も熱くて、足に伝って。ああ、だめ、だめなのに、だめ、まだだめなのに。
きーんと耳鳴りがする。体が鉄になったかのように、体のどこも動かない。おしっこ、おしっこでて、だめ、がまん、でも、も、だめ、おしっこ、でてる、がまんしてるのに。
あっ! っと大きな声がしました。固まった体がびくっと跳ね、それに合わせて、おしっこがじょろっと多めに溢れてしまいました。
手はびちゃびちゃ、熱いおしっこが足を伝っていて、もう泣き出してしまいそうだったけれど、でもまだ我慢しているつもりでした。
終電、終電やばいですっ、もう時間ないっ! はやくはやくっ!
女性たちはそう言い合うと、バタバタと公園から駆け出していきました。私の方を見ている様子はありません。気付いていなかったのか、それとも気付かないふりなのか。それは大切なことだったでしたが、今の私にはもうどっちでも良かったのです。
もういない。誰もいない。公園には私一人。
もういいかい、と聞こえました。もういいよ、と返事をしました。
ぶじゅじゅじゅ、と太い、野太い、下品な水音が公園に響き渡りました。ぶじゅうー、とおしっこが一気に出て、下着に、その上から押さえていた手に当たっています。もう手に力は入らず、添えられているだけの状態で、ただおしっこの熱さと勢いを感じるだけ。
あ、おしっこ、おしっこでてる。ぶじゅーって、すごい勢いで、足元、びちゃびちゃって。
体のどこにも力が入らなくて、その場にずるずるとしゃがみこみました。
あの時と同じ状態。桜の木に隠されて、和式トイレのようにしゃがみ込んでいます。足元にあるのはトイレではなく地面で。それどころか下着を履いたまま、スカートを上げることも出来ずに、私は下着もワンピースも濡らして、ただただおしっこをするしか出来ません。
真っ白な頭で、ただ気持ち良さだけを感じました。
何にも邪魔されない丸裸の心は素直に認めていました。私はあの時感じた快感、これを再び感じたかったのです。色褪せた思い出の中の快感は、色鮮やかな今この瞬間では比べ物にならないほどでした。
気持ちいい。ただその一言。ほかに言葉なんていらないし、余計なものは何一つない純粋な気持ち良さ。
足元はどんどん濡れていき、吸収できないおしっこが水溜まりとなっています。あの時と同じ。
広がっていく水たまりをぼんやりと視界に置きながら、はああっと大きなため息が自然と零れていました。
足元にびちゃびちゃとおしっこが注がれています。手を伝って、ワンピースのスカート部分を濡らして、お尻の方まで濡れて。それでもおしっこは止まりません。我慢に我慢を重ねただけ、限界の限界、本当の限界ぎりぎりまで我慢したおしっこはすごい量でした。
膨らみ切ったお腹はどんどん楽になっていきますが、それでもまだおしっこは出ていて。
永遠に出るんじゃないかな、そう思ってしまうほどたっぷりと時間を掛けて、おしっこは終わりました。きっと時間にしたら一分か二分くらいのことなのでしょう。
頭のてっぺんから足の先までおしっこが溜まっていて、それが全部出たんじゃないかというような、自分の中身が空っぽになったような気がしました。足元の水溜まりはびっくりするほど大きく広がっていました。あの時より大きい、桜の木ですら隠せないほど大きいかもしれません。
熱に浮かされた頭が夜風に冷やされます。 おしっこ、しちゃった。……おもらし、しちゃった。あの時の私ですらしなかったおもらし。泣き出したいような、それでいて大声で笑いたいような不思議な気持ちでした。
立ち上がると、濡れて重くなったワンピースから雫がびちゃびちゃと落ちました。サンダルはびちゃびちゃで、濡れた足はさっきまでは暖かかったのに今はもう冷たくて。ワンピースもその中の下着もぐしょぐしょです。
少しの間、その場から動けませんでした。それでも何とか落ち着きを取り戻し、桜の木の裏から出ました。
夜風がびゅうと吹き、びっしょりと濡れた私の体を冷やします。公園の街灯に照らされると、ぐっしょりと濡れたワンピースが余計に色の濃淡をはっきりさせました。でも、今が夜で良かった。明かりの傍でなければ、服がぐっしょりと濡れていることはわかりません。
後ろを見ましたが、薄暗い夜では桜の木の裏側は良く見えません。でも、私の脳裏にはそこに大きく広がる水たまりが色鮮やかに映し出されていました。
帰り道、どうしよう。これで電車には乗れません。そもそも、さっきの子たちが言っていたように、終電はもう時間的に厳しいかもしれない。じゃあタクシー? でも、タクシーなんてもっと無理です。
結局歩く以外の方法もなく、帰路をひとり歩いて進みます。
もういいかい。どこからか聞こえました。まぁだだよ。私は言いました。
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初出: 2018年8月22日(pixiv) 掲載:2019年7月20日