雨降り無しでも明日は晴れるよ 後編

 前編は こちら

 車は進む。普段ならあっという間の距離なのに、やけに遠く感じる。いっそ降りて走った方が早いんじゃないか。そんな馬鹿なことも考える。
 目は外に向けていたけれど、神経はすべて隣の梗花さんに向いていた。ごそごそと身を揺する些細な動きも、苦しそうに息を漏らす音も、時折視線がこちらに向くのも、気付かないふりをしたいけれど意識せずにはいられない。
 声を掛けて良いのか。何と言ってあげたら良いのか。頭の中でぐるぐる考えるけれど、答えなんてわかるはずがない。
 今すぐにでもタクシーを停めようかとも思う。でも停めたところでどうしたら良いのか。

 ちょいちょいと袖が引かれる。梗花さんは先ほどと同じように赤い顔をしていた。何か言いたそうに見えたので何も言わずに待っていたけれど、梗花さんは何も言わない。
 黙って見つめ合ったままでいると、梗花さんはそっと顔を寄せる。そして、車の走行音にかき消されそうな程小さな声が聞えた。
「……でちゃう」
 か細い声だったけれど、その内容は確かに耳に届いた。泣き出しそうな、余裕のない真っ赤な顔にどきっとした。
 どうしよう。どうしたら。梗花さんは俺の袖をぎゅっと握ったまま俯く。その小さな肩が震えている。何とかしてあげたいけれど、頭が真っ白で焦るばかりだ。窓の外を見ると、暗い道にぽつりと明かりが見える。
「と、停めてください! そこの前で良いんで!」
 咄嗟に声を掛けると、運転手さんは変わらず気だるげな返事をくれた。

 数分も掛からない距離が永遠のように感じた。運転席の真後ろだから、多分梗花さんの様子は運転手からは見えていないとは思う。
 俯いて、小さく震える姿は見ているだけで気の毒だ。ぎゅうぎゅうと寄せられた両足は時折跳ねるように動く。片手は俺の袖をぎゅっと握ったままで、反対の手はスカートの上から太ももをぎゅうと握っている。黒いタイトスカートにくしゃりと皺が寄っていた。
 何か声を掛けることなんて出来ない。ただ、胸の内で早く着いてくれと願うことしか出来ない。
 見ないようにするべきだと頭ではわかっているけれど、気になってつい目が向いてしまう。俯いた梗花さんの視線の先で、スカートの上から太ももを握る手が震えている。かと思うと、手が弾かれたように動いて、スカートの真ん中をぎゅうと押さえた。
 咄嗟に目を逸らす。コンビニはすぐ目前まで迫っていた。

 車が停まる。先に梗花さんを下ろしてあげてほしいと言うと、しぶしぶと言った様子で扉が開いた。梗花さんは俯いたまま転がるように車を降りて、よたよたとコンビニに向かって歩いていく。その小さな背中が心配で仕方なかった。
 混乱しながらも、支払いをする。普段電車で使っているICカードが使えて良かった。ついでにチャージしておいて良かった。余計な手間もなく、すんなり支払いを終えて、俺も慌ててタクシーを降りた。
 後ろでタクシーが走り去っていく。少し先に、小さな背中が見えた。ほんの数歩先の距離だったので、すぐに追いついた。
 隣に並ぶ。梗花さんは震える足で歩いていたけれど、見てわかる程大きく膝が震えていた。咄嗟に手を伸ばして、崩れ落ちそうな腕を掴む。

 大丈夫ですか、と声を掛けようとして、言葉が出なかった。
「ぅ……あっ、や、あぁっ……」
 小さな声。掴まれた腕だけを残して、梗花さんはその場にずるずるとしゃがみ込んでいく。そして、ぴちゃぴちゃと水音が響いた。
 咄嗟に腕を離した。梗花さんはその場にしゃがみ込む。薄暗いコンビニの駐車場で、小さな背中が更に小さくなる。後ろで車が走っていく音が聞こえて、ヘッドライトに梗花さんと俺が一瞬照らされる。
 彼女の足元に黒い円が広がっていく。ぴちゃぴちゃと跳ねる水音と、じゅううと噴き出す水音。そんな中で、押し殺したような呼吸がやけに耳についた。
 どうしたら良いのか。どうしてあげたら良いか。真っ白な頭で考えるけれど、何も思いつかなくて、ただ彼女の傍に立ち尽くすだけ。空っぽの頭に、水音と、梗花さんのかすかな呼吸だけが響いていた。

 その場に立ち尽くして、どれだけ経ったか。再び車が背後を通り、ヘッドライトが二人を照らす。小さく丸くなった背中は何も変わらずその場にあった。その足元で大きく広がった水溜まりが黒く光る。
 名前を呼ぼうと思ったけれど、上手く声が出なかった。俺の視線の先で、ゆっくりと彼女が立ち上がる。ばちゃ、と大きな水音がして、スカートの中から何かが零れ落ちた。
「……ごめん」
 小さな、震えた声。俯いていて、どんな顔をしているかわからない。
「大丈夫です」
 言えたのはそんな言葉だった。もっと何か、気の利いた言葉を言いたいのに。梗花さんは俺の言葉をどう捉えたのか、ただ曖昧に頷いただけだった。

 梗花さんはその場で片足を上げた。まだ足が震えているのに、そんな体勢でちゃんと立てるはずがなく、そのままふらっと倒れてしまいそうになる。咄嗟に手を伸ばして、その背中を支えた。
「掴んで良いですよ」
「汚れる、から」
「良いすよ。どうせ洗うんで」
 控えめに、梗花さんの手が俺の腕を握る。小さく震えているのが分かった。
 俺に掴まって、彼女は地面に残った靴を持ち上げる。ひっくり返すと、ぱちゃぱちゃと水音。それを地面に置いて履いて、今度は反対側。
 同じことを繰り返す様子を、何も言わずに見ていた。余計なことをする方が彼女を傷つけるだろうと思った。

 両方を靴を履きなおすと、彼女の手が離れる。まだ足が震えているように見えたけれど、さっきよりは落ち着いていた。
「コンビニ行ってくるんで、ちょっと待っててください」
 ぽんぽんと彼女の腕を叩いてから、コンビニに走る。ミネラルウォーターを手に取って会計を済ませる。コンビニを飛び出すと、梗花さんは先ほどと同じ位置で立ち尽くしたままだった。
 梗花さんに少し移動してもらってから、ペットボトルの中身をひっくり返す。ぱちゃぱちゃと水音がして、水溜まりが更に広がる。
 今すぐ雨降ったら良いのに。あいにく昨日も今日も良い天気が続いている。明日も晴れるんだったか。
 空のペットボトルを捨てに行って、梗花さんの元に戻る。梗花さんはずっと俯いたままだった。
「歩けます?」
 俯いたまま、こくりと頷いたのを確認して、ゆっくりと歩く。梗花さんは少し後ろをとぼとぼとついてきた。手を伸ばしてみたけれど、繋いではもらえなかった。

+++

 シャワーの水音を聞きながら、慣れた自室をぼんやりと眺める。帰宅して、とりあえず梗花さんを風呂場に押し込んだ。俺の部屋着とバスタオルを適当に用意して、俺はこっちに来て、今に至る。
 ちらりと見えた彼女は一見いつもと同じように見えたけれど、内心ショックを受けているのだと思う。そりゃそうだ。間に合わなかったわけだし。
 吐いても漏らしても引かない嫌わない。確かにそう思ったけれど、本当にそうなるとは思わなかった。
 初めにトイレに行きたいと言われた時に、タクシーから降りていれば良かった。トイレは無かったかもしれないけど、漏らしてしまう事にはならなかったかもしれない。
 ああすればこうすればと今になって思う。込み上げる罪悪感にため息が漏れる。何故か、自分が漏らしたときよりへこんでいる気がする。いや、だって、梗花さんに恥ずかしい思いをさせてしまったわけだし。
 あんまり気にしないでいてくれると良いなあ。寝たら忘れると言っていたし、明日起きた時には綺麗さっぱり忘れるくらいで良いと思う。

 ぎし、と床の軋む音。顔を上げると、バスタオルを頭から被った梗花さんがそこにいた。
「靴、ベランダに干しても良い?」
「あ、はい、どぞ」
 片手には先程まで履いていたパンプスを持っていた。それをベランダに出して、梗花さんはぼんやりとこちらを見ていた。どうして良いかわからず、立ち尽くしているという感じだった。
「そこ、冷えるんでこっち来ません? 眠かったらベッドでも良いっすけど」
 出来るだけ明るく、何事もなかったかのように言う。梗花さんはぺたぺたと近付いてきて、俺の隣に座った。そうすると、被ったバスタオルのせいで余計に顔が見えなくなった。

 何か言うべきか言わないべきか。
 俺がやらかしたとき、梗花さんは気にした様子もなく、普通に接してくれていた。あの時は酔っていたのと、それ以上に衝撃的なことがあったから、漏らしたことは頭から吹っ飛んでいた。雨が降っていて、全身濡れていたのもあったし。
「あの、あんまり気にしちゃ駄目っすよ。俺、気にしてないんで」
 沈黙に耐え兼ねて、とにかく何か言おうと口を開く。気にしてない、大丈夫だから。伝えたいのはその一点だけれど、それをただ言うだけでは伝わらない気がした。
「タクシー汚したわけじゃないですし、多分誰も見てなかったし、大丈夫っすから。
 ほら、前に俺もやらかしたし、これでおあいこ……はなんか違うな。とにかく、大丈夫っすから。元気出してください」
 途中から自分が何を言ってるのかよくわからなくなってきた。梗花さんは黙って俯いたままだ。少しでも元気を出してほしくて、とにかく思いつくことを色々と並べてみる。
「笑った方が可愛いっすよ。いや、そのままでも可愛いし、酔ってる時も可愛かったし、タクシーの中でもずっと可愛いなって思ってましたけど、じゃなくて」
 喋りながら自分が何を言っているのか、何が言いたいのか全然まとまらない。本当に俺は何言ってるんだ。

 梗花さんはバスタオルを被って俯いたまま、ぴくりとも動かない。もしかしてそのまま寝てしまっているんじゃないか。一瞬だけ思ったけれど、すぐに違うとわかった。
「……あの、梗花さん」
「…………」
「叩いたら痛いです、梗花さん」
 バスタオルを被って顔を伏せたままだったけれど、その手元はぺちぺちと俺の足を叩いていた。叩くと言っても、力なんてほとんど入っていない。言葉の綾で痛いと言っては見たけれど、全然痛くはない。むしろそんな仕草も可愛い。
「……ありがとう」
 小さな声。顔は伏せたままだったけれど、確かにそう言ってくれて、少し安心した。どういたしましてと言いながら、そっとバスタオルの上から頭に触れてみる。
 ぺちぺち叩いていた手が止まって、俺のズボンを握る。タオル越しに頭を撫でてみたけれど抵抗はされなかった。

「そういえば飲み会、お偉いさんの相手で大変だったみたいすね。何か食べました? 腹減ってない?」
「大丈夫、ありがとう」
「プリンありますけど、食べます?」
「食べる」
 素直な返事に笑いそうになる。それに気付いたのか、止まっていた手が動いて再びぺちぺちと叩かれる。
 笑ってませんって、と言い訳をしながら、冷蔵庫に向かう。3つおいくらのプリンの残り1つを手に取って、スプーンと一緒に梗花さんのところに戻った。
「はい、安物ですけど」
「ありがとう。いただきます」
 被っていたバスタオルが外される。いつもの無表情が少し緩んだような感じに、見ている俺がほっとした。

「プリン好きっすか?」
「普通。嫌いじゃないよ」
 そう言いながら、更に一口運んでいた。嫌いじゃないなら、今度から用意しておこうかな。出来たらもうちょっと良いやつ。
「コンビニで何か買ってきましょうか?」
「良い、大丈夫」
 そう言いながらも、ぱくぱく食べているあたり、飲み会の時にはあまり食べなかったんだろうなあと思う。接待だったし、あんまり食べられないのも無理はない。それで腹減ったところに酒が入ったら、酔い潰れても仕方ない。

「お疲れさまでした。仕事の飲み会って疲れますよね」
「お酒飲んでただけだよ。私は高井田みたいに話上手じゃないから、お酒の相手しか出来ない」
 そう言えば、梗花さんは高井田さんのこと、名字で呼び捨てにしている。高井田さんの方が先輩なのに。梗花さんが年上の人を呼び捨てにするのって割と珍しい。
 そんなことを考えていると、高井田さんに言われたことを思い出した。今、聞いても良いだろうか。答えてくれるかな。聞くのが怖いような、でも聞いておきたい、そんな複雑な気持ちだった。
 なんか俺、女々しいな。今こうして付き合ってるんだし、過去どうだったとしても気にしなくて良いはずなのに、気になって仕方ない。
 梗花さんは俺の過去の関係性とか気になるのだろうか。そっちも聞いてみたい。興味ないの一言で終わったら、割とへこむ気がした。

「壱啓」
 名前を呼ばれて、はっとする。考えすぎてぼんやりしていたみたいだ。返事をしようとすると、口元にスプーンが差し出されて、思わず固まった。
 梗花さんも何も言わない。俺は驚いて固まっている。ふたりとも黙ったまま見つめ合う、不思議な状況。先に口を開いたのは梗花さんだった。
「食べないの?」
「え?」
「じっと見てたから、食べたいのかと思ったけど。違う?」
「……すみません、違います」
 何となく謝る。梗花さんは何も言わずにスプーンを引っ込めて、そのまま自分の口元に運んだ。手元のカップはほとんど空っぽになっていた。

「あの、聞きたいことあるんですけど、聞いても良いっすか」
「うん。何?」
「高井田さんって、梗花さんとどういう関係なんすか」
 少し勇気を出して聞いてみた。梗花さんはきょとんとした顔をしていた。
「どういうと言われても……同僚? 先輩? 同じところを担当してるから一緒に行動することは多いけど」
 梗花さんはなんてことない様子で言う。その返答に納得いっていないのがばれたのか、梗花さんは首を傾げる。
「高井田から何か聞いたの?」
「聞いたと言うか、聞こうとしたら梗花さんに直接聞けって言われました」
 梗花さんは何か思い当たったのか、空っぽのカップとスプーンを机の上に置いて、膝を抱えて座りなおした。

「……説明が難しい」
「似たようなこと高井田さんも言ってました。なんなんすかほんと。実は生き別れの兄妹でしたとか?」
「そういうわけじゃないんだけど」
 しゃきしゃき話す梗花さんにしては珍しく、言葉を探しながらという様子だった。
「交際してた……と言って良いのか悩む」
 やっぱり付き合っていたのか。少しショックだったけれど、それより二人揃ってそこを言い淀む理由がわからなかった。
「何でそこに悩むんすか」
 思ったより硬い言い方になってしまい、しまったと思った。けれど梗花さんは俺の言葉より、どう説明しようかと言葉を探すことに頭を悩ませているようだった。

「『付き合っても不思議じゃない関係だ』となって、仕事抜きで二人で何度か出掛けた。でも『やっぱり違う』『なかったことにしよう』となった。
 これを交際していたと言って良いのか、悩む」
 ゆっくりと、言葉を選ぶように梗花さんは言う。その言葉を俺も噛みしめながら、誤解が無いように理解しようと頭を働かせる。
「試しに何度かデートしたけど、付き合うには至らなかった、みたいなことですか」
「そっちの表現が正しいのかな。どう思う?」
「俺に聞かないでください……」
 久しぶりに頭を抱えそうになった。時々ぶっとんだことを言う人だけれど、こんな方向は初めてだ。

「仕事でよく一緒に行動していたからか、周りからも色々言われることが多かった。ある時、高井田が『付き合ってても不思議じゃない関係だな』とか言ったのをきっかけに、仕事終わりに何度か食事に行った。それから、休みの日に二人で出かけた」
「それで、どうでした?」
「一日、仕事の話しかしなかった。違うことを話そうにも話題が無くて、買い物してもご飯食べても、話題はずっと仕事のこと。
 それで『なんか違う』『なかったことにしよう』となって、それで終わり。
 仕事では一緒に行動するけど、わざわざ二人で出かけたりしないし、その時のことを話すこともなくて、今に至る」
 ぽつぽつと、言葉を選ぶような口調だった。何かを隠しているというよりは、本当にどう説明して良いかわからないという印象を受けた。それに、これが本当なら高井田さんが説明が難しいと言ったのも納得がいく。
 とりあえず、次に会ったときに高井田さんにも話を聞いてみようと思った。殴る必要はないと思う、多分。
「こういう場合は、交際していたと言って良いと思う?」
「だから俺に聞かないでください……」

「ちなみに、二人でご飯行ったりしたのってどれくらいの間なんすか」
「一週間」
 想像を遥かに超えた短さに噴き出しそうになった。
「判断早すぎません?」
「そう感じたんだから仕方ない」
「それはそうですけど」
 なんというか、構えていた割に出てきた話は大したことなかった。それくらいならすんなり話してくれても良いのにと思いながらも、それくらいの話だからこそ、どう表現すべきか悩むのかもしれない。
 その上、二人ともこの話を他の誰かにしたことがない感じだった。だから余計になんと説明したら良いのかわからなかったんだろう。そう思うと、聞き出した俺が悪いことをしてしまった気もする。いやでも気になったし、仕方ない。自分の恋人が他の男と親しそうにしていたら、気になるもんだ。

「これで君の聞きたいことに答えたことになる?」
「そうっすね。ちなみに聞きますけど、高井田さんのこと好きだったんすか」
「……正直わからない」
 言うと思った。聞き覚えのある言葉に、口には出さずに内心呟く。
「でも……あ、いや、これは失礼か」
「俺なら気にしないんで、言ってください」
「壱啓にも高井田にも失礼になると思う」
「誰にも言わないっすから。中途半端は気になります」
 少し口を噤んで、それからぽつりぽつりと呟く。
「あの時と今を比べると、今の方が良い。気楽と言うか、楽しい」
「そんなに苦痛だったんすか、高井田さんと出かけるの」
「苦痛じゃないけど、仕事の延長の感覚だった。今日の飲み会をもう少し楽にした感じかな。嫌じゃないけど、仕事の枠に入ってたと今は思う」
 勢いで言葉を口にしないのは梗花さんの良いところだなとしみじみ思った。どの言葉もちゃんと考えられているから、すんなり受け止められる。こういうところも好きなところの一つだ。
「じゃあ、ちなみに俺はどうですか」
「好きだよ。前にも言ったでしょ」
 でもたまに、こんな感じで思いもよらないところから言葉が飛んできてびっくりする。そういうことを聞いたつもりじゃなかったのに。
 言ってくれるのは嬉しいけれどびっくりするし、躊躇いの無い様子には俺の方が恥ずかしくなる。
「飽きてないから大丈夫だよ。それに、仮に飽きても好きにさせてくれるんでしょ」
 こう素直だと、本当に俺の方が恥ずかしくなる。顔が赤くなるのを感じる。直接顔が見れず、今度は俺が俯く番だった。

「高井田さんが梗花さんのこと名前で呼んでるのは、その時の名残とか?」
「違うよ。前はもう一人中津がいたから、それがきっかけ」
「その人、割とすぐ辞めたって聞きましたけど」
「確かにすぐ辞めた。でもその頃から一緒に行動してたから、他の人より私を呼ぶ頻度が多くて、辞めたころには呼び慣れていて、戻すタイミングを逃して今に至る、と高井田がこの前言ってた」
「じゃあ、梗花さんが高井田さんのこと呼び捨てなのは?」
 珍しく梗花さんが目を逸らす。視線から逃げるように目を伏せる様子は、彼女にしては本当に珍しい。

「……言わないと駄目?」
「無理にとは言いませんけど、聞きたいっす」
 素直に言えば、彼女は少し視線を上げて、こちらを見る。それからもう一度目を伏せると、言いづらそうに口を開いた。
「……新人の頃、お客さん相手に『高井田さん』と言ってしまうことが多くて、治そうとしてもなかなか治らなかった。そうしたら『常に高井田って呼べば間違えなくて良いんじゃないか』って」
 今度は梗花さんが顔を赤くしていた。その様子が可愛くて、ついつい笑ってしまう。
「笑うな」
 低い声と共に、バスタオルが飛んでくる。顔で受け止めて、落ちてきたところを手元に手繰り寄せた。
「梗花さんもミスするんすね。意外」
「するよ。山のようにする」
 それは本当に意外だった。でも、梗花さんでもミスするなら、俺がするのも仕方ない。……そんなこと思ったりするから俺のミスは増えるんだろう。

「ありがとうございます。大体納得しました。また気になることあったら聞いても良いすか」
「良いけど、もう話せることないよ。これ以上は仕事での話しかない」
「じゃあ、それが聞きたくなったら聞きます」
「ん。私も今度、壱啓のこと教えてもらう」
 意外な言葉に驚いた。あんまり人に興味を持つ人だと思わなかったから、その言葉はすごく嬉しかった。
「……気になるんすか?」
「それなりには? 城崎と楽しそうに何話してるのかとか、バイトに来てたおっぱいの大きい女の子と付き合ってたこととか聞きたい」
 想像もしなかった言葉が飛んできて、咽そうになる。飲み物を飲んでいたら間違いなく噴き出していた。
「誰に聞いたんすかそれ!」
「城崎」
 事務所の定位置に座って、にまにま笑う城崎さんの顔が浮かんだ。何でそんな余計なことを。てか、何で知ってるんだ。言ったことなかったのに。

「……城崎さん、何でも知ってますよね」
「事務員は全員と関わるのと、よく人を見ているからかな。あと、単純に鋭いのとお節介なのと」
「俺と梗花さんが付き合いだしたのも気付いてたみたいで、こないだ聞かれましたよ。んで、城崎さんが彼氏欲しいってぼやいてました」
「年上の頼れる彼氏が欲しいって私にも言ってた」
「年上好みなんですよね、城崎さん。俺としてはあの人、年下の方が合いそうと思うんですけど」
「そうなんだ。私はそういうのよくわからないから、適当に流しておいた」
「なんか、年下を甘やかしてるイメージだったんで。
だからといって変な男に手を出したり、簡単に部屋に入れたり、お持ち帰りとか絶対駄目ですよって言っておきました。ありえないって笑ってましたけど」

 会話が途切れる。じーっと視線を感じる。もの言いたげな視線。
「えーっと、そろそろ寝ません?」
「そうだね。結構眠い。……バイトの子については、また今度教えてね」
「……はい」
 上手く誤魔化せた気がしたけど、そんなわけはなく。いや、別にやましい話ではない。普通に付き合って普通に別れた、ただそれだけ。でもそれを話すのはなんか気恥ずかしさがあった。
 そう思いながらも、俺のことを気にしてくれるのはちょっと嬉しかった。

「ベッド借ります」
「はーい。俺、これ片付けてくるんで、先寝てて良いっすよ」
 梗花さんが食べたプリンの容器とスプーンを手に取って、部屋の照明を落とす。
「ありがとう。多分、本当にすぐ寝ると思う。おやすみ」
「おやすみなさい」

 片付けると言っても、ゴミを捨てて軽く洗うだけなのですぐに終わった。
 照明を落とした薄暗い部屋に戻ると、微かに寝息が聞こえた。本当にすぐ寝てる。只でさえ色々あって疲れてただろうし、色々話をさせてしまったから、余計に疲れさせたかもしれない。
 床に敷いたラグに横になって、目を閉じる。そう言えば、俺が風呂に入ってないことに気付く。まあ、もう遅いし、明日の朝入るか。洗濯もしないと梗花さんの着替えがない。朝ご飯なんかあったかな。朝からコンビニに行っても良いか。プリン買わないと。今度はもうちょっと良いやつ。
 ぐるぐる、色んなことを考えているうちに眠くなってくる。おやすみ、梗花さん。胸の内で呟いた時には、俺も寝入っていた。

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初出: 2020年8月22日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2020年8月22日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。