雨降り無しでも明日は晴れるよ 前編

 気の知れた友人たちとの飲み会を終えて、ぼちぼちと帰路に付く。会社の人との飲み会も楽しいけれど、友人との飲み会は楽しさが違う。
 酒はずいぶん抜けて、足取りははっきりしていた。いつぞやは飲みすぎたけれど、あれは本当にイレギュラーだ。今日は大丈夫だ、店を出る前にちゃんと済ませた。なんだったらさっき駅でも行ったし。

 お酒が入ると、二週間前のことをつい思い出してしまう。良いことも悪いこともまとめて起こったあの一日は、いつまで経っても忘れられない思い出となりそうだ。
 そもそも普段はあんなになるまで飲まない。ちゃんと途中で加減する。ただ、あの時は色々と考えてしまったから、ついついお酒が進んだだけで。
 誰もいないのに、何となく言い訳をしながら歩く。だから、あれは本当にイレギュラーなんです、先輩。脳裏に呆れた様子の先輩が浮かんで、更に言い訳を重ねた。

 さっきまで人といたからか、何となく人恋しくなる。何か連絡が来ていないかとスマホを確認してみたけれど、アプリの通知がいくつか入っているだけだった。
『飲み会終わって今帰りっす。まだ飲み会中ですか?』
 そういえば、いつも俺から連絡してるなあと思いながらも、先輩宛にそんな文章を送って、ついでにスタンプも付けてみる。少し画面を眺めたが、既読の表記はつかない。まだ飲み会の最中みたいだ。

 今日、中津先輩は取引先との飲み会、要は接待だと聞いていた。先輩とペアで行動している高井田さんと二人で参加しているらしい。ちょっと高井田さんが羨ましいけど、そんな楽しくなさそうな飲み会には参加したくない。
 俺の担当はビジネスライクで余計な接待や食事会を好まない人が多くて良かったと思う。文句も言わずにそういう場に顔を出す先輩は偉いな、と我ながらよくわからない立場からの感想を抱いた。

 駅近くの公園まで差し掛かると人の数も増えてきた。あちらこちらに集団があって、ベンチに座っている人もちらほら見える。
 男女で座っているのを見ると、俺も先輩、梗花さんとあんな風にしたいと思う。狭いベンチに身を寄せ合って座って、のんびりお喋りして。肩とか抱いたら怒るかな。飲み会帰りとかで梗花さんも酔ってたら大丈夫かな。
 いや、飲み会帰りなら、むしろ酔った梗花さんがしな垂れかかってきたりして。腕とかぎゅって掴まれたら、おっぱい大きいし当たったりして。酔ってたら、暑いとか言いながらシャツのボタン外したりして。……考えるだけでも結構やばい。
 醒めたつもりだったけれどまだ酔いが残っているのか、妄想がどんどん膨らむ。

 会いたい、すっごい会いたい。明日会えないかな。てか、今から会いたい。スマホを取り出したけれど返事はない。それどころか既読もついてない。
 長引いてるのかな。店、どこだろ。迎えに行ったら怒られるかな。そう思いながら、メッセージを打つ。
『明日デートしませんか。てか、今日今から会いに行っても良いですか』
 送ってから、文面だけ見ると思ったより淡泊になっていることに気付く。なんか梗花さんのメッセージみたいだ。飾り気がなくて、必要なことだけ書いてる文章。それなのに、たまーに可愛いスタンプ使ったりするからびっくりする。

 しばらく画面を見つめる。既読は付かない。前のメッセージにもまだ既読が付いていない。
 長引いてるのかな。梗花さんは女の子だし、仕事の関係だからってあんまり遅くまで拘束するのはどうかと思う。そのあたり、高井田さんが上手くやってあげたら良いのに。高井田さんの方が年上だし。
 頭が少し冷える。まあ流石に今日いきなり会うのは無理だよな。せめて、明日は会えると良いな。スマホをポケットにしまって、止めていた足を動かす。

 公園を通り過ぎて駅に向かおうとして、再び足を止めた。フェンス越し、こちらに背を向けてベンチに座る男女二人の背格好に見覚えがあった。というか、見覚えしかなかった。
 慌てて引き返して公園に入る。人の間を通り抜けて、先ほど見えたベンチの正面に回る。長い髪を垂らした女性は俯いたまま顔を上げないけれど、隣にいた男性は正面に立つ俺を見上げて、おぉ、と声を漏らした。
「柏原じゃん。偶然」
「なにしてんすか高井田さん」
「酔い覚まし。まあ、俺は充分醒めてんだけど、こっちが重症でさ」
 愛想の良い笑いを浮かべて、高井田さんは隣を指差す。女性は項垂れたまま、顔を上げない。顔を見なくても、それが誰かはすぐにわかった。さっきまで俺の頭の中で色々していた、というかさせていた人だったから。
「梗花、起きろー。柏原来たぞー」
 答え合わせのように高井田さんはその人の名前を呼んで、隣の女性、もとい梗花さんの肩を叩いた。それに反応してか、頭が緩々と持ち上がり、梗花さんが顔を上げる。

 いつもの凛とした姿はどこへやら、ぼんやりした表情を浮かべていて、普段きりっとした目は眠そうに細められていた。そんな姿も可愛い……じゃなくて!
「そんなに飲んだんすか、中津先輩」
「あそこの専務さん、ザルなんだよな。で、梗花をえらく気に入ってるから、隣でずっと相手しててさ。しかも今日は相手さんえらく調子が良かったみたいで。結果がこれですよ」
 高井田さんに指差された先で、梗花さんは再び頭を落とした。思ったより大変だったらしい。
「お開きになって、ここで少し休憩してたんだけど、ずっとこんな感じ。水は飲ませたけど、動くにはまだ辛そうだし。タクシー呼ぼうにも梗花の家知らないし。
 最悪、俺んち連れて帰るかーとか考えてたら、ちょうどお前が来たわけ」
「なっ……!」
 とんでもない発言に、思わず声が漏れた。
「駄目っ、連れて帰るのは絶対駄目っす!」
「じゃあこのまま落ち着くまで寝かしとく? 下手したら朝になったりしてな。俺は良いけど」
「俺が連れて帰ります!」
「お、もしかして梗花の家知ってる?」
「……知らないっすけど」
 呼んでくれるって言ってたのに、まだ呼ばれてないから梗花さんの家は知らない。梗花さんの馬鹿。
 俺も何か理由つけて住所くらい聞いておけばよかった。お中元送りたいとか、年賀状送りたいとか。……想像したら、ちょっと呆れた反応が返ってきて、何故かへこんだ。

 高井田さんは俺のことをじっと見ている。その目が隠すことなく不信感を露わにしていて、良くない印象を持たれているのはすぐに分かった。
「……お前が梗花に惚れてるのは知ってるけど、酔ってるとこを家に連れ込むのはどうかと思う」
「違う! いや、違わねえけど違う! そんなつもりじゃないっすから!」
 隣で男二人がやいやい喋っているのに、梗花さんは変わらず頭を伏せたままだ。かと思っていると、彼女のぐらりと体が傾いて、慌てて手を伸ばす。
 けれど俺の手が触れる前に、梗花さんは高井田さんに寄りかかっていた。それ、俺の役目! 今すぐ高井田さんをどかして、そこに俺が座ってやりたいけれど、そんなことが出来るはずもなく。

「しっかりしろ、梗花。後輩の狼に家まで連れ込まれるぞ」
「違う! 俺たち付き合ってるんで! だから俺が連れて帰ります!」
「……まじで?」
「マジっす」
「梗花、お前彼氏いたの? 結構びっくりなんだけど」
 その言い方は梗花さんに失礼な気がする。こんなに可愛いし、彼氏の一人や二人いてもおかしくない……と思う。
 ただ、梗花さんの今までのことを見ていると、いなかったとしてもおかしくはない。仕事一辺倒だし、ちょっとずれてるとこあるし、頭固いし。……いなかったら良いなあと思うのは流石にひどいだろうか。

 そんなことを思っていたら、高井田さんは梗花さんの肩を揺すっていた。頭を上げた梗花さんは、高井田さんに寄りかかったままこちらをぼーっと見た。眠そうな目で何度か瞬きを繰り返す。
「あれ、壱啓がいる……」
「おおぉ、梗花が男を名前で呼んでる。びっくりだ」
「高井田……、あ、そうか……」
 梗花さんは会話と言うより、自分に話しかけているようにぽつぽつ口を開く。かと思うと、寄りかかっていた体を起こして、ベンチから立ち上がろうとした。
 慌てて手を伸ばすと、今度は間違いなく届いた。細い肩を掴んで、立ち上がろうとするのを慌てて制すると、力ない目でぼーっとこちらを見上げた。
「もう大丈夫だから、帰る」
「いや、危ないですから! 俺、送ります!」
「大丈夫。高井田もありがとう、迷惑かけました」
「いや、俺は何もしてないから良いけどさ。折角だし彼氏に送ってもらったら? こんな時間にひとりは危ないぞ」
 梗花さんは高井田さんの方を見てから、もう一度こちらを見た。ぼやぼやした顔で上目遣いにこちらを見上げる姿はとても可愛い。頭撫でたら怒るかな、とか考えてしまう。
「えっと、俺が心配なんで、送ってっても良いすか」
 何かあったら大変だ。変な男に引っかかったら困るし。何より心配だし。
 ぼやぼやの目を見つめ返すと、梗花さんは何も言わずに頷いた。

 送り届ける約束を何とか取り付けられてひとまず安心していると、梗花さんの隣で高井田さんが立ち上がった。
「じゃあ、タクシー探してくるから、二人でいちゃついて待ってて」
「しねえっすから! タクシーありがとうございます」
「ありがと、高井田」
 高井田さんが公園の出入り口に向かっていく。梗花さんはぼーっとその背中を見ていたかと思うと、またこてんと頭が落ちる。少し躊躇ってから、今まで高井田さんが座っていた場所に座った。
「寄りかかってていいすよ。タクシー来たら起こすんで」
「……ありがとう」
 項垂れた体勢のまま、こてんと梗花さんは俺に寄りかかる。酔っているのもあってか温かいし、色々柔らかい。
 少し前に頭の中で繰り広げた妄想が蘇る。肩くらいなら触っても良いかな。手を伸ばしながら、そっと表情を窺うと、梗花さんは目を閉じていた。いつもより顔が白い。かなり飲んだんだろうな。そう思いながら、伸ばしかけた手を元に戻した。

 少しすると高井田さんが戻ってきた。立ち上がろうとした俺を制して、ペットボトルを差し出した。
「なかなか掴まらないから配車アプリ使った。多分15分くらいで来るから、そのまま待ってな。あとこれ、水。後で飲ませてやって」
「ありがとうございます。優しいすね」
「梗花がここまで潰れたの、半分俺のせいだからな。助け舟出してやれなかったから、その分罪滅ぼし、みたいな?」
 心配事が一つ片付くと、今度は違うことが気になり始める。
 高井田さんのことは前々から気になっていた。割と一匹狼な梗花さんとやけに親しい人。しかも男。しかも年上。愛想がよくて、仕事が出来る。梗花さんとペアで動くことが多い。背も高い、割とイケメンな方、多分。
 前は、梗花さんはこの人と付き合ってるのかと思っていたけど、そういう訳ではなかった。以前、さりげなく聞いたら、双方に否定されたので間違いない。

「あの、前に一度聞いたと思うんすけど」
「ん?」
「高井田さんが梗花さんのこと、名前で呼んでる理由」
「ああ。前は中津がもう一人いたからその名残だけど」
「それ、事務の城崎さんから聞いたんすけど、もう一人の中津さんってすぐに辞めたらしいすね」
 高井田さんはわかりやすく黙る。
「梗花さんのこと、他の人は誰も名前で呼ばないのに、高井田さんだけ名前で呼ぶから、変だと思ってたんすよね。
 で、ちょうど良いんで聞きますけど、先輩とどういう関係すか」
 少し黙って、高井田さんは軽く笑いながら言った。
「今は、同じところを担当している、仕事上の相棒」
「ってことは、前は違うんすか」
 含みのある言葉に、つい気になったところを突っついてしまう。

「前は頼りない後輩だよ」
「…………」
 絶対それだけじゃない。言葉に出さずとも伝わっているようで、高井田さんは目を泳がせて、言葉を探しながら口を開く。
「……お前と梗花の関係性聞いてからだと、どう言ったら良いのか、ものすごく悩む」
「まさかですけど、元カノとか言わないっすよね」
「……見方によってはそうなる? かも? すごい微妙だけど」
「なんすかその回りくどい言い方! 遊びだったとか別れたつもりはないとか言ったらぶっ飛ばしますよ!」
「違う違う違う! ただ、説明が難しいんだって!」
 説明が難しい関係ってなんだ。考えても思いつかない。

 終わった関係なら別に良い。俺だって元カノはいる。名前で呼んでいるのも別に良い。俺の友達の中にも、俺のこと名前で呼ぶ子もいる。
 ただ、やけに親しいから、どういう関係なのかはすごく気になっていた。はっきり言ってくれればいいのに、何でぼやかすんだ。仕事では頼れる人だけど、梗花さんとの関係については、不信感というか危機感を覚えずにはいられない。

 問い詰めたかったが、高井田さんのスマホがピロピロ鳴った。タクシーが到着したらしい。
「梗花に聞いてくれ。それがすべてだから」
「……聞いた上で、場合によっては殴っても良いすか」
「わかった。鍛えとくから、腹にしてくれ」
 タクシーを待たせるわけにもいかないし、何より早く梗花さんを連れ帰りたい。問い詰めるのはまた今度にした。

 梗花さんの肩に触れて、軽く揺する。落ちていた瞼がゆるゆると持ち上がって、力なくこちらを見た。
「タクシー来たんで行きましょ。歩けます? おぶりましょうか?」
「大丈夫、ありがと……」
 そう言いながら立ち上がるけれど、足元はおぼつかない。腕を差し伸べて掴まってもらう。少し前を歩く高井田さんに続いて、梗花さんを支えながら公園の出入り口に向かう。
 少し酒も抜けたのか、白かった顔にはほんのりと赤みが戻っていた。それでもいつもきりっとしている目はとろんとしていて、横になったらそのまま眠ってしまいそうだと思った。

「じゃあ、お疲れさん。ちゃんと送ってやれよ」
「大丈夫ですよ。お疲れ様です」
 高井田さんと別れ、タクシーに乗り込む。あの人は電車で帰るらしい。終電も近い時間まで付き合ってくれたのは感謝すべきところだと思う。
 梗花さんはシートに体を預けて、ぼんやりしていた。俺も乗り込むと、運転手に行先を聞かれる。梗花さんに聞こうとしたけれど、既にうとうとと眠ってしまいそうになっていた。声を掛けるのはやめて、小さめの声で俺の家の住所を伝えた。
 高井田さんの言う通り、家に連れ込むことになるかもしれないけど、一度来たことあるし、泊ったもらったこともあるし、なにより俺たち付き合ってるから大丈夫だ。多分。
 やましい気持ちはない。……嘘、ちょっとある。でも流石に酔ってるところに何かするつもりはない。
 頭の中で言い訳していると、タクシーはゆっくりと走り出した。

 車の揺れに合わせて、梗花さんもゆらゆら揺れる。そっと肩に触れてこちらに引いてみると、こてんと簡単に倒れてきた。
「着いたら起こすんで、寝てて良いですよ」
「ん……」
 俺んちまで車だと少し時間が掛かるだろう。週末の夜で終電も近い時間。道も混んでいるかもしれない。家に着くまでに梗花さんの調子が少しでも良くなると良いなあと思いながら、恐る恐る手を伸ばして、そっと頭を撫でてみる。梗花さんは何の反応もせず、うつらうつらと揺れていた。

 静かな車内で、話し相手もいなければ手持無沙汰になる。何となく窓の外を見ていると、寄りかかる重みが無くなった。反対側を見ると、梗花さんが体を起こしていた。先程までより幾分しっかりした様子だった。
「ごめん、寝てた……」
「良いすよ。まだ掛かると思うんで、まだ寝てて大丈夫すけど。あ、水飲みます?」
「貰う、ありがとう」
 さっき高井田さんから受け取ったペットボトルを手渡すと、梗花さんは静かに口を付けた。こくこく白い喉が上下して、ボトルの中身が減っていく。酒飲んだ後だと喉乾くしな。
 仕事の時もそうだけど、高井田さんはこういうところに気が利く人だと思う。悔しいけど。

「俺んち向かってるんですけど、良いすよね」
「逆に聞きたいけれど、君は良いの?」
「俺はむしろ嬉しいっすよ。一緒に過ごせてラッキー、みたいな?」
「……多分、すぐに寝るけど」
「それでも全然良いっすよ。出来たら、そのまま明日も一緒に過ごしてもらえると嬉しいですけど」
「考えとく。まず、明日まで覚えておくように頑張る」
 そういえば、寝たら忘れるって前に言っていた。あの時は気遣いで言ったんだと思ったけれど、本当にそうなんだろうか。まあ、大量に酒が入った状態なら、寝てしまえば色々忘れるのも無理ないけど。

 梗花さんは自分の手の中にあるボトルをじっと見つめていた。あっという間に飲み干していたけど、そんなに喉が渇いていたんだろうか。
「信号待ちかなんかで、自販機行ってきましょうか?」
「えっ、あっ、なにが?」
「喉乾いてるのかと思って。水いるなら買ってきますよ?」
「あ……大丈夫、ありがとう」
 梗花さんは驚いたように一瞬目を丸くして、それから目を伏せた。空のボトルから結露した水滴が梗花さんの膝の上に落ちる。黒いスカートは濡れても変化はなかった。

 タクシーは思ったより進みが良かった。この調子なら日付が変わる前には家に着けるかな。そう思っていると、隣から袖が引かれた。見ると、梗花さんが控えめに俺の服の袖を握っていた。
「どうしました?」
 梗花さんはどこか張り詰めたような雰囲気を漂わせていた。きりっと真面目な空気感はいつも通りと言えばそうだけれど、違和感がないこともない。
「まだ掛かる?」
 さっきまでの酔ってふわふわした様子とは真逆の、固い声で端的な言葉だった。梗花さんとしてはそっちが通常モードなんだろうけれど、もう少し気を抜いてくれていても良いのに。
「そうっすね。多分あと三十分くらいだと思いますけど」
「そっか、ありがとう」
 そう言って顔を伏せる。垂れた前髪の下で、その顔は白かった。顔色が良くないように見える。飲みすぎてまだ調子悪いのかな。無理しなくて良いのに。
 運転手に聞こえないように、そっと顔を寄せて、出来るだけ小声で言う。
「気持ち悪いなら、一回降ります?」
「えっ?」
「別に吐いても引かないんで。一旦降りた方が楽ならそうしましょ?」
「ううん、違う。大丈夫。ありがとう」
 無理はしないでほしいけど、梗花さんは大丈夫だと言い張るだけだった。そんなことを真っ白な顔で言われても全然説得力はない。

 甘えてくれて良いのにな。別に梗花さんなら、吐いても漏らしても引かないし、嫌わないのに。……そもそも、俺がこの人の前で一回漏らしてる。それでも梗花さんは変わらず接してくれて、なんならお付き合いしてくれてる。
 俺もそれくらいの心の広さは持ってる。あと、惚れた弱みと言うか、普段しっかりしている分、弱ったところは更に可愛いし、見せてもらえたら嬉しいなあと思う。

 あれから少し。梗花さんの様子が妙に落ち着きないように感じた。窓の外を眺めているけれど、指先が落ち着きなく服の裾を握っている。ぴたりと寄せられた両足はお行儀が良いと言えば良いけれど、大げさなくらいだ。
 初めはやっぱり気持ち悪いのかと思ったけれど、真っ白だった顔はいつの間にか赤く火照っていたから違うと思う。微かに聞こえる呼吸は少し苦しそうだ。

 本当に調子が悪いんじゃないか。どっか痛いとか、苦しいとか。それなら意地を張らずに言ってほしいけれど、さっきの調子だと聞いたところで同じ言葉が返ってきそうだ。
 あんまりじっと見るのも悪いけれど、ついつい視線が向いてしまう。どうしたのか、どうしたら良いか考えて、一つ心当たりに行きつく。
 まさかと思いながらも、一度そうだと思ってしまえば、全部がそう見えてしまった。
 火照った顔も、落ち着きない指先も、ぴたりと寄せられた両足も。何なら、時折身を捩って座りなおすのも、寄せられた両足の膝が震えているのも、そうとしか思えなくなってくる。

 どうしてあげたら良いんだろうか。
 どこかで停めてもらうにしても、こんな車道の脇に停めてもらってもどうすることも出来ない。コンビニとかなかったか。考えたけれど、そもそも車で帰宅することがあまりないのでわからない。
 おそらく、うちの近所のコンビニの前は通るはずだから、そこで停めてもらおうか。でも、俺の家で停めてもらうのと数分程度しか変わらない。

 何か声を掛けようにも、何と言ったら良いのかわからない。結局、車内は沈黙のまま、静かにタクシーは進んでいく。
 梗花さんは変わらず、窓の外を眺めている。その膝が落ち着きなく揺れて、時折椅子の上でお尻が動いて、苦しそうな吐息が漏れ出る声が聞こえる。出来るだけ梗花さんの方を見ないように、じっと窓の外を見つめながら、だんだんと見慣れた景色になってきたことに少しだけ安堵した。

 もしかしたら俺の想像とは違うかもしれない。杞憂に終わってほしい。そんなことを思っていると、再び袖が引かれた。
 梗花さんは真っ赤な顔をしていた。その上、涙目で上目遣いに見られると、少しだけドキッとした。
「壱啓、まだ、掛かる?」
 先程までと同じ固い声だったけれど、その声は震えていた。
「もう少し掛かりますけど、大丈夫ですか?」
 咄嗟にそう言ってしまって、しまったと思った。
 何が大丈夫なのか。梗花さんは何も言っていないのに、俺が気付いていると伝えているようなものだ。それに、そんな風に聞けば大丈夫だと答えるだろう。聞かなくても大丈夫だと答える人なのに。

 梗花さんは俯く。咄嗟に何か言おうとしたけれど、上手く言葉が出てこない。勝手に俺が一人で慌てていると、再び袖が引かれる。先程より強く、引き寄せるような動きに、逆らうことなく顔を寄せる。
 真っ赤な顔をした梗花さんは、とても小さな声で言った。
「……トイレ行きたい」
 やっぱり! 声に出そうになるのを慌てて押さえる。変な体調不良じゃなくて良かったと思う反面、大変なことには変わりない。
 どうしよう、どうしたら。一瞬だけ目を逸らすと、窓の外はだいぶん見慣れた道になっていた。
「コンビニまであと10分くらいですけど、どうします?」
 どうと言われても困るだろうと我ながら思う。想像通り、梗花さんは何も言わない。というか言えないのだと思う。

「それか、ここで停めてもらいます?」
「……大丈夫」
「無理そうなら言ってくださいね」
 梗花さんはこくりと頷いて、俺の腕を離した。こちらに背中を向けるように、体ごと窓に向き直ってしまう。いつもピンと伸びている背中が丸くなっていた。
 運転手に声を掛けて、手前にあるコンビニで停めてほしいと伝える。気だるげな声で返事があった。
 言ってから、わざわざ梗花さんに確認しなくても、俺が独断で停めてあげればよかったと思った。
 こんな状況で大丈夫だと言う以外、梗花さんに出来るはずがない。俺が同じ状態だったとしても、大丈夫だと言うだろう。本当に大丈夫じゃなくても、そう言う以外出来ないんだから。

 後編は こちら

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初出: 2020年8月22日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2020年8月22日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。