扉を開けると、制服の女の子が立っていた。足元には水溜まりが広がっていて、紺色の短いプリーツスカートから水滴がぽたりと落ちる。
女の子は何も言わず、無表情に立ち尽くしていた。
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駅のトイレに入る時、周りには誰もいなかった。個室に入って、鞄を置いて、おしっこをしようと洋式トイレへと座ったところで外から足音が聞こえた。
誰か来たみたい。個室がひとつしかないから、はやく済ませないと。そう思いながら、水を流しておしっこをする。そんなに我慢していなかったので、ちょこっとしか出なかった。
拭いてから水を流す。それと同時に、外から小さな声が聞こえた。
「っ、あっ……」
すごく小さな声だったのに、ちゃんと聞こえた。そして、ぴちゃぴちゃという水音が微かにする。
何の音だろう、どこかが水漏れしているのかなと思いながら鞄を持って、扉を開けようとして、気付いた。
足元の隙間、扉の外側から水溜まりが広がってくる。ぴちゃぴちゃ、ぱちゃぱちゃと水音が鳴っていた。その状況に驚きながら、恐る恐る扉を引いた。
扉の向こうには制服の女の子がいた。無表情に空を見つめて立っていた。
短いプリーツスカートからはすらりと長い足が伸びる。水溜まりの真ん中で茶色いローファーが雫を纏って佇んでいた。
その子は私と同じ制服を着ていて、そこで初めて知っている子だと気付いた。
同じクラスの佐山さん。背が高くて、綺麗な女の子。スカートは短く、ブラウスは第二ボタンまで開けて、いわゆる『イケている』女の子の一人だった。
入学時に自己紹介を聞いたはずだけれど、一度も話したことがないのもあって、下の名前は思い出せなかった。
扉を開けるときに、もしかしてとは思った。けれど、まさか本当にそんなことが起きているなんて思わなかった。
おもらし、だ。トイレ、間に合わなかったんだ。
立ち尽くす佐山さんを、私も呆然と見ていた。扉は開いているのに、ふたりの間にまだ壁があるような、目の前なのにどこか遠い場所を見ているような気分だった。
俯いていた顔がゆっくりと動く。目が合っても、佐山さんは無表情なままだった。
「……ご、ごめんなさい、わ、私、遅かったから」
なんだか罪悪感があって、とにかく謝るけれど、彼女は何も言わない。小さな唇はそっと閉じられたままだ。
しんと静かなまま、どれくらいそうしていたか。外から足音が聞こえて、はっと我に返った。とにかく今の状況を何とかしないといけないと思った。
「と、とにかく、中、入ろう。あ、わ、私、タオル持ってるから、良かったら使って」
今の状況に混乱しているのと、そもそも話すのが苦手なのと、話したことがない相手なのとで言葉がつっかえる。
とにかく声を掛けながら、個室から出た。佐山さんは私の方をちらっと見てから、足を動かした。茶色いローファーが動くたびに、ぴちゃ、ぴちゃと水音が聞こえた。
佐山さんの後ろに続いて、私ももう一度個室の中に入る。後ろ手に鍵を閉めると、狭い空間にふたりきりになった。他の誰かに見られる心配がない状況に、少しだけ安心した。
さっきの私のように、佐山さんが棚に鞄を置く。私は自分の鞄に入っていたスポーツタオルを彼女へと差し出す。けれど、彼女は切れ長の目で私の手を見ているだけだった。
「あ……、だ、大丈夫だよ、今日、タオル使ってないから!」
それでも受け取ってくれない。仕方ないので、ちょっと強引だけれど、彼女の手に触れる。自分の手で外側から包み込んで、タオルを握らせた。
佐山さんの手は温かかった。
「あ、あと、着替え……。体操服、とか……あ、今日体育無かったから、ない、よね……」
考えていることがそのまま口から出てしまう。相変わらず、佐山さんは何も言わない。
彼女の短いスカートは膝よりずっと上の短さ。私と同じものを着ているはずなのに、佐山さんが身に付けると、とても素敵に見えた。
中学校では、スカートは膝下十センチが決まりだった。中にハーフパンツを履いている子が多かったから、私も同じようにしていた。
進学して学校が変わると、環境も変わる。今まで関わる機会が無かった華やかな子が周りに増えた。
佐山さんもその一人。綺麗で、背が高くて、足が長い。スカートは短くて、ブラウスは第二ボタンまで開ける。同じ制服なのに私とは全然違って見えた。
私も真似してみようかなとちょっとだけ思った。でも、出来なかった。
だって、スカートをあんなに短くしたら、中にハーフパンツが履けない。ちょっと捲れただけで、中の下着が見えちゃうかもしれない。
佐山さんはハーフパンツ履いてないのかな。下着、見えたらとか、不安にならないのかな。
私は想像するだけで恥ずかしくなってしまう。だから結局、私のスカートは膝下十センチのまま。中のハーフパンツも相変わらず履いている。
佐山さんは立ち尽くしたまま何も言わない。多分、着替えが無いのだと思う。どうしよう。濡れた下着のままという訳にもいかないし、スカートの中に何も履かないなんて絶対に良くない。
そこで、自分のスカートに意識が向く。そうだ、ハーフパンツ。思いついたものの、それは今私が履いているものを脱いで渡すということに同時に気付いた。
人が履いていたものは、流石に嫌だと思うかな。でも、何も履かないよりは、とも思う。
「あ、あの、佐山さん」
勇気を出して、口を動かす。佐山さんは無表情なまま、何も言わずにこっちを見た。
「私、今、ハーフパンツ履いてて、良かったら、帰る間だけでも使ったら、ど、どう、かな。……い、嫌だったら! 別に良いんだけど」
黒い目がこちらを見る。無表情だから、じーっと見られると怒られているような気分になって、ちょっと怖い。どきどきしながら返事を待っていると、小さな唇が動いた。
「貸してくれるの?」
「う、うん! あ、あの、私が今履いてるのでも良かったら、だけど」
「……ありがとう、助かる」
その言葉に、緊張していた体からふわっと力が抜けた。それと、言葉が交わせたことが何だか嬉しくてたまらなかった。
個室の扉が閉まっていることを確認してから、自分のスカートの中に手を入れる。ハーフパンツを脱いで、一応畳んでから差し出すと、佐山さんはもう一度お礼を言いながら受け取ってくれた。
「それじゃあ、私、行くね。鍵、閉めなおしてね」
これ以上出来ることは無さそうだし、着替えるところを見るのも良くないから、ここを離れることにした。
佐山さんを見てから、扉の鍵を開ける。外へ出る寸前、小さな唇が何か言おうとしたようにも見えたけれど、気のせいだったのか何も聞こえなかった。
外へ出ると、後ろで鍵を掛ける音がした。外には誰もいなくて、ほっと胸を撫でおろす。
今、私のスカートの中は下着だけ。いつものハーフパンツがないだけで、すーすーして落ち着かない。恥ずかしくて少し顔が熱くなる。
佐山さんも、他の華やかな女の子も、スカートは膝が見えるくらい短い。試しに自分のスカートを摘まんで、膝の上まで持ち上げる。自分の肌が露わになっていくのが恥ずかしくてたまらなくて、膝が露わになった瞬間、慌てて手を離した。
変なことしてないではやく行こうと思った時、扉の前に大きな水たまりが広がっていることに気付いた。
佐山さんのおもらしの跡。このままじゃ誰か来た時に見られてしまう。それは、可哀想だ。
手洗い場の横にロッカーがあったので、こっそり開けさせてもらう。中には掃除道具があったので、勝手ながらモップとバケツをお借りした。
まず、バケツで水を流す。あんまりたくさん流すと個室の佐山さんのところまで流れてしまうので、ちょこっとだけ。それから、モップで排水溝の方へ掃いていく。タイルは水捌けが良くて、水溜まりはあっという間に消えてしまった。まだちょっと濡れているけれど、そのうち渇くと思う。
掃除道具を片付けて、今度こそトイレを後にした。
ホームへの階段を上りながら、さり気なくスカートを押さえる。恥ずかしさがじわじわと膨らんでいく。ちょっとスカートが揺れるだけで、中が見えてしまわないか不安になる。
ホームで落ち着きなく待っていると、電車が到着した。風が吹き抜けてスカートが揺れる。慌てて、中が見えないように手で押さえた。
電車に乗ってしまえば、帰宅するまではあっという間だった。けれど、ハーフパンツ無しはすごく不安でどきどきした。
改めて、私にはあんな短いスカートは履けないと思った。そもそも、背が低い私には似合わないけれど。
+++
翌日、一時間目の授業前に、佐山さんが私の机まで来た。今日もスカートは短くて、ブラウスは第二ボタンまで外していて、やっぱり素敵だなと思った。
彼女は紙袋を私の机に置くと、静かに頭を下げた。
「ありがとう」
「ううん、どういたしまして」
それ以上の会話は無く、彼女は自分の席へと戻っていった。紙袋の中には昨日貸したハーフパンツとタオル、それから小さな紙袋が入っている。なんだろうと思っていると予鈴が鳴ったので、とりあえず紙袋はそのまま机の横に掛けておいた。
あとで確認したら、可愛くて美味しそうなクッキーが入っていた。家に帰ったら食べようと、鞄の中に大事にしまった。
それからは特に何の変りもない一日だった。
放課後、靴を履き替えて立ち上がると、切れ長の目と不意に視線がぶつかった。出入り口にいた佐山さんがやっぱり無表情にこちらを見ている。
「今から帰るところ?」
声を掛けられて、ちょっとだけ驚いた。そうだよと頷くと、小さな唇が続けて動いた。
「この後、暇?」
「う、うん。予定はない、けど……」
「スタバ行かない? 昨日のお礼に奢らせて」
「い、良いよそんなの! お菓子も貰ったし、全然気にしないで」
まさかそんな風に誘われるなんて思わなくて、咄嗟に手を振って断ってしまう。佐山さんはそんな私を見て、ちょっとだけ眉を潜めた。
折角誘ってくれたのに、申し訳ないことをしてしまったかもしれない。彼女の表情が寂しそうに見えて、慌てて言葉を繋げる。
「あっ、あのね! 私、スタバ行ったことなくて」
佐山さんは何も言わない。でも、小さな唇がちょっとだけ動いていた。
「だ、だから、その、奢りとかじゃなくて、注文の仕方とか、教えてくれる?」
「うん、良いよ」
そう言った彼女の表情はちょっとだけ嬉しそうに見えた。
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ふたり並んで駅まで歩く。私も佐山さんも何も言わないので、沈黙がすごく重たく感じた。
佐山さんみたいな子たちは普段どんな話をしているんだろう。何か話そうと思ったけれど、全然話題が思いつかない。どうしようどうしようと緊張しながら、そっと隣を見る。
今日も佐山さんのスカートは短い。背は高いし、足も長いし、可愛いし、羨ましさでいっぱいになる。隣に並んでいると、背が低くて垢抜けない自分が恥ずかしくて、段々と背中が丸くなっていく。
「昨日はありがとう」
突然話しかけられて、どきっと胸が跳ねた。
「外の掃除もしてくれたんだよね」
「うん。で、でも、そんなの全然大丈夫だよ、気にしないで」
手を振って大丈夫だと伝えると、佐山さんも笑ってくれた。笑うと更に可愛くて、美人だなあと改めて思った。
「やっぱり優しいね、清水さん。……ひよりちゃん」
突然、名前を呼ばれて、思わず足が止まった。佐山さんは少し先で立ち止まって、私の方を見る。
佐山さん、私の名前知ってたんだ。すごく驚いたのと同時に、すごく嬉しくなって、慌てて傍に近付いた。
「ご、ごめんね、びっくりしちゃって。私の名前、知ってたんだ」
「うん。…………やっぱり、覚えてないか」
「え?」
覚えてないってどういうことだろう。隣の佐山さんを見ると、ちょっと寂しそうに笑った。
「あ、あの、佐山さんの下の名前、なんて言うの?」
「美晴」
その名前に、懐かしい記憶がふわっと沸き上がって、私の中に広がった。
美晴、みはる、みはるちゃん。……みい、ちゃん?
「名字変わったから、わからないよね」
「も、もしかして……みいちゃん?」
「……うん。覚えてる?」
その瞬間、記憶の中のみいちゃんの顔が佐山さんに重なった。
しっかりもので、優しくて、背が高くて、とても素敵なみいちゃん。
いつも一緒にいてくれて、いっぱい遊んだ。私が困っているといつも助けてくれた。『大丈夫だよ、ひよりちゃん』っていつも安心させてくれた。
「お、覚えてるよ! え、ほんとに、ほんとにみいちゃんなの? 遠くに引っ越したってお母さんから聞いたけど、戻ってきたの?」
「うん。ちょっと色々あったんだけど、結局こっちに戻ってきたんだ」
小学校を卒業した時、みいちゃんもそのまま同じ学校に進むものだと思っていた。けれど、中学校にみいちゃんの姿はなかった。気になってお家に行っても、そこには誰も居なかった。
事情があって、みいちゃんは遠くへ引っ越したのだと知ったのも、随分後だった。お別れも言えないくらい突然のことで、本当に寂しかった。
「そう、だったんだ……」
どこに引っ越したのか、何故遠くへ行ったのか。本当に何も分からなかったから、また会えるなんて夢にも思わなかった。
無表情に見えた姿は昔のみいちゃんの頼もしさと同じで、今までの重苦しい空気が一気に懐かしいものに変わって、嬉しさで胸が満たされていく。
「うそ、みいちゃん……。また会えると思わなかった……」
「私も。まさかひよりちゃんが同じクラスにいるとは思わなかった。
あの、嫌じゃなかったら、また、ひよりちゃんって呼ばせてもらっても良いかな」
「う、うん、もちろん! 私も、みいちゃんって呼んでも良い?」
勿論、とみいちゃんは返事をしてくれた。
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ふたり並んで駅まで歩く。
「この後、時間大丈夫? せっかくだし、色々話したい」
「う、うんっ! 私も、みいちゃんと色々話したい!」
みいちゃんは笑う。昔より背が伸びて、とても綺麗になった。また会えて、とても嬉しい。
「ひよりちゃん、スタバ行ったことないんだ。珍しいね」
「そう、なのかな……。そういうの疎くて。色々教えてね」
どんな話をしよう。話題を探すのはさっきまでと同じだけれど、重苦しさはもう無かった。ふたり並んで歩くだけでも楽しくて嬉しかった。
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初出:2023年3月23日(pixiv) 掲載:2023年3月23日