A美さんの話
駅の地下街片隅にあるトイレに入った時、扉は全て閉まっていました。個室は二つありましたが片方には故障中の張り紙がされていて、実際に使えるのは一つだけのようです。
開くのを待っていると外から足音が聞こえて、制服姿の女の子が私の後ろに並びました。それから間もなく個室の扉が開いたので、入れ替わりに中へ入ります。棚に荷物を置き、洋式トイレにそのまま座りました。
落ち着いて自分の足をちゃんと見ても、やはりストッキングは見事に伝線していました。これ、今日下ろしたばかりなのになあ。勿体ない気持ちから溜め息が漏れます。しぶしぶ、先程コンビニで買ったストッキングを取り出しました。
がさがさとビニール袋が擦れましたが、聞こえるのは耳に馴染む音楽だけ。そういえばイヤホンをしたままだったと気付きました。まあ、履き替えるだけだし、外を気にする必要もないだろうとそのままにしていました。
スカートを上げて、伝線したストッキングを脱いでいきます。その最中で爪が引っかかって更に破れます。どうしてストッキングってこんなに破れやすいのだろう。かといって履かないわけにもいかないのが悔しいところ。ぶつぶつと文句を胸の中で呟きながら、何とか脱ぎ終えます。
次は新しいストッキングをゆっくりと爪先に被せました。二枚入りを買ったとは言え、破れたらまたやり直し。お金もですが何よりこの時間が勿体なくてたまりません。
落ち着いて、爪を立てないように、ゆっくりゆっくりと持ち上げていきます。ふくらはぎから膝を通り過ぎ、太ももへ被せて、ふうと一息。一旦爪先を整えてから、靴を履きなおします。
あともう少し。立ち上がって残りを上げようとした、その時でした。
どんどんどん! と突然、扉がすごい勢いでノックされました。イヤホンから流れる音楽より大きな音で、扉は大きく揺れます。あまりの勢いに驚いて、掴んだ指先に力が籠りました。
びりっと、音こそなかったものの、嫌な感触がしたのがわかりました。嫌な思いを胸に恐る恐る目を向けると、やはりストッキングは伝線していて太ももから足首までざっくりと割れています。うわ、と思わず声が出ていました。最悪だ、やり直しだ。そう思っている間にも、再び扉がノックされます。
繰り返し扉が揺れます。ストッキングを一旦諦めてイヤホンを外すと、外の音が一気に鮮明になります。それまで気付きませんでしたが、外はとても騒がしい状態でした。
どんどんと扉を激しく叩く音。そして、かつかつと忙しなくタイルを踏む足音。荒い呼吸の合間を縫うような早口な言葉。
『まだ!? まだなんですか!? おねがい、おしっこもうでちゃうんですっ、はやく、おねがいはやくっ……!』
『……ちゃん、落ち着いて、もうちょっとだから……』
『むりっ、むりむりむりっ、あ、ああ、あっ、でる、もれる、もうむりなの、おしっこでるっ、はやくはやくはやくぅっ……!』
ヒールを叩きつけるような足音と捲し立てるような声に驚いて、イヤホンを落としかけました。あまりに赤裸々な言葉は幼い子供のように直接的なのに、その声はどう聞いても大人のものです。
『あ、あ、ああっ、だ、めっ……、でる、でるでるでる、でるっ、おねがいはやくかわってぇっ……!』
本当はストッキングを履き替えたかったけれど、こうも急かされたら悠長にはしていられませんでした。イヤホンはひとまずポケットに入れて、伝線してしまったストッキングをそのままお腹まで上げて、スカートを整えました。
ごみはコンビニの袋に適当に突っ込んで、自分の鞄へと手を伸ばします。その間に足音は聞こえなくなりましたが、苦しそうな呼吸の音は扉の向こうから絶えず聞こえてきます。
急いで鍵を開けて扉を引くと、僅かな隙間に割り込むように女性が飛び込んできました。ふわふわの茶髪は乱れて、長い睫毛に覆われた目は苦しそうに歪められています。白い指先がベージュのロングパンツの股間を大胆に握りしめていて、その姿に思わずぎょっとしました。
「あ、あぁ、あっ、だめ、だめだめだめ、だめぇっ……!」
慌てて彼女の隣をすり抜けるように外へ出ると、ばたん! と勢いよく扉が閉じられて、その向こうから慌ただしく鍵を掛ける音が聞こえました。
『っ、あ、あっ、あ、あっ……!』
荒い呼吸の合間に、千切れた悲鳴が混じっていました。個室の中からはがたんばたんと物音がして、尋常とは思えない様子です。
あまりの出来事に、閉まった扉をぽかんと見つめたまま固まっていました。外には女性が二人いました。一人は制服姿で、私の次に並んでいた子です。そして、もう一人は私服で、扉の側で不安そうな表情を浮かべていました。
賑やかな個室は突然静かになりました。そして次の瞬間、大きな水音がトイレの中いっぱいに響き渡りました。
ぶじいいいぃぃぃ! とあまりの水音に、扉へと視線が引き寄せられていました。
洗面台の蛇口を思いっきり捻ってもここまでの音はならないと思う程の勢い。そして、じょぼじょぼと恥ずかしげもなく鳴り響く水音。音消しは全くされておらず、その派手な水音は外にまで聞こえてしまうんじゃないかと思う程に鋭く鳴り響いていました。
激しいおしっこの音を聞きながら、どうしようかと立ち尽くしていました。本当ならもう一度並び直して、ストッキングを履き替えたいのですが、どうも時間が掛かりそうです。個室をそこまで長く占領したつもりはなかったのですが、今の状況に対しての罪悪感も多少あり、居づらさを感じました。
結局、手を洗ってからトイレを離れることにしました。それは制服の女の子も同じだったようで、何となくふたり並んで外へと出ました。
「……ちゃん、あの、大丈夫?」
外へと出る際、そんな声が聞こえました。おそらく、残った私服の女性が中へ飛び込んでいった女性へと言ったのでしょう。
すぐにその場を離れてしまったので、その言葉への返事は聞こえませんでした。どう答えたのか気になる気持ちはありましたが、知ることはありませんでした。
+++
B奈さんの話
待ち合わせをしている友人から、電車が遅れているから遅れそうだと連絡が入った。それなら適当に時間を潰してるよと返事をして、駅の地下街へと移動した。
階段を下りると、すぐのところにトイレがあった。そこまで催していないけれど、うろうろする前に行っておこうと足を向ける。中では、閉まった扉の前に女性が一人待っているところだった。その後ろに並ぶとすぐ扉が開いて、前の女性が中へ入った。
ぼんやりしながら、どこで時間を潰そうかと考える。そういえば誕生日が近い子がいたから、雑貨屋さんでプレゼントでも見てみようかな。あと、化粧水の残りが少なかったからドラッグストアも行きたい。時間があるなら本屋さんも覗きたい。……これだけ色々回ったら、遅れてきた友人と会う時には、両手いっぱいに買い物袋を提げているかもしれない。その光景を想像すると、ちょっと面白かった。
そうやって並び始めて一分か、二分か。はっきりした時間はわからないけれど、前の女性が中へ入ってからまだ大して時間は経ってなかった。
『もうちょっとだから頑張って!』
そんな声が外から聞こえたかと思うと、ばたばたと騒がしい足音が近付いてきた。とても賑やかで、つい後ろを振り向くと、女性が二人、トイレの中へ入ってきた。先に来た女性は不安そうに隣をちらちらと見ている。私も同じように視線を向けて、思わずぎょっとした。
綺麗な女性が茶色いセミロングの髪を振り乱し、綺麗にお化粧した顔を苦しそうに歪めていた。まるでお辞儀をするかのように前屈みになって、ベージュのロングパンツの横部分をぐしゃぐしゃに握りしめたまま、危なっかしい足取りでこちらへと歩いてくる。思わず一歩後ずさってしまった。
俯きがちだった顔が持ち上がって、ぱちっと目が合う。見てはいけないものを見てしまったような気がして、少し気まずさを感じた。
「あの、すみませ……」
ズボンの横部分を握りしめて身を捩る女性の隣で、お友達らしき人がそっと口を開く。その瞬間、泣き出しそうに震えた声がその声を掻き消した。
「お願いっ、先に行かせてくださいっ! もう、もうむり、でちゃうっ、おねがい、トイレ行かせてっ、おしっこ漏れちゃうからお願いトイレぇっ……!!」
声を荒げてなりふり構わず叫ぶ勢いに、呆気に取られながら少し後ろに下がった。私と扉の間に彼女はよたよたと入ると、ぴたりと閉じた扉の前で足踏みを繰り返す。ヒールがタイルに当たって、かつんかつんと甲高い音が響いていた。
「あの、すみません、ありがとうございます……」
お友達らしき人がそう言いながら、女性の隣に近付く。その様子を見て、更に一歩下がった。
「あ、ああ、だめ、でちゃう、もれちゃう、むり、もうむり……」
「大丈夫、ほら、あともうちょっとですから。ね?」
「お願いはやく、トイレ、はやく、はやくぅっ……」
いつの間にか白い手はズボンの前をぎゅうぎゅうと押さえていた。足踏みを繰り返しながら、お尻は後ろに突き出されてもじもじと揺れる。あられもない姿に、見てはいけないと思いながらも、目が向いてしまうのは仕方ないと思う。
「ん、あ、あ、だめ、おしっこ、おしっこ、ほんとにむり、でる、でる……」
全力で走った後みたいにぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、うわごとのように呟き続けている。横からお友達が声を掛けるのも殆ど聞こえていなさそうな様子だった。
「あ、あぁ、あ、ん、く、ぁあ、や、あ、あぁっ……!」
ぶるっと全身が震えが走って、お尻を突き出した体勢のまま固まっていた。足踏みは段々と止まっていき、その代わりに長いズボンに覆われた足は見てわかるほどにがくがくと震えている。
大丈夫、なのかな。前の人が入ってそれなりに時間が経つので、そろそろ出てきてくれるとは思う。でも、もしかしたら、と最悪を想像してしまう程に切羽詰まっているように見えた。幼い子供でもしないような我慢の仕草に、見ている方まで恥ずかしくなってしまう。私より年上だろうに、一体何があったんだろう。
「あ、あっ、だめ、だめっ、あ、あぁっ……!」
悲鳴のような声を漏らして、女性の体がびくっと跳ねる。それから、手がゆっくりと持ち上がり、握りしめられた。震える拳は、どん! と力強く扉に叩きつけられた。
「まだ!? まだなんですか!? おねがい、おしっこもうでちゃうんですっ、はやく、おねがいはやくっ……!」
「……ちゃん落ち着いて、もうちょっとだからっ……」
「むりっ、むりむりむりっ、あ、ああ、あっ、でる、もれる、もうむりなの、おしっこでるっ、はやくはやくはやくぅっ……!」
二度、三度。扉を破る勢いで、ばんばんと手が叩きつけられる。そうしながらも、突き出したお尻は揺れていて、その前では手がズボンの前を握り込み、両足の付け根を押さえつけていた。
「あ、あ、ああっ、だ、めっ……、でる、でるでるでる、でるっ、おねがいはやくかわってぇっ……!」
出ちゃう出ちゃうと叫びながら、体を震わせて、必死におしっこを我慢する女性。長く伸びる足が今にも座り込んでしまいそうな程に揺れている。
そんな必死の叫びに答えるように、がちゃりと鍵の開く音がかすかに聞こえた。皆の視線が扉へと向く。
「あ、あぁ、あっ、だめ、だめだめだめ、だめぇっ……!」
待ちきれず、彼女は人を押し退けて扉の隙間へと飛び込んでいく。勢いよく扉が閉まり、その向こうから鍵を締める音が聞こえた。
『っ、あ、あっ、あ、あっ……!』
扉一枚隔てて、ばたばたがたがたと物音が鳴り響く。だ、大丈夫、なのかな。心配の気持ちが更に大きくなったその時、大きな水音がトイレの中いっぱいに響き渡った。
ぶじいいいぃぃぃ! と水音は今までのどの音よりも激しく大きくて、思わず閉まった扉へと目を向けていた。
あまりの勢いに呆気に取られる。す、ごい。どれだけ我慢していたんだろう。鳴り続ける水音を聞きながらぽかんと口を開けていると、ポケットの中でスマホが鳴る。その振動で我に返った。
画面を見ると、友人から幾つかメッセージが届いている。全然気付かなかったけれど、数分前には到着していたみたいで、私の居場所を探しているようだった。
すぐに向かうと返事をして、トイレを出ることにした。今の出来事で自分の尿意なんて全部吹っ飛んでいた。先程個室から出てきた女性も私と同じタイミングで外へと出た。
「……ちゃん、あの、大丈夫?」
中から、そんな声が聞こえた。果たしてあの女性が間に合ったのかどうか気になったけれど、返事は聞こえなかった。
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C乃さんの話
コーヒーをちょうど飲み終えた時、喫茶店の入り口でベルが鳴った。カップを戻しながら目を向けると、長い髪を乱した友人が駆け込んできたのが見えた。
「ごめんなさい、遅くなりました!」
荒い呼吸を整えながら話す友人をまずは座らせる。彼女が遅刻するのはいつものことだから、過ごし方にも慣れていた。むしろ、喫茶店でコーヒーをゆっくりと楽しむ良い機会だった。
「大丈夫だよ。とりあえず何か飲んだら?」
「そ、そうですね、うん。ありがとうございます」
お水を持ってきた店員さんに、友人はアイスカフェラテとホットコーヒーを頼んだ。二杯も飲むのかと思ったけれど、乱れた黒髪を手櫛で整えながら、彼女は力なく笑った。
「お詫びに奢らせてください。……あ、ホットコーヒーで良かったですか?」
「気にしなくて良いのに。でも、ありがとう。いただきます」
手櫛で髪全体を整え終わると、次は鞄から鏡を取り出す。前髪を整える見慣れた仕草に、今日も寝坊だなと内心考える。伝わったのか、目が合うと誤魔化すような苦笑いを返された。
湯気の上るホットコーヒーを口に運ぶ。二杯目だけど、やっぱり良い香りだ。ゆっくり飲んで体を温めていると、向かい側の彼女はストローに口をつけて一気に吸い込んでいた。喉が渇いていたのか、中身は半分ほど一気に消えていく。春先とは言え、よくそんなに冷たいものが飲めるものだ。
あっという間に底をついたカフェラテを追いかけて、私も熱いコーヒーを飲み干す。友人の前髪も良い感じに収まったところで席を立った。
お言葉に甘えて会計は任せて、一足先にお店の外に出る。大通りは風を遮るものが無く、冷たい空気が駆け抜けていく。折角温まった指先が冷えていくのを感じていると、からんからんとベルの音がして、友人が外へ出てきた。
「ご馳走様でした」
「どういたしまして。よし、では出発しましょう」
今日は彼女の買い物に付き合うことになっていた。何でもお友達へお祝いの品を買いたいらしい。お店に目星は付けていると言っていたので、ひとまず付いていくつもりだった。
「えっと、あっち。……あれ、こっち?」
彼女は意気揚々とスマホの画面を見ながら歩き出したものの、数歩で立ち止まり、方向転換しようとする。思わず溜め息が漏れて、自分のスマホも取り出した。
「お店の名前教えて。私も地図開くから」
「……ありがとうございます。面目ない」
地図アプリでお店を調べると、ものの見事に反対方向だ。私が方向を示すと、友人は苦笑いを浮かべながらくるりと振り向いた。
+++
店員さんと友人が話しているのを遠目に見つめる。物自体は気に入ったけれど色が好みではなかったらしく、取り寄せを頼んでいるらしい。ラッピングやメッセージカードも拘ったみたいで、店員さんと随分話が盛り上がっていた。
結局、彼女ひとりでほとんど決めていた。私が付いてくる必要はなかったんじゃないかと思ったけれど、余計なことは言わずに、店内を適当に見て回る。お店には可愛い雑貨や食器が色々あって、簡単なお祝いには丁度良さそうだ。何かの機会には私も利用させてもらおうとぼんやり考えた。
「お待たせしました。ありがとう! 良いものが選べました」
「どういたしまして。良かったね」
人懐っこそうな顔で友人は笑う。それから、お店の外を指差した。
「よし、じゃあどこかで休憩しましょう。もうお腹ぺこぺこ」
現在十五時を少し回ったところ。彼女の様子から朝も昼も食べてないとすぐにわかった。随分夜更ししていたみたいだ。でも確かに私も少し空腹を感じていた。おやつに丁度良いかもしれない。
良いよと返事をしながら、雑貨屋さんをさり気なく見回す。さっきから少しトイレに行きたかったけれど、それらしき場所は見当たらない。まあ、休憩するのならそのお店で行けば良いかと友人と並んで外へ出た。
風が冷たい。寒くて余計にトイレに行きたくなる。早く室内に入りたくて、良さそうなお店がないかと辺りを見回していると、友人は迷いない足取りでまっすぐ歩いていく。
「そっちにお店あるの?」
慌てて追いかけて隣に並ぶ。聞くと、友人はあっけらかんと言った。
「え、わかんないですけど、とりあえずこっちの方行ってみようかと思って」
「……」
ひとまず呼び止めて、ポケットからスマホを取り出す。ざっと見た感じ駅前になら色々ありそうなので、彼女が進もうとしたのと反対方向へと促した。
+++
駅前の喫茶店に入ると、待つことなく席に案内された。一緒にメニューを見ながら、私はケーキセットに決める。友人はサンドイッチのセットを眺めていた。
注文するまで待とうかと思ったけれど、コーヒーのせいか寒さのせいか、トイレに行きたくてたまらない。机の下で足を擦り合わせて待ったけれど、友人はなかなか決め切らない様子だったので、待ち切れずに椅子を引いた。
「ごめん、お手洗い行ってくる。頼んでおいて」
「わかりました。飲み物はホットコーヒーで良いですか?」
「うん」
好きですねえ、と友人が呟くのが背中越しに聞こえた。
店内を見回すと奥にお手洗いのマークを見つけたので、まっすぐそちらへ向かう。近付くと、細い通路の奥に扉があって、その前に女性が二人立っているのが見えた。
後ろに並ぶか悩んだけれど、どうも通行の邪魔になる位置に立つことになりそうだ。一旦席に戻って、空いたのを確認したら戻ってきた方が良いと判断して、仕方なく踵を返す。
席に戻って少しすると、注文したものが運ばれてきた。私の前にはチーズケーキとホットコーヒー、友人の前にはサンドイッチとサラダ、スープにオレンジジュース。大皿にずらりと並んだサンドイッチに随分食べるなと思ったけれど黙っておいた。
ケーキにフォークを入れる。口に運びながら、つい目が先程の通路に向いた。人が出てきた様子はない。
さっきからお腹の下の方が重く感じる。両足の付け根にむず痒いような感覚が纏わりついて離れない。そろそろ、トイレに行きたい、けれど。硬い椅子の上でもぞもぞとお尻が動いてしまう。さっきの雑貨屋で済ませておけばよかったかなと後悔が浮かぶ。
チーズケーキは好きだ。口を動かすと、さっぱりしていてとても美味しい。それなのに、味に集中できない。
開いた手でさりげなくお腹を撫でる。ズボンのファスナーのあたりが膨らんでいる。静かに息を吐いて正面を見ると、友人は大きな口を開けてサンドイッチに噛り付いたところだった。
当たり前だけれど、食べ終わるのは私の方が早かった。ケーキの最後を飲み込み、コーヒーにも口をつける。カップが底をついても、友人のお皿にはまだサンドイッチが一つ残っていた。
自分は食べ終えたとは言え、まだ食事の最中だ。それなのにトイレのことばかり考えてしまう。食べている間、通路の方を見ていない時もあった。時間が経ったし、流石にもう開いただろうか。
ぞわりと背中に嫌な感触が広がる。テーブルの下でさりげなく足を動かすと、ズボンの布地が擦れる音がする。
もう少し温かい格好をしてきた方が良かったかな。コーヒーも飲みすぎたかもしれない。飲んだ物が一滴、一滴とお腹の下へと落ちて溜まっていく。息を吐いて嫌な感覚を誤魔化すけれど、決して消えてはくれない。
ぶるりと体が震える。靴の中で爪先に力が籠る。我慢、しないと。……でも。
友人の皿は空っぽになっていた。最後のサンドイッチは彼女の手の中にあって、残りは半分程。それを食べ終えたら席を立とうか。そう思ったけれど、押し寄せるぞわぞわした感覚が止まらない。
駄目だ、トイレ行こう。一声掛けて椅子を。彼女はサンドイッチに噛り付いたまま、こくこくと頷いた。
テーブルの間を歩いていくと、ちょうど席を立つ女性が見えた。その人は私の前を歩いていく。行先は同じだったようで、トイレに続く細い通路に入っていった。
女性は扉の前で立ち止まった。こんこんとノックをすると、中から返事のノックが返される。
嫌な光景に声が出そうになった。すぐに入れると思ったのに。ズボンの内側で自分の足が震えていた。
今度は席に戻らず、その場で少し待ってみた。すぐに出てくるだろうと思ったけれど、なかなか出てくる気配がない。前の女性はスマホを弄りながらのんびりとした様子で待っている。
お腹が重い。トイレに行きたくてたまらない。すみません、先に行かせてもらえませんかと声を掛けたくなる。けれど、理性が邪魔をして声が出せなかった。
少し待ってみても、なかなか人が出てこない。友人はそろそろ食べ終えているだろう。いつも待たされる側だから、彼女を待たせること自体に抵抗はない、けれど。
そっと視線を逸らす。大きなガラスの向こうには駅が見えた。
今日の目的は終えたので、この後の事は何も決まっていない。お開きにしても、どこかに行くにしても、この後は電車移動にはなるだろう。
駅ならトイレがある。ここより広いし数もある。待つ必要も無いだろう。
そうやって考えている間も扉は閉まったままだった。流石に長すぎるんじゃないかと思うけれど、人それぞれ事情があるからそんなことは言えない。
ぶるりと体が震えて、刺すような衝動がじんじんと体の芯に響く。ああ、トイレに行きたい。ずっと感じていた尿意は時間と共に増す一方だ。そろそろ、本当にまずいかもしれない。
もう一度外を見る。そして、後ろ髪を引かれながら踵を返した。最後に未練がましく肩越しに振り向いてみたけれど、やっぱり扉は開かなかった。
席に戻ると、友人はオレンジジュースを飲み干したところだった。
「コーヒーお分かりできるみたいですよ」
「……流石にもう良いかな」
いつもなら食後にもう一杯貰うけれど、流石に今の状態では飲みたくない。
椅子に座ると、下腹部にずっしり重い塊があるのがよくわかった。息を吸うだけでも刺激になって、嫌な悪寒が広がる。
ああ、トイレに行きたい。さっきからトイレのことばかり考えている自分が嫌になる。でも、他のことなんて欠片も考えられない。さっきのチーズケーキの味もコーヒーの香りも既に遠くへ消え去っていた。
「良かったらこの後、買い物行きません?」
友人の人懐っこそうな笑顔に、返事の言葉を探すけれど、頭の中はトイレのことばかりで上手くまとまらない。
「駅地下に色々ありますし、折角だからぶらぶらしていきましょうよ」
駅。そう、駅に行かないといけない。良いよ、と返事をした声は少し震えていた。
たぷんとお腹の下が重く震える。こんなに水分で満たされているのに、喉が渇いて張り付くように感じた。
ふたり揃って席を立つ。入口横のレジへと向かいながら肩越しに奥へと目を向けると、通路に人が立っているのが見えた。誰もいなかったら、友人を待たせてでもトイレに向かっていたと思う。
レジに表示された金額を見て、財布を開く。指先が冷たくて強張っていた。ケーキセット、幾らだったっけ。思い出せないので、合計金額の半額をせめて出そうと考えたけれど、計算が全然できない。とりあえず適当にお札を出すと、友人が小銭を出した。
トイレ、はやくトイレ。そわそわ落ち着かないまま、お釣りとレシートがトレイに並べられるのをただ眺めていた。誰も取らない。そこで、これは私の分だとやっと理解して、全部まとめて掴んで財布に突っ込んだ。ファスナーを閉めるとき、レシートがくしゃりと皺になるのが見えた。
外に出ると、ひやりと肌寒い空気が体を冷やす。ぶるりと身震いして、体の内側に嫌な波が走った。鳥肌が立つ。あ、あ、だめ、トイレ、おしっこっ……! 両足を強く寄せる。余裕のあるズボンの布地が足の間でくしゃりと潰れた。手で押さえたくなる衝動を押さえ、代わりに肩に掛けた鞄の紐を握りしめていた。
「地下街、どこから入れるんだったかなあ。とりあえず駅に行ったら良いのかな」
友人がぶつぶつ言うのを聞きながら、そこに見える駅へと足を向けた。地面を叩くヒールの音がふたつ並ぶのを、耳はやけに鮮明に拾い上げていた。
ひとつ音が鳴るたびに、ぞわぞわと悪寒が広がっていく。トイレ、はやく、トイレっ。指先が震える。ホットコーヒーの温かさはどこに行ってしまったのか、寒くて仕方なかった。
僅かな呼吸すら体の中を震わせる。ズボンの内側で、お腹が痛い程に張り詰めている。はやく、はやくはやく、はやく。私も友人も歩くのはそんなに遅くないはずなのに、すぐそこに見える駅がとてつもなく遠く感じた。
+++
やっとの思いで駅の構内に到着した。大きめの駅とは言え、人がやけに多い気がする。その上なんだか騒がしかったけれど、そんなことはどうでもよかった。
ひとまず足を止めて、あたりを見回す。友人は地下へ降りる階段を探していたけれど、私が探すのはそんなものじゃない。トイレ、トイレどこ、トイレ。案内表示を見ても路線の案内ばかりで、目的のものが見つけられない。
じっとしていると尿意がどんどん強くなって、両足の付け根がきゅんきゅんと鈍く疼く。さりげなく足を動かしながら反対側を見ると、トイレへの表示を見つけて、その瞬間に歩き出していた。
「え、あれ、駅地下ってそっちなんですか?」
何も言わずに歩き始めた私に、友人はぱたぱたと着いてくる。地下街なんてそんなこと知らない。買い物なんて今はどうでも良い。ついてくる存在を感じながら、とにかく案内表示の指す方へ歩いた。
トイレ、トイレ、ああだめ、おしっこしたい、ほんとにしたいっ……! 息が荒くなるのは早歩きのせいか、それともお腹の中で暴れるおしっこのせいか。固く握りしめた指先が震えていた。
ざわざわと騒がしい中、自分の足音と心臓の音しか聞こえていなかった。あと少し、もう少し。案内表示が方向を変えたので、私もそちらへ向かう。角を曲がるともう案内はなく、待ち望んだ場所が姿を現した。
二つの入口が見えた。やっと辿り着いた安心で心が緩んだのも一瞬だった。さっと血の気が引く。自分の顔が強張るのが分かった。
片方の入口には人がずらりと列を作っていた。目の前の光景が信じられない。でも、何度確認しても変わらない。伸びた女性の列。瞬きの合間、最後尾にひとり加わるのが見えた。
「すごい並んでますね。電車、遅れてたからかな」
「え、そ、そう、なの?」
「そうなのって、アナウンスで流れてますよ? 事故の影響で遅れてたって。さっきその電車が到着したみたいだから、乗ってた人達が来てるのかもですね」
手が震える。鞄の紐からズボンの前へと伸びるのを押しとどめて、横の余った布地を握った。じっと立っていることすら辛くて、両膝を落ち着きなく擦り合わせるのが止められない。
「並びます? 地下街にもトイレあったと思いますけど」
「ど、どこっ!? どこにあるの!?」
「ええと、端の方にあったような……」
ここに並ぶか、地下街のトイレに向かうか。悩んでいる間にもまたひとり列に加わる。ここよりも多分、地下の方が空いている、はず。そんな希望に縋りついて、列に背中を向ける。友人が心配そうにこちらを見るのが分かったけれど、構っている余裕なんて欠片もなかった。
トイレ、トイレトイレトイレ、おしっこっ! 頭の中で幼子のように繰り返す。何でもいいからトイレに行きたい。他の事なんて何も考えられない。
じっとしているとそれだけで我慢できなくなりそうだったので、とにかく歩きながら地下への階段を探す。あちこちを見るけれど、全然案内が見つけられない。焦りでどんどん速足になる私の腕を途中で友人が引いて、こっちだと示してくれた。見ると確かに階段があって、そちらへと足を向ける。
駆けだしたいけれど、それも出来ないくらいお腹が苦しい。ずきずきと痛みさえ感じる気がする。両足の付け根、おしっこの出口がじんじんと疼く。痛いようなくすぐったいような耐えがたい感覚が広がる。
階段ではヒールが更に甲高い音を立てる。一歩一歩確実に下りながら、尿意も確実に高まっていくのがわかった。
あ、あ、だめ、おしっこ、おしっこしたい、おしっこっ……! 膝が震える。出口のすぐそこまでおしっこが押し寄せている。じんじん疼いて、我慢しているのに抗えないくらいの波が押し寄せる。
「っ、あ、ぁっ……」
小さく漏れた声は喧騒と足音に掻き消された。震える手がズボンの横を握りしめる。あ、あ、だめ、だめだめだめ、だめっ……! 我慢しているのに、僅かな隙間をこじ開けるように熱い液体が滲み出す。強張って冷たくなった体の真ん中、出口がじわりと熱く濡れるのが分かった。
あ、ああ、ぁっ……! じゅわあっと下着に熱さが広がる。だ、め、だめ、といれ、おしっこっ……! 震える足を動かして、何とか一番下まで降りると、左右に伸びた道を挟むようにお店がずらりと並んでいた。
トイレ、トイレどこっ、はやく、何でも良いからトイレ、はやく、はやくっ……! 左右を見るけれど、案内表示が見当たらない。
「え、えっと、こっち! とりあえずこっち行きましょう!」
友人が右へ曲がって歩いていく。今度は私が彼女の背中を追いかけていた。
息を吸って、吐いて、足を動かす。それ以外は考えない。ただただ歩く。両足の間、少し濡れた下着が気持ち悪い。
動いてると少しだけ感覚が紛れる。それでもお腹の下のあたりで重い塊がたぷんと揺れるのがよくわかった。
膀胱は僅かな隙間も無いくらいに中身が詰め込まれている。大きく固く膨らんで、破裂寸前の風船のよう。吸い込む空気すら膀胱を圧迫してしまうので、上手く呼吸ができない。
と、いれっ、トイレトイレトイレ、おしっこ、おしっこっ……! もう本当に限界。少し気を抜いたら出てしまう。なりふり構わず子どもみたいにぎゅうっと押さえたいのを、僅かに残った理性が押しとどめる。いっそ理性なんて消え去って、恥も何も感じない方が楽なのではないかと、そんなことまで考えてしまう。
人の流れの中を、速足で進んでいく。浅い呼吸を繰り返して、足を動かす。両側にはお店が隙間なく並んでいるだけ。本当にトイレがあるのか、疑う気持ちが少しずつ膨らんでいく。
もし、この先にトイレがなかったら。その時は、先ほどの場所まで引き返すしかない。来た道を戻って、階段を上がって、あの列に並んで。
想像するだけで全身が冷たくなる。お願い、もう無理、はやくトイレ、トイレっ……! 我慢することだけに集中して、友人の背中を追いかける。ズボンの横を握る手は汗でじっとりと濡れていた。
友人の向こう側を見ると、お店の並びが途切れていた。というよりは、そこで終わりだった。地下街の端、つまりは行き止まり。右手には上への階段が見える。
頭の中が真っ白になる。嫌な想像が色付いていく。足ががくがくと震える。ぶるりと悪寒が走って、尿意が泡のようにぱちんと弾ける。じゅわ、と出口に熱い感触。熱いおしっこがじわりと滲み出て、また下着を濡らす。
「っ、ぁ、あっ……!」
で、る、でるでるでる、おしっこ、もうむりおしっこ、もう我慢できない、もう、もう本当に無理っ、トイレ、おしっこ、おしっこっ……! コーヒーばかり何杯も飲むんじゃなかった。どれだけ待ったとしても喫茶店でトイレに行っておくんだった。
お腹の水風船はもうこれ以上膨らまない。出さないと破裂してしまう。我慢する心を振り切って、体ははやく出せと暴れている。出したくて出したくてたまらない。
でも、でもっ……! 両足を寄せて体を捩って、溢れそうなおしっこを必死に押し留める。でも、もう本当に限界だった。
友人がこちらを振り向く。丸い目が更に丸くなり、慌てたように伸ばされた手が私の腕に触れた。
「だ、大丈夫ですか?」
大丈夫じゃないっ! もう無理、本当にもう無理、トイレ、おしっこ、おしっこっ……! 頭の中で言葉が荒れ狂うけれど、喉で詰まって何の声も出ない。震える唇から、浅く短く息を吐きだした。
「ほら、すぐそこですっ。がんばって!」
すぐそこ。本当に? そろそろと顔を上げると、友人が右手の階段を指さしていた。まっすぐ立っていられず、重いお腹を抱えるように体がくの字に曲がっていた。
階段なんて登れない。そう思ったけれど、ちゃんと見ると階段の横には案内表示があった。赤と青の見慣れたマーク。色褪せた地下街の中、そこが光り輝くように見えた。
……と、いれ。トイレ、トイレトイレトイレっ……! もう他のものなんて見えない。体はもう起こせなくて、前屈みになったまま、震える足をまっすぐ向ける。
すぐそこに見えるのに、気持ちだけが先走って、体がなかなか近付かない。はやくはやくはやく、トイレ、おしっこ、おしっこしたい、おねがいはやくっ……! かつ、かつとヒールの足音。少し前を行く友人の姿。は、は、と浅い呼吸を繰り返す。
あとちょっと、あと少し。おしっこの出口がきゅんきゅんと疼く。ああ、トイレ、おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! 奥歯を噛みしめて、一歩ずつ前に進む。
やっと辿り着いたことに気持ちが緩みそうになったけれど、最後の気力で何とか踏み留まる。あと少し、もう少しだけ、もうおしっこできるから、あとちょっとだけ我慢、我慢っ……!
「もうちょっとだから頑張って!」
友人に続いてトイレの中へ入る。タイルをヒールが踏みつけて、かつんと甲高い音が鳴る。ふわりと香る芳香剤のにおい。あと少しだけ、すぐそこにトイレがある。あとちょっと、あとちょっとだけっ……!
浅い呼吸を繰り返しながら顔を上げると、ぱちりと目が合った。学生服の女の子が信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。でも私はその後ろでぴたりと閉まった扉しか見えていなかった。
扉は閉まっている。その前には人がいる。喫茶店と同じ状況だ。
つまりは、中から人が出てきて、今並んでいる人が入って、その人が出てくるまで待たないといけない。
そ、んなの……、そんなの、絶対無理っ……!
「あの、すみませ……」
「お願いっ、先に行かせてくださいっ! もう、もうむり、でちゃうっ、おねがい、トイレ行かせてっ、おしっこ漏れちゃうからお願いトイレぇっ……!!」
友人が何か言いかけたのを遮って、心のままに叫んでいた。もうむり、本当にむり、おしっこでちゃう、漏れちゃう、お願いだからトイレ行かせて、もう出ちゃうからぁっ……!
制服の女の子が頷いたのを見た瞬間、扉のすぐ前へ移動した。あとちょっと、もうちょっとだけ我慢、ほんとにあと少しだから、お願い、トイレ、おしっこ、おしっこっ……!
じっとしているつもりなのに、体が動いてしまう。前屈みになって、後ろに突き出したお尻が揺れる。太ももを擦り合わせると、ズボンががさがさと音を立てる。
両足を寄せて、それでも落ち着かなくて交差させて、おしっこの出口を塞ぐけれど、衝動は全然収まらない。ああ、だめ、でる、でるでるでる、おしっこ、おしっこでる、だめ、だめっ……!
ぶじゅ、とおしっこが噴き出す感触に、背筋がぞくっとした。あ、あっ、だめ、だめぇっ……! 我慢しているのに、まだ駄目なのに、おしっこが出てしまう。考えるより先に手が動いて、ズボンの上から出口をぎゅううっと押さえていた。
「ああ、あ、だめ、でちゃう、もれちゃう、むり、もうむりっ……」
「だ、大丈夫っ、ほら、あともうちょっとですっ。ね?」
「お願いはやく、トイレ、はやく、はやくぅっ……!」
友人の声は聞こえるけれど、その言葉の意味が全然理解できない。ただトイレに行きたくて、おしっこが出したくて、頭も体もいっぱいになっている。
ぎゅうぎゅうと押さえる手は離せない。塞いだ出口のすぐそこまでおしっこが満たされている。離したらその瞬間に出てしまう。込み上げる衝動から逃げようと、足がその場でタイルを踏む。かつ、かつと高い音が響いていた。
「ん、あ、あ、だめ、おしっこ、おしっこ、ほんとにむり、でる、でる……」
上手く息ができない。苦しい。頭が熱くてぼんやりする。おしっこ、おしっこしたい、おしっこ、おしっこっ……! 全身が震える。足が動かせない。指先で強く強く押さえて塞いで、その手を足が挟み込む。
「あ、あぁ、あ、ん、く、ぁあ、や、あ、あぁっ……!」
で、る、でるでるでる、おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! 息を吸うだけでおしっこが押し出されてしまう。塞いでいるのに、熱いおしっこがぶじゅうと噴き出す。
ああ、あ、だめ、で、る、でる、でるっ……! ぐりぐりと押さえると色々な感覚がどこか遠くなる。ただ指先が熱く濡れるのはわかる。熱いおしっこは破裂寸前まで膨らんだ膀胱から押し出されて、指を伝い、ズボンの内側で太ももを伝う。
「あ、あっ、だめ、だめっ、あ、あぁっ……!」
お願いはやくトイレ、なんでもいいから、おねがいはやく、はやくっ……!
押さえる手は離せない。反対の手を握りしめて、震えるままに目の前の扉へと叩きついていた。どん! と鈍い音が響いた。
「まだ!? まだなんですか!? おねがい、おしっこもうでちゃうんですっ、はやく、おねがいはやくっ……!」
「……ちゃん落ち着いて、もうちょっとだからっ……」
「むりっ、むりむりむりっ、あ、ああ、あっ、でる、もれる、もうむりなの、おしっこでるっ、はやくはやくはやくぅっ……!」
無理、本当にもう無理。おしっこ、でる、でちゃう、おしっこおしっこおしっこっ……! 浅い呼吸を必死に繰り返し、浮かぶ言葉をとにかく叫ぶ。
お願いします、お願い、トイレ、おしっこさせてっ。おねがいだから、何でもするから、お願い、おしっこ、おしっこでちゃう、でる、でるから、おねがい、トイレ、おしっこっ……!
「あ、あ、ああっ、だ、めっ……、でる、でるでるでる、でるっ、おねがいはやくかわってぇっ……!」
膝ががくがく震える。いっそしゃがみこんでしまいたい。でも、そんなことしたら絶対にもう動けない。
自分の手なのに石のように重い。何とか持ち上げて、助けを求めて扉へと叩きつけた。
また、じゅわあっと熱いおしっこが広がる。下着はぐっしょりと濡れている。太ももに熱い液体が伝って、膝へ、ふくらはぎへと流れていく。ズボンが肌へと張り付く。靴の中で靴下がじっとりと湿っていく。悴んだ爪先に温かさが広がる。
もう、もうだめっ、で、る、でるっ、でるっ……! 理性や気力や色々な何かが引き千切れる瞬間、がちゃりと固い音が聞こえた。
ぴたりと閉まっていた扉がゆっくりと開いていく。……っ、おしっこ、おしっこできる、おしっこおしっこおしっこっ……!
「あ、あぁ、あっ、だめ、だめだめだめ、だめぇっ……!」
根が生えたように重い足を引き剥がし、僅かに開いた隙間へと飛び込む。中から出てきた人を押し退けながらごめんなさいと言ったつもりだったけれど、上手く声が出なかった。
扉を閉める。目の前には待ち望んだ洋式トイレ。見た瞬間、ぱちんと糸が切れた音が聞こえた気がした。
気が緩んだのか、体が緩んだのか、もう本当に我慢の限界だったのか。出口におしっこが一気に押し寄せる。抗えなくて、じゅわあっと手の中が熱くなった。
「っ、あ、あっ、あ、あっ……!」
なりふり構わずぐりぐりと強く押さえるけれど、じゅ、じゅううとおしっこが溢れて止まらない。
手が熱く濡れていく。あ、ああ、あ、だ、め、あ、あぁっ、あっ……! 押さえながら、反対の手で何とか鍵を掛ける。一歩、トイレへと近付く。じゅわあっとおしっこがまた広がって、足が熱く濡れていく。かつんとタイルを踏む音が響いて、びちゃっと濡れた音がする。
「んく、ぁ、あ、ああ、あっ、や、あああぁっ……!」
もうむり、だめ、おしっこ、でるっ! もう一歩踏み出すと、洋式トイレのすぐ前に辿り着いた。
と、いれっ、お、しっ、こっ……! ぶるりと体が震える。息が漏れる。下着の上から押さえる手が、一気に熱くなった。
ボタン、外さないと。頭の片隅で考えたけれど、一瞬で消え去る。がくがく膝が震えて、そのまま前向きに崩れ落ちる。かろうじて足は開いていて、洋式トイレと向かい合う形で座り込んだ。
ぶじいいいぃぃぃ! 下着の中、押さえた指の先で、熱い水流がものすごい勢いで噴き出した。
「あ、は、ぁっ、ああぁっ……!」
下着の中で水流が渦を巻く。お尻の方まで熱さが広がり、ズボンが濡れていく。おしっこが真下にある白い陶器にぶつかり、雫を散らしながら、トイレの中へと落ちていく。
普段とは真反対の座り方で、ズボンも下着も脱がず、私はおしっこをしていた。
おしっこ、おしっこでた、できた、やっと出せた。頭の中が真っ白になって、世界が遠くなっていく。色々な感覚が遠くなり、ただ気持ちよさだけに満たされていく。
「ふ、あぁっ……」
我慢に我慢を重ねた解放感に目の前がちかちかする。ぽかんと空いた口から漏れる吐息に甘い声が乗っていた。
ああ、で、てるっ、おしっこ、おしっこでてるっ、気持ち、いいっ……。頭の芯がじいんと痺れる快感に、はあと息を吐いていた。
気持ちよさしか感じない。空を見つめたまま、荒い呼吸を繰り返し、ただ快感に酔いしれていた。
びちゃびちゃと水音がする。幾分勢いは落ち着いていたけれど、まだお腹にはおしっこが残っていて、なかなか止まらない。
胸を上下させながら、少し冷静さの戻った頭が今の状況を拾い上げていく。下着はぐっしょりと濡れ、肌に張り付いている。ズボンも濡れて、ベージュが色濃く変わっていた。靴下もぐっしょりと濡れている。
トイレでおしっこできた、けれど。トイレのタンクを正面に見ながら、今の状況に情けなさと溜め息がこみ上げた。
お腹がやっと空っぽになると、はあ、と熱い息が漏れた。やっと、止まった。すっきりとした爽快感に包まれた体とは裏腹に、頭と気持ちがずっしりと重い。
さっきまでの温度はどこかへ消えて、濡れた衣類はただ冷たく体に張り付いている。ぶるりと体が身震いした。
どう、しよう。ひとまず立ち上がると、余韻なのか足ががくがくと震える。自分のお尻に目を向けると、ぐっしょりと濡れて色を変えていた。
途方に暮れていると、こんこんと控えめなノックの音が聞こえた。
ズボンの裾からおしっこの雫がぽたぽたと落ちる。便座には水滴がついていて、足元のタイルにも水溜りが広がっていた。
「……ちゃん、あの、大丈夫?」
大丈夫、では、ない。何と返事をしようか考えたけれど、空っぽの頭には何も浮かばない。息を吐くと、じわりと涙が浮かんだ。
「今、あたししかいないですよ。……何か、いるものありますか?」
返事をしようとしたけれど、出てくるのは嗚咽だけ。手を鍵に近づけると、見てわかる程にがくがく震えていた。力の入らない指で鍵を開けて、少しだけ扉を開けた。
隙間から見えた友人は不安そうな表情で、目が合うと驚いたように息を飲んだ。
「ごっ、ごめん……あ、ぁの、っ……」
着替えを買ってきてもらえませんか。ちゃんと頼みたいのに、言葉が上手く出てこない。代わりにぼろぼろ涙が溢れてくる。
友人の手が慌てたように伸びてきて、私の頬に触れる。それから、鞄から皺だらけののハンカチを取り出し、私に握らせた。
「着替え、ダッシュで買ってきますから、ちょっとだけ待っててください」
「ご、ごめ、んっ……」
「ハンカチ、ちょっとくしゃくしゃだけど洗い立てですから! 綺麗なんで安心して使ってください!
じゃあ、行ってきますね。すぐ戻りますから!」
ありがとうと言いたかったけれど、胸の中で言うのが精いっぱいだった。友人が出て行くのを見て、再び扉を閉めた。
鍵を掛けるとどんどん涙が溢れ出して、握ったハンカチで拭う。鼻先に近づけると、柔軟剤の優しい香りがした。
ハンカチはちょっとくしゃくしゃと言うにはなかなかの皺だった。出かける寸前、乾燥機から引っ張り出して鞄に入れる友人の姿が浮かんで、少し笑ってしまった。
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初出:2023年3月7日(pixiv・サイト同時掲載)
掲載:2023年3月7日