学生服を着た子達がぞろぞろと姿を見せると、周りの車からお迎えの人達が出てきた。私も行った方が良いかなと思いながらも、結局、運転席に座ったまま外を眺めていた。
先程買ったミネラルウォーターに口を付けていると、ひとりの男の子がこちらにまっすぐ近付いてくる。こちらから合図をする必要もなく、彼は助手席のドアを開けて、慣れた様子で中へと乗り込んだ。
「お疲れ様」
「どうも」
「どうだった?」
「まあまあ」
返事は端的で愛想がない。いつもと変わらぬ様子だったけれど、どこか一仕事終えた安心感もあるように見えた。彼は厚いコートをごそごそと脱いで、草臥れた鞄と一緒に後部座席へ置いてから、助手席へと腰を下ろした。
「まあまあくらいがちょうど良いよ。来週はいよいよ本命だし、良い予行練習になったね」
彼がシートベルトを締めるのを確認してから、エンジンを掛けた。周囲を注意しながら車を動かしていく。あちらこちらの車の陰に人がいるので、いつもより気を付けながら、ゆっくりと駐車場から道路へと出た。
「そこのコーラ、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます」
ミネラルウォーターの隣に置いていた缶を彼は手に取り、慣れた様子でプルタブを起こす。ぷしゅ、と炭酸の抜ける良い音がした。
車内は暖房が効いている。買ってから少し時間が経つので、ぬるくなっているかもしれない。申し訳無さを感じる私の隣で、彼は何事もないように喉を鳴らしていた。
「迎え、ありがとうございます」
「いえいえ。来週も送り迎えしようか?」
「良いんですか?」
「もちろん」
「じゃあ、お願いします」
返事の合間にも彼はコーラの缶を傾ける。喉が渇いていたのか、ぐいと一気に飲む様子は見ていて気持ちが良い。
信号待ちの間に、私もミネラルウォーターに口を付けた。車内を温めると、どうしても乾燥しがちで喉が痛くなる。おかげで運転の時はお水が欠かせなくなった。
ボトルを置き戻したところで、ちょうど信号が青になった。アクセルを踏み、交差点へ出る。そのまま直進しようとして、サイドミラーにバイクが映ったのが見えた。
気を付けようと思った瞬間には、バイクはものすごい速度で真横を走り抜けていた。驚きでどくんと心臓が跳ねる。息を呑んでいると、バイクは車と車の間を抜けてどんどん前に進んでいた。
「……嫌だなあ、もう」
危ない事この上ない。私の呟きに返事はなかったけれど、隣の彼もバイクを目で追っていた。
「要くんはあんなことしちゃだめだよ」
鼓動を落ち着かせながら、ハンドルを握りなおす。あんな運転したら、いつか事故して大怪我するだろう。私も気を付けないといけないと思いながら、アクセルを踏んだ。
交差点を越えてしばらく走っていると、段々と前の車が増えてきたことに気付いた。このあたりは一本道だから、この先が詰まると立ち往生してしまう。
嫌だなあと思っていると、その想像をなぞるように速度が落ちていく。前にはずらりと車が列になり始めて、私達もその後ろに付くしかなかった。
「止まっちゃった。なんだろう」
手持無沙汰で、ミネラルウォーターに口をつける。残り半分程になったボトルを置いたとき、隣で彼はぽつりと呟いた。
「事故だって」
彼の手元にはスマホがある。流石情報社会、既にどこかで話題になっているらしい。すごいなあと感心する傍ら、進めなくなったことに溜め息が漏れた。
「すぐ通れるようになるかな。遅くなっちゃったらごめんね」
「別に大丈夫」
そう言われても、もう一本向こうの道で曲がっていれば問題なく進めていたのに。細い一本道なのでどこかに抜けることもできない。しかも周りは住宅地。コンビニでもあれば気分転換になるけれど、そんな洒落たものもない。
静かな車内で溜め息を飲み込む。彼は助手席でスマホを弄っていたけれど、飽きたのかすぐにポケットへと閉まっていた。
数分が過ぎた時、二つ前の車の扉が開いて、中から人が降りるのが見えた。要くんは助手席で俯き、物静かに大人しくしていた。
見える景色の中で他に動くものがなく、つい人の動きを目で追ってしまう。背丈や服装からして男性らしき人はきょろきょろと見まわした後、傍に立っている電信柱に近付いていく。その手はズボンの前をごそごそ弄っていて、電信柱に向き合ったところで足を止めた。
距離があるのではっきりとは見えないけれど、ズボンの前に添えられた手元から何かがしょろしょろと噴き出したのはわかった。すぐにそれが何かはわかってしまって、むしろはっきり見えなくて良かったと心底思った。
車も動かないし、近くにお店もないから仕方ないかもしれない。我慢できなかったのかもしれない。でも、だからと言って、流石に丸見えの場所で堂々とするのは、ちょっと頂けない。
「……嫌だなあ、もう」
目を逸らしながら、つい言葉が漏れた。隣にいる彼に言ったつもりはなかったけれど、伏せていた顔がゆっくりと持ち上がり、窓の外へと向く。彼からの言葉はなかったけれど、私と同じものを見たのだと思う。
彼は何も言わずにまた顔を伏せた。私もそれ以上は何も言わず、ミネラルウォーターを口に運んで、不快感を胸へと流し込んだ。
+++
ミネラルウォーターの残りも僅かとなった。時間としては一時間程、車中でぼんやりしていると、やっと前方の車が動き始めた。
「お、動いたね。良かった」
相変わらず返事はない。そっと隣を見ると、彼は変わらず俯いたままだ。ずっと座っていて疲れたのか、時折両足がごそごそと動いていた。車内の暖房が強すぎたのか、伏せた顔は赤く染まり、心なしか表情も暗い。試験を終えて心身共に疲れているところで渋滞に巻き込まれて、元気な筈は無いだろう。
前の車に続いてゆっくり進んでいると、途中、無残になったバイクの残骸と大規模に破損した車が見えた。かなり盛大な事故だったようだ。私も気を付けないといけないと思いながら、角を曲がった。
少し進むと混雑も解消されて、何事もなかったかのように走る事ができた。慣れた道を安全運転で進んでいると、何個目かの信号に引っかかって、ブレーキを踏む。
隣の要くんは相変わらず大人しい。そっと横目に様子を窺うと、伏せた顔は変わらず固い表情を浮かべていた。頬は赤く、苦しそうに息を吐く音が聞こえる。揃えた膝は時折落ち着きなく揺れて、布が擦れる音がした。
とても調子が悪そうに見えた。大丈夫かな。頑張った後だし、疲れているのもあって車に酔ったのかしれない。
帰り道を急ぐよりは、一旦コンビニか何かで休憩した方が良さそうだ。そう思いながら、残っていたミネラルウォーターを飲んでいく。隣に置かれた缶は彼が飲み干して、ずっと前から空っぽだった。
残っていた水は僅かだった。全部飲み干して口を離した瞬間、横から伸びてきた手に空っぽのペットボトルを奪い取られた。
「っ、え?」
驚きで間の抜けた声が漏れた。隣にいるのは要くんだけ。彼はさっきまで俯いていたのに、今は鬼気迫る表情でこちらを見て、力強くボトルを引き寄せた。
「ど、どうしたの?」
頭に浮かんだ言葉がそのまま口から出ていた。何か飲みたいとしても、もう中身は空っぽだ。
返事はなく、代わりに荒く呼吸する音が聞こえた。
「は、ぁっ……!」
見てわかる程に彼の体は震えていた。いつの間にかシートベルトは外されていて、小さなお尻が落ち着きなく動く。それまでの大人しさが嘘のように、助手席のシートを慌ただしく揺らしていた。
「く、ぁっ、あぁ……!」
片手は空のペットボトルを握り、反対の手は黒いズボンの前でごそごそと動く。力が籠もって、ボトルを握る手はがたがたと大きく震えていた。
黒いズボンの前が広げられて、内側からグレーの下着が覗き見える。手は慌ただしくその内側へ潜り込んで、中から性器を引っ張り出した。
その先端からじわっと液体が滲み出し、静かに濡れるのが見えてしまう。わ、と胸の中で驚きの声をあげていた。見てはいけないと頭の片隅で考えた気がしたけれど、視線が引き寄せられて、目が反らせなかった。
「んっ……、は、あぁ……」
絞り出すような声と共に、じゅうう、と水音が車内に響いた。ボトルの内側にまっすぐな水流が見えて、勢いよく注ぎ込まれていた。
彼の手の中で、ボトルがかたかたと小さく揺れていた。水流は物凄い勢いで底にぶつかり、薄く色づいた液体が段々と溜まっていく。じゅうう、と噴き出す鋭い音に、じょぼぼぼ、と注ぎ込む激しい音が混ざり始める。
「す、すみません、ごめんな、さい……」
震える唇が少しだけ開いて、か細い声がそんなことを言う。すぐそこで行われている出来事なのに、どこか遠い事のように感じられた。
トイレ、我慢してたんだ。じゅいいい、と鳴り響く水音の中で、やっとそこに辿り着く。混乱が落ち着かないままに、とにかく大丈夫だよと返事をしてあげようとしたその時、後ろから大きなクラクションの音が鳴り響いた。
弾かれたように顔を上げると、信号は青色に変わっていた。慌ててアクセルを踏む。そこで左右を見ていなかったことに気付いて、慌ててミラーを確認した。その間にも隣からは水音と押し殺した呼吸の音が聞こえていて、正直、全く集中できなかった。
いつもよりスピードを落として、見慣れた道を走っていた。隣から聞こえる水音はしばらく続いていたけれどやがて止まり、はあ、と大きく息を吐く音がして、助手席は再び静かになった。
ハンドルを握る手が汗ばんでいた。どくどくと心臓の鼓動が体の内側を揺らす。とにかく隣を見てはいけないと思い、目はまっすぐ前方を睨むように向いている。でも、耳を逸らすのはなかなか難しくて、隣から聞こえる僅かな音を必要以上に拾い上げてしまう。
彼が小さく息を吐く。それからちゃぷんと微かな水音がした。そしてごそごそと布地が擦れる。どれもが小さな音なのに、鳴り響く自分の鼓動以上に大きく聞こえた。
幸運にも前方に車はなく、横から人が飛び出してくることも無く、安全運転を続けることができていた。少し走ると再び信号に引っかかり、ブレーキを踏む。
「あ、の」
重苦しいほどに静かな車内で、小さな声が隣から聞こえた。
「……ごめんなさい」
素直な謝罪の言葉。そっと隣を見ると、彼は元のように大人しく助手席に座っていた。伏せられた顔は赤く染まっていて、横目にこちらを窺う視線がぶつかる。
「こっちこそ、ごめんね。どこか休憩に寄れば良かったね」
コンビニか何かはあっただろうし、最悪、男の子なら道の隅で済ませることも出来ただろうに。言ってくれたら途中で車を停められる場所くらいあったと思うけれど、言いづらかったのかもしれない。
それ以上の会話はなく、再び重苦しい空気が車内を満たしていく。彼は元々口数が多くないけれど、こんな雰囲気になるのは初めてだ。
「次の試験、来週だっけ」
とってつけたように話題を変える。彼は顔を伏せたまま頷いた。
「頑張ってね。応援してる。無事合格したら、お祝いしようね」
返事は頷きだけ。私の言葉がなんだか上滑りしているように感じたけれど、そんなことは気にせずに、いつものように話しかける。
「美味しいもの食べに行こう。何が良いか考えておいてね。もちろん、私のおごりだから」
「……受かるか、わかんないけど」
やっと言葉が返ってきて、安心を覚えた。
「大丈夫だよ。いっぱい頑張ってたの知ってるから」
信号が青に変わる。左右を確認してから、アクセルを踏む。車はゆっくりと進んでいく。
「……綾乃さん、たまに根拠ないこと言う」
「そんなことないよ。絶対大丈夫」
彼がふっと小さく笑ったのがわかって、私もつい頬が緩んだ。よく知っているいつもの空気に安心して、肩の力が抜けた。
「焼肉が良い。いっぱい食べる」
「良いよ。食べ放題行こうか」
そんなことを言っていると、やっと目的地が見えた。大したことない距離なのに色んな事がありすぎて、随分時間が掛かったように感じた。
傍で停車すると、彼はごそごそとシートベルトを外した。それから後ろに置いていたコートと鞄を引き寄せる。そのまま降りるのかと思っていたけれど、扉は開かず、代わりにファスナーがちりちりと鳴る音が聞こえた。
鞄は扉側にあったので、私の位置からは見えない。けれど彼が足元から取り出したものは見えてしまった。
薄く色付いた液体に満たされたペットボトル。鞄の中に入れただろうとはわかったけれど、見なかったことにした。
それから、今度こそ車のドアが開いた。家は間近だからか、コートは着ずに鞄と一緒に手に持っていた。
「送ってくれてありがとうございます」
「どういたしまして。今日はゆっくり休んでね」
軽く頭を下げて、ドアを閉めようとして、彼は再び車内へと頭を突っ込んだ。
「あ、あの!」
勢いよくそう言ったものの、続きの言葉が聞こえない。助手席のシートに手を付いて体を倒し、こちらへと近付いたものの、俯いてしまって表情がわからない。
「うん、どうしたの?」
こちらからも少し体を乗り出すと、伏せられていた顔が少し持ち上がる。白い頬は寒さのせいか他の何かのせいか、ほんのり赤い。黒に近い茶色の目は一瞬だけこちらを見たけれど、すぐに逸らされた。
「椅子、汚してたら、ごめん」
声は段々小さくなっていき、最後の方は車内の暖房の音にすら負ける程に微かだった。
そっと彼が手を付く助手席のシートへと目を向ける。特別汚れているようには見えなかった。
「気にしてくれてありがとう。多分、大丈夫だよ」
そう言うと、彼は小さく頷いてから、前かがみになっていた体勢を戻し、今度こそ車のドアを閉めた。
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初出:2023年2月19日(pixiv) 掲載:2023年2月19日