濁りなき黒で染めてしまおう

 前作 → 団栗結ぶ藤衣

 眩しさに目を開けると、壁の隙間から日差しが差し込んでいた。
 体を起こすと、鎖が音を立てて揺れる。固い首輪が肩に乗る感触に自分の状態を思い出した。寝る前と変わらず、首輪は鎖に繋がり、その先端は床に刺された杭に繋がっていた。
 薄い敷布の上に座りなおし、小屋の中を見回してみたが、あの異形はいなかった。どこかに行ったのだろうか。物音ひとつしない静かな空気はとても居心地悪い。あの不気味な笑い声が少しだけ恋しく感じた。

 鎖はそれなりの長さがあるので、小屋の中を動く分には不自由無さそうだ。けれど、入り口の扉を開けることは出来ても、そこから外に出るのは難しかった。鎖をじゃらじゃら鳴らしながら小屋の中を彷徨いたが、特段めぼしいものはない。
 仕方なく元の位置に戻る。昨日も思ったが、小屋はぼろぼろだ。隙間から日が差し込むので、日中は明るく過ごせる。ただ、風が細く吹き込んむので肌寒かった。
 先程まで自分が横になっていた部分はまだ僅かに体温が残っていて温かい。微かに残った温かさを逃さぬようにそこに座って暖を取る。
 敷布は薄く、固い床に座っているのと大して変わらない。じっと座っていると尻が痛くて、時折体勢を変えた。
 今、出来ることと言えば、あいつの戻りを待つことだけだ。情けないが、あいつが帰ってこなければ何もできない。隙間風に体が震える。自分で自分の体を抱きしめて、ぴたりと閉じた扉が開く時を今か今かと待った。

 いつからか、意識は敷布の隅に置かれた物に向いていた。寒さに体が冷えるにつれて、腹の底にじわじわと溜まっていくものを確かに感じる。初めは気付かないふりをしていたのに、いつの間にか意識せずにはいられない状態になっていた。
 そわそわと落ち着きがなくなっていく。どこかで用を足そうにも、この小屋からは出られない。扉を開けて外に向かってすることも少し考えたが、流石に扉のすぐそばに水溜まりを作ることは憚られた。

 扉はぴたりと閉じたままで、開く様子はない。そのまま、部屋の中をぐるりと見回して、自分のすぐそばにある物に引き寄せられていく。
 昨日、寝ようとした俺の傍にあいつが置いた壺。つるりと無機質で色褪せていて、けれど見える範囲に大きなひびや欠けは見当たらない。多分、溢れない限りは中身が零れることは無いように思える。
 壺は手を伸ばせば届く位置にある。初めは邪魔だからと遠くにどかそうと思ったのに、今は近くに引き寄せようかと考えてしまっている。

 あいつはこれに小便しろと言っていた。首輪をされたこんな訳の分からない状態でも、厠でもない室内で用を足すことは流石に抵抗があった。
 それに、ここはさっきまで寝ていた場所だ。今夜もここで寝ることになるだろう。それなのに、ここで、する、なんて。
 頭ではそう思うのに、そんな決意はじわじわと削り取られていく。冷えた体の中心で、大きく膨らんだものを感じる。重くて、むず痒い衝動に身を捩る。じっとしていられず、体が落ち着きなく動く。
 ああ、くそ、せめて外でさせてほしい。せめて、壺を持って外に出られたら。そんなささやかな願いすら今の状態では叶えることが出来ない。

 体が冷えて、尿意がどんどん高まっていく。もう少しであいつが帰ってくるかもしれない。そう思いながらも、もう無理だと諦める気持ちも同時に膨らんでいく。
 もう少しだけ、あと少しだけ。何度も何度も頭の中で繰り返す。しんと静かな外に耳を澄ませてみたが、草木の揺れる音や、獣らしき何かの遠吠えが聞こえるだけだ。地面を踏みしめる足音や、あの薄気味悪い笑い声は一向に聞こえてこない。

 体を揺すり、込み上げる尿意を必死に押さえ込むけれど、それもだんだんと意味をなさなくなっていく。
 ああ、くそ。何で戻ってこないんだ。もしかして、もう戻ってこないのだろうか。考えないようにしていた最悪の理由が、自分の内側で大きく膨らんでいく。面倒を見ると言ってたくせに、俺を見捨てたのか。それならせめてこの鎖を外していけ、化け物め。
 限界を目前にして、混乱した頭では嫌な想像が膨らんで勝手に暴れまわる。もう、無理だ。限界だ。ぞくぞくと込み上げるむず痒い衝動が収まらない。込み上げる尿意を押さえようと、手が勝手に下履きの上から出口を押さえる。

 腹が重くて破裂しそうだ。苦しい。もう、本当に無理だ。限界だ。だから、仕方ない。我慢したけど、あいつが帰ってこないんだ、仕方ないじゃないか。
 思いつく限りの理由を浮かべながら、立ち上がる。そして隅に置かれた壺に近付いた。
 自分の頭ほどの小さな壺。下履きを下ろして、跨いでしゃがみ込む。太腿の裏に、壺の口が触れる。陶器の冷たさに、体がぶるっと震えた。
 心臓がうるさく鳴る。視界には雑多に置かれた食器や着物が目に入って、ここが用を足す場所ではないと思い知らされる。
 我慢した。けど、あいつが帰ってこないから、仕方ないじゃないか。
 仕方ない。仕方ない。頭の中で何度もそれを繰り返す。そして、せめてもの抵抗にそっと目を閉じた。

 真っ暗な中、自分の鼓動と呼吸がよく聞こえる。
 腹が大きく張っていて、差す様に疼く。何度か短い呼吸を繰り返してから腹に力を入れると、小便がしょろしょろと溢れ出した。我慢しすぎたのか、少しずつしか出ない。それでも、やっと我慢から解放されて、安堵の息が漏れた。
 ぴちゃぴちゃと壺の底を叩く水音がよく聞こえる。それはすぐにじょぼじょぼと注ぎ込む音に代わる。
 響く水音と共に腹は少しずつ軽くなる。それにつれて、焦りがだんだんと落ち着いてくる。そうして冷静になると、今度は羞恥が一気に押し寄せる。早く終わってほしい。そう思っても、限界まで張り詰めた腹にはまだまだ熱い小便が溜まっている。

 ふう、と息が漏れる。それからゆっくりと目を開けて、何となく扉の方へ目を向けた。
 扉は変わらず閉じたままだ。早く戻ってきてほしいと、つい先程まで思ったけれど、今だけはやめてほしい。そう思うと、突然、鈍い音と共に扉が揺れた。
 思わず体が強張る。それでも体は排泄を止められない。ちょろちょろと注ぎ込む水音が壺の内側に響き続ける。どれだけ慌てても、壺の上から動くことは出来ない。

 がたがたと何かが揺れる音が聞こえる。それから、ぎいと鈍い音と共に扉が開いた。顔を覗かせたのは知らない女だった。
 中に人がいるとは思わなかったのか、女は俺を見ると、おや、と呟いて目を丸くした。こちらに向けられた目に、込み上げた羞恥が燃え上がるように広がる。そう思ったけれど、動くことも出来ない。
 女は丸くした目でじっとこちらを見る。何か言おうと思ったが、混乱して声が出ない。咄嗟に顔を伏せたが、女の視線がこちらに向いているのが痛い程わかる。
 溢れる小便が落ち着くまで、俺も女も動かなかった。数分も掛からないはずの時間が永遠のように長く感じた。

 落ち着くと同時に、下履きを上げて壺から離れる。身動きに合わせてじゃらりと鎖が鳴る。逃げようにもここから動けないことを思い知らされた。
 敷布に座り、もう一度女に目を向ける。不気味な程、整った顔立ちだった。整いすぎて、まるで作り物の様だ。肌は白く、髪は黒く豊かで、片方の肩へ垂らす様に束ねている。
「申し訳ありません。失礼なことをしてしまいましたね。こちらはあなた様のお家ですか?」
 目が合うと、女は目を細めて笑う。黒い目は墨で塗りつぶしたようで、整った顔立ちの中でも一等不気味に感じた。見たくないと自分の根っこが訴えている。けれど目を離すのも恐ろしくて、結局女から目が離せなかった。

 ここが俺の家かと聞かれても、俺自身がここがどこなのかわかっていない。どちらの返事も出来ず、ただじっと女を見つめ返す。女は眉を下げて、困ったように笑った。
「そう警戒しないでくださいな。私、足が悪くありまして、少し休ませていただこうと思っただけなのです。
 少しの間だけ、座って休ませていただけませんでしょうか」
 女は入り口に立ったまま言う。その手には杖を持っていた。そして、背中には自分の身長と変わらぬほどの大きな箱を背負っている。女が動くと、箱が揺れてかたかたと音が鳴った。
 少し休むくらいなら良いだろうか。頷くと、女はほっとしたように表情を緩めた。

 女が小屋の中に入ると、ぴたりと扉が閉まる。その瞬間、本当に大丈夫だろうかと怖くなった。見た目は普通の美しい女だ。頭が一つ、腕が二本に足も二本。それなのに、何故かこの女を恐ろしく感じる。
 かたかたと音を鳴らしながら、大きな箱が下ろされる。そして、その隣に丁寧に膝を畳んで座った。両手は揃えて膝の上へ置かれて、所作一つ一つがとても丁寧で綺麗だった。

「ところで、あなた様のご主人はどんな方ですか。薬は必要とされないでしょうか」
「薬?」
「私、しがない薬師なのです。もしご入用でしたら、折角ですのでと思いまして」
 そう言いながら、女は先程まで背負っていた大きな箱に触れた。よく見ると箱は引き出しが並んでいる。俺の視線の先で、女は留め具を外すと、引き出しを外して中身をこちらに見せる。乾いた草や紙に包まれた粉末が並んでいた。
「包帯や襦袢も少しはございます。あなた様のご主人に買っていただけたら、嬉しいのですが」
 ご主人というのは、あの“白いの”の事を言っているのだろうか。主人と言えば主人になるのか。一応、面倒を見てくれている。勿論、ここに戻ってこれば、の話だが。

 そこまで考えて、違和感に気付く。どうしてこいつはそれを知っているんだ。じっと見つめる先で、女はにこりと黒い目を細める。
「ご主人はどんな方ですか? お話は出来ますか? 手はありますか? 足は何本? 頭はひとつ?」
 矢継ぎ早に紡がれる言葉の勢いと内容にぞっとして、咄嗟に後ずさる。壁に背が当たる。そのまま壁沿いに出来る限り距離を取る。じゃらじゃらと鎖が鳴る音に、ここから逃げられないと思い知らされる。

 女は整った顔でにこりと笑った。背中にぞくぞくと悪寒が走る。
「こんな山奥で、人間様を飼われているのです。それも、とても綺麗で傷ひとつない。
 これから頂くのか、太らせるのか、はたまた増やすのかはわかりませんが、今のところ大切にされているご様子。
 それなら、色々ご購入いただけるかもしれません」
「あ、あんたっ、な、何なんだ」
 溢れた声は震えていた。

 女は笑う。黒い目が細められる。笑っているのに、まるで睨まれているようだ。視線を外せば、その瞬間に目前まで迫られるような、そんな恐ろしさ。
「見たままでございますよ。どう見えますか?」
 見た目は普通の人。顔立ちの整った女。それなのに、不気味さしか感じない。何なんだ、何を言っているんだ。訳がわからない。
「おそらくですが、あなた様のご主人と似たようなものではないかと。
 幸運にも私は人に近い見目をしておりますが、見た目の差はあれど中身は同じ。どろりと濁って澱んでいます」

 女の手が動く。床に手をついて、するりと滑るようにこちらへ近付く。その間にも黒い目はじっとこちらを見続けていて、背中に嫌なものが伝う。
 瞬きもせず、ただじっとこちらを見続ける様子は、まるで蛇に睨まれているようだ。少しでも余計に動けば一気に飛び掛かってくるのではないかと、そんな想像が頭から離れない。
「人の血を喰ろうたら濁りが薄まり、いつかは人に成ると言う者もおりますが、私はそうとは思いません。濁りに真水をいくら加えても、薄まることはあれど、元の濁りが消えはしないでしょう。
 ただ、そうだとしても、濁った身は澄んだ真水を求めるようです。とても良い香りがして、喉の渇きを感じずにはいられない。私は口にしたことはないですが、さぞ美味しく甘美なのでしょう」
 怖い。頭が真っ白になる。体の奥底が震える。怖い、怖い、怖い。女の一挙一動が怖い。
 また、じわりと距離が近付く。離れようと身を引くと、じゃらりと鎖が鳴る。背中が壁に当たる。逃げられない。

 歯の根が合わない。なんだ、こいつは。怖い。
 手が伸びてくる。少しでも距離を取ろうと、腰が浮いて、何とか立ち上がろうとする。けれど、じゃらりと鎖が鳴って、俺をその場に繋ぎとめる。壁に背を預け、中途半端に腰を浮かせた体勢で、何とか虚勢を張り、女を睨み返す。
 目前まで伸ばされた女の手は、奇妙なことにその顔立ちに似合わず、ごつごつと節がしっかりしていて、大きさもある。まるで男の手の様だ。傷だらけで、でも爪は妙に整っているのが歪で気味が悪かった。

 膝が震える。視界が滲む。嫌だと叫ぶ体の中心で、ぞくりと込み上げるものを感じる。体の内側に嫌な衝動が駆け巡り、熱いものが滲む。
 嫌だ、誰か、助けて。記憶は鈍く、白い靄が掛かっていて、思い出せる顔はない。ただ唯一記憶にある、白髪赤目の化け物が脳裏に浮かんだ。
 目の前の女より、あの異形の方がまだ良い。触れられるなら、あの数多の手の方が良い。
 じゅわ、と下履きが熱く濡れる。咄嗟に手がそこをぎゅうと握る。
 
 嫌だ。目前まで迫った手に咄嗟に顔を背けた時、ぎいと鈍い音が聞こえた。
 女の背後で扉が開く。ぬう、と頭を出したのは、今まさに思い出していたあの異形だった。
 草臥れた籠を手に持ち、頭を下げて大きな体を曲げて、ゆるりゆるりと小屋の中へ足を踏み入れる。女は振り返ると、にこりと笑った。
「あら、ご主人のお戻りですか? これは重畳」
 女はするすると身を引くと、箱の隣に座りなおした。

「私、しがない薬師でございます。薬以外にも着物、襦袢、米や酒も少々。
 こうして人を囲うておられるならば入用もあるかと思い、お待ちしておりました」
 女は引き出しを開けて、俺に見せたように中身を見せる。白いのはちらりと俺の方へ赤い目を向けた。その視線を受けた瞬間、全身を張り詰めさせていた恐怖が一気に解けた。体から力が抜け、力なく床にへたり込む。
 ぎゅうと握られていた手からも力が抜ける。両手が添えられた下履きの中が、じゅわっと一気に熱く濡れた。
「その子には指一本触れておりません。
 そのようにわかりやすく鎖で繋いでおられるのです。飼い主がいると見せつけられては、恐ろしくて手を出せませぬ」
 くききき。白いのはあの不気味な笑い声を発した。
「見た目繕うて人真似か」
「……良い目をお持ちですね」
「蜥蜴か、家守か、蛇か。どれも好かん。出て行け」
「そうですか。それは残念」

 女は立ち上がると、大きな箱を背負った。それから、ちらりとこちらへ視線を向ける。その瞬間、再び恐怖が込み上げてきて、体が固まる。
「先程、私はあなた様のご主人と似たようなものと申しましたが、違いましたね。
 人へ寄ったもの、人から寄ったもの。真逆でございました」
 ふふふ、と笑いながら女は立ち上がる。先程こちらに伸ばした手で杖を握ると、扉の方へ足を進めた。
「ただ、元が違えど、濁ってしまえば同じようなものです。
 濁りに真水を与えても濁りが消えぬように、真水も一度濁ってしまえば元の真水へは戻れません。あなた様もお気を付けくださいませ。
 ご縁がありましたら、またお会いするかもしれませんね。その時は是非御贔屓に」

 軽く頭を下げてから、女はゆっくりとした足取りで小屋を出て行った。箱をかたかた鳴らしながら、片足を引きずる様子は、本当に足が悪いように見えた。
 ぱたりと扉が閉まる。それと同時に力が抜けた。強張っていた体が緩み、はあ、と息が漏れた。
 じゅうう、とくぐもった水音。下履きの中が熱く濡れていく。一度溢れ出した小便は止まらず、床を濡らしていく。
 あ、あ、と声が漏れた。頭は真っ白で、駄目だと思うことも出来なかった。気付いた時にはどんどん小便が溢れて、着物と床を濡らしていた。
「くききき」
 不気味な笑い声。ばさりと長い白髪が揺れて、背中から数多の手が伸びてくる。指がある、爪がある、温かい人の手。あの女の手と似ているようで全然違う。強張っていた体と心から力が抜ける。
「良い子だ、良い子。泣くな、泣くな」
 あちこち掴まれ、持ち上げられる。ひとつの手が頬をぐいと撫でる。その感触に、自分が泣いていることを知った。
「あ、やっ、待って、くれ」
 落ち着かない呼吸の合間に何とか言うが、手は止まらずに着物を脱がせていく。濡れた着物を剥がれ、下履きを下ろされると、露わになった先端からはまだしょろしょろと小便が溢れ続けている。
 力が抜けた体は馬鹿になってしまったように我慢が効かない。小便は何に遮られることもなく、床に直接落ちて、ぴちゃぴちゃと雫を撒き散らす。
「くきき、良い子、良い子。してしまえ」
 いつの間にか後ろから抱えられるような体勢で、大きく足を広げられていた。昨夜もされた、幼子が用を足すような格好。抵抗はあったけれど、全身力が抜けていて、されるがままになっていた。
 ひたひたと呆れるほど溢れる小便に、はあ、と息が漏れる。気持ちが良くて、自然と目を閉じていた。
「しい、しい。良い子、良い子」
 頭を撫でられ、体を抱えられ、体も心も力が抜けきっていた。
 先程の恐怖の余韻か、ぼろぼろと零れる涙が止まらない。優しい手は体を支え、涙を拭ってくれて、頭を撫でてくれていた。

 呼吸に合わせて、腹が上下する。最後に数度吐き出すと、全身がぶるりと震えた。
 下を見ると、水たまりが広がっていた。敷布を濡らし、鎖の繋がった杭も飲み込み、呆れるほど大きい。つんと鼻につく小便の臭いに、落ち着いたはずの涙がまた込み上げる。
 汚してしまった。悪いことをした。そういうことを言おうとしたけれど、嗚咽が込み上げて上手く言葉が出てこない。
「ごめ、ん、なさいっ」
 結局言えたのは幼子みたいな謝罪の言葉。白いのはくききき、といつものように笑う。
「良い良い。よく出たな。上手、上手」
 そうして褒められると、今の体勢も相まって本当に幼子の様だ。鼻を啜り、涙を今度は自分の手で拭う。
「下ろしてくれ、拭く、から」
 そう言っても、体のあちこちを掴む手は離れない。着物も下履きも脱がされ、何一つまとわぬ格好のまま、ただ抱えられているだけ。そうしている間に、横から違う腕が伸びてきて、どこからか出したぼろで床を拭き始めた。
 わらわらと数多の手が動けば、水溜まりはあっという間に拭われる。それでも、敷布を退けた床には大きく染みが残っていて、羞恥で頬が熱くなった。

 汚れたぼろを抱え、違う手が鎖の繋がった杭を抜く。違う手には脱がせた着物と下履き、そして裸の俺を抱えたまま、白いのはくるりと踵を返す。そして、先ほど女が出て行ったように、扉をぎいと開けた。
「ま、待てっ、どこに行くんだ!」
 くききき、白いのはただそう笑うだけで、ぺたぺたと足を進めていく。昨夜と違い、まだ日が高い時間帯に素っ裸で外に出るなんて、抵抗があるに決まっていた。
「待て、待って、せめて何か着させてくれっ!」
 何でも良い。ぼろ一枚だけでも羽織りたかったけれど、抱えられていてはそれも出来ない。暴れようにも、あちこちを掴まれていては動けない。出来ることと言えば、体を丸めて少しだけ身を隠すことだけだった。

 どこに行くのかともう一度聞いたが、帰ってきたのは笑い声だけ。色々と諦め始めていると、木々の揺れる音に交じって微かな水音が聞こえた。水音はどんどん大きくなっていく。頭を上げると、進行方向は少し開けて、その先に川が見える。
 白いのは川の傍に俺を下ろす。大きな川ではないが、水が澄んでいた。水面を覗き込んでいると、頭の上にばさりと手ぬぐいが掛けられる。顔を上げると、ざくりと音がして、その方を見ると鎖の繋がった杭が地面に刺さっていた、
「水浴び、出来るか。溺れるほど深くは無い」
「ああ、大丈夫」
「そうか、そうか。黒いの、手が掛からん、良い子だ」
「……ありがとう」
「くききき」
 頭を撫でてから、白いのは離れていく。目で追うと、少し離れた場所で持ってきた着物やらぼろを洗い始めていた。

 手ぬぐいを濡らして、体を拭く。川の水は冷たくて、さっぱりした気持ちになる。あいつの言う通り、川は膝下ほどの深さしかなくて、思い切って体ごと入った。
 座り込むと、ごつごつした石の感触に尻が痛い。それでも冷たい水がとても心地よくて、心の奥まで洗われているような気分だった。
 さっぱりすると気分も落ち着いてくる。突然現れたあの女のことも、幾分冷静に見ることが出来た。
 思い返せば、何故あんなに不気味に感じたのかわからない。ただの女なのに、あの整った顔立ち、特に塗りつぶした真っ黒な目が妙に怖かった。そう感じるのは、俺が色々思い出せないことと関係しているのだろうか。それともあの女自体が何か違うのだろうか。

 さらさらと透き通る川の水を見ていると、女の言葉が脳裏に浮かぶ。
 濁り、真水。濁りに真水を加えても、濁り自体が消えることはない。真水は一度濁ってしまえば元には戻れない。そんなことを言っていた。
 あの女は自分を濁りだと言い、俺を真水だと言った。じゃあ、白いのはどうなるのか。

 頭を上げると、向こうに白いのが見える。白髪、赤い目、背中からは数多の腕がずるずると這い出て、汚れ物を洗っている。見た目は異形だけれど、行動は人そのものだ。
 女は白いのと真逆の存在だとも言っていた。あの女が濁りを薄めたいと思うなら、白いのは真水が濁って、ああなった? つまりは、白いのも元は俺と同じように普通の人だったのだろうか。
 それなら、俺もああなるのだろうか。水面に映った自分の顔を見つめ返す。記憶はないが、これは間違いなく自分の顔だ。これが、自分ではなくなることがあるのだろうか。
 もやもやと込み上げる考えを流す様に、勢いよく顔を洗った。人間があんな異形になるなんて、そんなわけない。ありえない。あの変な女の言うことを何故鵜呑みにしているんだろう。
 頭を振って、考えを追い出す。濡れた髪から水滴があちらこちらに散った。

 川から上がると、白いのがそろそろと近付いてきて、乾いた手ぬぐいで体を拭かれた。自分でやると言ったけれど、毎度のことながらくききと笑うだけ。体を拭われ、かと思うと裸のまま再び持ち上げられる。来た道をゆっくりと戻る足取りに、何故か安心したものを感じた。
 戻ってきた小屋はいつの間にか安心する場所になっていた。ぎいと鈍い音と共に扉が開き、中に入る。大きく広がった染みは変わらずそこにあった。

 するすると伸びた腕が乾いた着物と下履きを持ってきて、抱きかかえられたまま着せられる。その間に、水溜まりを避けた場所に違う布が敷かれて、着替えが終わるとその上に下ろされた。
「くききき、飯、食うか」
「食べる」
 かまどに火が点り、米が炊かれる。今まで感じなかったのに、突然空腹を感じた。

 お前は、元々人間なのか。先程から同じ疑問がぐるぐると回っている。口にしようとしたけれど、喉の奥が詰まったように声が出なくなる。聞いてしまえば、明確な答えが返ってきてしまえば、自分が自分でいられなくなるような恐怖を感じた。
「くききき、女、何か言ったか」
「……あいつ、人じゃないのか」
「さあな。人か、蜥蜴か、蛇か、はたまた亀か。何にせよ、碌でもないものだ」
「じゃあ、白いの、お前は」
「くききき、さあ、どうだろうか」
 明確な返事はなかった。ただ、はぐらかされているようには感じなかった。どちらかと言うと、答えられない、もしくは、答えを知らない、そんな風に言っているように感じた。
「大丈夫だ、黒いの。汚させんよ」
 くきき、白いのは笑う。大丈夫だと言われると、不思議と心が落ち着いた。疑問は何も解消していない。記憶は変わらず真っ白だ。でも、ここにいれば大丈夫だと、何故か思った。

「なあ」
 白いのは背中を向けたままだ。長い白髪が返事の代わりに揺れた。
「俺の名前、知らないか」
「知らん。悪いな」
「……じゃあ、何か呼び名をくれないか。何でも良いから、俺の名前と言えるものが欲しい」
「黒いの、駄目か」
「それはなんか、収まりが悪いんだ」

 白いのは首を捻ると、何かをこちらに投げた。こつりと床に当たったそれを掴む。
「どんぐり?」
「そういうのか。くきき、黒いの、物知りだ」
 ぱちぱちと火が燃える。かまどの横で、串に刺された魚が香ばしく焼けていた。
「つるばみ。そいつ煮ると、黒い染め物できる」
「つるばみ」
「わあ、頭良くない。自分で考えてくれ。それまで使うと良い」
 つるばみ。声に出さず、胸の中でもう一度言ってみる。正直しっくりとは来ないから、本当の名前とは違うのだろう。でも、嫌な響きではない。
 しばらくは名前として使わせてもらう言葉だと思うと、どことなくくすぐったく感じた。

 くききき。気味の悪い声なのに、何故かそれに安心を覚え始めた自分に気付く。それだけではない。この壊れ掛けた小屋すらも、安心できる場所になっていた。
「飯、出来た。黒いの、食え」
「折角くれたんだから、名前呼んでくれよ」
「くききき、そうだった。つるばみ、好きなだけ食え」
「うん。ありがとう」
 茶碗に盛られた炊き立てのご飯。手に持つと、くうと腹が鳴る。手を合わせてから、口に運ぶ。

「お前は名前ないのか」
「さあ、何だったか」
「じゃあ、俺が何か考えても良いか」
「くききき、好きに呼べば良い。白いのでも、それ以外でも」
 俺が黒いのだったから、勝手に白いのと呼んだ。俺がつるばみなら、何と呼んだらいいだろうか。米を頬張りながら、新しい呼び名を色々と考えるのはとても楽しかった。

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初出: 2020年12月6日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2020年12月6日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。