心臓が大きく鼓動を繰り返して、今にも飛び出してしまいそう。息が上手く出来ない。胸が苦しい。それでも必死に足を動かす。
後ろから大きな音。時折、大きな塊が落ちて、地面が揺れる。足が縺れそうになるけれど、とにかく前に進むことだけを考える。
私の少し前を走る兄が肩越しにこちらを見る。口をパクパクさせて何か言っているけれど、周りの音が大きすぎて聞こえない。その言葉を聞き取ろうとして、一瞬気が逸れる。その瞬間、足が何かに引っかかった。
そのまま体が前に倒れていく。体が地面にぶつかる。その痛みより、後ろから迫る地鳴りが先に響いた。まずい、何とかしないとっ……! そう思うと同時に、強い力で腕をぐいと引かれた。
兄は大きな袋を片手で抱えて、反対の手で私の腕を掴んでいた。そのまま、私を引きずって前に進む。足が地面の瓦礫に当たって痛む。けれど今はそんなことどうでも良かった。
天井が無くなって、青空が広がる。外だ。兄は大股で建物から離れると、私の手を離した。私はそのまま土の地面に倒れ込む。そのまま、呼吸を繰り返すことしか出来なかった。
背後で大きな音がした。体を起こして振り向くと、さっきまで私たちがいた建物は崩れ落ちていた。
あと少し遅かったらと思うと、ぞっとする。でも、間に合った。無事に生きている。ふう、と息を吐いてから、安堵からか頬が緩んだ。
「大丈夫か?」
兄さんは抱えていた袋を私の傍に置くと、膝をつく。まだ息が整わないので上手く喋れない。頷いて返事をすると、兄は目を細めた。
「足、ごめんな。ああするしかなくて。今、手当てするから」
そう言って、背負っていたリュックを下ろすと、中から袋を取り出した。
「とりあえず応急処置。町に戻ったら、薬を買ってくるから」
兄が袋を広げている間に、膝を立てて座り直した。見ると、膝の辺りから足首まで擦り傷や切り傷が出来ている。数は多いけれど、深い傷は無さそうだ。
兄が温くなった水を足に掛けると、傷にじんじんと沁みる。その痛みに思わず顔を顰めた。
「ごめんな、ちょっとだけ我慢」
「んんっ、大丈夫……」
「本当にごめんな。ちゃんと良い薬買って、跡が残らないようにしてやるから」
「大丈夫だよ、兄さん。私が転んだのが悪いんだから。もっとたくさん走れるように頑張るよ」
兄は目を細めると、残った水で自分の手を洗う。それから軽く水気を払うと、綺麗な包帯を取り出して私の足に巻いていく。
「包帯、別にいらないよ?」
「だめ。これからもう一度森を抜けるんだから、保護しておかないと。雑菌が入ったら大変だ」
そう言っている間に片足には包帯が綺麗に巻かれていた。反対の足も同じように手当がされる。膝下から足首まで白い包帯が巻かれ、その下には元々履いている茶色のショートブーツが続く。
「ちょっとおしゃれなブーツみたい」
「はは。今度、本物を買おうか」
「ううん、いらないよ。今の靴、気に入ってるから」
兄はリュックに荷物を片付けると、今度は大きな袋を引き寄せて、私の前に置く。縛っていた口を開くと、袋の中身が日差しを受けてきらりと輝いた。
「綺麗だね」
「ああ。これは高く売れるはずだ。晩飯は美味い物食べような」
兄が袋の中に手を入れて、無造作にひとつ取り出した。それは輪っかになっていて、青い石がぐるりと並んでいる。宝飾品の知識はないけれど、多分ブレスレットだ。飾り立てる石はどれも小さいけれど、等しい大きさに整えられていて、手が掛けられていることは何となくわかった。
その美しさをじっと見つめていると、兄が私にブレスレットを私に持たせてくれた。少し掲げてみると、どの石も日差しを受けて輝いていた。
袋の中には他にもアクセサリーが詰め込まれていた。ネックレスに指輪、サークレット。他にも見たことがないような様々な物がたくさん。そのどれもに青い石が埋め込まれている。
「すごいなあ。お姫様が付けていたのかな」
本当に綺麗で見惚れてしまう。
お宝を探し求めるときは大変だけれど、こうして手にしていると疲れも吹き飛んでしまう。手に入れた物は町で換金するので、手元にあるのは僅かな間。それでもこの一瞬だけは私達のものだと思うと、嬉しさで胸が温かくなった。
「ありがとう、兄さん」
少しの間眺めてから、兄にブレスレットを返す。でも兄は受け取ろうとせず、何も言わずに見ているだけだ。どうしたんだろうと思って、もしかして私が傷でも付けてしまったんじゃないかと慌てた。
顔のそばに近づけて傷を探そうとした時、兄は何も言わずに私の手を取った。それからブレスレットをやっと受け取ったかと思うと、そのまま私の左手首に通してしまった。
「うん、良いな。よく似合う」
その言葉に、ぴたりと嵌まったブレスレットを軽く持ち上げてみた。きらきら輝く青い石は見れば見るほど美しい。それが自分の手首にあると思うと、嬉しいけれど恥ずかしくて、少しむず痒く感じた。
「たまには良いんじゃないか。一個、貰っちゃえ」
その言葉に驚く私とは正反対に、兄は温かな目をしていた。私の腕とブレスレットを大きな手で撫でて、その様子は満足そうだった。
「ぴったりだな。お前の為に作られたのかってくらい丁度良い」
「兄さん、そんなの良いよ。私、見てるだけで充分だから」
「まあまあ。これだけたくさんあるし、たまには良いじゃないか。頑張ったし、ご褒美にひとつ貰っておきなさい」
兄さんがそう言うなら良いのかな。自分の手首を軽く持ち上げて、ブレスレットを眺める。兄が言う通り本当にぴったりで、私のサイズに合わせて誂えたかのようだった。
「本当に良いの?」
「もちろん。お前も女の子だし、ひとつくらいこういう物を持ってないとな。
本当なら、店売りの手入れされた物の方が良いんだろうけど。悪いな」
「ううん、嬉しい! ありがとう兄さん!」
ブレスレットを自分の手で撫でる。青い石はつるりとしていて、ひんやりと冷たい。これが自分のものだと思うと本当に嬉しくて、つい腕を上げて兄さんに見せてしまう。
「似合う?」
「ああ、似合ってるよ。青色がお前には合うな」
「えへへ、ありがとう」
兄さんは笑うと、袋の中身を一瞥して、再び口を締める。それを自分のリュックに入れると、背負いなおした。
「そろそろ行こうか。歩けるか?」
「うん、大丈夫」
「遅くなるだろうけど、今日中に町には戻れるから頑張ろうな。でも、疲れたらちゃんと言うように」
返事をしながら立ち上がる。包帯を巻いた足は少し気になったけれど、歩いたり走ったりする分には問題なさそうだ。
「足、痛かったら早めに言うんだぞ」
そう言って兄も歩き出す。隣に並んで足を動かしながら、つい左手を持ち上げてブレスレットを見てしまう。そんな様子を兄はしっかり見ていたようで、目が合うと見守るような柔らかな目で微笑まれた。
+++
鬱蒼とした森を歩く。足元が悪いけれど、崩れる建物の中をあれだけ走ったことを思えばどうということはない。倒木を乗り越え、茂みを踏みしめ、随分歩いたけれど、まだ森を抜ける様子は見られない。
木々が空を覆い、まだ日中だというのに辺りは薄暗い。時々、木々の隙間から温かな日差しが差し込むけれどほんの僅かだ。折角良いお天気なのに勿体ないなあ、と内心思う。
「あ、ちょっとだけ待っててくれるか?」
兄はそう言って突然足を止めた。どうしたんだろうと私も立ち止まると、兄はきょろきょろと辺りを見回す。
「トイレ。ちょっと待ってて」
返事をすると、兄は少し照れたように笑って、木々の陰に姿を消した。その場でじっと待ちながら、手持ち無沙汰で何となく視線を落とす。
さっき巻いてもらった白い包帯はやや汚れてしまっていた。大した傷でもないし、ある程度開けた場所まで出たら外しても良いんじゃないか。そんなことを考えていると、ぶるりと悪寒が込み上げた。
……兄さんが戻ってきたら、私も行こうかな。思い返せば、町を出るときに済ませたっきりだ。さっきまでは全然感じていなかったのに、一度意識してしまうとその感覚は一気に強くなる。ぶるりと体がひとりでに震えた。
少しすると、がさがさと茂みを踏み分ける音が聞こえて、兄が戻ってきた。
「……あの、兄さん、私も」
「ああ、行っておいで」
兄は快く送り出してくれる。兄が先程行ったのとは逆の方へ草木を踏みしめて進む。ある程度離れたところで、辺りを見回した。
生き物の気配は無く、兄の位置からも見えないだろう。それを確認してから、ズボンのベルトに手を掛けた。
こんな生活をしていると、こうして野外で用を足すことは珍しくない。でも、何度経験してもやっぱり慣れない。それでも、初めての時程の抵抗は無くなった。
はやく済ませて戻ろう。そう思うのに、なかなかベルトが外れない。金具にいつもどおり触れて、いつもどおり動かそうとしているのに、おかしな程に動かない。視線を落として手元を見るけれど、ちゃんと金具を持っている。それなのに、思ったとおりに動かない。
なんで、どうして? 疑問に思いながら手を動かすけれどやっぱり外れない。もしかして、さっき引きずられたときに壊れてしまったのだろうか。でも見たところ、異常は見当たらない。
力を入れてみても、金具は鉄の塊になったかのように硬くて、全く動かない。その意味が本当にわからなくて、ベルトに触れたまま固まっていた。
じっと立ち止まっていると、内側で込み上げるものが強くなっていく。
どう、しよう。なんで脱げないんだろう。しばらくその場で外そうと頑張ってみたけれど、結局外れる兆候は欠片もなかった。
まだ我慢できるとは思う。もしかしたら、森の中だから無意識に緊張してるのかもしれない。森が開けるところまで行ったら、もう一度行かせてもらおう。そう決めて、仕方なくそのまま兄の元へ戻った。
「おまたせ」
兄は特に何も言わず、歩き出す。その側について歩きながら、頭の中はさっきの件でいっぱいだった。
+++
歩いて、歩いて。結構な距離を歩いているのに、なかなか森は開けない。けれど、道中に目印にしていた細い川が見えてきて、前に進んでいると実感することができた。
鬱蒼とした森の中、今度は川沿いをまっすぐ歩く。しばらくはこのまま川に合わせて歩けばいいので、道に迷う心配はなさそうだ。
ふたりで草木を踏みしめる足音と、時折リュックを背負い直す衣擦れの音だけが聞こえていた。
「やっぱり距離あるな。大丈夫か?」
「……うん」
「足、痛まないか? 休憩しても何とかなるから、遠慮せずに言うんだよ」
「……うん、ありがとう」
兄の気遣いの言葉も頭に全然入ってこなくて、適当な言葉を返してしまった。足を動かしながら、頭の中はトイレのことでいっぱいだった。
もう少し我慢できると思っていたけれど、ちょっと厳しいかもしれない。お腹の下がずっしり重い。じいんと腰のあたりに響くような欲求が体の内側から鈍く突いているのがわかる。
トイレ、はやく行きたい。……もう、大丈夫かな。落ち着けばちゃんと外せるはず。きっと、大丈夫だ。
頭のてっぺんから足の先まで大きな波が走り抜けて、ぶるりと体が震える。その振動がお腹の奥、大きく膨らんだ水風船にじいんと響く。あ、あ、だめ、トイレ行きたいっ……! 背筋がぴんと伸びて、足の爪先ににぎゅっと力が入る。
足元の状態はそれなりに落ち着いてきて、歩きやすくはなってきた。でもまだまだ森の中で、町まではまだ遠い。
我慢、我慢。浅く呼吸を繰り返し、必死に力を込めて、衝動をやり過ごす。
そうしていると波が落ち着いて、少しだけ余裕が戻ってきた。でも、お腹が重いのは変わらない。ぞくぞくとした悪寒はまだ体の中で燻っている。
はやく、トイレ行かないと。そう思いながら、兄の側でとにかく前に進む。もう少し森が開けたら、そう思うけれど、まだ辺りは鬱蒼とした森が続いている。
もう少しだけ、あとちょっとだけ。そう思っていると、また大きな波が走り抜ける。さっきよりもずっと強い衝動に、体がひとりでに身震いする。
あ、あ、だめ、トイレ、おしっこっ……! 荒れ狂う波に抗おうと、体に力が籠もる。両足の付け根、出口がひくひく疼く。トイレトイレトイレ、トイレっ、おしっこしたいっ……!
もう少しだけ、我慢。さっきまではそう思っていたけれど、もう無理だと全身が叫んでいた。
「あっ、あの、兄さん!」
声を掛けると、兄は足を止める。
「っ、と、トイレ行ってくる!」
兄が何か言うより先に、背を向けて走り出す。川とは反対側、森の茂みの方へ走る。「気を付けろよ」と兄が言うのが聞こえた。
適当な茂みに隠れて、すぐにベルトに手を掛ける。辺りを窺う余裕は無かった。出来るだけ落ち着いて、でも出来るだけ急いで金具を外そうとするけれど、やっぱり外れない。
「な、んで、外れないのっ……?」
じっとしていられず、両足が足踏みを繰り返す。がさがさと草木を踏む音が辺りに響く。
はやく、はやくはやくはやくっ……! 気持ちだけが焦るけれど、手はベルトの上で無意味に滑るだけ。
もう無理やりにでも脱ごうとズボンを下に引っ張るけれど、脱げるはずもない。
どうしよう、どうしよう! トイレトイレトイレっ、おしっこ、おしっこしたいっ……! それなのに、力をどれだけ入れても金具が動かない。そうしている間にも、お腹の奥ではじんじんと疼くような感覚が強くなっていく。
波はじわじわと強くなり、ぶるりと体が震える。両足の付け根、出口がじいんと疼く。込み上げる欲求に体を捩る。足踏みしていないと我慢できなくて、がさがさと足が草を踏む音がし続ける。
森の中、長時間ひとりでいるのは良くない。はやく兄の元に戻らないと。なにより、もう本当に我慢の限界だから、はやくおしっこがしたい。それなのに、ベルトが外れない。服が脱げないから、出来ない。
どうしよう。頭がいっぱいいっぱいでぐちゃぐちゃだ。おしっこ、おしっこしたい、どうしよう
、どうしようっ……!
ぞくぞくと悪寒が強くなる。おしっこがしたいのが落ち着かない。あ、あ、だめ、おしっこ、おしっこっ……!
大きな波が一気に押し寄せる。咄嗟に、ズボンの上から出口をぎゅううっと押さえた。手で物理的に塞ぐと少しだけ楽になる。ふうふうと呼吸を繰り返して、必死に落ち着ける。
もう駄目、本当に駄目。でちゃうっ、おしっこでちゃうっ……。もう一度ベルトに触れても、やっぱり駄目。金具は鉄の塊のように動かない。
ぎゅううっと出口を押さえて、足踏みを繰り返す。体の内側で暴れまわる波は全く収まらない。
だめ、だめだめだめっ、おしっこ、おしっこおしっこおしっこっ……! ほんの少し波が収まった瞬間、出口を押さえた手を離して、来た道を速足に引き返した。
「ああ、おかえり」
兄は腕組して手持ち無沙汰に立っていた。穏やかな視線に飛び付くように距離を詰めた。僅かな間もじっとしていられなくて、両足がもじもじと動いていた。
「兄さんっ、助けてっ……!」
「えっ、どうした!? 何かあった?」
じわりと視界が滲む。兄の声はひっくり返っていて、驚いているのがよくわかった。
「べ、ベルトっ、はずれないのっ……!」
兄は視線を下げる。視線の先、大きく膨らんだお腹が重くて苦しい。おしっこが出したくて出したくてたまらない。
でも我慢しないといけない。必死に我慢して、でももう限界で、ぴたりと寄せた両足がもじもじと擦り合わせるのが止まらない。
「触っても良いか?」
返事をする間も惜しくて、何度も頷く。兄の大きな手が私のベルトに触れる間、激しい波を堪える為に、ぎゅうっと手を握り締めた。
はやくはやくはやく。何でも良いから脱ぎたい。おしっこがしたくてしたくて堪らない。
指先がベルトの金具を弄る。これで外れなかったらどうしよう。最悪、ベルトごと切るしかないのだろうか。不安になりながらじっと見つめていると、兄の手は何の障害もなくするりと外してしまった。
「はい、外れた。……大丈夫か?」
あっけなく外れた金具に、思わず呆然とした。あれだけ固くて動かなかったのに。男と女の力の差なのか、私が何かおかしいことをしていたのか。よくわからなかったけれど、とにかく外れたことは確かだった。
「あ、ありがとう……!」
お礼を言いながらも、既に背中を向けて走り出していた。兄にどう思われたか、今の私がどう見えているのかを考える余裕は無かった。
さっきよりずっと手前で足を止める。身を隠せそうな茂みを見つけた瞬間、そこに飛び込んだ。ズボンのボタンを外して、下ろして、しゃがみ込む。たったこれだけの動作をするだけだ。
はやく、はやくはやくはやくっ……! 体は限界だと叫び続けている。出口がじんじんと疼いて、じわりと熱い雫が滲む。咄嗟に片手で押さえて、ばたばたと足踏みを繰り返しながら反対の手でズボンのボタンを弄る。
はやくしないといけないのに、今度はズボンのボタンが外れない。
どうして、なんでっ……? 片手じゃ駄目なのかと、両手でズボンの前に触れる。押さえを無くした出口はひくひく疼いて、今にも中身が噴き出してしまいそう。両足をぎゅうと交差させて、そのまま体を揺すって必死に我慢する。
ああ、だめ、でちゃうっ、おしっこでちゃうっ、なのに、なんではずれないのっ……! 両手でちゃんと掴んでいるのに、全然外れない。引っかかっているとか噛んでいるとかそういうわけじゃない、まるでボタンや布地ががっちりと固まってしまったかのように動かない。
そこで初めて、何かがおかしいのではないかと頭に過った。けれどそれ以上考える余裕はない。とにかくおしっこがしたくてしたくてたまらなくて、それ以外のことは考えられない。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
だめ、でちゃうでちゃうでちゃう、おしっこ、おしっこでちゃう、ほんとにでる、だ、めぇっ……!
ぎゅううっと手でズボンの上から押さえる。それでもおしっこがしたいのは収まらない。だめ、だめだめだめ、でる、おしっこでる、でるっ……!
どうしようと考えることも出来なかった。恥ずかしかったけれど、ぎゅうぎゅう押さえていないと、今にも溢れ出してしまいそうだった。
振り向いて、足元を踏みしめ、泣きそうになりながら足を動かした。走りたかったけれどそれも出来ない。出来る限り速足に進む。
兄の背中が見えた時、声を掛けようとした。兄さん、助けて、と言おうとした。けれど、それより先に足が止まる。
あ、あ、あ、だめ、だめだめだめ、でる、おしっこ、おしっこでちゃう、だ、め、だめっ……! ぎゅううっと押さえるけれど、全然落ち着かない。
熱いおしっこが一気に押し寄せる。全身が固く強張る。だめだめだめ、だめ、だ、めっ……! ぎゅううっと押さえて、身を揺すって、必死に我慢しているのに、全然収まらない。
じゅう、と出口に熱い感覚。下着に温かいものが広がる。あ、あ、あっ……! だめ、だめなのに、でも、でもっ……。強く押さえて、これ以上だめだと我慢しているのに、止まらない。
ぶじゅ、とくぐもった水音。また出口が熱く濡れる。下着がぐっしょり濡れる。あ、あ、ああ、あっ……! だめ、おしっこ、でる、でちゃう、で、ちゃ、あ、あぁっ……!
じゅうう、と水音がして、指先が濡れる。顔を上げると、兄の背中があった。その向こうに広がる木々の間から、森の緑色や茶色とは違う色が見えた。
ブレスレットの石のような、青色。それが何か、頭に過った瞬間、もう他のものは見えなかった。
足を動かす。重いお腹が揺れる。出口がひくひく疼く。ぶじゅ、とおしっこが噴き出す。
下着が、ズボンが濡れて、手が濡れて。踏み出す足に、熱いものが伝う。包帯がじわりと温かく濡れていく。
あ、あ、あっ……! 頭がぐちゃぐちゃで、自分でもよくわからない。ただ、ただ足を動かして、前に進む。
「あ、おかえ……」
兄さんが声を掛けるのが聞こえる。返事をすることも、足を止めることも出来なかった。
兄の前を通り過ぎ、木々の隙間を通り過ぎる。じゅ、じゅう、と足を踏み出すたびにおしっこが溢れる。
手が震える。足が震える。立ち止まりそうになって、歩幅が小さくなる。
びちゃ、と足元に液体が落ちる。我慢しているのに、じわじわと熱い雫が溢れて止まらない。
だ、め、だめだめだめ、だめ、だめぇっ……! もう気力なんて欠片も無かったけれど、気持ちが背中を押して、足が動いた。
縺れた足で川に飛び込んだ。足元が滑って、そのままべちゃっとお尻をついてしまう。ごつごつとした川底の石をお尻に感じて、それ以上は動けなかった。
冷たい水が流れていて、晒されたお尻が、両足が冷たく濡れる。足に巻かれた包帯が水を吸っていく。
川は思ったよりも浅く、お尻をついても腰の辺りまでしか濡れなかった。
冷たさの中、両足の間、出口が熱く濡れる。
ああ、も、う、だめっ……。体がぶるりと震える。そして、じゅーっと熱いおしっこが噴き出した。
じゅー、ぶじゅー、じゅうう。川の流れに交じって、おしっこが噴き出して、冷たい水へ混ざっていく。水音が体の中に響いている。
おしっこ、おしっこっ……、おしっこでてる、やっと、だせたぁっ……!
ぽかんと口が開いていた。はあ、と熱い息が漏れる。全身、火が付いたように熱い。はあ、はあ、と息を繰り返しながら、真っ白な頭で惚けていた。
ただ気持ちよくて、その快感で頭の芯がじんと痺れていた。ごつごつとした石の床はお尻が痛かったけれど、そんなことはどうでも良いくらい、ただ気持ちよさしかなかった。
+++
自分でも驚くくらい、いっぱい出た。
川の中にずっといるせいか、お腹が軽くなる頃には手足が冷え切ってしまって、悪寒でぶるりと体が震えた。
……すっきり、した。さっきまではあんなに体が火照っていたのに、今は寒くて仕方ない。
立ち上がろうとして、手足が震えていることに気付いた。我慢しすぎた反動か、それとも体が冷えたからか。震える膝でゆっくり立ち上がると、横から手が伸ばされた。
「大丈夫か?」
聞き慣れた安心する声。視線を向けると、いつの間にか近くに来た兄が少し気まずそうな顔でこちらを見ていた。
「……うん、だい、じょう、ぶ」
「それなら良かった。ほら、掴まって」
そう言って、兄は川辺から手を伸ばす。その手に触れようとして、自分の手が濡れていることに気付いた。手首を覆う青いブレスレットから雫が落ちて、川の流れに戻っていく。
「大丈夫、だよ。兄さんまで濡れちゃう」
「それくらい気にするな。ほら」
兄はそう言って、伸ばしかけた私の手を握る。濡れていることも気にせずにしっかりと掴むと、そのまま力強く引っ張ってくれた。兄の手を支えに震える膝で立ち上がって、川から出ることができた。
腰から下はぐっしょりと濡れていた。日が傾き始めたのもあってか、濡れた体は寒さを強く感じる。
「着替えるか?」
兄の言葉に頷こうとして、こうなってしまった原因を思い出した。
何故か服が脱げない。そんなことを言って信じてもらえるだろうか。おずおずと見上げると、兄はただ見守るように温かい視線を向けている。
「兄さん、あの、ね」
「ん? 何でも言ってごらん」
一度息を吸って、落ち着いてから、感じた通りのことを口にした。
ベルトが外れないと思ったら、今度はズボンが脱げなかった。もしかしたら、服が脱げない状態になっているのかもしれない。でもそれが何故かはわからない。
ぽつぽつ、言葉を繋げる。兄はこちらをじっと見て、目を逸らすこともなく、笑うこともなかった。
「……ズボン、俺が触ってみても良い?」
頷くと、兄の手がお腹の前に伸びてくる。濡れたズボンに触れた手は、私のお腹にも当たっていた。体が冷えているせいか、とても温かく感じた。
兄の手はズボンのボタンに触れると、簡単に外してしまった。私が触れた時とは全然違う。何の抵抗もなく、すんなりとボタンを外したことが信じられなくて、兄の手元を呆然と見ていた。
私が固まっていることに気付いたのか、兄は私の肩を軽く撫でた。
「とりあえず、着替えてから考えよう。そのままだと風邪を引くから」
「う、ん……」
「リュック、底が濡れてるな。中の着替えまで濡れてなければいいんだけど。下ろしてごらん」
言われるがままにリュックを下ろす。しゃがみ込もうとして、濡れた包帯が変な形で張り付いて、足が動かしづらくなっていることに気付いた。兄はそれにすぐ気付いたようで、先に私の足元に手を伸ばした。
「包帯、先に外そうか。触っても良いか?」
頷くと、兄が私の足に触れて、張り付いた包帯を外していく。反対の足は自分で外そうと、先端を指で摘まむ。そこで気付いた。
包帯が全く動かない。体が冷えて力が入りづらいのもあるけれど、だからと言って包帯を外すくらいは出来るはずだ。それなのに、まるで包帯が何かの塊になってしまったかのように固くて、全く動かせない。
ベルトの金具やズボンのボタンと同じだ、と気付いて、やっぱり何かおかしなことになっていると確信を持った。
包帯を摘まんだまま固まっている私を見て、兄が怪訝そうに見ていた。
「兄さん、私、外せない……」
私が手を離すと、兄が代わりにそこを持つ。私が触れた時は全く動かなかった包帯が、兄の手の先で簡単に剥がれていく。その様子をただ見つめていると、兄は何かに気付いたようにはっと表情を変えた。
「……もしかして」
兄は包帯を剥がし終わると、慌てた様子で私の左手を掴んだ。兄の手の中、私の手首で濡れたブレスレットは変わらず輝いている。不思議な程に私の手首にぴったりな、青い石のブレスレット。
もしかして、と私も気付いて、兄より先に自分で触れた。付けるときは簡単に広がった金具が、まるで接着されてしまったかのように動かない。ベルトやズボンのボタンの時と同じだ。
私が視線を向けると、今度は兄が触れる。さっきまではベルトもズボンのボタンも簡単に外した兄の手が、今はブレスレットの金具を全く動かすことが出来なかった。兄はしばらくブレスレットを弄っていたけれど、結局外すことは出来なかった。
「呪いの類かもしれない。身に着けているものを外せなくなる呪い、とか」
兄は暗い声で呟いた。
遺物に呪いが掛かっていることは時々ある。でもそういうものは見た目からして毒々しかったり、触れた瞬間に何らかの気持ち悪さを感じることが多い。
でも、このブレスレットにはそういう物は感じなかった。ただ、感じさせないくらいに高度に隠されている可能性もないことはないと思う。
「そういう呪いもあるんだね。知らなかった」
「……悪い。俺が考え無しに付けさせたからだ。ごめんな」
そう言って兄は私の手を撫でる。申し訳なさそうな表情に、そんな表情をさせてしまったことを申し訳なく感じた。
「兄さんのせいじゃないよ。私も気に入ってたから」
「本当にごめんな。町に戻ったら、呪いを解いてくれる人をすぐに探すから」
「うん、大丈夫だよ。だから、そんな顔しないで」
沈み込む兄を宥めて、とにかくまずは着替えようとリュックを下ろした。底は濡れてしまっていたけれど、着替えの袋は運よく濡れていなかった。それを取り出して中身を取り出して、あることに気付いた。
「兄さん、あの……」
「ああ、手伝うよ」
自分では脱げないから、兄に脱がせてもらうしかない。兄は何てことないように了承してくれたけれど、私は意識せずにはいられない。いくら兄だからって、見られるのは恥ずかしい。
「絶対見ないでね。見ちゃ駄目だよ」
「わかってるよ。出来るだけ見ないようにするから」
そう言って、兄は私のズボンに触れた。私では鉄のように固まっていた布地が、本来の衣類のように簡単に下ろされていく。
ズボンの下に隠れていた下着が露わになる。ぐっしょり濡れた下着に、羞恥が一気に煽られる。かあっと頬が熱くなるのがわかった。
「はい、足上げて」
兄は気にした様子もなく、普段通りの調子で言う。私ひとりが顔を赤くして、ぎくしゃくと足を動かしていた。
濡れて重くなったズボンが脱がされて、今度は下着。温かい手がお腹のあたりに触れる。それだけでどきどきして、体が強張った。
「服が脱げないなら、もっと早く言ってくれたら良かったのに」
「だって、そんな訳ないって思ったから……」
兄は顔を伏せたまま、下着をゆっくり下ろしていく。兄の手の感触に体が強張る。濡れて張り付いていた下着が肌から離れると、不快感が無くなっていく。
けれどその代わりに、自分の下半身を隠すものは何もないということを実感してしまう。手で隠してみたけれど、空気が直接触れて、すうすうとする感覚は変わらず、恥ずかしさはどんどん強くなっていく。
「何でも言ってくれたら良いからな。
もっとはやく脱がせてやれたし、俺の上着を貸してやるとかも出来たから」
「……うん」
「あんまり我慢しすぎると体に良くないよ。また前みたいに出せなくなったら大変なことに……」
「そ、それは子どもの頃でしょっ! 兄さんのばか!!」
只でさえ恥ずかしいのに、兄の言葉で更に恥ずかしいことを思い出してしまう。羞恥で全身が熱くて、もうこのまま消えてしまいたくなった。
兄の手が下着を下ろす。片足ずつ持ち上げると、下半身は完全に裸になった。兄が何か言う前に、慌てて背中を向けて、傍に置いていた着替えを掴んだ。
「タオルあるよ」
「置いといて!」
「はいはい。俺は後ろ向いてるから、何か困ったら言って。着替え、ゆっくりで良いから」
「……うん」
足音が聞こえて、そっと後ろを窺うと、兄はすぐ傍で背中を向けて立っていた。着替えの横にはタオルが置かれていて、それを取ってまずは両足を拭う。
肌は川で濡れて冷たくなっていた。膝下の傷が濡れたせいでじんわりと痛むけれど、気にするほどでは無さそうだ。お尻や両足の間も拭いてから、下着に足を通す。
脱ぐのは出来なかったけれど、着ることは問題無さそうだ。乾いた下着を履いて、予備のズボンを着ると、やっと気分が落ち着いた。
タオルを持って振り向くと、兄の傍で広げられた袋が目に入った。その中には濡れたズボンと下着が入っている。そこにタオルも入れてから口を締めた。
そうやって私がごそごそしている間も、兄は背中を向けたままじっと立っているだけだった。決してこっちを振り向かず、何も言わず、言ったとおりに待ってくれている。
荷物を纏めて、リュックに全て詰め込んでから、兄の背中にぎゅうと抱き着いた。
「兄さん、ありがとう。さっき、怒ってごめんなさい」
ぴたりとくっつくと、兄の体温を感じる。とても暖かくて、広い背中にはとても安心した。額を寄せると、兄がふっと息を吐いたのがわかった。
「気にしてないよ。もう良いのか?」
「うん。着るのは大丈夫だった」
「そうか。町についたら、まず解呪できる人を探すからな」
返事をして、兄から離れる。こちらを向いた兄と目が合って、互いに何となく笑い合う。それからリュックを背負いなおして、再び歩き始めた。
+++
日が落ちる頃、やっと町に到着した。宿に戻ると、なんと幸運にも宿泊者に解呪出来る人がいた。
快く了承してもらえて、私のブレスレットの呪いは解かれた。見てもらったところ、弱い呪いなので一度解いてしまえばブレスレット自体は普通のアクセサリーとして使えるとのことだった。
兄はそれを見届けると、早速宝飾品を売りに行く為に宿を後にした。私もついていこうとしたけれど、兄に止められたので、仕方なく部屋で帰りを待つことになった。
リュックを下ろして、荷物を広げて整理する。濡れた衣類を軽く洗って、見えないところに干す。それから体を拭こうと着ている服に手を掛けると、何の障害もなく脱ぐことが出来て、心底安心した。
体を拭いてさっぱりしたので、服を着なおす。ブレスレットは外してベッドサイドにそっと置いた。そのままベッドに横になると、思ったより疲れていたようで、ぐったりと疲労が押し寄せる。
目を閉じると寝てしまいそうだ。でも、兄はまだ色々と動いてくれているのだから、戻ってくるまではちゃんと起きていないと。そう思って重い瞼に抗うけれど、いつの間にかうつらうつらと微睡んでいた。
どれだけ経ったのか、半分夢の中にいたところで扉の開く音が聞こえて、慌てて目を開けた。
「ただいま。寝てて良かったのに」
「兄さんに全部任せて私だけ寝るなんて駄目だよ」
「良いんだよ。色々あって疲れてるだろうし、休めるときは休んで良いんだから」
そう言いながら、兄はリュックを下ろしてからベッド横の椅子に腰掛ける。それからポケットを漁り、取り出した小瓶を私へ差し出した。
「薬。後で足に塗って」
「ありがとう」
それから何故かわかりやすく項垂れると、大きなため息を漏らした。どうしたんだろうとベッドから起き上がり、近くに寄る。兄は顔を上げてこちらを見て、苦笑いを漏らす。
「聞いてくれるか」
「うん、どうしたの?」
「呪い、他の物にも掛かってた」
「えっ」
その瞬間、驚きはしたものの、考えればその可能性も充分あることに気付いた。思えば、あれだけ沢山あった宝飾品の中で、たまたま私が気に入ったあのブレスレットだけに呪いが掛かっている方が珍しい。
「ひとつひとつに小さな呪いが掛かっていて、一式で身に着けることで行動を制限できる一種の拘束具なんじゃないか、と聞いた」
拘束具と聞いた瞬間、袋の中で煌びやかに輝いていたアクセサリーの印象がとても恐ろしいものに塗り替えられた。
何故、あんなに煌びやかな宝飾品に呪いをかけて、拘束具にしたんだろう。考えても答えはわからないけれど、少し怖くなった。
「……私、あのブレスレット貰って良いの? 一式で効果があるなら、貰っちゃ駄目なんじゃ」
「ああ、それは大丈夫。
呪い付きは買い取れないと言われたから、全部解呪してもらって、普通のアクセサリーとして売ってきたから」
「そうなんだ。それなら良い……のかな」
ベッドサイドに置いたブレスレットに目をやる。ぴかぴか輝く青い石。呪いが掛かっていたとは言え、やっぱり見た目は綺麗だ。それを自分の手元に置いておけると思うと、色々考えながらも嬉しさが大きかった。
「まあ、純粋なアクセサリーとして見れば価値は結構あるから、良い値段がついたよ。
ただ、あれだけの数の解呪をお願いするとなると、そっちも良い値段がした訳で。
……悪い。ブーツ買ってやろうと思ってたのに」
兄が項垂れている理由がそこでわかった。
「そんなこと良いよ。少しでも利益になったのなら良かった」
「まあ、次に行くのに良さそうな場所も聞いたし、しばらく食べるには困らないくらいには残ったよ。
ただ、そのブレスレットに合うブーツを買ってやろうと思ってたんだよ。買えなくてごめんな」
「そんなの良いよ、あのブレスレットだけで充分。ありがとう、兄さん」
兄は眉を下げて笑う。それから、ベッドサイドに置かれたブレスレットを一瞥した。
「呪い、ちゃんと解けてたか?」
「うん。自分で脱げた」
「良かった。ほんと悪かったな。体は何とも無いか? お腹痛いとか気持ち悪いとか」
「大丈夫だよ。ありがとう」
ふう、と兄は息を吐くと、両手を上げて伸びをする。
これで今回の探索も一段落、今夜は柔らかいベッドでゆっくり眠れそうだ。
「俺も着替えるかな。水、ある? 体を拭きたい」
「うん、あるよ。そうだ、背中拭いてあげる」
「お前も疲れてるだろうに。でも、ありがとう。頼むよ」
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初出: 2022年1月10日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2022年1月10日