※男性(女装)、女性のおもらし描写があります。
寂れてどこか薄暗い駅を背景に、ぽつりと寂し気な人影が見える。つま先から順番に視線を巡らせ、私のセンスも案外悪くはないなと小さく頷いた。
ショートブーツはスカートの色と揃えてダークブラウンを選んだが、身長も相まって中々スタイリッシュに決まっている。
スカートは膝が少し隠れる程度の気持ち長めだ。プリーツやフリルがないシンプルなスカートは余計な柄がなく、その下からすらりと伸びる足を絶妙に引き立てている。流石に生足は寒いだろうと肌の色に近いストッキングを用意したが、ストッキングに包まれた足は生足よりも色っぽく感じた。
上半身は白いセーターで甘く可愛らしくをイメージした。ブラウスにカーディガンできっちりと引き締めるのも良いかと思ったが、白いセーターを選んだのは正解だったようだ。茶髪に白いセーターは良く映えていて申し分ない。
体型にあったサイズをきっちり選んだ為、服の上からでもきゅっと括れたウエストが主張している。反面、主張するものが少ない胸のあたりは大きめの飾りのついたペンダントでうまくカバーした。
スカートよりも少し明るい茶色の髪は肩にかかるほどの長さで、毛先が内側を向いてゆるりとカールしている以外には何もしていない。服装がシンプルな分、髪もそのままだとシンプルすぎるだろうかと少し不安だったが、飾り気のない真っ直ぐな髪型が予想に反して清楚な雰囲気を作りだしていた。
一つ難点を言うならば、目を隠してしまいそうな程の長い前髪が野暮ったく感じた。しかし、見方を変えれば清楚さに内気と淑やかさを加えているとも取れる。
舐め回すように視線を巡らせ、コーディネートの一つ一つに感想をつけていると、長い前髪の下から鋭く刺すような視線を感じた。視線を合わせると、黒に近い茶色い目が恨めしそうにこちらを見ていた。
「おはよ、よく眠れた?」
「……全然」
「ふふ、一緒だね。私も楽しみで全然眠れなかったんだー」
吐き捨てるように発された声は可愛らしい格好とは対照的だ。もう少し可愛らしく話してくれても良いものを。だが、可愛い格好で可愛げのない話し方をするというのも逆に可愛く思えてしまう。それを狙ってわざとぶっきらぼうに話しているのだとしたら、中々のやり手だ。
「……俺、あんたがこんな変態って知ってたら、付き合わなかった」
「こらカナちゃん、俺とか言わないの」
「カナちゃんって言うな!」
男性にしては高めだが、女性としては低すぎる声。囁くように話す分には女性の声に聞こえるが、声を張ったときは無理のある低さになる。
カナちゃん改めカナメくんはくりっとした茶色い瞳をきっと細めて私を睨み付けていた。
私が見立てた服を身に纏い、居た堪れない様子で私の前にいるのは恋人のカナメくんだ。社会人の私より年下、現役の大学生。中性的な顔付きは格好次第でそれはそれは可愛らしく仕上げるだろうと思っていたが、これほどまでに可愛くなるとは思わなかった。
男の子に女の子の格好をさせてみたい。叶うことならばその状態でデートがしたい。何かのはなしの流れで、私が自分の趣味を口にしたのが今日のデートのきっかけだった。カナメくんは案の定私の趣味に引いていたが、どういう心変わりか、一度だけなら私の趣味に付き合ってくれると言ってくれたのだ。
何度も夢に見た光景を実現できるだなんて、まさに夢にも思わなかった。何度も何度も想像して、カナメくんに似合うだろう服を一式揃えて、カナメくんに預けたのは一昨日のこと。本当に来てくれるとは思わなかったし、まさかこんなに似合うとは思わなかった。何でも言ってみるものだ。
「そう言ったって、今日はカナちゃんでしょ?
それともカナメくんって呼ぼうか? 私がカナメくんって呼んだら、男の子ってバレちゃうよ。男の子なのに女の子の格好して買い物してる変態だって周りの人に知られちゃうね」
「変態はあんただろ!」
「今更言われなくてもわかってます。
それで、どうする? カナメくんって呼ぶ?」
「……っわ、わかった。そのままで良い、から……」
「『そのまま』じゃわからないなあ。普段のままってことならカナメくんって呼んでってことかな」
「ち、ちがっ……! わかるだろ、普通っ!」
「ふふ、普通ってどっちかな、カナメくん」
「う……、か、カナっ……、カナちゃんって、呼んでくだ、さい……」
小さくなっていく声とは反対に、頬は赤く赤く染まっていく。律儀に“ちゃん”まで付けて言うあたりが彼の可愛いところだ。力一杯抱きしめてちゅうの一つでもしてやりたい衝動をぐっと飲み込んだ。
「ふふ、よろしい。じゃあ行こうか、カナちゃん」
「……はい」
手を差し出すと、ぎゅっと握られた。寂れた駅を背にして、バス停までの道をうきうきと歩きだした。楽しみで胸がどきどきして、背中に羽でも生えそうだと思った。
今日はバスで三十分程の場所にあるショッピングモールに買い物に行く予定だ。ショッピングモール自体は昔からあるものの、少し前に一部改装が行われたと聞いた。改装の中心は飲食店街だった様で、何やら美味しいお店が増えたとも聞いた。
今日のデートは昼食をそこで食べて、ついでに買い物をしようというコースだ。今、特別に欲しいものはないので、何か目ぼしいものがあれば買うし、なければ手ぶらで帰るかもしれない。
何より今日の一番の目的は隣にいるカナちゃんとのデートだ。
前々から可愛い格好をさせたいと思ってはいたが、まさかそれが叶うとは。しかも室内ではなく、外でのデート。未だに夢ではないかと思ってしまうが、ぎゅっと握られた左手の温もりが現実を伝えてくる。
駅から歩いて数分、バス停に到着する。バスが来る時間を確認しようかとしたところで、車のエンジン音がかすかに聞こえた。視線を上げると、向こうからバスがやってくるのが見えた。ナイスタイミング。幸先が良いとはこのことだ。
女性同士でずっと手を繋いでいるのもおかしいので、繋いでいた手を放してから停車したバスに乗りこむ。乗客は数人で、座席のほとんどが空いていた。
カナちゃんを二人掛けの椅子の窓側に座らせ、私がその隣、通路側に座る。扉が閉まる音がして、窓の外の景色は動き出す。
カナメくんはただただ俯いてシートに座っていた。長い髪が彼の表情を隠す。どんな顔をしているのかなと想像を巡らせていると、ぎゅっと私のスカートの裾が握られた。
「その、怖いから、握ってて良い?」
ぼそぼそと囁く様な声で彼は言った。細い声は車の走行音でかき消されてしまいそうなほど小さかった。
「車、苦手だった?」
小さく首を振って、彼は髪の隙間から私の方をちらりと見る。緊張のせいか、潤んだ瞳が色っぽく光っていた。
「その、人、いるから、俺、バレたら……」
頬を赤く染めてこちらを見てぼそぼそと話す姿は、誰がどう見ても可愛らしい女の子に見えるに違いないと思うのは、私の欲目があるからだろうか。
「大丈夫、可愛い女の子に見えてるよ」
「ほんと……?」
「うん、本当。けど、そうだね。“俺”って言わずに、“私”って言ってみようか。その方が女の子に見えるよ」
「わ、わたし」
「上手上手。可愛いよ」
「わ、わたし、頑張るから。だから、綾乃さん、助けてね。一人にしないでね」
先程より少し顔を上げて、カナメくんは言う。不安と恥じらいが混じったその顔はカナメくんと呼ぶのが憚られる程に嫋やかだった。そんなしおらしくされては、カナちゃんと呼ばざるを得ない。いじらしさに更に意地悪をしたくなったが、衝動をぐっと飲みこんで、私は頼れる大人のお姉さんを演じた。
「大丈夫、ずっと一緒にいるから。お買い物楽しみだね」
私の言葉に安心してくれたのか、強張っていた顔から少し力が抜け、カナちゃんはふにゃりと笑った。
その笑顔が可愛すぎて、写真に取って枕元に飾りたいと思った。手元にカメラがなかったので叶わなかったが。
何事もなく、私たちは無事に目当てのショッピングモールに到着した。腕時計を見ると、十二時三十分を少し過ぎたところだった。
「お腹空いたね」
カナちゃんは小さく頷いた。表情は先ほどより幾分柔らかくなっているが、まだまだ硬い。
入り口の大きな自動ドアを並んで通った。流石大型店舗といったところか、平日と言えども思ったよりも多くの人がいた。カナちゃんは大丈夫だろうかと様子を窺おうとしたとき、鞄をくいくいと引かれた。
「綾乃さん、ご飯あっちだって」
カナちゃんは飲食店街を指さして、小さな声で私に言った。小さな声ならば男性だとバレないだろう。カナちゃんの表情は少し固さはあるものの、私が思ったよりも落ち着いていた。
「綾乃さん?」
「ううん、何でもない。行こうか」
「うん」
並んで飲食店街まで歩く途中、ショーウィンドウに映ったカナちゃんの姿を見る。茶色いスカートを揺らし、少し俯きがちに歩くカナちゃんは、すれ違った他の誰よりも可愛い。誰よりも可愛いこの子は私の彼氏なんですよ、と大声で言って歩きたい気分だった。そんなことは決してしないけれど。
このショッピングモールには一度来たことはあるが、改装されたというのは本当の様で、半数以上のお店が私の記憶とは違っていた。昔はなかった洒落たイタリアンから、少し高級そうな料亭風のお店、はたまた鉄板焼き専門店など、バラエティ豊かなお店が並んでいる。
壁の店舗図を見ながら、カナちゃんに声を掛ける。
「カナちゃん、何が良い?」
「お……私が選んで良いの?」
「うん、良いよ。どこが良い?」
ぐるりと一通り目を通した後、カナちゃんはおずおずと指し示す。飲食店街の中央よりやや手前のそこは和食と大きく書かれている。店の詳細を見ると、うどん屋と書かれている。
「うどんで良いの?」
「うん。今日寒いし、うどん食べたい」
今日は私が昼食を奢るという約束だった。奢られる手前、遠慮したのかと思ったが、カナちゃんの様子を見る限り、本当にうどんが食べたかったようだ。そう言えばカナちゃん改めカナメくんは和食が好きだった。
「もっと高いものでも良かったのに」
「じゃあ、天ぷらつけても良い?」
「ふふ、良いよ」
「やった」
可愛らしい贅沢についつい頬が緩む。天ぷらで喜んでくれるなんて安いものだ。
お店の真新しい入り口を潜ると、お昼時を少し過ぎたのもあってか、他のお客は誰もいなかった。厨房から一番離れたテーブルに座り、注文を澄ませる。念のため、店員と話すのは私だけにした。
店員が厨房に戻るのを確認して、カナちゃんはぽつりと言った。
「バレてないかな」
「大丈夫だよ。じろじろ見る人、いなかったでしょ」
「けど、俺、身長170あるし。男としてはちっちゃいけど、女としてはでかいし」
「170センチある女性もいるから大丈夫だよ。それより、言葉が戻っちゃってるよ、カナちゃん」
「ぅあっ、ご、ごめんなさい……」
しゅんと俯いた姿も可愛らしい。一挙一動が可愛くて仕方ない。この時が永遠に続けばいいのにと胸の中で思うが、カナちゃんはそうではないようだった。
「はやく帰りたい……」
「そう? 私は凄く楽しいから、もっとゆっくりしたいな」
「綾乃さんの変態……。男に女の格好させて、デートして、それで喜んでるとかありえない……」
「ふふ、お付き合いする前に変態だって気付けたら良かったね」
「うう、好きになる前に気付きたかった……。何で、お……私、綾乃さんのこと好きになっちゃったんだろ……」
「嫌いになった?」
「好きだから困ってる……」
カナちゃんの言葉に胸がきゅんと鳴った。可愛らしいことを可愛らしく言うなんてずるい。
胸のときめきを噛みしめていると、店員がお盆をもって近付いてきた。会話を止めて待つ。テーブルの横に立った店員は私の前にきつねうどん、カナちゃんの前に天ぷらうどんを並べ、厨房へ戻っていった。
「ほら、お揚げを一枚あげるから、今日は付き合ってね」
「……かまぼこも欲しい」
「はいはい」
割りばしでうどんを持ち上げ、ふーふーと息を吹きかけて口に運ぶカナちゃんをただ見つめる。はふはふとうどんを食べる姿が可愛らしい。
「食べないと伸びるよ、綾乃さん」
「そうだね。いただきます」
温かいうどんで体を温まった体に、食後のほうじ茶を染み込ませる。
カナちゃんは湯呑を両手で持ち、ふうふうと息を吹きかけながら口を付けていた。ごくりと喉が動き、美味しかったのか表情もほわりと和らぐ。
「美味しかった?」
ほうじ茶を啜りながら、カナちゃんはこくりと頷いた。
大きな器の中は透き通った薄黄色の出汁が半分程残っているだけで、うどんも天ぷらも私のあげたお揚げも、綺麗さっぱり食べつくされている。お腹が膨らんで心も落ち着いたようで、表情は朝会ったときとは打って変わって柔らかくなっていた。
カナちゃんがお茶を飲み終えたタイミングで席を立つ。レジで会計を済ませて、お店の外に出る。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ」
カナちゃんはぺこりと頭を下げる。そういう律儀なところも可愛らしい。
「よし、お買い物行こうか」
歩き出すと、カナちゃんは私の鞄をぎゅっと掴む。うどんで緩んだ表情が一瞬強張ったが、店を回るごとに表情は解れていった。平日ということもあり、お客が少ないのが何より良かったようだ。
服、鞄、靴、アクセサリーと目についたお店にはどんどん足を踏み入れていく。ついついカナちゃんに似合うかどうかを考えながら商品を見てしまうのはご愛敬だ。
今回はスカートなので、次はパンツスタイルはどうだろうか。
ショートパンツに黒タイツ、足はロングブーツでスラリと格好良く決める。コートは足を邪魔しないように短め。黒でまとめると地味なので、色はグレーあたりだろうか。もしくはマフラーを明るめの茶色なんかにするのも良いかもしれない。
そこまで考えたところで、イメージ通りのマフラーを見つけた。明るめの茶色に白いトナカイが入ったノルウェー柄。マフラー単体では少し柄がごてごてしている気がするが、シンプルな服装にはきっと似合うはずだ。
「ねえ、カナちゃん、これどうかな」
マフラーを広げ、柄を見せるようにカナちゃんに差し出した。先ほどのお店でミニスカートを見せた時にされた嫌そうな顔が脳裏を過る。今度はどんな反応をされるか楽しみだったが、反応は全くなかった。心ここにあらずといった感じで俯いている。
「カナちゃん?」
もう一度声を掛けるがやはり返事はない。
「カナちゃん?」
声を掛けながら、そっと肩に触れてみる。瞬間、びくっとこちらが驚くほどカナちゃんは全身で驚いていた。
「うあっ……、は、はいっ」
「わ、ごめん。びっくりさせた?」
「い、いや、ごめんなさい、ぼけっとしてて……」
ふと腕時計を見ると、昼食を終えてから結構な時間が経っていた。夢中になるあまり、連れまわし過ぎたようだ。
「ごめん、うろうろしすぎて疲れたね。どこかで休憩しようか」
「いや、その、だいじょぶ、です」
「遠慮しなくて良いよ。どこかでコーヒーでも飲もうか」
マフラーを畳み直して棚に戻す。飲食店街の方に喫茶店があった気がする。案内板のある方へ足を進めようとした私の服の裾がぎゅっと掴まれた。
カナちゃんはその場に立ち尽くした状態で、右手で私の服をぎゅっと握っていた。目には不安の色が滲んでいて、唇は何かを言いたげに震えている。
「カナちゃん?」
心なしか顔色も悪く見えた。体調が悪くなったのだろうか。慣れない格好で精神的な負担も大きいだろうし、カナちゃんの様子に無頓着だった自分に反省する。
「あの、そのっ……」
「うん、どうしたの?」
「わ、わたし、その……」
「うん」
「その、……とっ、……トイレっ」
絞り出すように発された言葉に、一瞬思考が止まった。カナちゃんは私の目の前で白い頬を真っ赤に染めている。カナちゃんの挙動不審な様子に合点がいき、ほっと胸を撫でおろした。
「ごめんね、気付かなくて。確かあっちにあったし、行こうか」
こくりと大きく頷く。私が連れまわしたせいでタイミングを逃していたのだろう。可哀想なことをしてしまった。私が色々見ている間にトイレくらい行けば良かったのに、そうしないのがまた律儀で可愛らしい。
カナちゃんは頬を赤く染めたまま、俯きがちに私の後ろをちょこちょことついてくる。その様子が親鳥の後をついてくるヒヨコの様で、本人には申し訳ないが可愛らしいなあと思った。
案内板でトイレの場所を確認し、歩みを進める。カナちゃんの緊張した面持ちには少し安堵の色が滲んでいた。随分我慢していたらしい。その柔らかい表情にほんの少し悪戯がしたくなり、ついつい意地の悪い問いを投げかけてしまった。
「カナちゃん、どっち使う?」
「えっ!?」
茶色の目に私が映る。安堵の色が灯っていた表情に困惑が滲んでゆらゆらと揺れていた。思った通りの反応に、ついつい嗜虐心が煽られる。
「本当は男の子なのに、女の子のトイレ使う?
それとも、男の子のトイレ使う? でもそんな格好で男の子のトイレ入ったら凄く目立つね」
「いじわるっ……」
「ふふ、どうしようか?」
「綾乃さんっ……!」
私の服の裾を握ったまま、カナちゃんは縋るようにこちらを見ていた。両膝はそわそわと擦り合わせている。寒いのか、それとも切羽詰っているのか。私をじっと見つめる瞳にほんのり涙の膜が張ったのに気付き、少し苛めすぎたと慌てた。
「ごめんごめん、ほら、一緒にトイレ行こう?」
「ううぅ……、綾乃さんのばかぁ、へんたい」
「はいはい」
色々と切羽詰っているのか、舌たらずで甘えた話し方になってくる。細い声でそんな話し方をされたら、誰が見ても女の子にしか思えないだろう。
普段のつっけんどんな感じも良いが、こうして甘えたになっているのも可愛らしい。癖になりそうだ、なんて悪いことを考えてしまった。
カナちゃんと一緒にトイレに来て、個室の数が思っていたより少なくて驚いた。四つしかない個室の内、一つに故障中の張り紙がされている。ゆったりとした手洗い場や十分すぎる化粧直しのスペースを少し削って個室を増やそうとは思わなかったのだろうか。
そして案内図を見た時に思ったが、このショッピングモールは広さのわりにトイレが少ない。となれば、この状況も理解できなくはないな、と目の前の光景を眺めながら思った。
個室の扉は全て閉じられていた。その上、順番待ちの行列が入り口までずらりと並んでいる。平日でこの行列だ、休日はもっと凄いことになっているのだろうなと思った。
「あらら、並んでるね」
「ど、どうしよう、綾乃さん」
「並ぶしかないと思うけど……。それか、ほかのトイレ探す?」
列から少し離れて進み具合を見るが、そうしている間にどこからか現れた女性が一人列に加わった。もしかしたら、列が進むより、列が伸びる方が早い可能性もある。
私の隣で絶望的な表情で行列を見ていたカナちゃんは、くいくいと私の袖を引いた。
「あの、ここから綾乃さんの家までどれくらい?」
「バス次第だけど、四十分くらいかな。バスで三十分、歩いて十分くらい。
……家まで我慢するの?」
カナちゃんはもう一度行列を見てから私のほうへ視線を向け、少し間を置いてから頷いた。
「大丈夫? 待たせるとか思ってるなら別に大丈夫だよ?」
「そうじゃなくて、いっぱい人いるから、並んでるうちにバレるかもしれない……」
「大丈夫だと思うけどなあ」
「その、正直結構我慢してて、どう見られてるかまで気が回らないから……」
今から並べば四十分以内にはトイレにはたどり着けそうだとは思う。あまり我慢するのも体には良くないのではと思ったが、カナちゃんにはカナちゃんなりの不安があったようだ。
「わかった。じゃあ、帰ろう」
「ごめんなさい、買い物、何も買ってない……」
「そんなこと気にしないの。いつでも来れるから、ね」
二人並んでトイレを後にする。出入り口へ向かおうと角を曲がったとき、また女性とすれ違う。この先にはトイレしかないので、彼女の目的もそれなのだろう。本当にこのショッピングモールはトイレを増設すべきだと心から思った。
自動ドアをくぐると、間が悪いことにちょうどバスの扉が閉まったところだった。慌てて駆け寄るが、時すでに遅し、バスはゆったりと走りだしていた。
時刻表を確認すると、次のバスは五分後の予定だった。どこか近くにコンビニでもないかと思ったが、それらしき建物は見当たらない。
隣でカナちゃんは私の服をぎゅっと握ったまま俯いている。相変わらずそわそわと膝を擦り合わせていて、見ているだけでも辛そうだった。
「ごめんね。早く気付いてあげたらよかった」
ふるふると首を振るが、表情は不安を滲ませていた。今日は天気は良いが、風が冷たい。時々強く吹き付ける風が体温を奪っていく。隣でカナちゃんがぶるっと大きく身震いした。
ちょうど五分、時刻表の時間だがバスが来る気配はない。バスが来るだろう方向を見渡してみるが、それらしき車は見えない。バスが遅れるのはよくあることだが、今このタイミングで無くても良いだろうに。
んんっ、と小さな吐息が聞こえた。カナちゃんは私と同じように車道の先を見つめているが、じっとしていることすら辛いようで、時折膝をすり合わせたり、つま先を擦り合わせたりしている。私と目が合った瞬間、カナちゃんは何かを訴えようと口を開きかけたが、結局何を言うこともなく俯いた。
ショッピングモールに戻ろうかと提案しかけて、私も口を閉じた。提案したところでカナちゃんは首を振るだろうと思ったからだ。
それから更に十分程経ったところで、バスはバス停に姿を見せた。カナちゃんを前にして車内に乗りこんで座席につく。幸運にも乗客は疎らだった。多くの人の目から離れる為にショッピングモールのトイレを離れたのに、バスで大勢に囲まれては元も子もない。
窓際に座ったカナちゃんの様子を窺う。ぴたりと寄せられた太ももの横で、両手がスカートの裾をぎゅっと握っている。視線は前の座席の背もたれを見ているようだが、そうではなく単に宙を見ているのだろう。噛みしめられた唇が辛さを物語っていた。
バスはのんびりと動き出す。思わぬロスタイムに焦れた私はただ進行方向を見つめる。
私の思いとは裏腹に、バスは腹が立つほどのんびりと進み、停止して、またのんびりと進むのを繰り返す。その繰り返しのサイクルが短くなり、挙句の果てには停車する時間の方が長くなってしまった。いつもはこんなに混む道ではないのに、今日に限って道は車で埋め尽くされている。
腕時計を見ると、バスに乗車してから二十分は経過している。けれど次のバス停から考えて、まだ半分も進んでいない。通常なら後十分程度で私の家の最寄りに到着できるだが、この様子だと倍の二十分掛かっても難しいのではないか。
突然、ぎゅっと私の左腕が握られた。慌てて振り向くと、カナちゃんが泣き出しそうな顔でこちらをじっと見ていた。
「ぁっ、あやのさんっ……」
か細く消え入りそうな声だった。何とかしてあげたいが、なにもできない自分が歯がゆい。せめて何か声を掛けてあげようと、気の効いた台詞を探すが何も思いつかない。
「寒くない? 私のコート着る?」
とりあえず温かいほうが楽なのではないかと自分のコートを差し出そうとしたが、カナちゃんはふるふると首を振って、そして私の目をじっと見た。小さな口が何かを言いたげにパクパクと動き、そして細く震えた声が聞こえた。
「もう、だめ……」
「え、」
「ぉ……おしっこ……もう、でちゃうっ……」
「……っ!」
大声が出そうになり、慌てて飲み込む。私が注目を集めては何の意味もない。
取り繕う余裕もないのだろう。幼子のような直接的な表現が、カナちゃんの状況をありありと示していた。
「も、もうちょっとだけ、我慢できる? 次で降りてトイレ探そう?」
こくこくと頷いたが、”もうちょっと”すら辛いことは、聞くまでもなく見て取れた。
右手は私の腕を強く握りしめたまま、左手はスカートの裾をくしゃくしゃにして握っている。ぴたりと寄せられた太ももは切ない衝動のせいか、時折びくりと跳ねる。細いお腹にはどれだけのおしっこを我慢しているのだろう。早く何とかしてあげたい。そう思うが、思うだけでは何の助けにもならないことは痛いほどわかっていた。
次に停車するバス停は聞いたことはあるものの、利用したことはなかった。鞄からスマホを取り出し、バス停を地図アプリで検索する。ほんの数秒で付近の地図が表示されたが、その数秒すら今は長く感じた。
カナちゃんの手は小さく震えていた。震えた手の支えになればと左手は動かさず、右手だけでスマホを触る。バス停の周りは住宅街のようで、利用できそうな店は付近には見当たらない。内心イライラしながら縮尺を少し大きくすると、見慣れたコンビニのマークが画面に映った。バス停から少し歩くと電車の駅があり、その並びにコンビニがあるらしい。
これだと思い、隣のカナちゃんに声を掛けようとしたところで、バスのスピードが落ちていくのを感じた。窓の外を見ると、車内とスマホに表示されたのと同じ名前のバス停が見えた。
「カナちゃん、降りるよ」
辛そうな顔にほんのわずかに安堵の色が指す。カナちゃんを先に行かせ、焦りで震える手で二人分の料金を料金箱に入れた。
先にバスから降りたカナちゃんはそわそわと落ち着きなく、不安でいっぱいの顔でバス停の横に立ってうた。両手でスカートの裾をぎゅっと握り、指先はじっとしていることが出来ないかのように布を擦り合わせている。はやく、はやくと声にならない声が聞こえた気がした。
私がバスから降りると、バスはゆっくりと走りだした。その瞬間、カナちゃんは崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。じっとしていることすら辛いのだろう、しゃがみ込んだまま上下に体が揺れている。小さく丸められた体の傍に駆け寄ると、そのままカナちゃんは私を見上げた。
「立てる? もうちょっと頑張れる?」
「んんっ……、と、といれっ、トイレあるっ……?」
「うん、あっちにコンビニがあるから、そこまでもうちょっとだから」
なんとか立ち上がったカナちゃんはそろそろと歩き出す。数歩歩いたところで、びくっと大きく震えたかと思うと、裾をつかんでいた手がスカートの中心をぎゅうと握りしめた。
「だ、大丈夫?」
こくこくと頷くが、誰がどう見ても大丈夫ではなかった。ここが人気のない住宅街で良かった。お尻をつき出して、片手はスカートの中央を握りしめ、そろそろと歩く子。この子が男だということはバレなくても、この子がおしっこを我慢していることは誰が見てもわかってしまうだろう。それも、直接出口を抑えないといけないほど切羽詰っているということを。
「頑張ろう、もうちょっとだから」
んん、と聞こえたのは返事か溢れだした苦悶の吐息か。カナちゃんに歩調を合わせるように、私はそろそろと歩いた。
住宅街をそろそろと歩く。隣からは切なげな吐息に混じり、時折苦悶の声が聞こえた。時々励ましの声を掛けてみるものの、返事はなかった。返事をする余裕すらないのだろう。もしかしたら私の声を聞く余裕すらないのかもしれない。
住宅らしき家を一軒通り過ぎる。いっそのこと、恥を忍んでチャイムを鳴らしてトイレを借りたほうが良いのだろうか。お尻をつき出して体をくの字にしたまま、足を引きずるように歩くカナちゃんを見て思う。もっと早く気付いてあげればよかった。慣れない格好なのだから、もっと私が気を使うべきだった。公開ばかりが頭に浮かぶ。
また一軒通りすぎたところで、次に並んでいたのは家ではなく公園だった。こじんまりした公園、その一角が白い布で包まれている。工事中だろうかと頭の片隅で考えながら、公園の前を通り過ぎようとして、入り口に白い看板が取り付けてあるのに気付く。その文字を目で追いながら、思わず足を止めた。
『トイレ工事中 お急ぎの方は第三公園をお使いください』とパソコンのきっちりした文字の下、こちらは手書きなのだろう、ざっくりした地図が掛かれている。
現在地より真っ直ぐ進み、正面の交差点を右へ曲がったところに第三公園はあるようだ。スマホで地図を開くと、確かにこの道を真っ直ぐ進んだ先に交差点がある。この交差点はバス停とコンビニのちょうど中間くらいに当たる。
「……ぁ、あやのさんっ?」
声を掛けられてはっとする。カナちゃんは公園を通りすぎたあたりで歩みを止めていた。が、前にこそ進んでいないものの、両足はもじもじとステップを踏むように足踏みを繰り返している。スカートの中心を握る手が片手から両手になっていた。
この倍の距離を進ませるよりは、公園のほうが近いのではないか。一瞬悩んですぐに決断する。
「どうしたの? 道、違う?」
「ううん、そこの交差点、曲がろう。公園があるみたい」
「そこっ、トイレある?」
「うん、あるよ。もうちょっとだから、頑張ろう」
私が言い終えるより早く、カナちゃんは歩き始めていた。希望が見えたおかげか、カナちゃんの歩く速度はほんの少し早くなったように思えた。
公園を通りすぎ、交差点にたどり着く。右手を見ると、住宅の並ぶ中に緑色のフェンスに囲まれた空間が見えた。先ほど通り過ぎた公園よりも幾分広くみえる。
「あ、あったぁっ……!」
カナちゃんも気付いた様で、蕩けた声を漏らした。二人そろって速足で交差点を右へ進む。もう少し、もう少し。隣のカナちゃんの様子を見ながら歩く。トイレ、トイレとうわ言が聞こえるが、本人は自分が呟いていることに気付いていないようだった。
フェンスに覆われたそこはブランコや砂場の並ぶ公園で、その一角にはコンクリートでできた四角い建物があり、今度は先ほどのように布に覆われてはいない。建物の入り口は私たちを受け入れるかのように大きく開いていた。
「トイレぇっ……!」
公園の入り口で足を止めた私の横を、カナちゃんはスピードを落とすことなく進み、そのまま四角い建物の中に吸い込まれていった。
何とか間に合ったようだ。ほっと息をついた後、私もゆっくりとその建物に近づいた。
入り口の横には『お手洗い』と書かれた看板が掛けられていた。文字が掠れているところから見ると、あまり新しい建物ではないようだった。近づくにつれ、本来は白かったであろう壁が薄汚れて灰色になっている。
トイレの入り口までもう少しというところで、先程トイレに駆け込んだカナちゃんが顔を出した。用を足したにしては随分早い上に、その表情は先ほどよりも切羽詰っていて苦しそうに見えた。どうしたのだろうかと入り口から中を覗き込んだところで、驚いて声を漏らしそうになった。
誰かが使用していて個室が使えない、そんな程度だと思っていたが、なんと狭いスペースにはカナちゃん以外に三人の人がいた。おそらく三人ともが女性だ。カナちゃんのように女装の可能性がないわけではないが、まずあり得ないだろう。
閉まった扉の前に立っているのは、えんじ色のジャージを着た女性だ。すらりとした長身に大人びた顔つき。大人びているので、大学生か社会人だろうか。
日に焼けた健康的な肌。黒く長い髪はポニーテールにされており、彼女が体を揺らす度に毛先がゆらゆらと揺れている。猫のようにくりっとした目は細められ、扉を穴が開かんばかりに睨み付けている。
彼女もカナちゃんと同じように切羽詰っているのだろう、両手はジャージの股間部分を恥ずかしげもなくぎゅうぎゅうと握っている。一刻たりともじっとしていられないのだろうか、ジャージに包まれた両足は激しく足踏みを繰り返している。ジャージの上からでもわかる引きしまったお尻が、彼女の動きに合わせてふるふると揺れていた。
その後ろに並んでいるのは、紺色のセーラー服を着た女の子だ。見るからに大人しそうなその子は、黒い髪を耳の下で二つに結び、丸く黒い目は細い銀フレームの眼鏡に覆われている。
膝より少し下、長めのスカートの中央は、白い手でぎゅうと握りしめられて皺が寄っている。紺色のハイソックスに包まれた足は、ジャージの彼女のように激しく足踏みをしてはいないものの、そわそわと揺れている。眼鏡の下の瞳は今にも泣き出しそうなほどに涙が溜まっており、時折「でちゃう、でちゃう」と舌足らずなうわ言が聞こえた。
そしてその後ろにいるのは、一言で言うなら今どきの学生といった感じの子だった。明るい茶髪は金色に近いが、手入れが行き届いているのだろう、癖一つ無く肩まで真っ直ぐで、彼女の動きに合わせてさらさらと揺れていた。
白いブラウスの上からは茶色のカーディガンを羽織っており、首元には赤いリボンが主張している。セーラー服の彼女とは反対にスカートは膝上と短く、膝から下は紺色のハイソックスに包まれているものの、長く白い足の大半は曝け出されている。
前の二人とは裏腹に、彼女はただじっと立っているだけのように見えた。だが、時折びくっと体が震えたかと思うと、ピンク色のマニキュアの塗られた綺麗な手がスカートの中心に寄せられる。少しするとその手は体の横に添えられるが、よく見ると生足はぴたりとくっつけられ、そわそわと落ち着きなく体が揺れている。
三人が三人とも、カナちゃんと同じくらいに切羽詰った様子だった。
誰が一番つらいかなど決められないほど、皆が皆ギリギリなのだろう。見ている私までが辛くなる程の様子だった。
そんな三人の後ろ、助けを求めるような顔でカナちゃんは私を見ていた。そっと隣に立つと、カナちゃんは絶望的な表情で私の腕を握った。
「ぁ、綾乃さんっ、どうしようっ……」
「どうしようって言われても……! コンビニまで頑張れる?」
「もうがんばれないっ……」
声は震えていた。目には今にも涙が零れそうなほど溜まっている。
こんなことなら公園になんて促すのではなかった。コンビニに真っ直ぐ向かっていれば、今頃はこんな苦しい思いをさせないで済んだだろう。
いや、それよりもバスに乗らず、無理やりにでもショッピングモールのトイレに戻れば良かった。あの行列といえど、並んでいれば今頃は用を足せていただろう。
足踏みの音。トイレ、トイレと誰かのうわ言。はあ、と苦しみを逃がす熱い吐息。
二番目に並んでいたセーラー服の彼女が「んあぁっ」と苦悶の声を漏らしながらその場にしゃがみ込んだ。その体制は体の軸がずれていて、右の踵がぐりぐりと彼女のおしっこの出口を圧迫している。
「もうだめ、我慢できない……、あやのさん、でちゃう、おしっこでちゃう……」
カナちゃんは私に苦し気な訴えを繰り返す。
私の腕を握る右手。左手はスカートの中心、その奥にあるおしっこの出口をぎゅうぎゅうと揉んでいる。少しでも尿意を逃がそうとしているのだろう。そうやって逃がしたところで、根本を解決しないとなんの意味もないことはわかっていた。
何か気の利いた言葉をかけてあげたい。そう思った矢先のこと。
ガチャリと硬い音。そしてぎいと軋む音がしながら、閉ざされていた扉が開いた。
現れたのは小柄な女の子だった。目を引いたのは、チェックのスカート。その中央がぐっしょりと濡れている。間に合わなかったのだなと一目見て分かった。
一番初めに動いたのは先頭にいたジャージの女の子だった。開いた扉に入ろうと足を一歩踏み出した瞬間、じゅわっとジャージの色が変わった。
「ゃ、あっ、だめ、ぁ、まだ、ぁあっ、」
ぎゅうぎゅうと握りしめていたジャージのズボンの中央から、えんじ色が水分を含んで更に色濃く染まった。それは一瞬にしてお尻を覆いつくし、そのまま太ももへ広がっていく。
それでも彼女はそのまま足を進める。一歩、また一歩。踏み出させる足と一緒にびちゃ、びちゃと水音がする。その度にジャージは更に水分を含み色を変えていく。含みきれなくなった水分が、抑えられた手を伝って地面のタイルに落ちた。
開ききった扉の向こうには、この場にいる皆が待ち望んだ和式便器が横向きに設置されていた。彼女はポニーテールを揺らしながら、水音とともに足を進める。左足が個室内に踏み入れられ、右足が便器を跨いで反対側に下ろされた。
瞬間、じゅうううぅうぅ、とくぐもった水音が響き、勢いのある水流がズボンを握りしめる彼女の手を伝って真っ直ぐに下りていった。水流は便器内の水に叩き付けられ、ばしゃばしゃと激しく音と水滴をまき散らす。
「ぁ、ああ、ああっ……」
彼女はジャージを握りしめていた手をゆっくりと放した。手に遮られていた水流は真っ直ぐに便器に落ちていく。おしっこに濡れた手を彼女はゆっくりと体の横に下ろす。
ズボンも下着も履いたまま、腰を下ろすことすらできずに、彼女は立ったまま待ち望んだ排泄行為を迎えていた。せめて扉だけでも閉められていればその姿を隠すことが出来ただろうが、しゃがむ余裕すらなかった彼女にそんなことを言うのは酷だった。
じゅううぅうと布におしっこが吸い込まれる音、じょろじょろと水流が流れる音、じょぼじょぼと太い水流が水たまりを打ち付ける音。そしてあけ放たれた個室で行われる気持ちの良さそうな排泄行為。
それらはほかの尿意を煽るには十分すぎたようだった。
「あ、あっ、ああぁっ……」
ぴちゃぴちゃと小さな水音がした。しゃがみ込んでいたセーラー服の彼女の足元に水たまりが広がっていく。股間に当てられている靴の踵が濡れて、てらてらと光っていた。
セーラー服の彼女が身じろぎする。軸のずれていた体制が変わり、両足でしっかりしゃがみ込むような体制に変わった。瞬間、ぴちゃぴちゃぴちゃと控えめな水音に交じって、しゅうううぅ、とホースから水を流したような音が聞こえ始めた。水たまりの広がる速度が速まる。
「はっ、あ、ああっ……」
押し殺したような声、しゃがみ込んだ背中が震えた。水流こそ見えないものの、おしっこの水たまりは彼女を中心にタイルの上に大きく広がっていった。
「やっ……!」
細い悲鳴が聞こえ、ミニスカートがふわりと揺れた。先ほどまで繕っていた余裕は一気に消え、ミニスカートの上からぎゅうと股間を抑えたまま、茶髪の彼女は足を進めた。進む方向のは個室とは反対側の出口。踏み出す足はがくがくと震えている。
「やだ、あ、だめ、だめっ……」
一歩、二歩、三歩進んだところで彼女は立ち止まった。かと思うと、彼女は壁に向かって足を踏み出しながら、大胆にもミニスカートを捲り上げる。そして勢いよく下着を下ろしながら壁に向かってしゃがみ込んだ。瞬間、しゅいいぃぃと鋭い水流の音がした。
「んぁぁっ……、はぁ、ぁ……」
気持ちよさそうなため息と共に、びしゃびしゃと壁におしっこが叩き付けられていく。床と同じく、タイルが張られた壁は吹き付けられるおしっこを飛沫を上げながら床へ落としていく。水を吸わないタイルは、セーラー服の彼女の足元と同じように、茶髪の彼女の前にも水たまりを広げた。
じょぼじょぼと大量のおしっこが壁に向かって放出されていく。ほかの二人と違い、下着に遮られていない分、勢いがある水流だった。
茶髪の彼女の勢いの良い水音に、カナちゃんは悲鳴を漏らす。我慢を続けているカナちゃんには、一番辛い音だっただろう。
「ぁ、あっ、あやのさっ、あ、あっ」
がくっと私の左腕にしがみついていたカナちゃんの体が崩れ落ちそうになり、とっさに左手をカナちゃんの背に回して体を支えた。カナちゃんも両手で私の体にしがみついていた。
「あっ、だめ、で、あっ、ああ、」
私に体を支えられた中腰の姿勢、がくがくと震える膝のやや上からぴちゃ、ぴちゃと雫が溢れて、足の間に落ちていく。慌てたようにカナちゃんは右手を雫の出口に伸ばした。
引けた腰、スカートの上から右手で握りしめた性器の先から、じょろ、じょろと雫が水流となって溢れる。それは一緒に握られたスカートを濡らし、タイルへ落ちていく。
「あ、あ、あ、だめ、あぁっ、」
必死に止めようとしているのだろうか、水流はじょろっ、じょろじょろっと不規則に途切れている。その様子が苦しそうで、見ている私のほうが辛くなる。
「カナちゃん。もう大丈夫、出しちゃえ」
「ぁ、ごめ、ごめんなさっ……」
「力抜いてごらん。出しちゃおう」
「うあ、あ、や、ああっ……」
強張っていた体からゆるりと力が抜け、お尻がずるずると下がっていく。そっと背中を支えてカナちゃんをしゃがむ体制まで誘導した。しゃがみ込み、カナちゃんの手が股間から離れた瞬間、不規則に途切れていた水流がじょおおぉと勢いを増した。真下に落ちる水流は私とカナちゃんの靴を濡らして、足元に水たまりを広げていく。
「あ、あ、おしっこっ、おしっこ……」
「大丈夫。全部出しちゃおう」
「と、とまらな、ぁあ……」
我慢しすぎたのだろう、勢いのないおしっこはたっぷりと時間をかけ、ひたひたと水たまりを大きく広げて止まった。随分我慢していた様で、量は茶髪の彼女以上ではないだろうか。ぴちゃ、ぴちゃと余韻の水滴が水たまりに落ちる中、はあ、と熱い息がカナちゃんから漏れた。
「……綾乃さん、ごめん、服、」
「洗えばいいんだから気にしないの。もう大丈夫?」
「うん……。ごめんなさい……」
公園の一角にある狭いトイレの中は一瞬の間に雰囲気を一転させていた。
開け放たれた個室の中では、えんじ色のジャージを来た女の子が、便器を跨いだ体勢でズボンを色濃く変えている。
扉の前ではセーラー服の女の子が水たまりの真ん中にしゃがみ込んでいる。
そこから少し離れた壁際では、茶髪の女の子がミニスカートを捲り上げた体制でしゃがみ込んでいる。
そして出入り口の近く、私の隣ではカナちゃんがしゃがみ込んだ体制で荒くなった呼吸を整えていた。
皆が皆、同じ目的でこのトイレに駆け込んで、そして同じ結末を迎えてしまったようだ。
「とりあえず、私、コンビニで下着とタオル買ってくるね。ちょっとだけ待っててくれる?」
カナちゃんが頷いたのを確認すると、その背後から縋る様な視線を二つ感じた。ジャージの女の子とセーラー服の女の子だ。
「あなた達のも買ってくるから、ちょっと待っててね」
「あ、ありがとうございます……」
ジャージの子が震えた声でお礼を述べ、セーラー服の子は頭を下げた。その流れで茶髪の子を見ると、彼女は下着を履いているところだった。彼女は大丈夫なようだ。
コンビニまでは急ぎ足で三分程だった。女性用の下着、大きめのタオル、靴下をカゴに入れてレジに向かったが、途中でカナちゃんにストッキングを履かせていたことを思い出し、ストッキングを一枚カゴに入れた。
セーラー服の彼女はともかくとして、ジャージの彼女には何か履くものをと思ったが、コンビニには使えそうなものは見当たらなかった。せめて道中でと思ったが、コンビニ以外には店が見当たらなかった。
公園のトイレに駆け戻ると、ミニスカートの子がいなくなっていた。ジャージの彼女が個室から出て、三人並んで隅に立っている。地面は水でも流したのか、水たまりが無くなり、全体的に濡れていた。
「はい、下着とタオル。ズボンの代わりは見当たらなかった。ごめんね」
「い、いえ、これだけで十分です。ありがとうございます」
まずセーラー服の彼女が個室に入り、後始末を終えた。スカートは紺色だからか、濡れていることはあまりわからないと思う。泣いたのだろう、赤い目を擦りながら、頭を下げ、彼女は出て行った。
次にジャージの彼女が後始末を終える。彼女は律儀にお礼を言う。ぐっしょりと濡れたジャージはどうしようもなく、派手に濡れたズボンを恥ずかしそうに隠しながら出て行った。
「はい、カナちゃん」
「ありがと、」
「着替え、一人で大丈夫?」
「多分」
「ここにいるから何かあったら呼んでね」
タオル、下着、ストッキングの入ったビニール袋を持ってカナちゃんは個室の扉を締めた。
がさがさとビニールの擦れる音や、封を破く音がした後、衣擦れの音が聞こえた後、トイレの中は静かになった。着替えは終わったのだろうか。扉が開く気配はない。
「……綾乃さん、」
「ん、どうしたの?」
静かになって個室の中から聞こえた声に返事をする。何かがあったのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
「その、ほんとにごめん。買い物出来なかったし、バス途中で降りたし、……その、服汚したし」
「そんなこと気にしないの。
私こそごめんね。女の子の格好してくれることが嬉しくて、トイレのこととか全然考えてなかった。お腹痛いとかない?」
「それは大丈夫。……その、俺のこと、嫌になってない?」
「どうして? 好きだよ、カナちゃん……カナメくんのこと。だから出ておいで?」
少し間を置いて、きい、と鈍い音がして扉が開く。カナちゃんはおずおずと個室内から現れる。目が少し赤かった。
「おかえり。着替えられた?」
「……うん」
「よし、じゃあ帰ろっか」
手を差し出すと、カナちゃんはおずおずと手を乗せる。ぎゅっと握って笑いかけると、カナちゃんはぎこちなく笑ってくれた。
+++
私の家に到着し、カナちゃんはとりあえずお風呂に入った。その間にカナちゃんが履いていたブーツをベランダで洗った。日当たりの良さそうなところに干してリビングに戻ると、Tシャツと短パンを履いたカナちゃん改めカナメくんが髪をタオルで拭いていた。
「あ、……お風呂、ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
私がソファに座ると、カナメくんは私の膝に頭を乗せてごろりと横になった。甘えた様子が可愛くて、暗めの茶髪を撫ぜると、カナメくんは目を閉じた。ウィッグを外しても、サラサラの髪は変わりなく、触り心地は非常に良い。
「なんか、電車が止まってたみたい」
「あ、そうなの?」
「あのトイレにいた子達。電車が止まってて、駅のトイレ使おうと思ったら、混んでて。で、あの公園まで行ったんだって」
「へえ」
「綾乃さんを待っている間、ちょっと喋ってた。喋るまで俺が男だってわからなかったって」
「ふふ、流石カナちゃん」
「……あのさ、」
目を開けて、カナメくんは私を見上げた。
「その、たまになら綾乃さんの趣味に付き合っても良いよ」
「急にどうしたの?」
「別にどうもしない」
「……女装に目覚めた?」
「ち、違うっ! ほんとにたまになら良いと思っただけ! 俺の気が向いたときなら良い」
「ふふふ、ありがとう。じゃあ、またカナメくんの気が向いたら、女装してデートしようね」
「ん、」
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初出:2016年3月5日(pixiv) 掲載:2022年7月30日