冷えた体を温めたくて飲んでしまったあの小さなペットボトルのお茶さえもが余分で余計だと思えてしまう。足を一歩進めるごとに、膨らんだ下腹部の中でちゃぷちゃぷと水音がなっているような気がした。
歩き慣れたはずの道は真っ白な雪で覆いつくされていて、どんくさい私のことだ、少し気を抜いた瞬間に転ぶに違いない。今の状況で転んでしまったらとんでもないことになる。
一歩、また一歩。
普段ならなんてことない道のりが、今は何十倍にも感じられた。求めるものはただ一つ。それ以外は何も望まないのに、それには何故か手が届かない。学校では清掃中で、駅では改装中で、公園では封鎖されていて。
はやく、はやく。気持ちだけが前へ進む。気持ちに呼応するようにお腹の中で熱い液体が暴れる。まだ駄目だと何度言い聞かせただろう。もう聞き飽きたと言わんばかりに激しい波が体の内側のある一点を抉じ開けようとする。そこに出口があることは知っているんだと、お前がどれだけ隠し立てしようと無駄なのだと。
それは痛いほどわかっていた。私だってその主張に全面同意して、今この瞬間、即座に行動に移したい。でもそんなこと、出来るはずがない。
一歩、また一歩。
いっそこの急かされる思いに任せて駆け出してしまおうか。そう思った瞬間を見計らったように、靴の裏がずるりと雪の上を滑る。慌てて踏みとどまろうとして、強く力が入る。じゅ、と出口が熱く湿った。
駄目っ。力を入れるが、再びじゅわっと熱い雫が零れだす。今度は先ほどよりしっかりと熱さを感じた。頭が我慢と解放の狭間で掻き乱される。寒さから逃げてポケットの中で丸まっていた手が今度はスカートの中へ飛び込んでいた。内側から抉じ開けられそうになるそこを、外側からぎゅうっと押さえつける。こんなに寒いのに指先が、頭が、お腹の中が熱かった。
だめ、ああ、だめ。でも、もう、ああ、でも。まともな思考が出来ず、意識の矛先があちらこちらを向く。求めるものはたった一つ。でも最短ルートは通れない。ルールを守って正しい道を通らないといけない。わかっているはずなのに、それなのに、正しい道筋はもう考えられなくて、他の邪道ばかりが頭に浮かぶ。
駄目だと言い聞かせて、たどたどしい足取りで正しい道を歩き続ける。普段はなんてことない正しき道。正しくあろうとするのがこんなに苦しいとは知らなかった。
一歩、また一歩。
先程より歩幅が狭まる。手をポケットに戻したいのにそこから離すことが出来ない。スカートの中から、その奥の出口から手が離れた瞬間、私は最短ルートへ真っ逆さまに落ちていく。絶え間なく襲い続ける鈍い波がそれを証明していた。
思考がうまく働かない。ただ無心で足を進める。歩く先など全く見ることが出来ず、視線はあちらこちらを落ち着きなく彷徨い、救いの手を求める。お願い、はやく、もう何でも良いから。
はやくはやくはやくっ。焦れる気持ちとは裏腹に足はちっとも前に進まない。もうだめ、ほんとにだめ。冷え切った体の中心で、液体が噴き出さんばかりに温められている。ぐつぐつ、ぐらぐらと煮え立ったそれは、ぎりぎりのところで、時折大きく波を立てて、その時を待ちわびている。それはお箸でお茶碗を叩きながらご飯が来るのを待っている子供のよう。決してマナーが良いとは言えない状態で、それでも待ってくれている。
その忍耐の続く合間に何とかしないといけない。わかっている、わかっている。けれど。折れそうになる心を必死に支える。ひび割れだらけで折れる寸前のそれは、ほんの一瞬手を離しただけで崩れ落ちるのだと、私は確信を持ってわかっていた。
一歩、また一歩。
おねがい、おねがいだから。誰に何を懇願しているのか自分でもわからない。でも、求めるものは初めから何も変わらない。
一歩ずつでもゆっくりと進めていた足が、波の激しさにとうとう止まる。ぎゅうぎゅうとそこを押さえつけて耐える。だめ、だめ、ほんとにだめ、おねがい、もうだめ、ほんとに、もうだめ。泣き出しそうになりながら、体を捩って欲求に耐える。ほんとにでちゃう、おねがい、といれ、おといれ、もうだめ、ほんとにでちゃう。辺りを見回すが、トイレなんてあるはずもない。
ここにいても何の救いも与えられないのはわかっていた。もうなりふりなんて構っていられず、両手でぎゅうとそこを押さえつけて、へっぴり腰で足を踏み出す。一歩踏み出すことに、おしっこが溢れ出すギリギリまで波を立てる。ああ、がまん、でも、もうほんとにでちゃう。おねがい、なんでもいいからトイレ、おしっこ、おしっこでちゃうっ……。
一歩、また一歩。
真っ白な雪道をただただ歩く。求めるものはただ一つ。顔を上げることも出来ず、足元を見て足を進める。
道の端に小さな雪だるまが視界に入った。誰かが気まぐれで作ったのだろうか。雪だるまはいくつもあった。そして星やらハートやら可愛らしい形。
そしてその中にそれはあった。
それが見えた瞬間、足が止まった。目が釘付けになって離れなかった。それこそ、誰かの気まぐれで作られたのだろう。真っ白な雪で作られたそれ。細長い楕円に少し細工を加えたそれ。
まごうことなきトイレだった。ご丁寧に金隠しまで作られた和式トイレ。雪だるまや花や星の中に、ぽつんと作られたそれは、私が求め続けたものだった。
一歩、また一歩。
頭より体の方が反応が早かった。足が勝手に駆け出していた。トイレ、トイレ、トイレ! ずっと探していた、求めていたトイレ。おしっこはトイレでするもの。おトイレだからおしっこが出来る。
体の外より体の中の方が反応が早かった。熱望したそれを見つけた瞬間、体は勝手にその準備を始める。
出口が一瞬のうちに熱くなり、押さえている指を割るように熱い液体が零れた。あ、あ、あ、あっ……! 一歩踏み出すことにおしっこが零れる。だめ、まだだめ、だめ、だめっ……! 何度も繰り返した駄目はもう効果を持たない。
指に力を入れる。けれどそこは壊れた水道のようで、細く熱くおしっこが流れ、下着を、足を、タイツを濡らす。ああ、もう、あ、あ、あっ、あああっ……! 止めようとしても止まるのは一瞬で、また細くおしっこが零れる。太ももを熱い液体が伝う。
雪の和式便器を跨ぐ。膝ががくがくと震える。あ、あ、あああっ。指を伝った熱い液体がびちゃ、びちゃと落ちて、白い雪に模様を作る。震えた指先でタイツと下着を掴んで、一気にずりおろした。露わになった出口は、既にしゅ、じゅ、とおしっこを零している。
そして。
ぶじゅうううう。野太い音と共におしっこが噴き出した。立ったままの状態で、高い位置から噴き出したおしっこは足元の雪を崩していく。今までとは比べ物にならないほどの勢いだった。
震える膝に任せて、その場にしゃがみ込む。体に馴染んだいつもの体勢に、やっと体の力が抜けた。じゅうううう、と鋭く噴き出すおしっこは雪のトイレに当たる。ああ、すごく気持ち良い。はああ、と長い溜息が漏れだした。ばくばく、と自分の鼓動の音がとても激しく聞こえた。
我慢に我慢を重ね、それを耐え忍んで押しとどめて、やっとのことで辿り着いた解放。全身が一気に熱を持ったようで、頭が熱を出したときのようにぼんやりした。
噴き出すおしっこは全然止まらない。それに伴い、足元のトイレもどんどん姿を消し始めていた。
当たり前だ。これはおしっこを受け止める白い陶器ではなくて、降り積もった雪で気まぐれに作られただけの存在。まさか本当にトイレとしての役目を果たすことになると、誰が想像しただろう。
おしっこは全然止まらない。我慢を重ねただけ、お腹にはおしっこが溜まっている。お腹の中で温められたおしっこは雪のトイレを見る見るうちに溶かしていく。
どうしよう、トイレがなくなってしまう。トイレだからおしっこしてもいいのに、そのトイレがなくなってしまったら。慌ててもお腹の中にはまだまだおしっこが溜まっていて、じょろじょろとおしっこは勢いを無くしながらも地面に注がれている。
熱いおしっこは既に足元の雪を溶かしていた。黄色く染まった雪はぐしゃぐしゃに溶け、黒いアスファルトが顔を覗かせている。雪のトイレも、星も花も、私のおしっこが溶かしてしまっていた。ここはトイレじゃなくて、ただの道端。私は正しい道を取ろうとしながら、結局欲求に負けて邪道を取ってしまった。
道の隅で、我慢できずにおしっこをしている。それを痛感すると、治まった心臓が再び激しくなる。早くこの場所から離れたいけれど、おしっこが止まらない。はやく、はやく。ひたひたと足元を濡らすおしっこは、焦る気持ちなどどこへやら、たっぷりと時間を掛けたのち、やっと止まった。
拭く物もないので、仕方なくそのまま下着を上げる。ぐしゅ、と濡れた下着が張り付き、冷たさと気持ち悪さに不快を感じた。タイツもしっとりと濡れていたが、履かないわけにもいかない。
足元は悲惨なことになっていた。撒き散らかされた私のおしっこが綺麗な雪景色を荒らしていた。足元の雪は溶けてぐしょぐしょになり、黒いアスファルトが見えている。そこにあったはずのトイレも鼻も星もが、姿を消していた。全部全部、私のおしっこのせいだ。居た堪れずに、私は踵を返す。
一歩、また一歩。
下着とタイツの不快感とは裏腹に、足取りは非常に軽かった。あれだけ重たかったお腹はすっきりと軽くて、空っぽになったことをとてもよく実感できた。
落ちていた視界を上げると、道の端に雪だるまがいくつも並んでいた。肩を並べた雪だるまはみな同じ方向を見ている。その視線の先を辿って、すぐに止めた。
ひんやりと下半身が冷える。くしゅ、とくしゃみが出る。悴んだ手をポケットに入れて、私は転ばないように帰路に就くのだった。
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初出:2018年7月20日(pixiv) 掲載:2022年7月30日