衣は剥がされ鎧は開く(瀬奈子視点)

「ただいまー。買い物してきたよ」
「おかえり、ありがとう」
 扉の開く音と彼の声。それから、冷蔵庫の前でごそごそと片付ける気配。誰もいない静かな空間も集中できるけれど、こうして生活音が聞こえるのも悪くない。
 彼の帰宅で少し心が緩むのを感じながら、ディスプレイに並ぶ文字列に目を走らせる。問題が無いことを確認できたのと同時に、後ろに人の気配を感じた。
「瀬奈子、コーヒー飲まない?」
「うん、貰う」
「ついでに休憩もしよ。出来たらリビングに持っていくから、瀬奈子もあっちに移動」
「はいはい」
 返事をすると、足音が部屋を出ていった。確かにそろそろ休憩しても良い頃かもしれない。どうも自分のことは無頓着になりがちなので、こうして色々気を使ってくれると正直助かっている。少々口煩すぎるとも思うけれど。

 メーラーを立ち上げると、いくつか新しいメールが入っていた。とりあえずは返信メールを作り、今出来たデータを添付する。本文には定型文と気になったことを書き添える。
 一通り確認して送信ボタンを押して、次は受信ボックスを確認していく。新しい依頼があると良いんだけれど。期待半分に、並んでいるスパムを削除していると、ぐいと後ろから肩を引かれた。
「休憩!」
「わかってる、すぐ行くからちょっと待って」
「ダメ! こっち来なさい!」
 せめてメールの確認だけさせてほしい。そう思って画面に目を戻したけれど、彼も私の扱いには慣れたようで、何をどうしたら私が作業を止めざるを得ないかよくわかっていた。
 彼は私の手の先にあったマウスを取り上げた。無線マウスだから持ち上げたところで引っかかる線はない。それが仇になることがあるとは思わなかった。
 そうなるとどうしようもない。椅子を引かれたので、仕方なく立ち上がった。長時間同じ体勢だったからか、少し動いただけで背中がみしみしと鈍く軋む。さり気なく背中を伸ばすと、彼は隣でもの言いたげにこちらを見ていた。笑って誤魔化してみたけれど、渋い顔をされただけだった。

「仕事終わり。次はコーヒー飲んで休憩して、おれのこと構う番」
「それが目当てでしょ」
「そうだよ」
 そんなこと言いながら、私を心配してくれているのはよくわかった。そこを指摘すると、よく回る口で簡単に誤魔化されてしまうので何も言わないでおくけれど。
「買い物すっごく頑張ったから、ちゃんと構って」
 頑張ったって何を、と聞きたくなって、その言葉は飲み込んだ。真っすぐ向き合えば、彼の様子がいつもとは違うことはすぐに分かった。
 回りくどい言い方は相変わらずだ。胸の内を素直に言えば可愛げがあるものの、彼は割と照れ屋だから、いつもこうして本音を誤魔化す。こういうところも可愛いと感じるのは惚れた弱みなのだろうか。
 肝心の本人はにこにこと笑って、私の腕を引っ張った。

 リビングにはカップが2つ置いてあった。ソファのいつもの位置に座り、コーヒーに口を付ける。ブラックコーヒーが乾いた喉を潤していく。
 隣に座った彼は同じようにマグカップを手に取る。それから、落ち着きない様子でこちらを見ていた。
 何かを期待してされているのだと思う。何かを求められている。何かなんて、彼を見ていればわかるけれど、敢えて気付かないふりを続ける。
 彼がこうして物欲しげな様子を見せるときは、あまり探り過ぎないようにしていた。彼は色々隠したがりの割に隠し方はあまり上手じゃないので、その奥を見るのは割と簡単だ。でもそれじゃあ面白くない。
「飲まないの?」
 とりあえず、見たまま感じたことを伝える。彼はマグカップを両手で握ったまま、ぴたりと膝を寄せて、妙に縮こまって座っている。そんなに体を丸めなくても、ソファには余裕があるのに。

「瀬奈子はおれにコーヒー飲んでほしい?」
 返ってきたのはそんな質問だった。相変わらず回りくどい言動に、つい視線が生温かくなる。ただ、彼の落ち着きない様子を直視しているのはどうも気の毒で、ひとまず視線を逸らした。
 さて、どう返事をしたものか。
「そのままだと冷めるよ」
 へらへらと笑うのは彼が自分を隠しているからだ。はっきり言ってくれたら良いのに、彼はいつもこうして言葉を隠す。でも言葉は隠せても、体の動きを隠す余裕はあまりないようで、ぴたりと寄せられたズボンの膝は小さく震えていた。
「瀬奈子」
 名前を呼ばれて目が合う。にんまり、笑顔が少し変わる。嬉しそうな、少し高揚したような表情。へらへらと貼り付けた笑顔よりは、この顔の方が好ましかった。
「はいはい、なあに」
「コーヒー飲んでほしい?」
 はいはい、と同じ言葉を返そうとして、それを飲み込む。

「飲んでほしいって言われたいわけじゃないんでしょ?」
 そう言うと、にんまりとした笑顔が一瞬だけ真顔に戻る。それから、ぱっと花が開いたような笑顔に変わった。笑顔はあどけないけれど、その目は不釣り合いにぎらぎら輝いている。
「なんて言ってほしいの? ちゃんと言いなさい」
 彼の喉が上下した。返事を求めてじっと見つめると、耐えかねたように彼は目を伏せた。頬がほんのり染まっているのは恥ずかしいからか、それとも嬉しいからか。いっそ両方かもしれない。
 ひとつ間を置いて、彼は口を開いた。
「飲みなさいって、言って。全部飲みなさい、残しちゃダメって」
 伏せた目はカップの中をじっと見ている。黒い水面にぎらぎらとした瞳が映っていた。
 言われたとおり繰り返すだけじゃつまらない。言葉を飲み込んで、自分なりに組み立てる。台詞回しを考えるのは慣れている。その中でも、彼には特別なものを与えたい。

「用意したんだから、自分の分は全部飲まないとね。飲めるでしょ?」
 目を伏せたまま彼はひとつ頷く。それからカップを口に近付けた。目だけでこちらを見てから静かに喉を鳴らす。白い喉がゆっくりと上下したかと思うと、彼はぶるっと身震いして、慌てたようにカップから口を離した。
 そんな状態なのに、更に飲み物なんて飲むから。しかもブラックコーヒーなんて、利尿作用が特別強いのにね。
 胸の内で呟いた言葉は、当たり前だけれど彼には届かない。彼はひとつ息を吐くと、勢いよくカップを傾けた。
「飲んじゃった」
 口元を拭い、伏せていた瞳を上げて、こちらを見た。へらっと笑った表情はいつもより固い。縮こまった体にはぎゅっと力が入っていて、ぴたりと隙間なく寄せられた膝が小さく震えていた。
「あぁ、どうしよ、もう結構、きついかも」
 独り言のようで、彼の視線はしっかりとこちらに向いていた。何かしらの反応を求めているのだろうけれど、なんと言うべきか。考えていると、びくっと驚いたように彼の体が跳ねた。

 目が伏せられ、体が更に小さく固く強張る。それから、ぎゅうぎゅうと寄せられた膝が上下に交差した。出来るだけ平静を装うとしているのかもしれないけれど、足を組んだ付け根がきつく寄せられているのは一目見てわかった。
 まだ私が気付いていないと思っているのか。そういうところはいじらしくて可愛らしい。
「あっ、あ……」
 小さな声が漏れ聞こえる。口元だけで呟いたのか、本当に小さな声だった。それでも同じソファに座っていれば聞こえてしまう。
「あぁ、トイレ行きたい……」
 ぼそぼそ呟くような言葉は独り言のようだった。ああ、やっぱり。本人は隠していたつもりかもしれないけれど、こんな彼の様子を見れば誰だって気付くだろう。

 独り言なら聞かなかったふりをしてあげても良いかなと思っていると、彼は慌てたように顔を上げた。
「……今の、聞こえた?」
 素直に頷くと、火照っていた頬が更に赤く染まり、あからさまに目を逸らされた。どうやら独り言どころか、口に出したつもりもなかったようだった。取り繕う余裕もあまりないのだろう。
 それならそれで素直になれば良いのに、彼はへらりと貼り付けた笑顔を浮かべる。本心を冗談のように誤魔化すのは彼の癖みたいなものなのだろう。
「バレちゃった、恥ずかし」
「自分から言ったんでしょうに」
 返事はなく、その代わりに彼は寄りかかってきた。胸元に身を寄せ、私の服の裾をぎゅっと握った。

「瀬奈子、おれね、すっごいトイレ我慢してる」
「知ってたよ」
「知ってたのに知らないふりしてたの? 瀬奈子、いじわるだ」
 敢えて言葉を返さずにいると、彼はぺらぺらと言葉を続ける。
「買い物行く前から結構行きたくて、でもだいじょうぶかなと思って、そのまま買い物行ったんだ。そしたら、スーパー着いたあたりからすっごく行きたくなっちゃった。
 ばれないようにするの、すっごくつらかった。途中でトイレ行こうかなって何回も思ったけど、頑張って買い物して帰ってきたんだよ」
 言葉の合間合間にこちらを様子を窺っているのがよくわかって、つい笑いそうになる。
 彼のへらへらした笑みはいつもより強張っていた。さり気なく擦り合わされる膝も、決して演技ではないのだと思う。

「おれ、今もすごいがんばってる。おなかぱんぱんで破裂しそう。それなのに、コーヒー飲んじゃった」
「用意したんだから、残さず全部飲むのは当たり前。そうでしょ?」
 逃げ道を塞ぐようなことを敢えて言うと、彼はおずおずと頷く。
「それに、今もトイレに行かないってことは、まだ我慢できるってこと?」
「えっ……! あっ、えっと……」
 少し踏み込んだことを言えば、笑顔は消え、焦りを滲ませた素の顔が見えた。本音を隠してへらへらしているより、その顔が私は好きだった。でも本人はあまり見せたくないようで、すぐに彼はへらりと笑いを張り付ける。
「うん、まだ平気、だけど、その」
 もう余裕があまりないのは見ていればわかる。それでも彼は貼り付けた笑顔でそんなことを言う。
「行きたかったら行って良いんだよ?」
「大丈夫、だから。……だから、その」
 先程までぺらぺらと喋っていたのが嘘のように、彼は顔を伏せる。固く噤んだ口と同じように、指先が私の服をぎゅうと固く握っていた。
 彼が何を言いたいかは何となくわかるけれど、彼の口で直接言わせたい。大丈夫だから、全部言ってごらん、全部見せてごらん。言葉にはせず、胸の中でそっと呟く。

「いじわる、して」
 小さな声。言葉を追いかけるように彼の目がまっすぐにこちらを見た。
「おれのこと構って。いっぱいいじわるして」
「好きだね、意地悪」
「うん、好き。すごく好き。瀬奈子もおれにいじわるするの好きだから、ウィンウィン」
「私は好きなんて言ってない」
「隠さなくて良いのに」
 別に隠しているつもりはないし、特別好きなわけでもない。大体、こんなことを始めたのも彼に求められたのがきっかけだ。
 そもそも、年下で、口うるさくて、意地悪されたがりな男の子は好みじゃなかったのになあ。なんで惚れちゃったのか、我ながら謎だ。内心そんなことを考えていると、何か勘づいたのか、彼は不満げに唇を尖らせた。
「浮気はダメ! ゼッタイ! そういういじわるはやだ」
「君のこと以外考えてないよ」
 嘘はついてない。考えていたのは本当に彼のことだったから。
 私のシャツを握る手に触れると、くるりと手首が返されて指と指が絡まった。細い、それでいて節のしっかりした指が小さく震えていた。

「お腹くるしい、破裂しそう」
 どこかわざとらしい台詞。へらりと笑うから余計にわざとらしく見えるけれど、そこに隠れているのは紛れもない本心なのだろう。
「トイレ行きたい、漏れちゃいそう」
「そんなこと言っても、まだ大丈夫だからここにいるんでしょう? 本当に限界ならトイレに行くもんね」
「……うん、まだ平気」
 逃げ道を塞ぐように言うと、嘘つきな言葉が返ってくる。素直に胸の内を言えば良いのに。余裕もないのに無理に繕うからか、声は固くて震えていた。
 握った手は熱くて、少し汗ばんでいた。組んだ両足は小刻みに揺れている。時折、付け根が固く強く押し付け合っている。
 反対の手で太腿に触れて、そっと撫でる。肩がびくりと跳ねた。
「コーヒーおかわり飲もうかな」
「あんまり飲んだら、夜、寝れなくなるよ」
「仕事するからちょうど良いよ」
「ダメ、夜はちゃんと寝ること!」
 落ち着きなく上擦った声でも小言は忘れないあたりは彼らしい。

「おかわり、君も飲む?」
 彼は言葉を探す様に視線を彷徨わせる。探したって、正解は君の中にしかないのに。彼が答えを見つけるより先に、私が口を開く。
「ああ、違った。こう言ってほしいんだったね。『お代わりを用意するから、全部飲みなさい。残しちゃ駄目』」
 ひゅ、と息を飲む音が聞こえた。
 彼は笑っていたけれど、泣き出しそうにも見えた。先程までのようなへらへらした貼り付けた笑顔じゃない。笑わずにはいられないような、嬉々とした表情。でも、その奥に滲んだ苦しみで、笑顔がぐにゃりと歪んでいる。じっと見つめる目は幼さの残る顔とは不釣り合いな程、ぎらぎらと輝いている。
 やっと、隠していたものが姿を見せ始める。色んな欲望が混じってぐちゃぐちゃになって、翻弄されている彼の姿はとても可愛くて、とても愛おしかった。
 そんな彼を見て、自分が高揚していくのがわかった。意地悪は好きじゃないというのは本当だ。でも、もしかしたら気付かぬうちに彼に目覚めさせられたかもしれない。

「さて、おかわり入れてこようかな」
 そう言って、握られた手を開く。立ち上がろうとしても、彼の指先は私の手の甲にぎゅっと掛けられたままだ。小さく震えて汗ばんでいて、それでも私の手を離さなかった。
「手、離してくれないとキッチンに行けないんだけど」
「ダメ!」
 子供のような率直な言葉は、彼の内側から直接飛び出したようだった。それに誰より驚いているのは彼自身のようで、すぐに口を噤んだ。
「どうして?」
「えっと、寂しいから。行かないで、ここにいて、手繋いでて」
 へらっと笑って言う。作り笑いとそんな言葉で誤魔化せると思ったのだろうか。騙されてあげても良いけれど、彼が求めたのはそんな反応ではないと感じた。

「それなら一緒に行こうか。ほら、カップ持って。用意しに行こう」
 私が自分のカップを持つと、彼は何も言わずに俯く。それでも私の手を固く握ったままだ。
 わざとらしく手を開いて、彼の手を解くように揺らしてみると、慌てたように彼は私の手を握りなおした。
「もう一度だけ聞くよ。どうして?」
 何かを言おうと震えた唇が開いて、でも躊躇うように閉じる。隠さなくていい。さっきみたいに、胸の内をそのまま言葉にすれば良い。その方が君はずっと可愛いから。
「睦」
 促すように名前を呼ぶ。他意はなかったけれど、思った以上に優しい声になっていた。
「おかわりは、ダメ」
「どうして?」
 彼の指に力が籠る。切り揃えられた爪がぎゅっと手の甲に食い込んだ。
「もう、飲めない」
「どうして?」
「飲んだら、出ちゃう」
 ぽつりぽつりと呟くような言葉は、叱られた子どもが理由を説明しているようだった。聞きようによっては言い訳に聞こえるかもしれない、でも本人はこれ以上ない程真剣で。そんな様子はいじらしくて、ぎゅっと抱きしめてあげたくなる。
 伸ばしていた指を曲げて、もう一度手を握る。彼の手から力が抜ける。それでも指先は私の手の甲にしっかり引っかかっていた。

 短く息を吐く音。衣擦れの音。喉のなる音。お喋りな彼の口は何も言わなくなったけれど、その代わりに色々な音が彼の代わりに饒舌に語る。静かな彼の代わりに私が喋る必要はないようだった。
「ん、んっ……」
 もじもじ、落ち着きなく彼の体が揺れる。寄せられた膝が忙しなく擦り合わされる。時折、繋がれた手は指先が開くけれど、すぐに握り直される。
 伏せられていた顔がゆっくりと持ち上がる。目が合うと、彼はへらりと笑った。まだ繕う余裕はあるのか、それとも染み付いた癖のようなものか。素直になれば良いのに。そう思わずにはいられない。

「すっごいトイレ行きたい、漏れそう」
「もう子どもじゃないんだから、おもらししちゃう前にトイレに行くでしょ?」
「……瀬奈子が手握ってるから行けない」
「それなら離そうか。汗かいちゃったし、喉も乾いたし」
 先程のように手を開くと、軽い笑みはすぐに飛んでいく。焦りでいっぱいの素の表情で、痛い程強く手を握られた。それが可愛くて、つい笑ってしまう。
 お代わりのコーヒーを恐れているのか、それとも寂しいが冗談ではないのか。どちらにせよ、もう今の彼は本音を隠すことなんて出来ない。
 目が合う。彼はへらりと笑う。そのままじっと見つめ返していると、笑顔はすぐに消えて、震える口元がぎゅっと結ばれた。細められた目は震えていた。

「ぅ、あ……、あっ……」
 震えた声を漏らしながら、彼は身を強張らせる。かと思うと、びくっと肩が跳ねた。
 何も握っていない手が中途半端に宙に浮く。何かを引っ掻くように、指が開いて閉じてを繰り返している。
「あ、あ、まって、あ、ぁっ……!」
 顔を伏せて、目が細く固く閉じられる。歯を食いしばっているのがわかった。
 宙を掴んでいた手が、弾かれたように彼の体に引き寄せられる。組まれた足の中央、前かがみになったせいか生地が余って膨らんだ部分を潰す様に彼の手がぎゅうっと握った。
 ぎゅうぎゅうとズボンの中央を握りながら、震える唇から短い息が漏れ出す。ゆっくりと開いた目には涙が薄く溜まっている。
「瀬奈子っ……!」
 何かを言おうとしているのはわかる。でも、その続きはなかなか彼の口から出てこない。冗談や嘘を交えれば言葉を紡ぐのは上手なのに、それを余裕と一緒に取り上げてしまえば彼は何も言えなくなる。先程まではトイレに行きたい、我慢できない、漏れちゃいそうといくらでも言えていたのにね。

 彼が何も言わないなら、私も何も言わない。代わりに繋がれた手をぎゅっと握ると、彼の体は震えた。
「瀬奈子、あのっ……!」
 言葉の続きは、短い息と小さな悲鳴に繋がる。はくはくと短い呼吸を繰り返し、それに合わせて彼の体が震える。
 繋がれた手は汗ばんでぬるりと滑る。その滑りに誘われるかのように、彼の指がゆるりと開く。離れては駄目だと、今度は私が彼の手の甲に指先を引っ掛けた。
「手、離して、ほしい」
「どうして?」
 俯いた顔。震えた唇がぎゅっと噛みしめられる。ズボンの前に添えられた手は、落ち着きなくその奥をぎゅうと押さえている。は、は、と短い呼吸に合わせるように、指先がぎゅ、ぎゅとズボンの奥を握るのがわかる。
「ごめんっ、ほんとに、手、離してっ……」
 繋がれた手は完全に開かれて、私から離れようと引っ張られる。それでも、私の指は彼の手の甲に引っかかって、それは嫌だと繋ぎ止める。
「さっきは離さないでって言ってたのに。今度は離してほしいの?」
 離さないでと言ったのは君だよ、と敢えて彼の言葉を繰り返すと、涙の浮いた目が歪んだ弧を描いた。泣き出す前の子供みたいな顔。泣かなくても良いのに。開いていた手を彼の頬に添えた。

「あ、あ、ダメ、ほんとに、ダメっ……」
「離しちゃダメなの? わかりづらいなあ」
「違う、あ、あっ、まってっ、あ、あっ……!」
 返事はあるけれど、どれも要領を得ない言葉ばかり。俯いた顔を覗き込んで、泣き出しそうに歪んだ目をじっと見つめれば、その目尻からぼろりと涙が零れた。
「あ、あ、ダメ、あ、あぁっ……」
 声にならない声の合間に、うわ言のような言葉が混じる。がくがくと震えた体の中央で、同じように震えた手がぎゅうとズボンの中央を握りしめていた。
「く、ぅ、あ、あっ……!」
 引き絞るような声。はくはくと短く浅い呼吸。それに混じって、じゅう、と微かに水音が聞こえた。一瞬だけだったので聞き間違えかと思えたけれど、すぐに同じ音がもう一度鳴る。二度目は一度目より長く大きい。
 じゅうう、水音はくぐもっている。ホースの出口をタオルで包めば同じような音が鳴るだろうなと思った。

「ダメ、ごめん、もうむりっ……!」
 前屈みのまま、彼はソファから立ち上がる。足は前に進んだが、彼の両手はその位置から動かない。
 ズボンの前を握りしめたままの左手。そして私の指が引っかかったままの右手。その場から離れようと彼の足が動いて、繋がれた手がぴんと伸ばされた。
「瀬奈子、お願い離してっ……!」
「どうして?」
「もっ、ダメっ、でっ、るからっ……!」
 もう一度問いかけようとしたけれど、それより彼の手が離れるのが速かった。引っかかっていた指先は振りほどかれ、自由になった彼の手は反対の手の上に重なる。前屈みになり、大事に抱えたお腹の下で、彼の両手はズボンの中央を握っていた。
「あ、あ、あ、あっ……!」
 ぺた、ぺたと裸の足がフローリングを進む。ぺたり、ぺたり、足音の合間に、じゅううっと何度目かの水音。

 丸められた背中を追いかけようとソファから腰を上げると、彼はリビングの扉の前で立ち止まった。遠目にもわかるほど震えた膝ががくりと折れて、彼は扉の前に崩れ落ちた。
「あっ、ダメ、で、ちゃ、あ、あっ……!」
 ゆっくりと近付く。彼の傍に濡れた足跡がひとつ。強張った体から、絞り出された声は潰れていた。
 すぐ後ろに立っても、彼はしゃがみ込んで俯いたままだった。手を伸ばして、彼の代わりに扉を引く。リビングは開かれ、彼の前には廊下が伸びる。彼の足を止めるものはないのに、彼は動かない。

 じゅうう、と何度目かの水音。じゅうう、じゅう、じゅうう。止まって、鳴って、止まって。
「あ、あ、あ、ぁ……」
 呼吸に乗って、力の抜けた声が漏れる。それから、くぐもった水音が鳴った。今度は止まらない。
 ぴちゃぴちゃと滴る水音が混じる。はーはーと長い呼吸を、ごくりと唾を飲む音が遮る。
 離された手はまだ彼の汗で生暖かく濡れている。それと同じくらい温かい液体が私の足を濡らした。
 見下ろすと、背中を丸めてしゃがんだ彼の周りに水たまりが広がっていくのが見えた。私の足を濡らし、フローリングの溝を埋め、それでも止まることなくじわりじわりと部屋の中へ広がっていく。くぐもった水音は続いていた。
「あ、あ、で、ちゃった……」
 ぽつりと小さな声は放心したように力が抜けていた。はー、はーと彼の長い呼吸が耳につく。水音はいつの間にか小さくなっていた。

 放心状態の彼に、そっと声を掛ける。名前を呼んでも反応はない。呼吸に合わせて、肩が大きく上下していた。
「睦」
 もう一度名前を呼ぶ。やはり返事はなかったけれど、彼はしゃがみ込んでいた体勢から、そのままお尻を床につけて座った。ぴちゃ、と水音がした。
 膝を立てて座り込み、後ろに手をついて、彼は上を向く。何を言ったら良いのかわからず、ただ赤い目を見返すと、彼はへらりと力なく笑った。
「……やっちゃった」
「もうちょっとだったのにね」
「ん。やばい、結構恥ずかし」
 軽い口調で、いつものように笑顔を浮かべるのは照れ隠しなのだろうか。その姿は少し痛々しくも感じる。手を伸ばしてそっと頭を撫でると、彼は顔を伏せた。

「立てる?」
「引っ張って。……あ、やっぱ良い」
 後ろで体を支えていた手が伸ばされかけて、すぐに戻される。濡れて汚れていることを気にしたんだろうけれど、それを気にするならこんな傍にはいない。
「もう足が濡れてるから気にしないよ。ほら、手貸して」
 中途半端に伸ばされた手を掴むと、彼は俯いたまま、ゆっくりと立ち上がった。そのままくるりとこちらを向くと、ぐっしょりと濡れて色を変えたズボンがよく見えた。彼は両手でズボンの前を隠そうとするけれど、とてもそんな程度で隠せる範囲ではない。
「恥ずかし。あんま見ないで」
「はいはい」
 とりあえず考えるべきことは後片付けだ。床を拭かないといけないし、濡れた服を着替えないといけない。このまま移動すれば、他の場所も濡れてしまう。
「ちょうど良いから、ここで脱いじゃって」
 手を伸ばして彼のズボンに触れると、彼は慌てた声を上げる。それでも抵抗する様子もなければ、自分で脱ぐ様子もないので、仕方なく私の手でボタンを外してチャックを下ろす。そこまですると、彼は慌てたようにズボンを掴んだ。

「自分でやるからっ。お風呂場行って脱ぐから、大丈夫だから」
「早く脱がないとかぶれちゃうでしょ。ほら、良いから」
「待ってってばっ! 自分でする、から。あと、その」
 濡れたズボンを掴んだまま、彼は顔を伏せた。火照った頬はまだ赤く、落ち着きなく身を揺する様子に、彼が何を言い淀んだかはすぐに分かった。
「トイレまだ行きたいから、待って……」
 小さな声で恥ずかしそうに呟く。まだいつものように冗談や嘘を交えて喋る余裕は戻っていないようで、随分素直だ。変に繕っているより、そうして胸の内を曝け出している方が私は好きだった。
「トイレまで我慢できる?」
 返事はわかっていたけれど、私が聞きたかった。
「出来ない、かも」
「じゃあ、どうする?」
「出ちゃう、から、見ないで」
「目を閉じてたら良い?」
「ダメ、瀬奈子のいじわる」
「じゃあ、どうしたら良い? ちゃんと言いなさい」
 自分が高揚しているのがわかる。彼の言葉にどんどん言葉を返してしまう。
 どうして欲しいか、聞かなくても何となくわかる。でも、言わせたい。言ってほしい。

 睦はぎゅうと私のシャツを握った。手が震えている。小さく開いた口から、ああ、と泣きそうな声が零れるのが聞こえた。
「ちゃんと、見てて。目、閉じちゃ、ダメ。……あっ、あっ、ダメ、で、ちゃう」
 短い呼吸を繰り返しながら、おずおずといった様子で彼はこちらを見る。その様子に、自分の頬が緩むのを感じた。 
 しゅうしゅうとくぐもった水音がした。ぴちゃぴちゃと水音が聞こえた。濡れた足元が、再び温かく濡れていく。
「あんまり、見ないで」
「難しいなあ。見ていてほしいんじゃなかったの?」
「そうだけどっ……。恥ずかしいのには変わりないんだから」
 真っ赤な顔は恥ずかしそうだけれど、熱に浮いたようにぼおっとしている。私も同じような顔をしているかもしれない。
 可愛い、可愛い。つい口を付いてそんなことを言ってしまう。彼は一瞬だけ複雑そうな顔をしたけれど、すぐに蕩けた表情に戻った。

 睦視点は こちら

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初出: 2020年8月2日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2019年8月2日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。