ビニール袋をひとつぶら下げて、玄関の重たい扉を開ける。本当はもうちょっと買うつもりだったけれど、途中から頭が全然回らなくて、とりあえず今日の夕食分だけ買うのがやっとだった。
スーパーを出ると少しだけ冷静になれて、まず朝ごはん用のパンがあったかどうか心配になった。なかったらご飯を多めに炊かないといけない。ほっとくと瀬奈子は一日パソコンに向かったままで、朝どころか昼も食べないから、その分おれがちゃんと見ていてやらないと。
「ただいまー。買い物してきたよ」
扉が開いたままの仕事部屋の中には、買い物前と何一つ変わらない小さな背中があった。声を掛けると、その背中が「おかえり」と「ありがとう」を言うのが聞こえた。
ちょっとくらいこっち見てくれても良いのに、瀬奈子は画面に釘付けだ。キーボードから手が離れているという事は確認作業中かな。それなら、このあたりで一度休憩に引っ張り出そう。このままにしておくと、休憩なしで次の作業に取り掛かってしまいそうだ。
キッチンの棚にビニール袋を置いて、中身を冷蔵庫へ移していく。じっとしていると、体の内側でずっしりと重くなったものが降りてきて、出口が内側からきゅうと押される感じがした。ぞわぞわと落ち着かない悪寒を、軽く足踏みして誤魔化してみる。
彼女は変わらずこちらに背中を向けている。ばれてない、気付いてない。それにほっとして、同時に残念に思った。
そう思っていると、彼女の背中が少し動く。その僅かな動きにどきっとして、足踏みを止める。気付いてほしいと思いながら、バレたくないとつい平静を装う自分が面白くて、つい自嘲した。
結局、荷物を片づける間、瀬奈子は一度もこちらを向かなかった。
片付けを終えて、仕事部屋に入る。ぺたぺたと裸足でフローリングを踏むと、時折ぎしりと床が軋む。それでも瀬奈子はこちらを向かなかった。
「瀬奈子、コーヒー飲まない?」
彼女は画面を見たまま頷いて「貰う」と言った。返事はくれるものの、意識のほとんどは画面に向いているようだった。
「ついでに休憩もしよ。出来たらリビングに持っていくから、瀬奈子もあっちに移動」
「はいはい」
適当な返事。これは聞いているようで聞いていない。というか、聞こえていてもあまり重要には思われていない気がする。
コーヒーを用意している間に瀬奈子がリビングに移動している可能性はゼロに近い。もし仮に移動していたら、外に干している洗濯物をすぐに取り込もうと思った。
ケトルに水を入れる。びちゃびちゃ、その僅かな水音が体の中に響いて、背中がぞくぞくとした。ああ、既に、結構きつい、かも。それなのにコーヒーを飲もうとしてるとか、馬鹿なことしてる。呆れられるかな。……嫌われないと良いなあ。
瀬奈子は嫌いなら嫌いとはっきり言うタイプだと思う。でも、実は溜め込むタイプだったら。内心、こんなおれのことをうっとおしく思っていたら。人に嫌われるのは慣れてるけど、瀬奈子に嫌われるのはちょっと怖い。
ケトルがかちっと音を立てる。マグカップを2つ並べて、インスタントのコーヒーを用意した。こぽこぽお湯を注ぐと、嫌な想像を弾きだすように体が震えた。
リビングには想像通り誰もいなかった。まったくもう。とりあえずカップを机に置いて、すぐに部屋を出る。
仕事部屋には先程と何にも変わらない背中があった。大股でその背中に近寄って、肩をぐいと引く。
「休憩!」
瀬奈子は一瞬顔を上げたけれど、すぐに画面に向きなおした。
「わかってる、すぐ行くからちょっと待って」
「ダメ! こっち来なさい!」
瀬奈子の「ちょっと待って」が本当にちょっとで終わったことはない。
とにかく仕事から引き剥がそうと、マウスを咄嗟に取り上げる。パソコンから離れてもらうには、これが一番効果があると最近学んだ。
マウスを持ったまま椅子を引くと、彼女は仕方なさそうに立ち上がった。小さな背中が伸ばされると、みし、と骨が軋む音がおれにも聞こえる。休憩も取らずにずっと座りっぱなしだからだ。少し睨むように見ると、誤魔化すような苦笑いが返ってきた。
「仕事終わり。次はコーヒー飲んで休憩して、おれのこと構う番」
「それが目当てでしょ」
「そうだよ」
構ってもらうのも勿論目当てだけど、一番は瀬奈子に休んでもらうことだ。この生活力の無さ、おれが来る前はどうやって生きていたのか本気で不安になる。誰かが世話してたのかな。……あんまり、想像したくないな。
「買い物すっごく頑張ったから、ちゃんと構って」
頑張ったのは本当。すごく、すっごく頑張った。何を、とは敢えて言わない。
さっきまでみたいに背中を向けていたらわからないけれど、今みたいにちゃんと向き合ってくれたら、おれが何を言いたいのか、瀬奈子は簡単に気付くと思う。
気付かないでほしい、そう思いながら、早く気付いてほしいとも思う。そんなわがままを誤魔化すように笑って、彼女の腕を引いて仕事部屋を出た。
リビングに連れて行けば、瀬奈子は定位置に座って、先ほど用意しておいたコーヒーを飲んでいた。すいすい飲むあたり、水分も取ってなかったのかもしれない。コーヒーじゃなくて、お茶の方が良かったかな。
隣に座って、自分の分のコーヒーを手に取る。瀬奈子の手元を見て、もう一度自分のカップを見る。真っ黒なコーヒー。おれも瀬奈子もブラック派。普段ならおれも冷める前に手を伸ばすけれど、今日はなかなかそういうわけにもいかない。
じっと座っていると、お腹の奥の重いものをよりしっかりと感じる。ああ、どうしよ。結構、きつい、かも。込み上げる衝動を抑えるために、出来るだけさり気なく膝を擦り合わせる。バレませんように。でも、気付いてほしい。そんな歪な思いに、頬がひとりでに緩む。
「飲まないの?」
瀬奈子は自分の分を飲み干すと、そう言った。なんて返事をしようかと考えながら、両手でカップを握りしめる。瀬奈子は気付いてるのかな。それとも、単に疑問に思ったのかな。考えても、瀬奈子の顔を見ても、本心は全然わからない。
「瀬奈子はおれにコーヒー飲んでほしい?」
「……そのままだと冷めるよ」
本心を探りたくて、少しだけ踏み込んで、でもはっきりなんて聞けないから誤魔化して。結局口にしたのはそんな言葉。
瀬奈子は手元のコーヒーのように少し冷めた目でこちらを見た。折角目が合ったのに、気まずそうに目を逸らされる。
あ、もしかして、気付いたのかな。気付かれたくないと思っていたのに、気付かれたかもしれないと思うと嬉しくなる。感情に任せてもう一度笑って、瀬奈子、と名前を呼んだ。
「はいはい、なあに」
「コーヒー飲んでほしい?」
はいはい、と間髪を入れずに言われるかと思っていたのに、瀬奈子は何も言わずに押し黙る。返事が欲しくて、もう一度名前を呼ぶと目が合った。
「飲んでほしいって言われたいわけじゃないんでしょ?」
想定していなかった言葉に、胸がどきっと跳ねた。じわじわと嬉しさが込み上げる。頬が緩む。もっともっとわかってほしくて、じっと見つめ返した。
「なんて言ってほしいの? ちゃんと言いなさい」
咄嗟に返事が出来ず、ごくりと唾を飲む。
どうして瀬奈子はおれのことがわかるんだろう。気怠そうな目で真っすぐ見つめられると、全部見透かされるんじゃないかと思う。そう思うと恥ずかしくて、つい目を伏せた。
「飲みなさいって、言って。全部飲みなさい、残しちゃダメって」
胸の奥から言葉を絞り出す。恥ずかしい、恥ずかしい、でも嬉しい。胸の中がぐちゃぐちゃで、そんな思いさえ見透かされそうで、瀬奈子の顔が見れない。じっと手元のコーヒーを見つめると、歪な表情の自分が映っていた。
「用意したんだから、自分の分は全部飲まないとね。飲めるでしょ?」
少し間を置いて、瀬奈子はそう言った。
鼓動が激しくなって、ぞくぞくと背中に悪寒が走る。上手く言葉が出なくて、頷いて返事をした。ちらりと目だけで様子を窺うと、瀬奈子の口元は少し緩んでいた。
カップに口を付ける。ごくりと飲み込むと、幾分冷めたコーヒーが喉を通って落ちていく。お腹いっぱいに膨らんだ水風船に更に注ぎこまれていくような感覚に、体がひとりでに身震いして、咄嗟に口を離してしまう。
カップの中にはまだ黒い水面が揺れている。ふう、と息を吐いて、勢いよく残りを飲み干した。
空っぽになったカップを机の上に置く。飲んじゃった、全部、全部、飲んじゃった。全身に悪寒が走る。込み上げる衝動を抑えるように、ぎゅっと身を縮める。隣を見ると、瀬奈子がただじっとこちらを見ていた。
「あぁ、どうしよ、もう結構、きついかも」
へらりと笑いながら、わざとらしく言う。でも、言葉の内容は紛れもない本音だった。ぞくぞく込み上げる悪寒はさっきから全然治まらない。辛くてたまらなくて、膝が勝手に震える。違うことを考えようと思うのに、頭がいっぱいで他のことは考えられない。
ばくばく、激しくなる鼓動。お腹の奥でずっしりと重い塊が震えて、切ない衝動が全身に走る。体を揺らすと少しだけ紛れるけれど、すぐにそれ以上の勢いで押し返される。
ああ、やばい、きつい。少しでも押さえ込もうと、出来るだけ自然に足を組んで、さり気なくぎゅうぎゅうと押さえる。
気付いてほしいと思っていたのに、バレないように動くとか、とてもアンバランスだ。
でも、まだばれていないかもしれないから。それは誰でもない自分に対する言い訳。瀬奈子は聡いから気付いていないわけがない。でも、どれだけ様子を窺っても本当にそうかはわからないから、万が一を考える。
でも、おれがこうして中途半端に疑いと信頼を持っていることすら、瀬奈子にはお見通しなんじゃないかと思う。そうだったら悔しいけれど、ちょっと嬉しい。
おれはどれだけ考えても瀬奈子のことがわからないのに、瀬奈子はおれのことを見透かしてしまう。本当に、ずるい。
あ、あ。漏れそうになる声を必死に堪える。ぞくぞく、込み上げる衝動が強くなる。波のように寄せては引いて、また寄せて。一度引けば、次の波は更に強くなる。何度目か、数えるのも嫌になるくらい頻繁に打ち寄せる波に、体がひとりでに身震いする。やばい、ほんと、きつい。
ごくりと唾を飲んで、喉元に詰まった息を飲みこむ。口を開くと、飲み込んだ分空気が漏れた。
あ、あ、あ。強い衝動。お腹の奥がきゅうと縮む。大きく膨れたものが、もう限界だと中身を押し出そうとする感覚。あっ、あ……。ぎゅうと組んだ足を強く寄せて、必死に堪える。
全身が熱い。吐き出した息も熱かった。すごく、きつい、つらい。
……ああ、トイレ行きたい。その言葉は体の中ではなく外から聞こえて、無意識に自分が口を開いていたことに気付いた。慌てて顔を上げると、瀬奈子はじっとこちらを見ていた。
「……今の、聞こえた?」
彼女は言葉なく、ただ頷いた。熱かった体が更に熱を増す。咄嗟に目を逸らすけれど、彼女はこちらを見つめたままだ。
「バレちゃった、恥ずかし」
「自分から言ったんでしょうに」
言うつもりなかった。というか、口にしているなんて思わなかった。
全部見透かされそうだから、おれを見ないで欲しい。でも、他の誰かを見るのは嫌だ。見るのは、瀬奈子が心を配るのはおれだけにして。
相変わらずわがままな頭の中を誤魔化すように、顔を伏せて彼女に寄りかかる。
「瀬奈子、おれね、すっごいトイレ我慢してる」
「知ってたよ」
「知ってたのに知らないふりしてたの? 瀬奈子、いじわるだ」
おどけたように言ってみるけれど、瀬奈子は動じた様子はない。少しくらい慌ててくれても良いのに。それとも慌てているけれど隠しているのか。
彼女の隠しているものを引き出したくて、買い物の時のことをつらつら話してみるけれど、動揺した様子なんてひとつも見せてくれない。
「おれ、今もすごいがんばってる。おなかぱんぱんで破裂しそう。それなのに、コーヒー飲んじゃった」
「用意したんだから、残さず全部飲むのは当たり前。そうでしょ?」
そんな正論を言われたら、そうですと言うしか出来ない。そういうとこ、ほんとずるい。瀬奈子のいじわる。そう思いながらも、胸の奥がぞくぞくと疼く。
「それに、今もトイレに行かないってことは、まだ我慢できるってこと?」
えっ。思わず声が漏れる。瀬奈子はこちらをじっと見ていて、その口元がゆるりと笑っている。
ああ、もうずるい。ほんとずるい。込み上げる思いを飲み込んで、いつものように笑って、いつものように返事をす?。
「うん、まだ平気」
平気、だけど、その。続きの言葉が上手く出てこない。瀬奈子は口元を緩めたままだ。
ずるい、ずるい、ずるい。いつものように返事をしているつもりだけど、自分がいつものように笑えているか自信が無かった。
「行きたかったら行って良いんだよ?」
「大丈夫、だから」
だから、その。喋るのは得意な方なのに、言葉が全然出てこない。
ぞくぞく、込み上げるのは、お腹の奥からだけじゃない。胸の奥がぞくぞく疼くのが止まらない。奥の柔らかい部分を優しく刺激されているような感じ。苦しいけど、辛いけど、それがたまらなく、気持ちいい。
言葉の代わりに、彼女の服をぎゅうと握る。ああ、おれ、こどもみたい。普段はおれが瀬奈子の面倒見ているつもりなのに、本当は全部瀬奈子の手の平の上なんじゃないかと思ってしまう。
喉がカラカラだった。今、飲み物があったら飲んでしまっていたかもしれない。唾を飲みこんで、疼く胸から言葉を取り出して、口を開く。
「いじわる、して」
小さな声でしか言えなかった。ぎゅっと彼女の服を握って、恐る恐る顔を上げる。口元は変わらず笑っていて、その目は慈しむように細められていた。
「おれのこと構って。いっぱいいじわるして」
「好きだね、意地悪」
否定なんて出来なかった。だって、好きだから。
いじわるされると、愛されていると感じる。胸が苦しくて、辛くて、時々泣きたくなるけど、それがたまらなくて、もっともっとと求めてしまう。
今まで誰にも言わなかったのに、瀬奈子はそれを見つけてしまった。瀬奈子にいじわるされるのもたまらなく好き。いじわるしているときは、じっとこっちを見てくれる。それから、いっぱいいっぱいになったおれをぎゅうと抱きしめてくれる。そういうところも、好き。
「瀬奈子もおれにいじわるするの好きだから、ウィンウィン」
「私は好きなんて言ってない」
「隠さなくて良いのに」
隠してない、そんなことないと言いたげな顔をしていた。否定しているけど、いじわるなことを言う時、瀬奈子はいつも楽しそうに笑っているから、多分本当は好きなんだと思う。
でも、もしかしたら、おれに合わせてくれているだけかもしれないとも思う。それだったらちょっと切ない。合わせてくれているなら、せめていじわる好きになってほしい。
おれはじっと瀬奈子を見ているのに、瀬奈子はどこか遠くを見ている。何かを思い出しているような様子に、胸がじくりと痛む。
やだ、いやだ。他の人のことなんて考えないで。おれだけを見て。おれ以外と一緒にいる瀬奈子なんて、考えたくない。
思ったことをそのまま口にしてしまいそうになって、慌てて言葉を飲み込む。
「浮気はダメ! ゼッタイ! そういういじわるはやだ」
ひとつ息を吐いて、出来るだけいつもの調子で言う。隠したって、見透かされているかもしれないけど、こんなどろどろしたものは伝えたくない。
「君のこと以外考えてないよ」
嘘だ。言いたくなったけれど飲み込む。そんなこと軽々しく言うなんて、ずるい。そう思っていると、おれの手に瀬奈子の手が重ねられた。
シャツを握る手を離して、重なった彼女の手をぎゅっと握る。
「お腹くるしい、破裂しそう。トイレ行きたい、漏れちゃいそう」
出来るだけ軽い感じで言う。そんなこと全然思ってない、そんな感じで。思ってないわけないけど、素直に口にするなんて恥ずかしいから。
「まだ大丈夫だからここにいるんでしょう? 本当に限界ならトイレに行くもんね」
そう言われたら、大丈夫、平気だって言うしかない。瀬奈子のいじわる。
内側から込み上げる衝動と、外側から与えられるいじわるに、余裕なんてどこかに行ってしまう。
自分を装えなくなっていく感覚は少し怖い。内側から込み上げる自分自身を曝け出したら、自分が何を言って何をするのか想像できない。それは怖くて、恐ろしくて、でもすごくドキドキした。
瀬奈子の手がズボンの上から太ももに触れる。優しく撫でる感覚に、背筋がぞわっとして、思わず体が跳ねた。
「コーヒー、おかわり飲もうかな」
いじわるな言葉。こちらを見る目は楽しそうで、口元が緩く笑っている。瀬奈子がいじわる好きじゃないなんて絶対嘘だ。だって、こんなに楽しそうなのに。
「あんまり飲んだら、夜、寝れなくなるよ」
「仕事するからちょうど良いよ」
「ダメ、夜はちゃんと寝ること!」
いつものように言ったつもりだけれど、声は上擦っていた。ぞくぞく、お腹の奥が切ないのが止まらない。ああ、ダメ、ほんとにトイレ行きたい。
膝が震える。組んだ足でぎゅうぎゅうと出口を塞ぐ。手が震える。空いている手が、勝手に動きそうになるのを必死に堪える。
「おかわり、君も飲む?」
そ、んなの、言われたら、返事はひとつしかない。でも、もう、本当に。おれが言葉を探すより先に、瀬奈子は口を開いた。
「ああ、違った。こう言ってほしいんだったね。『お代わりを用意するから、全部飲みなさい。残しちゃ駄目』」
思わず、息を飲んだ。何も言えなかった。胸の奥、誰にも見せずに隠していたところを、ぐさりと貫かれた感触に、一瞬息が止まった気がした。
瀬奈子のことをじっと見る。自分がどんな顔をしているのか、何を言いたいのか、本当に分からない。全身がかあっと熱くて、泣き出したいような、笑いだしたいような、そんな感じ。自分が上手くコントロールできない。
「さて、おかわり入れてこようかな」
そう言って、握られた手が離されそうになる。慌てて彼女の手をぎゅっと握って、立ち上がろうとした瀬奈子を必死に引き留めた。
「手、離してくれないとキッチンに行けないんだけど」
「ダメ!」
咄嗟に出た言葉は子どもみたいだった。それが恥ずかしくて、あまりにみっともなくて、取り繕うためにいつものように笑う。
「寂しいから。行かないで、ここにいて、手繋いでて」
いつものように笑って、いつものように言っているつもりだけれど、上手くできているかわからない。
瀬奈子は一瞬だけ黙って、それから笑った。その笑顔に、全身がぞくぞくと震えた。
「それなら一緒に行こうか。ほら、カップ持って。用意しに行こう」
いじわるな言葉。わざとらしく、繋がれた手が大きく広げられる。離れないように、一方的に握りしめる姿は馬鹿みたいだ。それでも、そうせざるを得ない。
楽しそうな顔で、開いた手を揺らされても、おれはその手を必死に握ることしか出来ない。
「もう一度だけ聞いてあげるね。どうして?」
どれだけ取り繕ったって、全部全部お見通し。心臓がばくばく高鳴っている。
「睦」
名前を呼ばれる。その声はとても優しくて、突き刺されて開かれた胸の奥にじわりと染み込んでいく。消毒液が傷口に染み込むように、掻きむしりたいような痛みがじわじわと広がる。
「おかわりは、ダメ」
「どうして?」
「もう、飲めない」
「どうして?」
浮かぶ言葉をそのまま口にする。苦しい、辛い、でもそれがたまらない。もっともっと感じたい。心臓が破裂しそうな程に鳴っている。
「飲んだら、出ちゃう」
そう口にすると、途端にお腹の奥がきゅうと縮む。あ、あ、ダメ、ほんとに出ちゃう。堪えて、我慢して、込み上げる衝動を押さえ込む。
頭のてっぺんから足の先まで、波が走り抜けて、体がぶるっと震える。力が抜けて、必死に繋いでいた手が緩みかける。あ、やだ、ダメ。指先で、彼女の手の甲を掴む。開かれた彼女の手はゆっくりと握られて、指先がおれの手の甲に触れた。
波が引かない。飛び出してしまいそうな言葉を飲み込むと、部屋の中は静かで、自分の短い呼吸の音が耳につく。こんな姿、みっともないし恥ずかしい。そう思うのに、平静を繕う余裕なんて欠片も残っていなくて、出来る限り隠そうと足掻くのがやっとだ。
顔を上げると、瀬奈子がじっとこちらを見ていた。黙ったまま、何も言ってくれない。何か言葉を引き出したくて、へらりと笑って、刺激することを言ってみる。
「すっごいトイレ行きたい、漏れそう」
何か言って。いじわる、たくさん言って。開かれた胸の奥をもっと大きく開いて、その手でかき回して、引っ張り出してほしい。おれの恥ずかしいもの全部、瀬奈子の手で曝け出して。
「もう子どもじゃないんだから、おもらししちゃう前にトイレに行くでしょ?」
「……瀬奈子が手握ってるから行けない」
「それなら離そうか。汗かいちゃったし、喉も乾いたし」
少しだけ抵抗してみるけれど、彼女は簡単に反撃してくる。おれが必死に繋ぎとめようとするものを、彼女は簡単に手放そうとする。やだ、ダメ。そう言って、いつもおれが彼女にしがみ付く。
おれは彼女の手で曝け出してほしいのに、彼女はおれが自分で見せるように誘導していく。ずるい、そんなの、恥ずかしいのに。でも、抗えない。辛くて、苦しくて、でも、それがたまらない。
トイレ、トイレ、トイレ。ぞくぞく込み上げる衝動が全然治まらない。お腹が重くて苦しくて、破裂してしまいそう。出口がひくひくしている。引いては寄せる波がどんどん強くなっていく。
全身が震える。あ、あ、あ。きゅうきゅうとお腹の奥が縮む。中身が押し出されて、出口に一気に押し寄せる。
「あ、あ、まって、あ、ぁっ……!」
ダメ、ダメ、ぜったいダメ。体が震える。歯がカチカチ鳴る。トイレ、ああ、ダメ、でちゃう、ダメ、でも。
繋いだ手をぎゅっと握る。反対の手が宙に浮いて、何かを掴もうと指先が震える。
あ、あ、あ。びく、と体が震える。出口が内側から抉じ開けられそうになる。ダメ、ダメダメダメ。短い呼吸を繰り返し、体が固く強張って、必死に我慢する。でも、波は全然治まらなくて、その苦しさに涙が込み上げる。
やだ、ダメ、でちゃ、あ、あ。ぎゅっと強張った体の真ん中で、熱くて重たい塊が暴れている。ダメ、あ、あ、あ。我慢しているのに、必死に塞いでいる出口が抉じ開けられる。じゅう、と一瞬、熱く噴き出す感触に、手が勝手にそこを押さえていた。
震えた手で、出口をぎゅうっと塞ぐ。ズボンの上から触れると、その奥がほんのり湿っている気がする。
ダメ、でちゃう、ダメ、もう、でちゃう。子どもみたいに、出口をぎゅうぎゅうと必死に押さえつける。そうしてないと、もうでちゃう。
ぎゅうぎゅうみっともなく押さえているのに、全然治まらない。おしっこ、でる、でちゃう。暴れまわる波に流されそうになりながら、その場に踏みとどまるのがやっと。平静を装うどころか、この恥ずかしい状態を隠すことすらもう出来ない。
「瀬奈子っ……!」
絞り出した声は震えて、みっともない声だった。さっきまでは口先だけで冗談交じりに、トイレに行きたい、もれちゃいそう、なんて言えていたのが嘘みたいだ。
おしっこ、おしっこでちゃう、もうダメ、むり、おねがい、トイレ。口を開けば、そんな言葉が飛び出しそうで。胸の奥、開ききった奥の奥から飛び出す言葉は、そんなみっともないもの。
じわじわ、おしっこが込み上げる。全身が熱い。繋がれた手が汗で濡れている。ぶるぶる震えて、上手く力が入らない。おれの手が開くと、それを繋ぎとめるように瀬奈子の手がぎゅうと握る。
「手、離して、ほしい」
「どうして?」
ズボンの奥、出口が開いてその奥を濡らす。ぎゅうぎゅうと痛いほど塞いでいるのに、その隙間を割るようにおしっこが溢れていく。やだ、ダメ、でちゃう、トイレ、おしっこ、もう、でちゃ、う、から。
「さっきまでは離さないでって言ってたのに。今度は離してほしいの?」
ダメ、トイレ、トイレ、おしっこでちゃう。手を離してもらおうと引っ張るけれど、離してくれない。お願い、トイレ、ほんとにもう、おしっこ、でちゃう、から。
「離さないでって、君が言ったんだよ?」
いじわる、瀬奈子のいじわる。彼女の言葉が、自分の内側をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。自分でも何をどうしたらいいのかわからなくて、じっと彼女を見ると、繋いでいない瀬奈子の手が頬に触れて、指先が目尻をなぞった。
「あ、あ、ダメ、ほんとに、ダメっ……」
「離しちゃダメなの? わかりづらいなあ」
「違う、あ、あっ、まってっ、あ、あっ……!」
ダメ、ダメダメダメ、でちゃう、おしっこ、おしっこでる、もう、でちゃう、からっ……!
ぎゅうぎゅう押さえているのに、全然治まらない。重いお腹を抱えて、ひくひくする出口をぎゅうと押さえる。あ、あ、ダメ、あ、あぁっ、あ。ダメ、ダメなのに、おしっこ、もう、でちゃう、でる、あ、あ、あっ。
「く、ぅ、あ、あっ……!」
じゅうう、水音が響く。ぎゅうと、痛いほどに押さえるけど、すぐに抉じ開けられて、またじゅうっと熱いおしっこが噴き出す。
ダメ、ダメ、ほんとにダメ、ごめん、もうむりっ、おしっこ、おしっこでる、もれちゃう、もうダメっ……!
もう手は離せない。離したらその瞬間に、一気に出ちゃう。ぎゅうぎゅうと出口を押さえたまま、ソファから立ち上がる。トイレ、おしっこ、はやく、もうっ……! 走り出したいけど、もう走れない。それでも出来るだけ早くトイレに行こうとしたのに、瀬奈子はおれの手をぎゅっと握ったまま離さない。
「瀬奈子、お願い離してっ……!」
「どうして?」
でちゃう、おしっこでちゃう、もう我慢できない、もれちゃう、トイレ、トイレ行かないと、ダメ、もう、ほんとうに、トイレ、おしっこおしっこおしっこっ……!
手を引く。でも離してくれない。じゅう、また出口が開いて、おしっこが噴き出る。あ、あ、あああっ。押さえても、全然止まらない。
熱い。下着が濡れてる。ズボンが、じわじわ濡れて張り付いていく。出口を押さえる手が熱く濡れていく。
「もっ、ダメっ、で、て、るからっ……!」
おしっこ、おしっこ出てる、とまらない。ダメ、ダメなのに。思いのままに手を引けば、彼女の手を振りほどく形で解放された。乱暴してしまったことを謝る余裕もなかった。
自由になった手は、同じようにズボンの前を押さえる。ぎゅうぎゅうと揉むように、誤魔化すように必死に出口を押さえるけれど、じゅう、じゅ、とおしっこが噴き出すのが止まらない。
「あ、あ、あ、あっ……!」
必死に足を踏み出す。膝ががくがくと震える。ぺたりとフローリングを踏む足の裏が熱く濡れる。トイレ、トイレトイレトイレ。おしっこ、おしっこ、ダメ、もう、あ、あ、あああっ…!
リビングの扉の前まで来て、手を伸ばそうとしたけれど、もう限界だった。じゅわあっと手の中で破裂したかのようにおしっこが噴き出す。膝ががくがく震えて、自分の体が支えられない。そのままずるずるとその場にしゃがみ込むと、もう何もできなかった。
「あ、あ、あ、ぁ……」
じゅう、じゅ、じゅう。出て、止まって、出て。はくはくと苦しい呼吸に合わせて、声が漏れる。ああ、あ、あ、ダメ、でる、おしっこ、でる、もうダメ、でちゃ、あ、あ、あああっ。
じゅわあ、出口が開いて、おしっこが噴き出す。あ、あ、でてる、おしっこ、とまらない。手の平が熱く濡れていく。膨らんだお腹が中身を一気に押し出す。じゅうう、とくぐもった水音。ぴちゃぴちゃと落ちる音が響く。
あ、あ、で、ちゃった……。体から力が抜ける。全身で呼吸を繰り返しながら、全身を走り抜ける快感に酔いしれる。頭の中が真っ白で、ただただ気持ちよかった。
「睦」
名前を呼ばれて、真っ白な世界が色を取り戻す。ぼんやりした意識の中、すぐ後ろに瀬奈子がいるのを感じた。足元はびちゃびちゃで、水溜まりが広がっている。そんなところにいると汚れるのに。
膝が震える。しゃがみ込んだ体勢が辛い。もう良いやと、そのまま後ろにお尻をついて座った。べちゃとお尻が濡れる。気持ち悪かったけど、もうどうでもよかった。
膝を立てて、後ろに手を突いて、そのまま上を見上げる。瀬奈子はこちらをじっと見下ろしていた。
さっきまでの笑顔は消えていた。そんな顔しないでよ。へらっと笑ってみるけれど、瀬奈子は笑ってくれなかった。
「……やっちゃった」
「もうちょっとだったのにね」
「ん。やばい、結構恥ずかし」
照れ隠しに笑うと、頭が撫でられた。何も言わずに、くしゃくしゃと頭を撫でられると、何故か涙が込み上げた。泣くなんてカッコ悪すぎる。顔を伏せて、目元を拭う。
「立てる?」
立てるけれど、甘えたくて手を伸ばす。でも、自分の手がぐっしょりと濡れているのを思い出して、慌てて手を戻した。
「もう足が濡れてるから気にしないよ。ほら、手貸して」
おしっこで濡れているのに、気にせずに瀬奈子は俺の手を握る。そういうことされると、また泣きそうになるのに。胸の内側はまだ開きっぱなしみたいで、瀬奈子の一挙一動が柔らかい部分を刺激する。その度、何故か切なくなって、泣き出しそうになってしまう。
みっともないなあ。カッコ良くないから泣きたくないのに。でも、瀬奈子にぎゅうっとされて泣いてみたいとも思う。
立ち上がって、瀬奈子の方を向く。ズボンはぐっしょりと濡れていて、咄嗟に手で前を隠したけれど、それで覆える状態ではなかった。
「恥ずかし。あんま見ないで」
「はいはい。ちょうど良いから、ここで脱いじゃって」
え。驚きの声を上げた時には、瀬奈子の手がおれのズボンに触れていた。見ないでって言ったのに!
慌てて止めようとしたけれど、汚れた手で触れるのには躊躇いがある。そうしている間にも、瀬奈子の手はズボンのボタンを外して、チャックを下ろしてしまっていた。
前が開くと、その奥にある下着が見える。想像通り、ぐっしょりと濡れて色を変えていて、肌に張り付いている。慌ててズボンの前を掴んで中を隠す。
「自分でやるからっ。お風呂場行って脱ぐから、大丈夫だから」
「早く脱がないとかぶれちゃうでしょ。ほら、良いから」
何も良くない! 言っても、瀬奈子は気にした様子もなく、ズボンを下ろそうとする。
「待ってってばっ! 自分でする、から。
あと、その、トイレまだ行きたいから、待って……」
我慢しすぎたのか、お腹がまだ重い。ああ、もう、本当に恥ずかしいし、カッコ悪い。居た堪れなくて顔を伏せると、見えるのはおれの足と瀬奈子の足。それから、大きく広がった水溜まり。こんなに出したのに、まだしたいとか、おれ、どれだけ我慢してたんだろう。
「トイレまで我慢できる?」
瀬奈子、いじわる。そんなこと言うなんて、ずるい。胸の奥がじんわりと疼いて、喉の奥で言葉が詰まる。
じわじわと切ない衝動が込み上げる。一度緩んでしまえばもう我慢できなくて、熱いおしっこが押し寄せる。
「出来ない、かも」
「じゃあ、どうする?」
ああ、だめ、でちゃう。恥ずかしいから、見ないでほしい。でも、見てほしい。恥ずかしいところも、胸の奥に隠したものも曝け出すから、全部全部見て、知って、受け止めてほしい。
開いたままの胸の奥から、言葉が勝手に飛び出していく。
「出ちゃう、から、見ないで」
「目を閉じてたら良い?」
「ダメ、瀬奈子のいじわる」
「じゃあ、どうしたら良い? ちゃんと言いなさい」
ぎゅうと彼女のシャツを握る。恥ずかしくて、顔は見れない。
「ちゃんと、見てて。目、閉じちゃ、ダメ。……あっ、あっ、ダメ、で、ちゃう」
しゅうう、と静かな水音が響く。冷たくなったズボンが再び熱くなる。足元に、熱いものが広がっていく。おしっこ、出ちゃった。すごく、気持ちいい。
は、は、と呼吸を繰り返しながら、恐る恐る顔を上げる。瀬奈子は笑っていた。
「あんまり、見ないで」
「難しいなあ。見ていてほしいんじゃなかったの?」
「そうだけどっ……。恥ずかしいのには変わりないんだから」
「可愛い可愛い」
可愛いはヤダ。可愛いよりカッコいいが良い。
でも、そうやって笑ってくれるなら、今だけは可愛いでも良いかなと思った。
瀬奈子視点は こちら
このサイト上にある画像・文章の複製・転載はご遠慮ください。
初出: 2020年8月2日(pixiv・サイト同時掲載) 掲載:2019年8月2日