お隣さんと

 日付が変わるか変わらないかの時間帯。疲れに息を吐きだして、やっとたどり着いた自宅マンションのエレベーター前まで行く。運が悪いことに箱は上の階にあって、少し待たないと行けなさそうだ。上向きの三角が掛かれたボタンを押したところで、後ろから足音が聞こえた。
 肩越しに振り向くと、スーツを着た男性がマンションの入り口に飛び込んできたところだった。彼はそのまま私のすぐ後ろまで来ると立ち止まる。どこか険しい顔をしていて、よほど急いでいたのか、聞こえる程に息を荒くしていた。
 まじまじと見るのも失礼だと思い、顔は再び閉じた扉の方へ向ける。後ろから聞こえる呼吸の音を聞きながら、その顔に見覚えがあることに気が付いた。

 お隣さんだ。何度か顔を合わせたことがあったものの、会釈をする程度で、話をしたことは一度もない。
 顔にはどこか幼さがあって、身に着けている紺色のスーツも新しそうだったので、社会人になってまだ間もないくらいの年齢だと勝手に思っている。背も高く、目鼻立ちがくっきりとしているので、こういう子は女の子に人気があるんだろうなと内心考えた。
 強張った顔には汗が一筋伝っている。よほど急いで帰ってきたのか、呼吸はまだ整わないようだ。浅く短く繰り返される呼吸の音と、鞄がカタカタと揺れる音を聞いていると、やっとエレベーターが下りてきた。

 重い扉がゆっくりと開く。私が乗り込むと、彼も間髪を入れずに中へ足を進めた。私が自分の階のボタンを押すと、彼の手も壁へと伸びる。その指先でボタンが既に点灯していることに気付くと、代わりに閉まるボタンを力強く押していた。
 彼は何もない角の方を向いて立っていた。じっと見つめるのもどうかと思い、私は壁の方を向いて立つ。重い扉はゆっくりと閉まっていき、狭い箱の中に二人きりになった。

 静かな空間の中、押し殺したような呼吸の音が聞こえた。気にしないつもりだったが、つい視線を彼の方へと向けてしまう。顔は見えなかったものの、スーツの背中は丸くなり、小さく震えている。大丈夫かな、体調でも悪いのかなと心配になり始めた私の視線の先で、彼は大きく息を吐くと同時に、その体がびくりと跳ねた。
 そして、見えてしまった。彼の片手は鞄を下げていたけれど、反対の手は空っぽだ。何も掴むものが無い右手は体の横で握り締められていたが、弾かれたように体の前に回った。彼が角の方を向いて斜め向きになっていたから、見えてしまったのだ。その手がズボンの前をぎゅっと握るところを。

 慌てて顔を背けた。見てはいけないとすぐに理解した。そして、どうして彼が慌てているのか、荒い呼吸を繰り返しているのか、落ち着きなく体を揺らしているのか、全て理解できた。
 トイレを我慢してたんだ。もしかしたら、険しい顔もそのせいなのかもしれない。ある程度年齢を重ねた大人がそんなになるまで我慢するなんて、正直信じられなかった。コンビニでも駅でもどこかで寄ってこれば良いのに。無機質な壁を見ながら、そんなことを勝手に考えていた。

 エレベーターはゆっくりと上がっていく。彼の背中が震える。見ない方が良いと頭でわかっていても、様子が気になってつい目が向いてしまう。あとちょっとだよ、頑張れ、頑張れ。名前も知らない隣人を心の中で勝手に応援していると、エレベーターは私と彼の住んでいる階に到着した。
 重い扉がゆっくり開いていく。彼は僅かな隙間に体を割り込ませて外へと飛び出した。その後ろを私はゆっくりと降りた。

 エレベーターを降りると、廊下が左側にまっすぐ伸びている。彼の部屋は二つ目で、私の部屋は三つ目。私の前方で、彼は一足早く自分の部屋の扉に辿り着いていた。鞄を乱暴に開け、中から鍵を引っ張り出している。その間も、スラックスに包まれた足が落ち着きなく足踏みを繰り返していた。
 私が一つ目の扉を通り過ぎる頃、がちゃがちゃと乱暴に鍵を差し込んで、勢いよく扉を引っ張り開けた。そして、縺れた足取りで中へと飛び込んでいく。鞄を投げ捨てたらしき音が聞こえた。

 間取りが私の部屋と同じなら、入ってすぐのところにトイレがある。この様子なら間に合いそうだ。勝手に安心していると、彼があまりに勢いよく開けたせいか、玄関の扉が開いた状態で止まっていることに気付いた。
 いくら急いでいるとはいえ、流石に不用心すぎる。余計なことかもしれないけれど、ちょっと押せば閉まるだろうと、開いたままの玄関扉に触れようとした時、千切れた悲鳴のような声に思わず足を止めてしまった。

「っ、あ、あ、あっ、あっ……!」
 慌てた声。ばたばたと忙しない足音。それから、一瞬だけ間を置いて、ぶじゅうううう、と激しい水音が耳に飛び込んできた。あまりの状況に、驚いてつい部屋の中に目を向けてしまった。
 明かりをつける余裕も無かったようで、部屋の中は薄暗い。奥へとまっすぐ伸びる廊下を遮るように扉が開かれている。位置的にトイレだ。彼は玄関どころか、トイレの扉を閉める余裕すらなかったようだ。
「……っ、は、あぁ、間に合ったぁ……」
 じょぼじょぼと気持ちよさそうな水音と、溶けたような声が真っ直ぐ耳に届いてきた。彼は玄関もトイレも開けっ放しなので、その声はマンションの廊下にいる私にまで丸聞こえだ。
 エレベーターの中でズボンの前を押さえる姿を見ただけでも気まずいと思ったのに、それ以上のことに出くわすとは思ってもみなかった。

 気持ちよさそうな水音はまだ聞こえ続けている。頬が熱くなるのを感じながら、玄関の扉をそっと押しながら前を通り過ぎた。ばたんと音を立てて扉が閉まると、マンションの廊下はしんと静かになった。
 震える手で、何とか自室の扉を開ける。中に入って、何の物音も聞こえないことを確認して、大きく溜息をついた。壁が薄くなくて良かった。もし壁越しに先程の続きが聞こえてしまったらどうしようかと本当に心配だった。
 鞄を置いて定位置に座り込むと、もう一度溜息が零れた。今日のことは忘れた方が良さそうだ。お隣さんだからまた顔を合わせる機会はあるだろう。流石にこんなことは二度と無いだろうから、忘れる方が互いの為だ。その時は本当にそう思った。

 +++

 あの日以降、何度かお隣さんとは顔を合わせることがあった。相変わらず軽く会釈する程度で、会話どころか名前すら知らない状態に変わりはない。
 当たり前だが、あの件に触れる事は無かった。もしかしたら、彼は玄関が開きっぱなしだったと知らないかもしれない。それならその方が良いと思う。

 ただ少し発見があった。私としては忘れようとしたことを思い出しているに近いので、あまり良い発見ではない。
 一つ目。遅い時間に帰宅すると、あの日と同様に彼とエレベーターで一緒になることが多い。二つ目。その時間に一緒になると、大抵彼は険しい顔をしている。三つ目。エレベーターが到着すると、彼は扉が開ききる前に外へ飛び出して、そのまま矢のようへ自分の部屋へと飛び込んでいく。
 流石に玄関が開きっぱなしだったのはあれ以降無かったが、彼が険しい顔で自室へ飛び込んだ後のことは簡単に想像できた。
 そこまで切羽詰まるなら、どこかでトイレに寄れないのだろうか。他人事ながら、何度も遭遇していると心配になってしまう。流石に彼も大人だから、間に合わないなんてことは無いだろうけれど、あまり我慢するのは体にも良くない。
 大して話したことも無いお隣さんの事が気になって仕方なかった。

 そんなことを考えながらマンションのエントランスを通る。本日は金曜日。時間は午後十一時を少し回ったくらい。エレベーターで一緒になる事が多いのは今日みたいな日だと思っていると後ろから足音が聞こえた。
 普通に歩くにしては騒がしい足音に、肩越しに振り向くと、そこにいたのはやはりお隣さんだった。紺色のスーツに短く整った髪、そして顔は今日も険しい。黒いビジネスバッグを握り締めた手は少し震えているように見えた。
 後ろが気になりながらも、顔を前に向けて閉まった重い扉を見つめる。私の後ろで立ち止まった彼は、浅い呼吸を繰り返しながら、衣擦れの音が聞こえる程度には体を動かし続けていた。
 もしかして今日もだろうか。いつか見た光景が頭の中に蘇ってくる。あまり外のトイレを使いたくないタイプなのだろうかと彼の個人的な部分まで勝手に想像をしていると、ちょうどエレベーターの箱が下りてきた。

 私が先に乗り込んで、彼が後に続く。自分の階のボタンを押すのは私で、閉まるボタンを押すのが彼。壁を向いて立つのが私で、扉側の角に向かって立つのが彼。あの日と全く同じ流れだった。
 ゆっくりと重い扉が閉まる。完全に二人だけの空間になる瞬間、彼の背中がぶるりと大きく震えたのが見えた。やや前かがみになり、スラックスに覆われた両足は落ち着きなく地面を踏んでいる。空っぽの右手は体の前に回り込んでいた。何をしているかはわからないけれど、ズボンの生地が引っ張られて歪な皺を広げるのがかすかに見えた。

「っ、ふ、……あ、ぁっ……」
 古いエレベーターはゆっくりと上がっていく。時折、息に混じって、力無い声が聞こえてきていた。もじもじと体を揺すりながら必死に耐える姿を横目に見ながら、なんだか居た堪れない気持ちになっていた。
「っ、あっ……!」
 彼がひと際大きく声を上げるので、つい目を向けてしまった。前屈みだった体は更に丸くなり、体はぶるりと震えている。足踏みを繰り返していた両足はぴたりと寄せられた状態で、がくがくと全身が震えていた。
 誰がどう見ても切羽詰まっている様子に、私まで落ち着かなくなってしまう。あまりの様子に声を掛けたくもなったけれど、言葉は胸の中だけに留めておいた。
 あともうちょっと。頑張れ、と心の中で応援する。片手にぶら下げた鞄が彼の体に合わせてがさがさと揺れていた。

 彼が再び体を震わせるのと同時に、エレベーターは停止した。一瞬の間の後、重い扉がゆっくりと開き始める。そこに体を滑り込ませるように、彼は外へと飛び出した。
 その時、一瞬だけ見えてしまった。前に回された手がズボンの前をぎゅうっと握り締めていた。まるで幼い子供がトイレを我慢するときのようで、それを大人と言って問題ないような青年が行っている。見てはいけないものを感じて心臓が少し跳ねた。
 静かな廊下に足音がばたばたと響く。彼はあっという間に自室の前に辿り着いていた。両足をぴたりとくっつけたまま擦り合わせて、必死の形相で鞄に手を入れていた。鍵を探しているようだった。
 鍵を取り出すには両手を使わないといけない。手をズボンから離すのは今の彼には相当辛いようで、体はもじもじと忙しなく動き続けている。
 そんな状態の彼に近付くことに抵抗はあったものの、その後ろを通らないと私も部屋に戻れない。気が引けながらも、出来るだけ静かに廊下を歩いた。彼は私に気付いていないのか、それとも構っている余裕がないのか、変わらず体を捩らせながら鞄の中を掻きまわしている。

 何とか自分の部屋の前に辿り着いて、鞄の定位置から鍵を取り出した。鍵が開いた固い感触が手に伝わる。早く中へ入ろうと冷えた手で扉を開けようとした瞬間、隣でばさっと大きな音がした。
 何かと思って目を向けると、必死の形相の彼がこちらに向かってきていた。両手は空を掴んで震えている。彼の背後に、黒い鞄が倒れて中身を散らかしているのが見えた。
「あ、あ、あの、すみませんっ!」
 震えた声が静かな廊下に響いた。驚きのあまり、返事の声は上手く出なかった。私が何も言わないことすらどうでも良いのか、彼は震える唇を動かして、矢継ぎ早に言葉を吐き出した。

「すっ、すみません、その、あの、と、トイレっ、貸してもらえませんか!」
 彼は言いながら、もじもじと体を揺らしていた。両足は落ち着きなく足踏みを繰り返し、静かな廊下に足音が響いている。両手は何かを堪えるように空中で握り締められて、そのまま小さく震えていた。
「か、鍵が、無くて、あ、あのっ、いきなりで失礼だと思いますっ、で、でも、すみません、トイレ、貸してくださいっ……!」
 彼の体がぶるりと震える。険しい顔が更に歪む。強く視線を向ける目が涙で潤んでいた。もじもじくねくねと体が動き続ける。

 あまりの光景に頭が真っ白で、動き続ける彼とは裏腹に、私は扉のノブを握り締めたまま固まっていた。
「っ、……お、おねがいしますっ、トイレ、使うだけ、です! ほんとにもう、お、おしっこ、限界、で、あ、あの、……ぁっ……!」
 彼の体がびくりと跳ねる。それから、宙に浮いていた手が飛びつくようにズボンの前を押さえた。エレベーターの中では背中に隠れて見えなかった姿が、今は真正面にある。男性らしい大きな手が、ズボンの生地の上からその奥にある物をぎゅうぎゅうと握るのが見えた。

 悲鳴のような彼の声に我に返ったものの、私自身もあまり冷静では無かった。
「ど、どうぞ!」
 私の声も震えていた。手の中にずっとあった取っ手を引っ張り、玄関を開ける。彼は何も言わず、と言うよりはもう何かを言う余裕すらなかったようで、間髪を入れずに私の部屋へと飛び込んでいった。お隣さんなので間取りは鏡合わせだ。トイレの位置も言わなくてもわかるようだった。

「あ、あ、あっ……」
 彼は足先だけで靴を脱ぎ捨てて、私の部屋へと駆け上がった。手はズボンの前をぎゅうぎゅう押さえたまま、玄関横の扉を引っ張り開けて、中へと飛び込んでいく。勢いよく開いた扉はいつぞやのように開きっぱなしで、奥へ延びる廊下を遮った目隠しのようになっていた。
 あの時と同じ光景だった。ただ、ここはお隣さんの部屋ではない。そこに置いてある傘は私の物で、すぐそこにある段ボールは私が昨日畳んだもので、下駄箱の上には私が使い慣れた洗剤が置いてある。すべてが見慣れた私の部屋だ。
 ただ、脱ぎ散らかされた男性物の靴と、目隠しになった扉の向こう側だけが、慣れた空間から異様な程に浮いていた。

「あ、ああ、あ、ぁっ……!」
 扉は視界は遮っても、聞こえ来る音や声を遮ってはくれない。ばたばたという激しい足踏みも、がさがさ鳴る衣擦れの音も、喉の奥から零れたような悲鳴も、全てが嫌になる程にはっきりと聞こえていた。
 ばさばさっと大きな衣擦れの音がして、ぴちゃぴちゃと水面を揺らす水音が微かに聞こえた。それから、一瞬の間。
「っ、あ、ぁあ……」
 喉の奥で潰れたような声と、ぶじいいいいぃ、と激しい水音が私の部屋に響いた。水音はトイレの中の水溜まりに注ぎ込まれて、じょぼじょぼとうるさく鳴り響く。ものすごい勢いで、まるで水道の蛇口を思いっきり捻った時のようだった。

「っ、あぁ……」
 激しい水音に紛れて、息に混じった低い唸りが聞こえた。蕩けた声には力が無く、快感がいっぱいに混じっていた。僅かな一声で、今、どれだけ気持ち良いのかが良くわかってしまう。
 あの険しい顔が今、花開いたように綻んでいることは簡単に想像できた。一体どんな顔をしているのだろう。年相応の可愛らしい顔をしているのだろうか。あの扉の向こう側で彼がどんな顔をしているのか、見たくなってしまった。

 激しい水音と彼の安堵の呼吸を、私は玄関先から聞いていた。自分の部屋なのだから入っても何も問題無いとわかっているものの、体が動かなかった。
 結局、彼を迎え入れる為に玄関を開けたその体勢のまま、自室から聞こえる気持ちよさそうな音の数々をじっと聞くことしか出来なかった。ドアノブを握ったままの手が少し汗ばんでいた。
 時間にすれば一分か二分程度のことだと思う。けれど、とても長い時間のように感じた。水音は少しするとちょろちょろと細くなり、最後にはぴたりと消える。それから、彼が声も無く長く息を吐く音が聞こえた。
 しん、と辺りが静かになった。自分の心臓がまるで耳元で脈打っているかのようにうるさく聞こえた。開きっぱなしのトイレの扉を見つめたまま、立ち尽くす。見慣れた自分の部屋がまるで遠いどこかのように感じていた。

 がさがさと衣擦れの音がした後、水を流す音が聞こえて、思わず背筋が伸びた。煩い自分の鼓動の音を数えていると、開いたままの扉がゆっくりと動いた。その向こうから顔を見せた彼は、私の知っている険しい顔ではなかった。
 俯きがちな顔は薄暗くてもわかる程に真っ赤で、あの険しさはどこにもなかった。普段見ている姿より随分幼く見えた。目が合うと、彼は更に顔を赤くして、頭を下げた。
「あ、あの……す、すみません、でした……」
 言葉に勢いは完全に無く、小さな唇をもごもごと動かして、小さな声で呟いた。床が軋む音に掻き消されてしまいそうな程に微かな声だった。

 彼は玄関で散らばっっていた靴を寄せて履き直して、私が開けたままの玄関から外へと出てきた。私の前を通り過ぎる時、伏せられた目が遠慮がちにこちらを見て、視線がぶつかった。彼の顔の赤さが私にも移ったような気がした。
「あ、あの! あ、りがとう、ございました……」
 彼はもう一度口を開く。第一声こそ張りがあったものの、言葉は段々と尻すぼみになっていいった。廊下は室内よりまだ明るくて、彼の幼さの残る顔つきと、その頬が真っ赤に染まっているのが良く見えた。
「どういたしまして」
 どきどきしながら発した返事の声は意外と普通で、ちょっと安心した。間に合ってよかったね、と付け足したくなったけれど、余計な言葉は胸の中で言うだけにしておいた。
 互いに軽く会釈して、私はやっと自分の部屋に戻ることが出来た。扉を閉める寸前、彼が自分の鞄を拾い上げる姿が見えた。

 扉が閉まり、完全に自分一人になると、どっと疲れが押し寄せた。そのまま座りこみたくなるのを堪えて、靴を脱いで部屋へと上がる。ぴたりと閉じられたトイレの前を通り過ぎながら、その無機質な扉につい目が向いてしまった。
 よくわからないけれど、心臓がうるさく高鳴っていた。定位置に座ってみたものの何となく落ち着かない。険しい顔をしてこちらに駆け寄ってきた彼の姿が瞼に焼き付いていたし、扉の向こうから聞こえる水音と安堵の声が耳に染み付いていた。

 もし、あの時私が駄目だと言ったら、どうなっていたのだろう。考えただけで自分の鼓動が更に速さを増した。
『こんな遅い時間に異性を部屋に上げるのはちょっと……』
 別におかしな理由では無いし、冷静に考えれば自分の身の安全を守るためにはそうすべきだったのだろう。それなのに、私は身の安全よりも、そうして断った後の彼がどうなってしまうのかが気になっていた。
 そう言ったら彼はどうしただろう。再び鞄の中の鍵を探しただろうか。それとも、反対隣の部屋のチャイムを鳴らしただろうか。もしかしたら、再びエレベーターに乗って、コンビニかどこかのトイレを目指しただろうか。
 それとも、もしかしたら。してはいけない妄想が頭の中を満たしていく。他のトイレに向かう余裕が既に無かったら。ズボンの前を握り締めたまま、体を捩り、必死に我慢するけれど、とうとう限界を迎えてしまったら。

 ごくりと唾を飲み込んだ。……どうしよう、私、おかしくなってしまったかもしれない。その光景を見たいと思ってしまっている。静かな部屋に私の溜息の音が響いた。これ以上は良くないと無理やり頭を切り替える。
 自分の為にも、彼とはあまり合わない方が良いかもしれない。しばらくはあまり遅い時間に帰らないようにしようとそっと胸に決めた。

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初出:2024年12月31日(pixiv・サイト同時掲載)
掲載:2024年12月31日

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成人済の時々物書きです。 スカ、女攻め萌え。BLよりはNLやGLが好きです。
18歳以上ですか? ここから先は、成人向けの特殊な趣向の小説(女の子、男の子のおもらし等)を掲載しています。