右を見ても左を見ても人だらけ。老若男女、本当に様々で、よくこれだけ集まったなと思った。
人混みは苦手だ。ここにいる人が全員、俺に視線を向けているように感じてしまって、どうしても息が詰まってくる。
意識しないようにすると、余計に意識してしまう。浅くなる呼吸を落ち着けながら、繋いだ手を離さないことだけに集中する。俺の右手を引く、柔らかくて温かい左手。優しい手、撫でてくれる手、小さな手。俺のことを絶対に傷つけない手。
「おーりーとーくん」
出来るだけ何も見ないようにと俯きがちにしていると、突然名前を呼ばれる。はっとして顔を上げると、目の前に白いものが差し出された。
彼女は楽しげに笑いながら、白い髪留めを俺の額のあたりに当てる。花の飾りが付いたそれは、どう見ても女性ものだ。
「……なんで俺で試してるの」
「織仁くんに似合うかなと思って。前髪伸びてきたし、どう?」
「ぜったい似合わない」
そうかな、と彼女は持っていた髪留めを机に戻し、他のものに目を向ける。何度か他のものを手に取ったけれど、最終的には一番初めの白い髪留めに戻っていた。
「買っちゃおうかな」
「良いと思う」
「本当? じゃあ買っちゃおうっと。すみません、これください」
思ったより愛想のない相槌になってしまったことに一瞬慌てる。けれど、そんな俺の反応を気にした様子もなく、彼女は朗らかな様子で財布を開けた。
繋がれていた手は離されてしまう。それがとても不安に感じて、せめてもの代わりに、少しだけ彼女との距離を詰めた。俺と彼女の間に誰も入れないくらい傍にいると、ほんの少しだけ安心できた。
一緒になって色々選びたかったけれど、人に翻弄された状態では頭が全然回らなかった。せめて、彼女が選んだものを素敵だと、似合うと言えば良かった。咄嗟に言葉が出なかったことがとても申し訳なく感じた。
白い髪留めは早速、彼女の黒髪を緩く纏めていた。
「似合ってる」
気の利いた言葉が浮かばず、とにかくその言葉だけは伝える。飾り気のない言葉でも、彼女はとてもうれしそうに笑ってくれた。
「ありがとう。織仁くんにも貸してあげるね」
「だから良いって。前髪はまた寧々さんが切ってよ」
「そうだね、今度切ろうか。下手になったらごめんね」
その場から離れながら、再び手が繋がれる。安堵からか、自然と深く息を吐き出していた。
+++
いくらか歩いた後、たまたま空いていたベンチに並んで座る。目の前では人が行きかい、人の声は絶え間なく聞こえる。それでも座ると少しだけ気分が落ち着き、無意識に溜息が漏れた。
「ごめんね、疲れさせちゃった」
人の間をすいすい歩く彼女に、俺はついていくだけで精いっぱいだった。気の利いた会話どころか、商品選びに付き合うことも出来なかった。思い返すと、情けないとしか言えなかった。
「大丈夫、まだ全然平気だから」
咄嗟にそう言ったけれど、返ってきたのは苦笑いだった。
「このフリーマーケット、去年はここまで人が多くなかったんだよ? だから大丈夫かなと思ったんだけど、まさかここまで規模が大きくなっているとは思わなくて。ごめんね」
「謝ることない。こうなるってわかってたのに、付いてきてごめん」
「そんなことないよ。織仁くんと一緒に来れてすごく楽しい。ありがとね」
謝らせてしまうことが情けない。
人混みでも大丈夫だと頭ではわかっているのに、体が勝手に強張ってしまう。思い出したくもない光景が勝手に浮かんで、指先が冷たくなっていく。
顔を上げると、自分が多くの人に囲まれていることを実感した。
本当に色んな人がいる。大人も子供も、男も女も。あの時のような女の集団も、今までのような大人の男も。
嫌だ、戻りたくない。あの時の自分が叫んでいる。逃げたいのに体が動かない。寒くて、冷たくて、歯の根が合わず、かちかちとなる。
気付けば、両手をぎゅっと強く握りしめられていた。心配そうに揺れる目が覗き込むようにこちらを見ている。
「……あ、寧々さん」
「ごめんね。やっぱり帰ろうか」
彼女は眉を下げて笑う。笑い返したつもりだったけれど、寧々さんは笑ってくれなかった。上手く笑えなかったのかもしれない。
俺の両手を包み込む彼女の手が震えている。大丈夫だよと握り返そうとして、自分の手が震えていたことに気付いた。
「ごめん、俺、ほんとに情けない」
「そんなことないよ」
「もうちょっとだけ、手、貸してて」
「好きなだけ良いよ。落ち着いたら車に戻ろうか」
温かい手を握ると、手の感覚がじわじわと戻ってくる。自分が彼女の隣にいることを実感していくにつれて、胸の奥で固まっていたものがじわりと溶けるのを感じた。
彼女は今日をとても楽しみにしていたから満足するまで楽しんでほしい。そう思うのに、体が言うことを聞いてくれないのがもどかしい。
「本当に無理だったら言うから、寧々さんに楽しんでほしい」
震えが治まった手で、彼女の手を引いた。じっとしていると、また人混みを意識して苦しくなりそうで、それを振り切るように立ち上がる。
今までも、そしてこの後も、俺が彼女に手を引かれることになるとは言え、今くらいは俺が手を引きたかった。
「行こう、寧々さん」
「うん、わかった。でも本当に辛かったら言うんだよ?」
返事をすれば、彼女は俺の手を握り返した。
「今は俺、こんなだけど、来年は一緒に楽しめるようになるから」
正直、現状の俺は彼女におんぶにだっこ状態で、来年の話なんて出来る立場ではないと思う。でも、だからこそ言葉にしておきたかった。
この温かい手を離したくなかったし、この手があればなんだって平気になれると感じた。
「うん、来年楽しみにしてるね」
彼女は柔らかく笑う。もし、来年の俺が今と同じ状態でも、きっと彼女は文句なんて言わない。その優しい手で頭を撫でて、俺の手を引いて歩いてくれるんだろう。それもすごく心地良いし、いつまでもそうしていたいとも思うけれど、ずっとそれじゃかっこつかない。
いつかは俺が手を引けるようになりたいと思った。
+++
しばらく歩き、ちょうどトイレがあったので、休憩することになった。
そういえばここに来てから、一度も用を足していない。人混みに翻弄されて意識していなかっただけで、尿意は思ったより強いことに気付いた。
トイレの建物に向かって伸びる列に並ぶ。一度意識した尿意はずっしりと重く下腹部に居座っていた。
周りは当たり前だけれど男ばかり。自分より背の高い人も、体格のいい人もたくさんいた。
考えないようにしようとすればする程、勝手に記憶が蘇っていく。もし、声を掛けられたら、体に触れられたら。そんなことは考えなくても良いのに、一度頭に浮かんでしまえば、逃れられなくなっていた。
心臓の鼓動が速まっていく。手足の感覚が遠くなる。冷たい指先が空を掴む。震えを押さえようと指を手の中に握り込んだ。
思ったより列の進みは早く、気付くと自分の番が回ってきた。
小便器の前に立ち、感覚の鈍くなった手でズボンのチャックを下ろす。用を足そうとして、自分の体がおかしいことに気付いた。
尿意は確かにあるのに、出したいのに、出てくれない。隣から、もしくは後ろから、手が伸びてくるのではないかと、そればかり考えてしまう。ここにいるだけで息が詰まる。ここにいたくない。上手く息が吸えない。
すぐそこに人がいる。心臓がばくばくとうるさく鳴っている。大丈夫だ、あんなことは起こらない。言い聞かせるけれど、言葉は上滑りする。
結局、一滴も出せず、震える手でチャックを戻した。
ふらふらした足取りで手洗い場に向かう。頭が熱い、それでいて寒い。蛇口から落ちる水流に手を突っ込むと、冷たくて心地よかった。顔も洗いたいくらいだったけれど、流石にそれは出来なかった。
足元が覚束ない。地に足が付かないまま、とにかく外に出ると、今度はざわざわと喧噪が耳に付く。静かな、誰もいない場所に行きたかった。
せめてもと人の少ない場所を探し、壁際に寄った。固いコンクリートの壁に背を預ける。体の感覚が鈍くて、ちゃんと立てているのか、自分でもよくわからなかった。
少しすると、向こうから駆け寄ってくる人が見えた。それが寧々さんだと気付いた時には、彼女は目の前にいて、慌てた様子で俺の頬に触れた。
「織仁くん大丈夫っ? 顔、真っ白だよ」
大丈夫だと言ったけれど、彼女は心配そうな顔をしたままだった。大丈夫、大丈夫。彼女に言っているようで、自分に言っているようでもあった。
頬に触れた彼女の手に、自分の手を重ねる。小さい手、柔らかい手。冷たくて心地良い。この手は絶対に俺を傷つけない。嫌なことをしない。この人の隣にいれば、大丈夫。
「ありがと、寧々さん。大丈夫だから」
「無理しちゃ駄目だよ。やっぱりもう帰ろう?」
「大丈夫。それに、まだあっちの方見てない」
彼女の隣にいて、こうして触れていると、不思議なくらいに落ち着きを取り戻せた。
「ほら、行こ。もう大丈夫だから」
「本当に無理しちゃ駄目だからね。辛くなる前にちゃんと言うんだよ」
再び手を繋いで歩き出す。彼女の隣にいると、先程までのパニックもすぐに落ち着いた。そして平静を取り戻すにつれて、下腹部にずっしりと重く居座る存在感が戻ってくる。
混乱している時は感じられないだけで、尿意がなくなったわけではなかった。当たり前だ、さっき一滴も出せなかったのだから。
今、行ったばかりなのに、またトイレに行きたい。流石に言い出すことは恥ずかしくて出来なかった。それに、また出ないかもしれない。出ないのなら、まだ大丈夫だ。本当に限界になったら、否応なく出せるに違いないから。それまでは我慢できる、大丈夫。
+++
相変わらず手を引かれながら、あちこち見て回る。しばらくすると、また空きベンチを見つけたので休憩をとる為に座った。
ちょっと疲れたね。あそこのお店、やっぱり可愛かった。色々話してくれる彼女に、気の利いた言葉を返したいのに、頭の中がぐちゃぐちゃで言葉が出てこない。
トイレ、行きたい。考えるのはそのことばかり。考えないようにしても、生理現象からは逃れられない。強まる尿意は確かにお腹の中にずっしりとあって、冷静さを奪い去っていく。
さり気なく足を組んで、足の付け根の奥で込み上げる尿意を誤魔化す。けれど、そんなことは焼け石に水で、時間と共に膨らんだ尿意は限界を訴え続けている。
どうしよう、トイレ、どこかに。隣で話す彼女に適当に相槌を打ちながら、人混みの向こうに目をやる。トイレ行きたい、トイレ、トイレ、どこかにあるはず、どこに、はやく、トイレ。
「織仁くん、大丈夫? 何か探してる?」
彼女は疑問を浮かべた顔をしていた。
何でもないと言いたかったけれど、言えなかった。ぞくぞくと悪寒が立ち上り、体がぶるっと震える。咄嗟に手がズボンの前を押さえていた。
周りに人がいる場所でこんなことをしてしまうとかありえない。すぐに手を離すけれど、尿意は全然治まらず、熱い液体が出口へじりじりと押し寄せているのがわかった。
取り繕うとしたけれど、言葉が上手く出ない。あ、とか、う、とか、咄嗟に出るのはそんな言葉。違う、何でもない、そう言いたかったけれど、もう言える状態じゃなかった。
「織仁くん?」
心配そうに顔を寄せる寧々さんに、俺は口を開く。
「……トイレ、行きたくて」
喧噪にかき消されそうな、掠れた声だった。
口にした瞬間、もう否定などできなくて、激しい尿意は一層強くなった。じっとしていられず、膝を寄せて擦り合わせる。前を押さえたくてたまらない手は、ズボンの余った布をぎゅっと握った。
寧々さんは先程までの俺のようにあちこち見回すと、折角座ったベンチから立ち上がる。
「あっちみたい。行こう」
「……ごめん」
「大丈夫だよ、こっちこそ気付かなくてごめんね」
トイレは先程までのように列が出来ていた。彼女を残して、ひとり列に加わる。
じっとしていると、尿意は更に強さを増していくようで、下腹部が重く疼く。立ち方を変えて、さりげなく体を揺する。震える指先が落ち着きなく服の裾を掴む。
はやくはやくはやく。少しずつ進む列の先を見つめる。普通にしていられるのがおかしいくらい、トイレに行きたくてたまらない。
気を抜くと出てしまいそうで、我慢しているのが辛くて、つい手で押さえそうになる。こんな人前では駄目だと必死に思いとどまるけれど、じわじわ込み上げる尿意は着実に限界に近付いている。
お腹が重くて苦しい。トイレ、はやくトイレ、はやくはやくはやく。
少しずつ進んで、やっと建物の中に入る。すぐそこにトイレが見える。はやく、はやくはやく。足を組み替えて、さりげなく体を揺すって、時折、さりげなく手でズボンの前を押さえて。
あともう少し。安心したのか、体がぶるっと震る。じんわりと出口が熱く濡れる感触に、体に力が籠る。だめ、だめだめだめ。あともう少しだから。
ズボンを正すふりをして、さりげなくそこに触れる。ぎゅうと押さえると僅かに楽になったけれど、熱い液体がぎりぎりまで押し寄せていることはよくわかった。
まだか、と顔を上げる。前にも後ろにもたくさんの人がいた。あ、と思うと同時に、喉の奥が苦しくなってくるのを感じた。
すぐそこ、手を伸ばさなくても触れられる程近くに人がいる。子ども、大人、大人。自分より背が高い人、自分より体格のいい人。意識しないようにすればするほど、意識はそちらに向き、いらないものを拾い上げる。
上手く息が出来なくなっていく。駄目だ、落ち着け。必死に落ち着こうとするけれど、短い呼吸を繰り返すのが精一杯だった。
息が詰まる。心臓がバクバクうるさく鳴っている。
前の人が歩いていく。次が自分の番だ。
手足が冷たく、感覚が遠い。手が震えている気もするけれど、よくわからない。真っ白な頭で、ただこの場所から逃げ出したいとばかり考える。
人が動く。上手く息が吸えないまま、心許ない足取りで俺も歩く。空いた場所に立つ。
目の前にはトイレがある。待ち望んだトイレ。おしっこ、しないと、でも。
震える手で、ズボンのチャックを下ろす。はやく、はやく出せ、はやくはやくはやくっ。
短い息を繰り返す。出そうとしているのに、出してもいいのに、一滴も出てくれない。
まただ。あれだけしたかったのに、おしっこは全然出ない。お腹は重くて、苦しくて、張り裂けそうなのに、体は強張っている。
もう嫌だ。泣き叫びたくなる。頭の中がぐちゃぐちゃで、ここから逃げたいと、それだけを確かに感じた。
ここから早く逃げたい。嫌だ、ここにいたくない。早く、どこか、安全な場所に。
震える手でズボンの前を正す。手が、足が震える。かちかちと歯がなる。
少しでも早くここから離れたかった。
逃げるように外へ飛び出した。人並みの中、彼女を探す。
彼女を見つけた瞬間、涙が込み上げた。冷たかった体が一気に熱を取り戻したように動き出す。助けて、助けて寧々さん。
駆け寄って、彼女の手をぎゅうっと握った。何も感じなかった手が一気に感覚を取り戻す。
「寧々さんっ……!」
緊張が解けた体はぶるっと身震いして、そして、ずっとそこにあったはずの強い欲求を受け止める。信じられないほどの強い衝動に、思わず身を捩った。
「大丈夫?」
顔を近づけた寧々さんが小声で言う。大丈夫なんかじゃなくて、考えるより先に首を振っていた。
「寧々さん、おれ、おれっ、もうっ……」
「間に合わない?」
「ち、違うっ……、おれ、おしっこっ、おしっこでなくてっ……! 助けて寧々さんっ……!」
さっきまで出そうと思っても出なかったのに、今は一気に出てしまいそうだった。じっとしていられず、両足がかわるがわる足踏みを繰り返す。
トイレ行きたい、おしっこしたい、でも、行っても出来ない。もうどうしたらいいのかわからなくて、助けてと縋るしか出来なかった。
寧々さんは目を丸くしていた。一瞬呆気に取られ、そしてすぐに俺の手を握る。
「あ、わ、わかったっ、とりあえず車まで戻ろうっ。もうちょっとだけ頑張れる?」
頷いたけれど、本当におしっこがしたくてたまらなかった。さっき感じなかった分、反動を付けて襲ってきたかのような激しい尿意だった。
お腹が重くて苦しくて、破裂してしまいそうで。押し寄せる波は出口を内側からぎゅうぎゅうと押して、今にも抉じ開けそうで。
何でさっき出てくれなかったんだ。僅か数分前の状況が恋しい。こんなことなら、もう少しだけ頑張って、あの場所で待っていた方が良かったんじゃないか。そんなことまで考えた。
手を引かれて、急ぎ足で人の間を抜けていく。足を踏み出すごとに、お腹の下の方で大きく膨れた水風船がたぷんと揺れる。
満水なんてとっくに超えた水風船は、強く締められた出口を抉じ開けて中身を出そうとしている。おしっこ、おしっこしたい、だしたい、おしっこ、もうむり、おしっこっ。泣き叫びたくなるほどの衝動をぐっと堪える。
時折、彼女が心配そうにこちらを見る。大丈夫だとは口が裂けても言えなかった。
今、少しでも気を抜いたら、足を止めたら、もう良いよと言われてしまったら、それだけで一気に出てしまいそうだった。
がまん、がまん、がまんっ。必死に言い聞かせる。さっき出そうとしても出なかったのだから、まだ我慢できる。そう思おうとしても、それ以上に強い尿意が体を震わせて、限界寸前の体を限界へ追いやっていく。
ああ、おしっこ、おしっこ、おしっこっ! したい、だしたい、もうむり、がまんできないっ。泣き出しそうになりながら、必死に足を動かす。もう少し、あと少し。そんな言葉を気休めにしながら。
会場を出て、駐車場へ向かう。会場ほどではなかったけれど、そこにも多くの人がいた。
手を引かれるがまま、速足で歩いていく。ああ、もうむり、もうだめ。そんな弱音が頭の中で響く。おしっこ、でちゃう、もうむり、もうだめ。他のことはもう何も考えられない。握った手に引かれて歩く以外、何も出来なかった。
我慢出来ているのが不思議なくらいだった。ほんの少し押しただけでぷつりと切れてしまいそうだった。
「車にバケツがあるから、中でしちゃおう。もう少しだからね、頑張って」
はいともいいえとも言えず、曖昧に頷く。
今、ここに寧々さんしかいなかったら、俺は子供の様に泣きじゃくって、駄々を捏ねて、そしてもう限界を迎えていたに違いない。それでもきっと彼女は俺を受け止めてくれたのだろうけれど。
車の横で、寧々さんが足を止めた。繋いでいた手が離されて、その瞬間、もうじっとしていられずに両手でぎゅうっとズボンの前を押さえていた。じんじんと疼く出口を手で物理的に塞ぐ。
おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! じっとしていられず、足踏みを繰り返す。
尿意は激しさを増していく。下腹部で大きく膨らんだ膀胱が、もう限界だと泣き叫ぶ。破裂寸前まで押し込まれた中身を出そうと、ぶるっと震えて縮もうとする。
頭のてっぺんから足の先まで、大きな波が走った。熱いおしっこが出口からじわりと零れる。咄嗟にぎゅううっと手で強く塞ぐけれど、隙間からじわりじわりと滲み出て下着が濡れる。
ああ、あ、おしっこ、でる、でちゃう、もうむり、もうだめ、おしっこ、おしっこっ、おしっこっ……! 激しい波に身を捩って耐えるけれど、押し流されるのも時間の問題だった。
開けられた後部座席の扉。寧々さんが奥から青いバケツを取り出して、座席の下に置いた。おいで、と手を伸ばされて、俺はズボンの中に手を突っ込みながら車に乗り込む。
辛うじて後ろ手に扉を締めると、車の中は俺と寧々さんだけの空間になった。
「あ、あ、ああ、でる、おしっこでる、でるでるでる、でるっ……!」
言葉が口を付いていたことも気付かなかった。もう他のことはどうでもよくて、ただただ今はこの荒れ狂う尿意から解放されたかった。
狭い車内、頭を下げた中途半端な体勢で、片手でズボンと下着を一気に下ろす。同時に反対の手で性器を持とうとすると、じゅう、と熱いおしっこが噴き出して手を濡らした。
「あ、あ、ああっ、あっ、あ……!」
まだだめだと頭では分かったけれど、もう体が言うことを聞かなかった。止まらず、おしっこを噴き出す性器を震える手でバケツの中に向ける。
切れ切れだったおしっこが一気に噴き出す。短い呼吸を繰り返しながら、やっと訪れた解放に唾を飲んだ。
おしっこ、やっと、出来た。そう思ったのもつかの間、じゅ、じゅう、と数度噴き出したおしっこはすぐに止まる。まだお腹は重く、激しい尿意が体の内側で荒れ狂っているのに、おしっこが出ない。
なんで、どうして。出したいのに、出せない、出ない。自分の体なのにいう事を聞いてくれない。出したい、おしっこしたいのに、なんで、どうして。
苦しくて、じわりと目に涙が浮かぶ。落ち着こうとするけれど、は、は、と短い呼吸を繰り返すことしか出来ない。
「織仁くん?」
「あ、あ、なんで、おしっこでないっ……!」
したいのに、出せない。ただただ苦しくて、辛くて、涙がぼろぼろと溢れる。どうしよう、どうしようと考えれば考えるほど、息が詰まっていく。
「我慢しすぎたかな。ちょっとごめんね」
その声に顔を上げると、寧々さんは自分の髪留めを外す。さらりと揺れる髪を眺めていると、今度は鞄の中からタオルを取り出す。
「大丈夫、大丈夫。よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
それは俺の目を覆い、頭の後ろに回される。ぱちんと髪留めが止まる音がして、タオルを固定したのだとわかった。
タオルで覆われた視界は真っ暗ではないものの、薄暗かった。突然目を塞がれて、訳が分からずにいると、頭を抱きかかえるように抱きしめられる。触れた手が温かくて、距離が近づいたことで、ほんのりと彼女の香りを感じる。
「ねね、さんっ?」
「大丈夫だよ、ここには私と織仁くんしかいないからね。もう大丈夫」
とん、とん、と寝かしつけるときのように背を叩かれる。犬のように短く荒かった呼吸が、だんだんとそのリズムになっていく。
吸って、吐いて、ちゃんと肺の奥まで空気が入っていく。固まっていた体がじんわりと暖かくなっていく。
俺の手に何かが触れる。温かくて優しくて、寧々さんの手だと見なくてもわかった。
手の甲を撫でられ、指を撫でられ、外側から包み込むように触れられると、強く力が入っていた手から力が抜ける。ぶるぶると震える手の中で、熱い液体が込み上げるのがわかる。
「あ、あ、だめ、寧々さん、だめっ……」
「どうして駄目?」
「で、でちゃっ……」
「大丈夫、大丈夫」
おしっこ、おしっこ出したい、でも出せない、だめ、もう、でも、おしっこ、ああ、でも、あ、ああ。頭の中がぐちゃぐちゃでよくわからない。
温かい手が張り詰めたお腹に触れる。宥めるように撫でられかと思うと軽く圧迫されて、思わず悲鳴が漏れた。
「あ、あっ、だめ、ねねさん、それだめっ」
「よしよし、大丈夫だよ」
優しく撫でられると、それだけで膨らんだ膀胱はひくひくと波打つ。軽く押されると、内側から熱いおしっこが噴き出そうとする圧力で体が震えた。
「あ、うあ、あ、だめ、ねねさん、それだめ、でる、でるからっ……!」
「大丈夫、大丈夫」
だめ、でる、でるでるでる、おしっこ、おしっこでる。うわ言が口を付く。寧々さん、おしっこ、おしっこでる、でちゃう、ほんとにでるからっ。どれだけ言っても、寧々さんは大丈夫だと言うだけ。
大丈夫、大丈夫。その言葉を頭で繰り返すうちに、体の奥で強張っていたものがゆっくりと溶けていく。
「あ、あ、だめ、でる、ねねさん、おしっこでる、でる、むり、あ、でちゃう、あ、ああ、あ」
「大丈夫だよ、力抜いてごらん?」
言葉に従うように、体から力が抜ける。お腹がきゅうっと震えて、全身がぶるっと震える。熱いおしっこが込み上げていく。
「あ、あ、ああ、だめ、でる、でるでるでる、おしっこでる、ああ、あ、あ、ああぁっ……!」
ぶじゅう、と熱いおしっこが一気に噴き出す。咄嗟に、手に触れた布のような何かをぎゅうと握りしめた。
「あ、あ、で、た、おしっこ、で、てる」
やっと訪れた解放は、目の前がちかちかするほど気持ちよかった。おしっこ、おしっこ出てる、ああ、あ、気持ちいい、すごい、いっぱい出てる。視界を塞がれた分、体の中に広がる快感を強く感じた。
じょぼじょぼとホースで水を巻くような水音と、ばちゃばちゃと水面を叩く水音、つんと鼻に突くアンモニアの匂い。大きく開いた出口からは次から次へと熱いおしっこが噴き出している。
出そうとしても出なかったのに、今は全然止まらない。おしっこ、おしっこ、気持ちいい、すごい。真っ白な頭でそんなことを考えるだけだった。
最後の一滴まで出尽くし、お腹が空っぽになったのを感じる。水音は収まり、聞こえるのは自分の荒い呼吸の音だけ。
はー、はー、と長い呼吸を繰り返す。全速力で走った後のように、全身ががくがく震えていた。
ぱちんと髪留めの外れる音がして、視界を覆っていたタオルが外れる。寧々さんが心配そうな顔でこちらを見ていた。
「大丈夫? お腹痛いとか、ない?」
ぼんやりしたまま頷くと、彼女は微笑した。
足元のポリバケツはたっぷりとおしっこが溜まっていた。これが全部お腹に入っていたというのが信じられない。これだけ我慢していれば辛いのも当たり前だし、これだけ出せば気持ちいいのも当たり前だな、と思った。
ズボンを履こうとして、自分の手が彼女のスカートを握りしめていたことに気が付いた。慌てて手を離したものの、その部分は皺が寄り、濡れて色を変えている。
「ご、ごめんなさいっ、おれっ……!」
濡れた手、しかもおしっこで濡れた手で触れてしまったことに、慌てて謝る。
「ああ、帰ったら洗うから大丈夫だよ」
寧々さんは絶対に怒らない。叩かないし、嫌なことは何一つしない。俺が謝ると笑うか、寧々さんも謝るかのどちらかだ。それは心苦しくもあったけれど、心の底から安心できた。
「ありがと、寧々さん」
「どういたしまして。……気持ちよかった?」
意地悪な問いには何も言えなかった。……嫌なことはしないけれど、少し意地悪なのは、まあ、許容範囲だと思う。
結局、会場には戻らず、そのまま帰ることになった。
バケツのおしっこは寧々さんがこっそり処分してきてくれた。そんなことまでさせてしまって、今日はいつも以上に情けないけれど、彼女は気にした様子もなかった。
「ごめん、寧々さん、あんまり楽しめなかったんじゃない?」
「そんなことないよ。織仁くんと来れて良かった。むしろ、無理させちゃってごめんね」
「俺がもっとしっかりしてれば……」
俯いていると、額を指で突かれた。顔を上げると、彼女の手が俺の額に伸びる。そして、ぱちんと音がした。
「うん、やっぱり似合う」
「…………似合わないっ!」
前髪を束ねた髪留めを慌てて外すと、彼女は楽しそうに笑った。
「来年、楽しみだね」
「……うん。ありがとう、寧々さん」
+++
流れる景色をただ眺めて、湧き上がってきた嫌な感覚から目を逸らす。嫌というほど感じた感覚から先程解放されたばかりなのに、それはもう戻ってきていた。
車に揺られながら、運転席の彼女の様子を窺う。すいすいと進む車を運転しているのを見ていると、トイレに行きたいとは言いづらい。我慢、我慢と自分に言い聞かせるが、突然の激しい衝動に体がひとりでに身震いした。
「織仁くん、トイレ?」
何も言っていないのに気付かれてしまい、頬が熱くなる。違うと言いたかったけれど、否定しても意味がないことはわかっていた。
「大丈夫、家まで我慢する」
「無理そうなら言ってね。なんなら、後ろでバケツにしちゃっても良いから」
大丈夫、大丈夫。必死に自分に言い聞かせながら、耐え忍ぶ。さっきあんなにしたのに、何でまたこんなにしたくなるんだろう。気のせいじゃないかと思いたかったけれど、下腹部でじんじんと切なく疼く感覚は間違いなく本物だった。
足を組んで、身を捩って。手は自然と太ももを擦る。トイレ、トイレトイレトイレ。トイレいきたい、おしっこしたい。反動を付けてきたかのような猛烈な勢いの尿意に、もうじっとしていられない。
「本当に大丈夫?」
余裕はなかったけれど、こくこくと頷いて返事をする。
「さっき我慢しすぎたからかな。もうちょっとだから頑張れ頑張れ」
膀胱が中身を押し出そうときゅうっと縮む。噴き出しそうなおしっこに体を揺すって耐えるけれど、それでも治まらない。咄嗟に、両手でズボンの上から出口をぎゅうぎゅうと握った。
おしっこ、おしっこしたい、といれいきたい、はやくはやくはやくっ。といれ、おしっこっ。全身で必死に我慢しながら、ただ耐えるけれど、もう本当に限界近かった。
車から飛び降りて、寧々さんと一緒にマンションに入る。エレベーターはたまたま一階に止まっていた。二人で乗り込むと、中は二人だけの空間になる。
まっすぐ立てず、お腹を抱えるように前屈みの体勢で、上っていくエレベーターでひたすら我慢する。他の人がいないのを良いことに、両手はズボンの前から離れなかった。
「はやくはやくはやくっ……」
「もうちょっとだよ。頑張れ、頑張れ」
おしっこ、おしっこしたい、おしっこでる、はやくはやくはやくっ。子供の様に両手でズボンの前をぎゅうぎゅうと押さえながら、じたばたと足踏みを繰り返す。ちょっとでも止まったら、その瞬間、一気に漏れてしまいそうだった。
扉が開き、滑り込むように外に出る。先を歩く寧々さんを追いかけて部屋に向かう。鍵を開ける寧々さんの後ろで、もうじっとしていられず地団太を踏む。
おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! 両手でぎゅうぎゅうと出口を揉むように握る。おしっこ、おしっこでる、もうむり、もうだめ、おしっこ、おしっこ、おしっこっ……! もう少しだと思えば思うほど、体は限界を迎えてしまいそうになる。
握る手の中で、出口からじわりと熱いおしっこが零れた。あ、あ、だめ、だめだめだめっ。ぎゅうぎゅうと揉んで尿意を誤魔化そうとするけれど、膨らみ切った尿意はそれくらいで誤魔化せるはずもない。でる、おしっこ、はやく、おしっこでるから、はやくっ……!
出口の隙間を抉じ開けるように、熱いおしっこがじわり、じわりと零れる。ぎゅうぎゅうと押さえるけれど止まらず、下着が熱く濡れる。
我慢しているのに、押さえているのに、おしっこが止まらない。あ、ああ、あ、だめ、むり、でる、おしっこ、おしっこ、もう、あ、あ、あっ……!
鍵が開く。扉が開く。出口を握りしめたまま、足先だけで靴を脱ぎ、家の中に飛び込む。
足を踏み出す度、手の中でじゅわ、と熱いおしっこが広がる。あ、あああ、むり、でる、あ、ああ、でる、でるでるでる、おしっこおしっこおしっこっ……!
じゅ、じゅわ、じゅう、と噴き出すおしっこは止まらない。膝が震える。足に熱い何かが伝う。靴下が濡れていく。ズボンが濡れて、足に張り付いていく。押さえているのに、我慢しているのに、おしっこが、出て、溢れて、熱くて、濡れて。ああ、あああ、もう、もうっ……!
トイレの扉を開ける。足を踏み出す。びちゃ、と足元が濡れる。じゅうう、と熱いおしっこが、溢れて、濡らして。
それ以上、動くことは出来なかった。
一気におしっこを噴き出す。下着が一気に熱く濡れ、ズボンが濡れ、押さえている手が濡れる。あ、あああ、おしっこ、おしっこ、で、て、あ、あああ。
頭の中が真っ白になる。じゅーと太く熱くおしっこが噴き出す。びちゃびちゃと水音が響く。下半身が熱く濡れていく。
足が地面に張り付いたように動けなかった。ただ温かくて、とても気持ちよかった。
温かかったズボンはすぐに冷たくなった。トイレの前、大きな水たまりの中心で立ち尽くす。ズボンの前に添えられた手はびちゃびちゃに濡れていた。
目の前には白い便器があった。すぐそこだったのに。あと僅か、ほんの少し我慢出来たら、それで間に合ったのに。情けなさに鼻をすすると、後ろから声を掛けられた。
「あらら、間に合わなかった?」
「ご、ごめんなさっ……」
ああ、もう情けない、みっともない。声が震えて、涙が零れる。
「泣かない泣かない。大丈夫だから。お風呂用意するね」
お風呂から出ると、洗濯機の回る音がしていた。リビングでは、寧々さんがぼんやりとテレビを眺めている。俺に気付くと、ここにおいでと隣のクッションをぽんぽんと叩いた。
隣に座り、俯いたまま口を開く。
「寧々さん、今日は本当に……」
続きの言葉は、ぺち、と額を叩かれて遮られた。彼女の手は額に触れたままで、その指先が俺の前髪を摘まんだ。
「前髪切ろうか」
「えっ」
「それとも、髪留め使う?」
「……それはやだ」
くすくす笑いながら、小さなごみ箱が俺と彼女の間に置かれる。ちいさなはさみを持つ彼女に、俯いた頭を差し出した。
「……ありがと、寧々さん」
「どういたしまして。切るから、じっとしているんだよ」
返事をすると、ぱち、と小さな音がして、目の前を黒い髪が落ちていった。
「寧々さん、まだ掛かる?」
「うーん、ちょっとずつ切らないと歪んじゃうんだよね」
「……わかった」
「もうちょっとだけトイレ我慢してね」
「お、俺、何も言ってないっ……!」
「違う?」
「……ち、がわないから、はやく」
「ふふ」
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初出: 2019年11月13日(pixiv) 掲載:2019年11月14日